まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

瀬戸の敷瓦に会いに、三峡へ。

2018-09-15 23:18:22 | ディテール
台湾の続き。

今回台湾へ出発する直前、タイル友の会きっての情報通メンバーから、すごい物件を見つけたという連絡が。
リンクされた記事を見ると、台湾の三峡にある歯医者さんの建物の床に、瀬戸の印花文の敷瓦がびっしりと!
うわぁ!!これはすごい!!瀬戸の敷瓦が海外にあるとは。寺院などでなく民間の建物に!?しかもこんなに大量に!!
中国語の記事なので正しく理解できているかわからないが、どうも日本統治時代の民政長官官邸にあったものが
再利用されたようだ。シロアリの害により1923年に和館が解体されたときに、三峡の医師陳文贊氏が当時医院を
建てるために部材を買い取ったとか。

・・・しかしこの記事、これは江戸末期から明治初期に瀬戸で作られた本業印花文敷瓦であるとか、日本でも多くなく
貴重だとか、台湾ではほとんど知られていないマイナーな本業敷瓦にも関わらず情報がとても正確だな。

私はタイルの中でも特に湿式のタイル、敷瓦が好きで、湿式のタイルが輸出された(本土以外で使われた)例があるのか
どうかとても興味があったので、もう心をわしづかみにされてしまい、金門島の後台北に戻ってから三峡へ行くことを
即決したのだった(爆)

出発前に、台湾に住む友人(日本に帰省中)に、そこの所有者にアポイントを取りたいのだけどと相談していて、
三峡の近くに住む彼女の友人に聞いてくれたところ、なんと、もうすでになくなったとの情報が!?ええ~~っ!!
ほんとに!?いや信じたくない、何かの間違いだろう、この目で確かめたい。もし壊されていたら、あの敷き瓦は
どうなったのか現地の人に聞いて確認したい!と言うわけで、台湾最終日の朝から三峡へ向かったのだった。


三峡は十数年前私が台湾に行きだした初期の頃、先述の友人に車で連れて来てもらったことがあり、その時老街は
再生工事の真っただ中だった。

美しいアーチの三峡橋。

その後一度も来ていないので老街の変貌も見てみたかったが、今はとにかく敷瓦を確かめるのが先だ!


件の歯医者、三峡救生医院があるのは老街から少し離れた場所。角を曲がったところに建物があるはず、、、
あぁ、それとも空き地か、ピカピカの建物が見えてくるのか・・・祈る思いで角を曲がると、、、おや、空き地はない。
古そうなレンガ造りの建物が建っているが、あれではない。


しかし・・・その隣に建っている三階建てがそれじゃないの!?ドキドキする胸を押さえつけながら半信半疑で近寄る。
いやいや、もしかしたら外観は変わっていなくても中はすっかり改装されているってことも。。。




急いで左隣の営業中の医院へ行き、受付の女性にスマホでネット記事の写真を見せ、このタイルは今もありますか、
あれば見たいと告げると、診療中の先生に伝えてくれた。
残念、もうないんだって、と言われるかとハラハラしながら待っていると、白衣を来た恰幅のいい先生が出て来てくれて、
こっちへと手招き。えっ、あるのか?
歯医者の受付に面した真新しいギャラリーへ入って行き、奥のドアを開けると、、、ガランとした古い建物が。
ここはさっき外から見た建物だ。


うわっ!!部屋の中央が土間になっていて、その周囲の部分に、四半貼りされた本業敷瓦が~!!


あぁ何と!古い印刻の本業敷き瓦がみっしり貼られているのは日本でも数ヶ所しか知らない。それはいずれも宗教施設で
ほとんどが非公開である。それが海を渡った台湾の、民間の建物に、こんな無造作に、敷き詰められているなんて!


さすがに長年の間踏まれてほとんどの敷き瓦は表面の釉薬は剥がれていて、また埃をかぶっているので、色がはっきり
わからないが、よく見ると織部釉のようだ。白色の志野釉のものと、市松状に並べられている。


建てられたのは陳榮耀先生のお祖父さん(三峽救生眼外科醫院院長 陳文贊氏)で、今はお兄さんの所有になっているそうだが、
写真を撮ることも快諾していただけた。
興奮しすぎてどこをどう撮っていいのか分からないのだが(汗)、先生が診療を抜けて来て下さってるのが気になり
手早く何枚か撮る。
しかし陳先生はうれしそうで、これは古い日本のタイルだよ、日本でも珍しいものでとても貴重なんだよ、と説明してくれる。

興奮の度合いはもうMAX!メーターが振り切れそうにエキサイトしている私を見て、こっちへおいでと、
今度は診療室とその奥のプライベートスペースを通り抜けていく。診察台で待たされている患者の横を通る時は
さすがに恐縮してしまったが・・・(苦笑)
裏の階段から二階へ。そしてドアを開けると、、、うわーここにも!?


なんでも、前面道路が拡幅されたときに、正面の壁をセットバックして移設したといい、その部分に貼られていた敷瓦を
剥がして、住まいの2階に作った剣道場のアプローチに貼ったのだとか。素晴らしい!!
そしてその時セットバックで面積が減った分、古い建物の3階部分を上乗せして、今のような面白い形の建物になったのだ。




おそらく、このセットバックの工事が、建物が解体されたとかいう情報の錯綜の原因と思われる。
そのとき取り外したタイルの余りを近所の人に記念に数枚あげたのかもしれない。


2階にあるのは比較的状態のよいものが多く、色もはっきりわかる。織部、志野、これは色が薄いが飴釉だろうか。


お祖父さんは日本世代の生まれで、李登輝元首相と同級生だったといい、日本の払い下げ情報を素早くキャッチ
できたのだろうか。剥がして台北から運んで貼るのに当時2万円かかったと陳先生は言われていた。
いやぁーしかしお目が高い!!

もうずいぶん前に大学の先生が調査に来て論文を書いて、テレビニュースにもなったのだとか。ははぁ、やっぱりそうか。
この敷瓦の価値が早くに認識されてよかった!

受付に戻り、お礼を言って出ようとした時にまた先生が診療室から出て来られ(ほんとにお仕事中お邪魔してすみません)、
ちょっと待って、と。あなたはすごく興味があるみたいだから、タイルが1~2枚残ってたはずだからあげるよ、と。
ドヒャー!!?そんな、そんな、、、いいんでしょうか!?あぁ、今思い出しても興奮してくる(爆)


美味しいお茶を飲みながらお話を聞かせていただき、そして端の方に使っていたと思われるカットされた敷き瓦のかけらを
2つ、包んで持たせて頂いたのだった。。。
あぁ何という親切。毎回毎回、台湾人の親切には心を揺さぶられる。もう、感動が止まらない。


ところでこの話には後日談がある。帰ってからネットで調べたところ、この敷瓦を調査されたのは台湾在住の
堀込憲二先生だった。堀込先生は建築史や風水やランドスケープを専門とされていて、広い分野で活躍されている。
私は、昔台湾の鶯歌の博物館で開催されたマジョリカタイル展の図録に文章を書かれていたのを見て10年ほど前に
そのお名前を知り、著作である『中国人のまちづくり』という本を買って読んだところめちゃくちゃ面白くて、
超お気に入りの本となっていた。
この三峡の敷瓦についての論文はネットでは公開されていなかったが、どうしても読みたくてメールを送ったところ(爆)、
何と、ちょうど今日本に来ているので会ってもいいとの返信が!もちろん万障繰り合わせて駆けつけたのであった(笑)。
それで三峡の敷瓦の調査についても詳しくお話を聞かせていただき、その他にも研究のお話や台湾の話などいろいろ
お聞きして夢のような時を過ごしたのであった(笑)。敷瓦が縁で堀込先生にお会いできるとは!!そして後日論文も
送ってもらい、全編中国語だったが何とか読破した。いや~~ほんとに面白い!!タイル熱は最高潮に高まった!

続く

2019.2.12追記
明治初期の印花文敷瓦が台湾に渡っていた事例というのはとても珍しいと思ったので、この時持ち帰った敷瓦を
上記エピソードと共に瀬戸の瀬戸蔵ミュージアムへ寄贈した。現在開催中の「新収蔵品展2012-2018」で展示されている。

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