まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

旧小田切家住宅の敷瓦

2020-09-01 00:24:45 | 建物・まちなみ
2019年7月の長野旅の続き。


見どころが多くて楽しい旧小田切家住宅だが、いちばんのお楽しみは、主屋の奥につながる蔵。
皆と入れ替わりで順番に見学する。


うぉぉ~~~~っ!!美しい青!!3号土蔵前の廊下に、瀬戸の本業敷瓦が敷き詰められていた!!


銅板転写の本業敷瓦だ。一般的に白地に青色の模様が描かれているイメージの本業敷瓦だが、これは全体が青っぽく
余白がほとんどないほど密な模様である。
銅板転写は手描きに代わる技法として開発されたのであり、手描きでは手間がかかるような細かい模様のものを
楽に量産できた。年代が下ると模様が簡略化されていったといい、模様が密で細かいものは概して古い。
これは8寸角で厚みもあり、明治中期ごろのものだろうか。あぁ、そんな貴重な敷瓦がこんなに大量に!!


雷文の入ったデザインは中国風な印象もあるが、唐草はどことなく西洋っぽい雰囲気も・・・
デザインソースはどこからなのか?気になる。


四半貼りでも格子状でもなく、半幅ずつずらした馬目地で貼っているのも変わっているな。
一枚の敷瓦が半分に割れたように白い筋の見えるものがあるが、これは銅版転写の版が一枚の紙に敷瓦1.5枚分の
模様が刷られていて、半分ずつ突き合わせて転写したからである。その白い筋を目立たなくするために
馬目地に貼ったのだろうか。


一方、縁の部分に白っぽい余白の多い模様の敷瓦も使われている。これは手描きの模様で、銅板転写技法が
使われる以前のもの。6寸角だが、入口に置いてあったものを見ると厚みは20mm近くあり分厚い。
明治18~20年ごろのものと思われる。


青い敷瓦と対極的な大づくりな柄だが、これはこれでおもしろい。おそらく並べたときに四半貼りの市松模様に
見える効果を狙ったものだろう。稚拙な手描き模様も味わいがある。


あぁこんな美しい廊下があるだろうか!?この蔵にはよっぽど大事なものを入れていたのに違いない。


庭へ出て主屋の妻壁を見上げると、通気口の両脇に、俵と打出の小槌の模様が見られる。




人力車の置き場だった「車寄せ」に附属したトイレには、染付便器が残っている。
説明のリーフレットには本業敷瓦と同じく瀬戸の本業製品と書いてあった。


車寄せの横にあるトイレは車夫や庭師などが使うものだったのではないか?
家の中にももちろんトイレがあり、そちらはもう少し新しい青磁の便器だった。家人用には新しくモダンな便器に
入替えたということであり、古い染付便器の方が美しいと思うのは現代人の感覚なのだろうか。


敷地内に水路が引き込まれ、水車小屋も作られていた。水の流れを動力に変え、機械製糸を試みたという説も。

蔵の中では七宝作品の展示が行われていた。緻密で気品あふれる花模様や、かわいらしい猫が描かれた
香合など、顔を近づけてまじまじと眺めて鑑賞した。茶会なども定期的に開かれているらしい(2019年7月時点)。
ここでもまた1時間半近く滞在した。あぁ、こんな素晴らしい建物はまさに須坂の宝!残され、活用されているのは
本当にうれしいことだなぁ!

旧小田切家を出て少し散策している途中に、洋館っぽい家を見つけた。


医院だったのかな?玄関周りもいい感じ。


見ていたら住人の方が出てこられ、少しお話したところ、やはりお医者さんで、エリート家系のようだった。
素敵なお家、大事にしてほしいなぁ。


続く
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旧小田切家住宅を見学。

2020-08-31 00:55:44 | 建物・まちなみ
2019年7月の長野旅の続き。

須坂に来たのは、旧小田切家住宅を見学するのがメイン。ここは数年前から行きたいと思っていたのだった。


立派な長屋門を横目に、店の方から入場する。


あっ、手描きの本業敷瓦がこんなところに!期待がふくらむ~~~


ここは松代の真田家などに比べればコンパクトで、長屋門の店スペースから玄関を介してつながる主屋はきれいな
矩形にまとまり、その外側に土蔵が並ぶ、割と単純な平面構成である。
しかし、装飾的なおもしろさはこちらの方が上かもしれない。


玄関の格天井。


小田切家は、糀、油、蚕糸、呉服商など多種の商売を営み、幕末まで町年寄や須坂藩の御用達を勤めた豪商であったが、
1870(明治3)の須坂騒動で建物の多くが打ちこわしにあい、現存する建物はその後再建したものという。
和風建築も近代に建てられたものは、近世のものよりも自由な形で華やかな装飾があって面白いのだ。


家の中央には仏壇が鎮座している。仏壇の名産地、飯山町から50円で購入したというゴージャスな仏壇で、
扉はこんな透かし模様。


仏壇を収納する物入れの扉に貼られた唐紙は、立湧に桐や鳳凰をからめた模様で格式高いイメージ。


須坂騒動のあと建物を再建した小田切辰之助は、蚕種の品質向上のための蚕種組合を作ったり、日本で最初の
製糸結社である「東行社」を創立するなど、須坂の製糸業の発展に大きく貢献した人物である。
また銀行の設立や水道の敷設など、町の近代化にも寄与している。

お納戸の床の間は普通の半分ぐらいの奥行だが、内角が丸くなっていて優しい感じ。




奥座敷と2号土蔵の間にはわずかな隙間があり、襲われた場合の抜け道が用意されていたとか。
しかし実際に人が入ると挟まって動けなくなりそうな狭さ。。。(笑)


一刀彫とみられる奥座敷の書院欄間(だったか?)の力強い格子。




廊下の欄間の組子。


こちらの襖はまた派手に絵が描かれている。


満開の白梅が扉いちめんに。


卍崩しに雲がかかった模様の唐紙。


釘隠しは、松や柏など、いろんなモチーフが使われていて素敵だな!




襖の引き手もいろいろで見て行くとおもしろい。






廊下の壁の一部がこんな洋室の壁紙のような小花模様だった。漆喰の上から和紙を糊で塗りこんであるようだ。
何でここだけ、こんな目立たない場所に??


タイル貼りのかまどは既製品だろうな。


さて、タイル貼りの蔵へ・・・

続く
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須坂のまちをうろつく。

2020-08-30 11:50:53 | 建物・まちなみ
2019年7月の長野旅の続き。



松代を楽しんだあと、須坂へ移動。まずはランチを食べようと駐車場に車を停めお店まで少し歩いたのだが、
その少しの距離にも気になる建物がたくさんあって立ち止まってばかり(笑)
日本キリスト教団須坂教会。改修されているように見えるが、1933(昭和8)年築らしい。


銅製樋のついた古そうな屋根が見えたので覗き込んだ路地の奥に、タベストリータイル貼りの洋館付住宅(?)。




このあたりの町家の土壁はこんな黄色っぽい色をしている。


看板建築や「おたふく窓」のある連棟商店、タイル貼りのショーケース、小さくても個性的なファサードをもつお店などが
ちょいちょいある。




昭和レトロなフォントの看板も楽しい。


さて、ランチは古民家リノベのイタリアン店、ラノッキオにて。
しかしその建物もまた素敵!もとはたばこ屋さんだったのか、豆タイル貼りのカウンターと、曲面ガラスのショーケース!!
かわいい~~~


食べたあとに見ればいいと分かっているのに素通りできない(苦笑)




入口は小さな木戸から建物の横を抜けて裏側にあった。魅惑的なアプローチ。




中に入るとまず目を惹いたのは、カウンターの立ち上がりの部分に貼られた、色とりどりのイチョウ型タイル。
これは新しい製品と見えるが、ちょっと中央が凹んでいて釉薬溜まりができていて、色のバリエーションも
とてもニュアンスがあって、素敵~~!


梁や建具など古いままの味わいをうまく生かしてある。


奥に仕切られた小部屋があったので覗いてみると、さっきのたばこのカウンターの後ろだ。店番スペース
だったのかな。ちょっとしたVIP席!
おいしいパスタでランチしてごきげん(笑)


黄色い土が特徴的な背の高い蔵造りの町家。


変わった色の雷文タイルが使われたショーケースがあった。




他にも古い民家や商店建築があちこち残っており、製糸業で栄えた豊かなまちだったことがうかがい知れる。




塩屋醸造は、江戸中期に塩問屋として創業、文化文政年間に味噌・醤油の醸造を始めた老舗。
さすがに風格ある店構え。登録有形文化財になっている。


入口の暖簾からちらっと中を覗くと、広い敷地内の奥へと通路が伸び、いくつもの建物が建ち並んでいた。
今回は他にも予定があったため深入りしなかったが(苦笑)、見学できる機会などあるのだろうか?


続く
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真田邸を見学。

2020-08-27 23:53:21 | 建物・まちなみ
2019年7月の長野の続き。

旧金箱家住宅からほど近いところにある、真田邸。ここもまたすごかった!!
上田発祥の真田家が1622(元和8)年に松代に移り、以降250年間松代藩を治めてきた。松代藩は
信濃国で最大の藩として繁栄した。


大きな冠木門ではなくその脇の入口から入る。屋根の上の鬼瓦には真田家の家紋の六文銭が。
巨大な玄関が、藩の勢力の大きさを示しているようだ。


この真田邸は、1864(元治元)年に9代藩主真田幸教によって義母貞松院の住まいとして建てられ、
「新御殿」と呼ばれた。のちには真田家の邸宅として使われたが、1966(昭和41)年に松代町に譲渡された。
主屋と門、7棟の土蔵など多くの附属屋、そして建物と一体となった庭園も残された貴重な「御殿建築」は
松代城と共に国の史跡に指定されている。


部屋が35もあるという真田邸。造作はシンプルだが唐紙が多用されていて、部屋の格式によって
異なる柄が用いられている。


襖だけでなく壁、床の間や床脇の内側、さらに面白いことに天井にも貼られている。すごく派手!!


壁に貼られた唐紙は松の柄。松ぼっくりがかわいいな~


天井には花鳥の柄が。なぜかこの柄、ハワイアンに見えるのだが(笑)。鮮やかな青色と、花がハイビスカスに
見えてしまうせいだな。


トイレの壁にもいちめん唐紙が。


きんちゃくの釘隠し。




建具には唐紙だけでなく、酒井雪谷という藩士が描いたという素晴らしい襖絵の数々も見られる。




4箇所にある杉戸絵。


庭には蔵が点在する。


象山とのろし山を借景に取り入れたというお庭は広々として、心字池、あずまやもある。
真田家の広大な屋敷は迷ってしまうほど広く入り組み、どこに何があったのかもう分からない・・・(苦笑)


真田邸の向かいにある茅葺きの民家は、真田家の家臣であり藩の目付役などを務めた樋口家の屋敷。


真田邸の付近の殿町は上級武家屋敷街であり、他にも非公開の古いお屋敷が見られる。


旧白井家表門は門とお庭だけとちょっと寂しいが、ボランティアの方々がお茶とお漬物を出してもてなしてくれた。
旧文武学校は平成の大修理の真っ最中。かなり広い敷地でいくつも古い建物があるの見えた。
工事が終わって一般公開に期待しよう。

松代は長く繁栄していただけにまちの範囲も広く、見どころはいくらでもありそうだ。
しかし、松代駅があった長野電鉄屋代線が2012(平成24)年に廃止されてしまっているのは残念。。

続く。
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長野へ。旧金箱家住宅(寺町商家)

2020-08-26 23:21:22 | 建物・まちなみ
去年は出かけすぎていっぱいたまっているので、早く書かねばと焦る。。
次はどれを書こうかと悩むが、充実した旅ほどなかなか手をつけられないうちに埋もれてしまい・・・(汗)
去年の夏の長野旅ももう1年経ってしまった・・・・自分を追い立てるように書き始めよう(苦笑)


関西から長野ってほんとに遠くてなかなか手が(足が?)出ないんだけれど、長野付近で行きたいところを
まとめて行こうと友人らと企画した。行きはやむを得ず夜行バスを使って(汗)早朝に長野駅到着。レンタカーでGO!

まず最初に作新学校に立ち寄る。試合か何か、イベントをやってるのか、駐車場には車がたくさん停まっていて、
建物の前にも停まっている。ん~~写真が撮りづらい(苦笑)


1883(明治16)年築の擬洋風建築。
白い漆喰で塗り込められた壁に縦長窓が並ぶ躯体は一軒洋風なのだが、屋根を見ると洋風とは対極にある。
寄棟の大屋根の上には鴟尾か鳥衾の一種なのか、フック状の飾りがついているし、玄関ひさしは古めかしい瓦屋根。
むくりのついた破風から正面に向かって出っ歯のように本瓦が張り出し、軒先に巴瓦がずらりと並ぶ。
鬼瓦には「作新」の文字。懸魚もついている。すごい取り合わせだな。これぞ擬洋風。


さて、やってきた松代市の「寺町商家」、旧金箱家住宅。着いたときはまだ開いてなかったので、外回りを先に鑑賞。


きれいに改修済み。薬医門の屋根にはシャチが乗っており、箱棟の「胴板瓦」も立体的な龍が表されゴージャス!!




軒先に波乗りうさぎ発見。いっぱいいる~~~


さて、時間になってオープンしたので入ろう。
主屋をはじめとして離れ、質蔵、学問所など7件が長野市指定有形文化財となっており、庭園もある。
金箱家とはいかにも金回りのよさそうな名前だが(笑)、江戸時代末期から昭和初期にかけてこの松代町寺町で
質屋業を中心に幅広い商売を手がけた豪商である。初代は栗屋勘蔵とも名乗ったことから、離れと質蔵の軒先瓦に
「栗勘」の文字が見られる。

主屋が一番古いが、増改築が繰り返され、現在の形になったのは大正時代初期と考えられている。


全体的に老朽化がひどく漆喰壁は剥げ落ち柱は腐りボロボロだったが、4年がかりの修復工事でよみがえった。
現在は文化財として建物が一般公開されているほか、貸し室としていろんなイベントや展示に使われている。


丸窓もある。




さて、ここのメイン、お風呂場を見に行こう。


人研ぎの四角い浴槽の外側と周囲の壁にタイルが貼られているのだ!


壁の茶色のタイルは瀬戸の本業タイルだな。クロムの銅板転写による繊細な模様のタイルで、ときどき見かける。




浴槽の正面には、壁と同じ本業タイルとともに、鮮やかなブルーの七宝繋ぎ模様のタイルが5枚。これは淡陶の
古いタイプの模様で、以前大棟山美術博物館のバックヤードで見つけたのと同じ、湿式のタイルだ。
湿式は粘土から作る製法で、粉末状の材料で作る乾式工法が確立されるより以前なので明治中期~明治40年頃まで
のものと考えられる。


同じタイルが浴槽の側面にも。ちょっと汚れていたがウェットティッシュで拭くと見違えるようにきれいになった。


吸い込まれるような深い青。鮮やかな緑、黄色。これが100年以上も昔のタイルなのだ!
半永久的な美しさ、それがタイルの大きな魅力である。


そして浴槽の横の床面には、よく見る瀬戸の蜀江文の銅板転写本業タイルのクロムバージョンが2枚。
この模様で青色のものは、本業タイルの中でも最もポピュラーであちこちで大量に使われているが、色違いは
たまーにしか見かけないので、レア度が高くちょっとうれしいな!線が細く細かいので、比較的古いものだろう。


あぁなんて素敵なお風呂なの!こんなお風呂ならいつまででも入っていられる(笑)
このお風呂場は洗い場のコンクリート床の上に木の板で床を作ってあるので、これをめくったらその下にも
タイルがあるのだろうか!?

ところで、展示されていた建物の変遷を示すパネルによると、このお風呂場は明治37年の図には
描かれておらず、昭和12年の図に隣接する学問所と共に現れている。その間のいつなのかはその図では
分からなかったが、タイルの時代から言えば、明治後期の増築かなと。。。まぁ、タイルは腐らないので
大正や昭和初期の可能性もあるが、転用でもなければわざわざバラバラの古いタイルを使うこともないだろう。

室内からつながった蔵。


質屋だけに貴重品がザクザク入っていたのだろう、防犯のために蔵の内側全面に鉄のバーを格子状に
はりめぐらせてあった。泥棒が外から漆喰壁を崩したとしても密な鉄格子に守られているというわけだ。万全!!


続く。
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お屋敷がんこ 京都亀岡楽々荘

2020-08-19 23:46:27 | 建物・まちなみ
コロナの自粛期間が明けてから、元洋風建築講座仲間に声をかけて亀岡の楽々荘へ行ってきた。
近年お屋敷がんこの店になったということで敷居が低くなった。
悠々自適のおじさま方がご自慢のマイカーを出してくれ、3台に分かれて楽々ドライブ。



がんこになる前は高級イタリアンの店が入っていたようで、仲間のうちで行ったことがあるというセレブな人によると
値段は高かったがとてもおいしくゆったりできたという話だった。
しかしリーズナブルなランチで建物を楽しめるようになって、平民である私にはありがたい(笑)。
こんなお屋敷の店でも、まちなかのがんことほぼ変わらないメニューで利用できるのだからすごいよね!
古い建物の良さを生かして品位を保ちつつ、誰でも気軽に利用できる価格帯でそこそこおいしいお料理、
そしてどこの店もサービスがいい。その上でちゃんと売上げを確保できるビジネスモデルはお屋敷の救世主だな!

駐車場から商店街に面した入口へ、敷地をぐるっと半周まわる。水路に面して古い石垣と板塀が続いている。


この古い門扉はかつての入口だったのだと仲間が教えてくれた。水路に橋はもうないが痕跡がある。




楽々荘はもとは亀岡出身の実業家で政治家、田中源太郎の旧邸。1898(明治31)年頃に自身の生家を改築して
建てたものと言う。彼は京都鉄道会社を創設した(京都鉄道はJR山陰線の旧線であり現在の嵯峨野観光鉄道)ほか、
数々の事業に関わり関西の政財界に名を馳せた亀岡の名士である。
レンガ造の洋館が本邸として、書院造りの和館は迎賓館として建てられたものとか。


田中氏が亡くなったあと、1948(昭和23)年から「保津川観光ホテル楽々荘」として長らく使用されてきたが
2018(平成30)年3月から「がんこ京都亀岡楽々荘」として開業。


正面の植え込みの木が育ちすぎて建物がうまく写真が撮れないのだが(苦笑)、、、立派な式台つきの玄関がある。


その背後にレンガ造の洋館。洋館の方が住まいだったとは驚くな!
玄関、洋館、和館が有形登録文化財である。


ところで生家を改築したということは、もとの建物は田中源太郎が生まれた時には建っていたということである。
wikipediaによると田中源太郎は、嘉永6年1月3日(1853年2月10日)生まれ。
どの程度改築したのか分からないが、江戸時代の建物がどこかに一部でも残っているのだろうか。
あの水路に面した古い門は当初の名残なのだろうか。

式台付き玄関の脇に別で設けられていた入口から店の中に入ると、フロアの一角にレンガの壁が露出していた。
うわっ、これはあの洋館の壁じゃないの。おもしろいなぁ。


見学をお願いしてあったので食事の前にお庭の方へ案内して頂いた。お庭から見る方が建物がよく見える。
中央にペパーミントグリーンのコロニアルスタイルの洋館がどんと建っている。
2階はサンルーム的にガラス窓がはまり、1階はテラスが回る。


まだ大きなガラスが作れなかった時代に違いない。ガラス窓は桟で細かく分割されている。


テラスの垂れ壁(?)にもガラスがはまり、明るさが確保されている。


テラスの床は明治の洋館っぽいクオリータイル敷き。


お庭に張り出した和館。こちらはガラスに顔をつけて覗き込んだだけ。。。細かい細工の欄間が見えた。


650坪の池泉回遊式庭園は、京都の名匠七代目小川治兵衛(植治)による作庭。保津峡の絶景に見立てたすり鉢状の
庭園になっているとのことだが、建物の写真を撮るのに気を取られてあまりじっくり見なかったなぁ(汗)。


こちらにも和館があったが・・・内部は見れておらず。


建物内に戻り、今度は洋館の内部を見に行く。
廊下に停まっていたこれは料理を運ぶ機械。自動で所定の部屋まで運んでくれるようだ。へぇ~~すごい!
自動運転車じゃないか(笑)。お店の人によるとこれを導入したのはもうずいぶん前らしい。
機械も和風の装いなのがさすが!


洋館の中へ。お庭から見たコロニアルスタイルの洋館は、玄関側から見たレンガ造の洋館と同一のもののようだ。
レンガ造のまわりに木造のベランダを取り付けたということか。印象がまるで違うので別の建物かと思った。


先に2階へ。


和風の欄干を思わせる手すり。


続く。
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倉敷民芸館へ型染展を見に行く。

2020-08-16 23:36:20 | 建物・まちなみ
里庄町の仁科芳雄博士生家を訪れたあと、倉敷民芸館でやっている企画展「心おどる型染の世界」展を見に
倉敷で途中下車。


駅からふらふらと商店街を歩いて美観地区へ。倉敷は近代建築もあるし和風のまちなみも昭和レトロなビルや店もあって
何度来ても楽しいなぁ。越境解禁になったのでお客も結構出てきている。※これは7/12の時点です。




建物は路地を覗き込んだ風景を計算して建てられているのか、それとも建物を見るアングルを計算して路地が
作られているのか・・・どこの路地を覗き込んでも絵になるのだ。


大原家住宅のなまこ壁。目地を盛り上げていないので貼り瓦自体の焼きムラや質感が際立って美しい。
大原家といえば言うまでもなく、倉敷紡績(クラボウ)の設立、大原美術館の創立や町並み保存の提唱などなど、
倉敷の文化経済、まちづくりの中心となってきた家である。その9代目当主がつい近年まで住んでおられたという
町家は、有隣荘のすぐ隣にある。入口の前まで来てみると・・・おや、中に入れるの!?
国の重要文化財に指定されている旧大原家住宅(大原本邸)は、2018年から一般公開されたようだ。
おぉ、気になる!!・・・しかし一度入ると長時間かかりそうだ・・・今回は展示を見に来たので、
ここはまたあらためて見に来ることにしよう。


有隣荘も、一度芹沢けい介の展覧会を見がてら建物内部を見学したことがあるが、内部の写真撮影は禁止だった。
もう一度じっくり見たいと思っているのだが・・・今年はコロナ禍のせいで今後の予定も未定のようだな。。。


オレンジ色と緑色が重なったような不思議な色の瓦屋根から、「緑御殿」と呼ばれる有隣荘。
この瓦は泉州谷川村というところで作った特注瓦だそうな。泉州が瓦の有名な産地だったとは知らなかった(汗)


倉敷民芸館にやってきた。この建物は、もともとは江戸時代に建てられた米倉だったといい、それを改修して
1948(昭和23)年に開館した。美観地区の古民家再生の第一号だという。
目地を盛り上げていない馬目地のなまこ壁(これもなまこ壁と呼ぶのが正しいのか??「瓦貼り壁」か?)は
大原家住宅と同じ。浅い軒、ほとんど張り出していない窓上のひさしなど、平坦な外観はクールで都会的な印象。


門をくぐると、コの字形に同じような建物が並んでいる。青石敷きのアプローチは民芸館として整えたものだろうが
なんとまぁ美しい米蔵だったことか。。。


同じ材料で焼かれているはずのこの貼り瓦の一枚一枚の異なる表情、それが集合した全体としての味わい深さ・・・
入場する前から心がときめく。


中へ入ろう。常設展をさらっと見て企画展のエリアへ。
今回のテーマである型染は、模様を切り抜いた型紙やスタンプ状の押し型を使って染めるため模様は比較的単純だが、
色鮮やかで、切り絵のような味がある。具象的なモチーフが楽しく、繰り返されるパターン。
私はどちらか言うと「アート」っぽいものよりも「工芸品」の方が好きだったりするので、絵よりもパターンや
デザイン的なものの方が惹かれる。
花や植物や鳥がちりばめられた沖縄の紅型は本当にかわいくて大好き。くっきりした色の構成はステンドグラスのよう。


この黒光りする床はタイルだろうか?敷瓦だろうか?


芹沢けい介や岡村吉右衛門、柚木沙弥郎など、民藝作家によるのれんや屏風、昔ながらの藍染の布団地、
インドの型染め布まで、多様な型染めの世界。


各地の民藝品を並べて描いたものや、日本中の産地地図、製作工程を描いた作品も好きだ。




展示点数は200点にも及び、焼き物や家具など他の民芸品と一緒に飾られているのも素敵さが増幅される。
キュンキュンしながら見ていると顔を近づけすぎて警報機が鳴ってしまった(苦笑)
あぁ、見ごたえがあっておなかいっぱい!

倉敷民芸館 企画展 心おどる型染の世界 は8/31まで。

少しふらふら付近を歩く。
この橋は龍を模しているのか。面白いな!


そうだ、倉敷にいちばん最初に来たときに見た古い古いお風呂屋が、その後どうなったか気になっていて
一度は見つけられたのだが、その後何度か倉敷へ来たときに探したのだが見つからなかったのだった。
この辺だったと思うんだけど・・・細い路地を入って行くと、いきなりビンゴ!!あぁここだ!
何で今まで見つけられなかったのだろう(苦笑)


男女別のドアと番台の後ろの窓に色ガラスがはまっている。かなり古そう。戦前であることは間違いないだろう。
最初見たときはまだ営業していたと思うのだが・・・もはや名前も分からないし、いつ廃業されたのかも不明。
隣の家の人が外に出ていたが、プライベートな雰囲気に満ちた路地で、人んちの庭に勝手に入り込んでいるような
後ろめたさから声をかけることができなかった(汗)。あぁ小心者・・・


アイビースクエアの前をぐるっと回って美観地区へ戻る。


続く
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仁科芳雄博士生家 便所、茶室など

2020-08-15 11:20:30 | 建物・まちなみ
里庄町の仁科芳雄博士生家の続き。

タイル尽くしのお風呂があったのは離れの棟の奥で、さらに奥には蔵がある。蔵の扉は閉ざされていた。


この手前にお風呂の焚口がある。レンガ積みになっていて、改修のときもここはさわっていないようだ。


離れの部屋はシンプルで2間続きになっていた。奥の方の部屋に下ろされていた可動式の梯子は比較的勾配が緩やかで、
2階を覗いてみると十分な高さがあった。博士の勉強部屋だったそうだ。
いろいろ問合せてみたのだが、主屋の江戸時代後期というのも推測であり、ましてや棟ごとの築年は分からず、詳細不明。
この離れは博士の勉強部屋を確保するために増築したのではないかと想像する。そうだとしたら明治30年ごろだろうか。
こんな風通しよく明るく快適な部屋なら勉強も捗ったことだろう。




ところでここはそれほど大きくない屋敷なのに、大便所と小便所が2組もある。
庄屋や代官の時代には訪れる人が多かったからだろうか。埃だらけだったが、ドアを開けて見せて頂いたところ
大便所の1つは染付便器だった。これもお風呂場の敷瓦と同じく瀬戸製だろうな。


小便器のひとつは縞模様に釉薬を流したもので、小さな花形の下地窓がぽつんとあるのみ。
この便所は主屋と離れの間にあるが主屋が建てられた時に裏側に張り出してつくられたものだろう。
もう一組の便所は白い陶製便器だった。染付便器は古いものでも明治後期だと思う。
あとから離れを作ったのだとしたらその時に主屋も増改築している可能性はあり、そのときに便器を
取り替えたかもしれない。明治30年ごろなら時代が合いそうだ。


いったん玄関を出て庭から建物を眺めてみる。本瓦葺の入母屋屋根のすぐ下に下屋がぐるっと回っている。


裏側のセミオープンなスペースは水場である。


井戸は塩分を含んでいたらしく、飲み水には適さなかったようだ。昔はこの家のすぐそばまで海だったという。


梁から吊り下げられているのは、昔の「冷蔵庫」らしい。要は風通しのよい涼しいところに食べ物を保存して
いたのだな。


敷地内には別棟の茶室もある。こちらも覗いてみよう。


2部屋続きで、広く開放的。煎茶の茶室だったのだろうか。よく知らないけど・・・


一部屋は板を組んだ網代天井。板の材はよく分からないが杉ではなさそうな感じ。押さえ縁は丸竹が使われている。


こちらの部屋の天井は、木の皮を剥いで伸ばしたものだ。杉か・・・?だとしたら網代もやっぱり杉か?
ひと目見て分かるようになりたいものだ(汗)




この離れにも便所が附属していた。さっきと同じ花形の下地窓があり、大便所の扉の隙間から覗くと染付便器が見えた。
主屋のトイレと同時期に作られたのだろう。


あぁ、結局2時間ぐらい滞在してじっくり堪能した。。。

近くには「仁科会館」という施設もあり、生家から大した距離はないがボランティアガイドのおっちゃんが親切に
車で送ってくれた。そこでは仁科芳雄博士の研究や世界に誇る功績の数々についての詳細な資料が展示されている。
また里庄町で過ごした時代の習字や絵や、博士の人柄を知れるもろもろの資料が展示されていて、小学生の学習の場
にもなっている。
帰りも館長さんが車で駅まで送ってくれた。何て親切なんだろう~~

日本にこんなすごい研究者がいて、この小さな町がふるさとだったのだ。私は全然知らなかったし、知っている人は
少ないのではないだろうか。仁科芳雄博士生家のあの素晴らしい建築とタイルの見学と併せて、ぜひ仁科会館の方も
見学してみてほしい。

このあと倉敷へ寄り道。。
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○×型校舎とダブルスターハウス

2020-08-12 23:17:25 | 建物・まちなみ
今年の4月、新型コロナウィルス感染拡大に伴う非常事態宣言発令で自宅待機中、ブログをせっせと書いていたが(苦笑)、
台湾の成功大学のスターハウスの記事を書きながら、スターハウスについて詳しく書かれている「団地ウォーカー」という
サイトを見ていたら、スターハウスを二つつなげた形の「ダブルスターハウス」が割と近くにあることを知った。
日本中でここにしかないという珍しい形。

言うまでもないがスターハウスは上空から見ると星型をしたかわいい住棟である。まぁ星型と言っても三芒星である。
昭和30年代から日本住宅公団が建て始め日本中の団地に花ならぬ「星」を添えてきた。私も昔から好きだったので
出会うごとに愛でて写真を撮っているが、築後50年以上が経って老朽化が進み、近年どんどん数が減っている。
それにしても、ダブルスターハウスとは見たことがなかった。今はどうなっているのだろう?今もあるのだろうか??

ある日、運動と買い物を兼ねた散歩で見に行ってみた。
おぉ、これか!確かに、枝が4本出たような形をしている。こんな形の住棟は珍しいな!




googlemapで見ると「警察職員東長居宿舎」という表示になっている。
入居者募集の看板があるのでまだまだ現役のようだが、実際空き部屋が多そうに見えるな。。。




ダブルスターハウスの周りをぐるっと回って眺める。でっぱった枝の部分がそれぞれ1戸だろう。
その場合すべての住戸で三方に窓を配することができ、風通しがよい。


スターハウスは120度分割の三芒星型だけでなく小さなT字形のものもある。このダブルスターハウスも
120度分割のスターでなくT字形を少し傾けてくっつけたような形をしている。
それは全住戸に南からの日光を取り入れるのに適した角度なのだろう。


見れば見るほど楽しいな!全体がひと目で見渡せるこの規模だから面白い。


しかしスターハウスは外壁の面積が大きいため普通の矩形の住棟に比べコストは高いに違いなく、避難経路の
こともあったりして造られなくなったのだろう。周りの団地はもうすっかり現代のマンションに建て替えられている。
古い地図を見ると、これと同じ形の建物が1ブロック北側の敷地にも建っていたようだ。そのさらに北側には
普通のスターハウスも4棟。いつ頃建て替えられたのだろう。あぁ見たかったなぁ~~!
ここもいつまであるか分からないのでじっくり目に焼き付けておこう。


しかし時代がかったダブルスターハウスが今もそのまま現役で残っているというのはとても貴重だ。
そろそろ文化財にしてもいいんじゃないか!?



また別の日、たまたま1983(昭和58)年の東住吉区の地図を見ていたとき、変わったシルエットの建物を見つけた。
十字、いや、直角にクロスして45度傾いた「×」型である。
今もあるのだろうかとgooglemapで見たら、、、あった!!これもまた散歩で見に行ってきた。

大阪府教育センター附属高等学校の校舎らしい。
こんな名前の高校あったのか?と思ったら、元の「大和川高等学校」で、1963(昭和38)年に開校している。


現地で道路から見ると塀や木など障害物が多くてなかなかきれいに見えないが・・・確かに×型をしている。
きれいに見えるところはないかとぐるっと回ってみる。グラウンドの横から見るのがまだいちばん分かりやすいかな。


しかしこの建物の築年がまさか昭和38年ということはないだろう。57年も経っているなんて思えず、
もう少しは新しそうに見える。開校してしばらくして増築されたと想像するが・・・


帰ってからもう少し古い地図はなかったかと探してみたら、1980(昭和55)年の区分地図にすでに
この×のシルエットが描かれていた。少なくとも40年は経っているのか!途中で改装したのかな。
ネットでいろいろ検索してみても、この校舎の情報は何も出てこない。大和川高校のOBに聞くしかないか・・・


しかしこんなきれいな×字型、そうそう無いと思うな!面白い~~



そしてgooglemapで×字型校舎を見ているときに、円形校舎も近くにあることが分かった。
こちらもまた日を改めて散歩で見に行った。
大阪芸術大学短期大学部。クールな外観。これはどう見ても新しそうだな。




円形校舎もスターハウスと同年代ぐらいの、昭和30年代~40年代を中心に全国各地に作られた。
高度成長期、どんどん子供が増えたため校舎建て替えや増築がさかんに行われたであろう時代。
外周に窓を取った扇形の教室が理想的な採光であると考えられ、効率的な動線、シンボリックな形、
構造上頑丈だとか建築コストが安いなどの理由もあっただろう、一種円形校舎ブームだったのだ。


ま、このおしゃれな校舎はその時代ではなく近年建てられたものだろう。・・・・と思っていたら!?


ここは元、浪速短期大学であり、円形校舎は1958(昭和33)年に、円形校舎の考案者である坂本鹿名夫氏の
設計により建てられたものだとか。内容がわかる資料を見つけた。→こちら


なんと、大阪芸術大学短期大学部を運営する学校法人塚本学院は、古い円形校舎を大成建設の設計施工で改修、
2017年に竣工したらしい。この先50年、100年と使い続けていくつもりなのだろう。あっぱれ!!


×型校舎も円形校舎もリニューアルを加えながら大事に使われていてうれしいことだ。貴重なダブルスターハウスも
残ればいいなぁ。東京の旧赤羽台団地のスターハウスは登録有形文化財になっているとか。希少性のあるこちらも是非!
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台湾大学の建物たち 裏通り

2020-08-09 20:48:24 | 建物・まちなみ
2019年9月の台湾の続き。

今度は一本裏手の通りを歩いてみよう。「舟山路」というのは人の名だろうか?
こちらの通り沿いにはちょっと面白い建物が建っていて目を惹かれる。
「鹿鳴堂」と書かれたこの建物は、寄棟屋根みたいな形のブロックが外壁にずらりと並んでいる。
モダニズム?キュビズム・・・?しかしバルコニーには中国風の欄干がついていたりして、不思議な雰囲気。。。
これは1967年に完成し、元の名は「僑光堂」といった。海外華僑との交流のための集会や文化的、政治的な
イベントに使われたといい、近年、歴史建築に登録されたとか。


これは何だったっけ・・・アーチ窓が立体的に飛び出していて面白いなぁ。


そして突然現れた日本瓦の建物。なんじゃこれは!?駅舎じゃないよな(笑)
立派な洋風校舎やビルディング校舎ばかりの中で妙に存在感があって気になる。


レンガ造建物の周囲にぐるっと回廊があって、回廊も含めて大きな屋根が載っている。建物はかなり細長い。
倉庫だろうか?


開いた扉から中を覗いてみると・・・床屋??
古い建物が床屋や生協の売店や創作系クラブの作業場などになっている例はよくある。ここもそんな感じなのかな?


ドーマーウィンドウのような換気口があったり、一部に破風が立ち上がっていたりと、小ワザも効いている。




これもちょっと古そうだな。。。当時の管理棟かな?




何かわからないけど古そうな建物が続々と・・・これら日本瓦が載っているものは日本統治時代の建物だよなぁ。
丸窓のあるものも戦前っぽい。




小さいけど特徴的な建物がたくさん。表通りの立派な校舎はWEB上に載っているけど、裏通りの建物は
あまり載っておらず詳細がよくわからない(汗)


これも面白い。2段の宝形造のような屋根を載せた、正方形の小さな建物。


ここには「性別平等教育委員会」などの表札が出ていた。


これはさっきの建物の裏側かな・・・もはやどこを見ていたのか全くわからない(汗)




うわっ、かわいい!!ペパーミントグリーンの小さな小さな住宅風の木造建築。
ここは、生協売店のようだが、元は何だったのだろう、守衛室でもなさそうだし、、、守衛の宿直室かな?


半切妻の破風を正面と右面、左面に見せる(もしかすると裏側にもあったのかも??)。
建物の大きさに対して屋根周りの凝りようがすごい。すごく意匠の密度が高いな!


お店には台湾大学グッズも売っていたけど、ほしいようなものがなかった・・・(苦笑)

台湾大学のキャンパスには文化財が44もあるらしい。これらの細々した建物はそれに含まれているのかどうかは
分からないが、目立たない小さな建物も、今もずっと現役で使われ続けているのは嬉しいことだな!

はぁ~~、3泊4日の旅ももうタイムアップ。最後まで充実した旅だった!
また長大連載になってしまった。途中で飽きてきた方も多いと思いますが(汗)
おつき合いありがとうございました。

おわり。
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台湾大学の建物たち 表通り

2020-08-08 23:55:03 | 建物・まちなみ
2019年9月の台湾の続き。

もう今日の夕方の飛行機で日本へ帰るので、何かあって遅れては大変と、三峡から早めに台北へ戻ってきたのだったが、
あと2時間程度あるな・・・前々から行ってみようと思っていた国立台湾大学へ行ってみることにした。
日本統治時代の1928(昭和3)年に台北帝国大学として設立された台湾大学は、日本の東京大学に相当する、台湾随一の名門大学である。
そしてそのキャンパスには、当時の建築、いわゆる近代建築がたくさん残っているのだ。
MRTの公館駅を下りて地上へ出ると、まちなかに広大なキャンパスが広がっていた。


中央の守衛室を挟んで左右に入口の門がある。円筒形の石積みの門柱がかわいい。


さすが南国、メインストリートの両側には高さ20m以上あろうかというフェニックスヤシが延々と並ぶ。
文字通り「椰林大路」である。


この椰林大路に沿って軒を連ねた建物がさっそく見えてくる。
近代建築が・・・と言っても、実際のところ、戦前と戦後の建物が混在していて、ぱっと見でどれが
本当に古いのか正確に判別する自信はない(汗)。前の記事でも書いたとおり、こちらでは新しい建物も
数年経てばすっかりなじんでしまうのだ。古そうに見える建物を選んで写真を撮っていく。
これは一号館。


こちら、もと総図書館だった、校史館。


アーチを多用、ロンバルディアバンドも大きく派手なイメージ。。


中を覗くと、エントランスホールから手前に向かって伸びる階段。壁にはたくさんのフレームが並んでいた。
フレームの中に納まっているのは、学校の歴史上の出来事を写した写真である。

尚、現在は新しい総図書館ができている。新図書館はさらに派手な建物で、椰林大路の突き当たりに鎮座している。
図書館は大学の頭脳の象徴だな。私の母校ではキャンパスの隅に隠れるようにして建っていたけど(苦笑)

こちら二号館。物理学系の校舎である。


こちらもまた賑やかな、文学院校舎。






床は面取りした柔らかい印象の無釉タイルが四半貼りに。


内部を覗くと、エントランスホールは柱がなくすっきりした空間。奥に階段が見える。


階段ホールのところまで入らせてもらおう。階段の人研ぎの手すりに開けられた窓。




ところで、これらの校舎は赤レンガのように見えるが実は全て13溝リブタイル貼りである。
1mぐらいまで近づかないと分からないのだが、台湾ではこのタイルがとても多い。平滑面のレンガタイルよりも
スクラッチタイルよりも、このタイルが使われていることが多い。赤レンガよりも薄くやわらかい色合いのオレンジ色。


この小さな建物は何だったっけ・・・


こちらは行政大楼。


この建物は古典主義の色が濃い。外壁もタイルでなく赤レンガのようだ。


エントランスホールにもコリント式の柱頭をもつ柱が並ぶ。古めかしい雰囲気を演出して威厳を持たせているのだろう。


森林環境暨資源學系校舎。森林っぽく草に覆われた(!?)エントランス(笑)

だいたいこのあたりまでが古い建物のようだ。今これを書きながら何の建物か調べていると、
旧台北帝国大学開設当初に設置された文政学部、理農学部を元とする老舗学部の校舎であることが分かる。
そのあと学部が増えるごとに奥へ奥へと新しい校舎を建てて行ったのだろう。

これが新総図書館。


小椰林道に面したこちらは寮かな?


広い池のある庭園。のびのびしたキャンパス。あぁ憧れるなぁ。。。


続く。
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三峡へ。敷瓦の報告と、旧愛鄰医院

2020-08-07 22:15:53 | 建物・まちなみ
2019年9月の台湾の続き。



金門島から台北へ戻ってきた翌日は、朝から三峡へ向かう。
前回の金門島旅のあとも三峡へ行き、救生医院の床に敷かれた大量の印花文敷瓦に狂喜乱舞したのだった。

今回再び訪れたのは、そのとき敷瓦を頂いたお礼とともに、その敷瓦を製造地である瀬戸の瀬戸蔵ミュージアムへ寄贈したこと、
台湾から里帰りした敷瓦として実際に展示されたこと、そして貴重な資料として今後そこで大切に保管されること、を歯科医の陳先生に
お伝えしたかったのだ。このときも診療中に抜けて出てきて下さったので、ミュージアムで展示されたときの写真とチラシを
手渡して手早く説明。喜んで下さり、最後に固い握手。あぁ、思いを果たせてよかった。。。


また三峡の老街を歩く。初めて来た2006年のとき大規模修復工事の真っ最中だった三峡老街、そこから十数年の年月を経て、
レンガや石は南国の雨に打たれ苔や微生物がつき、100年前の部分とほとんど見分けがつかないほどにすっかりなじんでいる。
やっぱり、同じ素材を使って同じ技術で修復しているからだな。過去と現在が自然に、継ぎ目なくつながっている・・・


しかし・・・今日はお客が少ないな(汗)。この頃はまだ新型コロナウィルスなんてかげもかたちもなかったんだけど。




ちょっと裏手に回ってみよう。


おや、こんなところにタイルが(笑)。この道はこれまでも何回も歩いたのに気づいていなかったなぁ。


ポツポツと貼られたタイル。建物は現代のものなので、この小屋を建てるときにコレクション品を放出したのだろうか!?(笑)


そしてレンガ壁。平の面を外側に見せた荒っぽい積み方だし、右端の方と積み方が違っているので、補修したのか
または飾りとしてレンガを貼りつけたのだろうか。


「TR」や「S」の刻印が見える。「TR」は台湾煉瓦株式会社、「S」は撒木耳煉瓦會社(Samuel & Samuel Company)が
製造したレンガで、高品質なタイルであった。


いつも気になって見てしまう磚貼り壁の家。湾曲した薄い瓦を中央部で止めつけてある。


こちらの家も同じ仕様だ。何と呼ばれるのか、どういうものなのか、知りたいのだが・・・




味のある民居の外壁が、いい雰囲気の路地を作っている。


この側溝も古くからのものだろうか。歴史がありそうだな。


三峡歴史文物館の近くにあるこちらの建物は、見るからに古い病院っぽいが、「禾乃川」という大豆製品の店が入っていて気になっていた。


稀少な国産大豆を使った豆乳、豆腐、湯葉、そしてスイーツなどが作られ、そこで買ったり食べることもできる。
ここと同じ名前の店が川の近くの路地裏にあったことは前から知っていたので、食べるのはあちらにするとして、
建物の見学がてらお店を覗いてみよう。


湯葉を作っているところをガラス越しに見れるのだが、紙を漉くようにどんどん湯葉が出来上がるのが面白くてじっと見入ってしまう。


この建物はやはり「旧愛鄰医院」という病院だった。建物の説明や昔の写真などがちゃんと展示されている。
愛鄰医院は、日本で学んだ陳重明氏が民國36(1947)年に開業。歯科医の陳先生も親族なのだろうか。
林業や鉱業が盛んだった三峡では危険と隣り合わせであったため、この愛鄰医院が重要な医療センターとして機能し、
また鶯歌なども含めた周辺地域の医療も担ってきた。


工場とカフェになっている道路沿いの建物の背後には、中庭を挟んで、元は病棟だった離れの棟があった。
民國85(1996)年に営業を終えられたあと、表の建物は媽祖寺院が購入(現在の所有や禾乃川との関係は不明)、
裏の建物は陳氏の子孫が所有し老人施設などに使われたが、現在はコミュニティ活動のための貸しスペースとなっているという。
三峡や鶯歌の伝統産業であった「茶」「染」「陶」の文化を再び盛り上げていこうと工芸作家たちが新しいコラボに取り組んだりしているようだ。


中庭から表の建物を見る。特に建築的に優れているというわけではないが、味わいを残しつつおしゃれにリノベーションされ
産業の記憶を伝えると共に新たな文化の発信拠点として使われ賑わっている旧愛鄰医院。
日本でもリノベーションされて使われているまちなかの建物は多いが、建物のたどった歴史や人物のストーリー、
その地域での位置づけまで詳細に解説しているようなところは少ない。見習いたいものだ。


ここを出て路地裏のお店へ向かったのだが、何と、休みなのか、閉めたのか(?)門が閉ざされていた。ショック・・・
それならあそこで食べればよかったなぁ。


続く。
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タイル旅金門島 民居探訪(16)

2020-08-05 23:19:16 | 建物・まちなみ
2019年9月の台湾金門島の続き。



金門島の民居探訪ももうそろそろタイムリミットに近づいてきた。

最後にやってきた欧厝集落。平坦で広い道が外周に回っているようなところは雰囲気的に散策しやすい。
外周道路から順に見ていくことにしよう。


のっぺりしたタイプの洋楼だけど、快晴の空にこの上もなく映えるね!


おや、集落中央の塀に囲われたエリアの中に洋楼があるな。見に行くとカフェになっているようだ。
お昼ごはんも食べるところがろくろくなかったので食べ損ねている。金城へ戻る前にちょっと休憩ぐらいしたいと
思っていたのでちょうどよかった!最後に入ることにしよう。


タイル民居を発見!前庭は塀で囲まれているが、建物の入口の延長上の塀が一段高くなっていて笠木までついている。
これは沖縄のヒンプンと同じように、正面から来る邪悪なものをよける意味があるのかな。
横から見るといくらでも見えるので目隠しの意味はなさそうだ(笑)。


入口の両脇は彩絵で、タイルは窓上の眉毛のみ。柱頭の部分は空っぽのままだな。
同じ柄の色違いをセットで並べているのがちょっと新鮮。


石積みの民居が異なる角度で隣接することにより三角形の辻ができている。不思議な感じがするが、風水の考え方にのっとり
隣の家との関係性も考慮して建てる方向を決めているのだろう。なかなか日本人には理解するのが難しい。。。


プリントタイルとパステルカラーの無地タイルで賑やかに飾られたお宅。これは戦後建築だな。
しかし基本的な形は全く変わっていない。




建物と一体になった石積みの塀がずっと続いている。


大寺院の伽藍のように塀に囲まれた中に家がいくつも並んでいる。民居は集落内でだいたい独立して建っており
こんなふうに複数の建物が塀に囲まれているのはあまり見かけないが、金門城の陳氏古厝もこんな風だったな。


塀に守られるようにして、小さな家が中央の通路に面して並んでいる。家族が増えるたびに増設したのだろう。
この洋楼もそんな建物のひとつなのだろうな。


伝統民居の前にレンガのベランダがついた素敵な洋楼は、1916年築の欧厝大楼。中に入ったらまたとてもいい雰囲気!


お好きな席へ、と言うけど迷ってしまうなぁ。。。あっ、2階もいいの?じゃあ2階がいい!!


うわ~~快適!昔インドネシアが好きでよく行っていたときはこんな感じのテラスのある宿に好んで泊まっていた。
台湾ではあまりこんな感じの宿がないので、ちょっと懐かしい気分。。洋楼を民宿にしてくれたら泊まりたいな。


冷たいウーロン茶を頼んだら、こんなボトルで出てきた!おしゃれ~~
朝からずっと動き回っていたから、涼しいベランダで冷えたお茶を飲んでしばしほっと一息。。。


戻りしな、鋼板塀に囲まれた工事中の家にタイルが見えたのでちょっと足を止め、塀の上から写真を撮ってみたら、、、
うわっ、フルセットあるじゃないの!!タイルはそのままにきれいに修復工事をしているんだな!


住人がまた戻って住むのだろうか、それとも民宿などになるのだろうか。




外観はもうほとんど終わっているようだ。囲いが取れてタイルを間近で見られる日も近いだろう。
うれしいことだな!!


さて、電動自行車(スクーター)を金城の店へ返し、空港まで送ってもらって、首尾よく夕方の便で台北へ戻ってきた。
その夜は在台の友人とゴハンを食べる約束をしていたので、前回見つけて気に入っていたレトロなカフェレストラン、波麗路(ボレロ)へ。
波麗路と、波麗路本店とが並んでいて、どちらにしようか迷ったのだが、
本店でない方へ。こちらは前にもプリンを食べてお茶を飲んだのだが、ゴハンもなかなかしゃれたメニューで、味もおいしかった。


続く。
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タイル旅金門島 民居探訪(15)

2020-08-04 23:13:43 | 建物・まちなみ
2019年9月の台湾金門島の続き。



歩いて行くとまた素晴らしいタイル民居が!


トルコブルーの背景のタイルはリッチな気分!濃いピンクの差し色も効いているね!
他のタイルもトルコブルーの入ったものが多く、これをテーマカラーにしてコーディネイトしてあるようだ。


屋根の棟の装飾も立体的で豪華。




ところでほとんど同じ形の家が隣にも建っているのだが、そちらは柱頭だけタイルが貼られていた。


ただしこちらのタイルはレプリカ。よく見かける柄。最近貼ったように思われる。


そして少し奥まったところに建っていたこちらのお宅も、またふんだんにタイルが使われた伝統民居。
しかし・・・タイルよりも「軍民合作」と書かれた文字に目が行く。
かつて中国共産党軍との戦いの最前線であった金門島では、軍と民が協力し合って戦備にあたっていた。
こちらではこういったスローガンのような文字をちょくちょく目にする。
家の壁に残る文字のように、金門島の人々にはまだまだ新しい記憶として心の中にとどまっているのだろう。


文字のものものしさを和らげるかのように華やかに貼られたタイルたち。しかし実際はタイルが先である。




欠けもなくとても状態がいい。


チロリアンテープのよう、いや、今どきならマスキングテープをペタペタ貼って飾ったようだな!


こういう柄あわせは、タイルをたくさん持ってきておいて現場で即興で行ったのだろうか。それとも、施主が事前にデザインを考えて
注文しておいたのだろうか。パターンの見本はメーカーのカタログにもいくつかは載っているが、台湾の民居のタイルは
本当に独創的なデザインなので、決まったものから選んだとは考えられない。
100年前にこのタイルを貼った職人さんと話していろいろ聞いてみたいな! 




あっ、細い路地に面した隣の家にもタイルが見えるぞ。ちょっと見に行こう。


しかし何でこんな狭い路地に面しているんだろう。この前の家が後から建ったのかな。


あぁ、このタイルは例のレプリカだ。金門の文字入りのタイルも四隅に貼られている。



この手のレプリカはレプリカと言えどもうまく作られているので、ラインナップを知っていなければ
判別つかないかもしれない。
ヘチマの花柄(キュウリか?)のタイルはオリジナルだと思うが、どうなんだろうか?




またあった!!本当にここの集落にはタイル民居がゴロゴロあって驚く!




果物の盛りカゴタイルと牡丹のスペシャルエンボスが惜しげもなくふんだんに!!


ここで写真を撮っていると、犬に猛烈に吠えられた(汗)。こちらのお宅の方が犬を引っ込めてくれて写真の了承も頂いた。


あぁ、なんて素晴らしい集落だろう。金門島の内で水頭だけは特別だが、それ以外の集落でタイルの貼られた民居はだいたい
集落内に1~2軒。広いところだとまぁ数軒あったりするが、入口周りまでみっしり貼られた極上物件はせいぜい1軒か2軒。
ところがここでは次から次へと極上級のタイル民居が見つかるのだ!一体どういう人々が住んでいたのだろう。
新しい物好きで、タイルが入って来たときに我も我もと取り入れたのだろうか。
それとも、タイル職人が住む村だったとか、またはタイル屋の営業マンが住んでいたのか!?(笑)


しかしこの集落でも半分は空き家のようだった。私が心配なのは、風雨により朽ちてしまうことと、不法侵入・タイルなどの盗難。
こんな美しい伝統民居なのに、放置されて屋根が落ち、室内から木が生え・・・レンガ積みの間に根を張り
崩れ落ち荒れ果てててしまう・・・どうにかして救えないのだろうか。。。金城や水頭などとは違い観光客などめったに来ない
マイナー集落では、民宿や店舗として活用しても採算が合わないことは目に見えている。
そうかと言って観光客が増えても、路地を散策して写真を撮るだけじゃ地元にメリットはないし、昔から一族で住んでいるような
集落では逆に困惑されるだろう。
あぁ、本当に、どうするのがいいのだろうか。建物の所有者にもメリットがあって継続的に維持できる方法はないものだろうか。。。

続く。
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タイル旅金門島 民居探訪(14)

2020-08-03 21:23:41 | 建物・まちなみ
2019年9月の台湾金門島の続き。



人が住んでいるのかどうかよく分からない感じで地味な集落、一度通り過ぎかけて建物の間からチラリと何か見えた。
タイル?一瞬迷ったがスクーターを停めてちょっとのぞいてみたら・・・何とここがすごかった!
まずはこちら、建物の前庭をレンガの塀で囲んだ四合院のお宅。


タイルは入口脇、窓上のまつげと眉毛、柱頭部分に貼られているのだが、驚いたことに、全て同じグリーンのタイルなのだ!!
1種類のタイルで統一されている家なんて初めて見た。(ボーダーのタイルは別として)
ちなみに、まつげとは窓の上の横一列のタイル、眉毛はその上の横一列のタイルのことを、私が勝手にそう呼んでいる(笑)。


複数の場所に貼るとなれば、いろんな柄を使ってみたいと思うだろうし、柱頭は特に4枚1組の大柄のタイルを使って
個性を出したいと思うのが人情だろう(笑)。それなのに・・・何と潔い!!よっぽどこの柄と色を気に入ったのだろうか。


開いた入口からちょっと中を覗いてみると、中庭を挟んだ奥にある正庁の入口の脇や、左右の護龍の壁にも同じタイルが貼られていた。
あぁなんと、徹底している!

・・・おや、1種類だと思っていたがよく見たら2種類あるな。たった今気づいた(爆)。微妙すぎて分からなかった(苦笑)


次に見つけたのは、はずれの方にぽつんと建っていたこのお宅。


ドアはアルミドアに替わっているものの、入口の両脇にはタイルがたくさん貼られているな。


近寄って見ると、、、うっひょ~~~!めでたい果物柄のタイルがずらりと!レンガの枠を2重にしてその間に
花綱のボーダータイルを挟んでいるのも華やかさを増しているね!




そして垂直面には、こちらもふくよかな果物満載の盛りカゴ柄のタイルがみっしりと貼られている!
桃のピンクのグラデーションが効いていて、見ているだけで幸せな気分になるじゃないの~~


そしてさらに、窓上のまつげ&眉毛は、うわぁ~~~カワイイ小鳥柄~~~!!
一人でテンション上がりまくり、写真撮りまくり~~~
しかし、日差しが強くてコントラストが強すぎてなかなかうまく撮れない~~~(涙)




小鳥のタイルは入口の軒下のこんなところにもあった。
いやぁ~~~素晴らしい~~~!もし足を止めずに素通りしていたらこんな極上物件を見逃すところだった。



しかしここはそれだけではなかったのだ。


木に覆われているこちらのお宅。見てのとおり家の中に木が生えているので、人が住んでいないことがは一目瞭然だが(汗)
またこちらも素晴らしいタイル民居だった。両側の屋根の上に欄干がついた洋楼風の佇まい。


入口脇は3種類のタイルを使ってセンスよくコーディネイトされている。


窓まわり、軒まわりにはいろんな色柄のタイルを賑やかに貼っているが、左右対称になっているのですっきり。




欄干の端にもタイルが。


ドアの隙間から中を覗くと、中庭に面した壁にもマジョリカタイルが貼られていた。
タイルは朽ちゆく建物と裏腹に鮮やかな色を振りまいていて、一種艶かしいほどの美しさだが・・・
空き家のまま放置しておくのは防犯面でも心配。。。老朽化もこれ以上進まないように、政府が管理して
くれないかなぁ。。。
こんな辺鄙な集落では民宿やお店にしたとしても多くのお客は見込めなさそうだし・・・どうするのが
いちばんいいのだろう。


続く。
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