I am NOBODY! Who are YOU? ~ ぽーぽー的ACIMブログ『エセー』 ~

“ひとのフリ見て我が(ego)フリ直せ” ナマケモノ系acimerの
『NO』奇跡のコース×奇跡講座×奇跡の道なエセー

ことばで 眼を飾るほかない神と にんげんの為の「第三の神話」

2024-09-18 | わたしと私たちのくらし
二 窓に
  うす明りのつく
  人の世の淋しき



5  Der Satz ist eine Wahrheitsfunktion der Elementarsätze.
   (Der Elementarsatz ist eine Wahrheitsfunktion seiner selbst.)

5.1 Die Wahrheitsfunktionen lassen sich in Reihen ordnen. Das ist die Grundlage der Wahrscheinlichkeitslehre.

5.02 Es liegt nahe, die Argumente von Funktionen mit den Indices von Namen zu verwechseln.
   Ich erkenne nämlich sowohl am Argument wie am Index die Bedeutung des sie enthaltenden Zeichens.

   In Russell’s „+c“ ist z. B. „c“ ein Index,
   der darauf hinweist, dass das ganze Zeichen das Additionszeichen für Kardinalzahlen ist.
   Aber diese Bezeichnung beruht auf willkürlicher Übereinkunft und man könnte statt „+c“ auch ein einfaches
   Zeichen wählen; in „∼p“ aber ist „p“ kein Index, sondern ein Argument: der Sinn von „∼p“ kann nicht verstanden werden,
   ohne dass vorher der Sinn von „p“ verstanden worden wäre. (Im Namen Julius Cäsar ist „Julius“ ein Index.
   Der Index ist immer ein Teil einer Beschreibung des Gegenstandes, dessen Namen wir ihn anhängen. Z. B. Der Cäsar aus
   dem Geschlechte der Julier.)

   Die Verwechslung von Argument und Index liegt, wenn ich mich nicht irre,
   der Theorie Frege’s von der Bedeutung der Sätze und Funktionen zugrunde. Für Frege waren die Sätze der Logik Namen,
   und deren Argumente die Indices dieser Namen.


                                     Ludwig Wittgenstein「論理哲学論考Tractatus Logico-Philosophicusより



一二 浮草に
   花咲く晩
   舟をうかべて
   眺る月の曇る





J 叔父が 亡くなったのは

街も
ひとも 草木も
世界の すべてが 陽炎のように ゆらゆら ゆらいでいた

まっさらな 夏の日の朝だった。


糖尿病の合併症で
懸命に耐えていた 彼のからだは 衰弱しきっており

加えて 重度のアルコール依存が 
彼の手足の自由を 奪っていたから

用を足した後 バランスをくずし 頭を 強打したのだろう。






千鳥や 浜居て 
チュイチュイナ チュイチュイナ



   入院先のトイレ脇で 叔父は 事切れていた。

   責任問題に なりかねないと 踏んだのか
   病院から 驚くほど早く 遺体の引取りを 強要されたという。



  四五 あけてある窓の淋しき

   彼は 帰った。 
   帰りたかった わが家に やっと 彼は 戻られた。





恩師、西脇順三郎先生が、
突然、逝去されてから、早いもので もう一年余。

思い出は 四十年の歳月を 駆け抜けて、遠い彼方、学生時代に遡る。

慶應義塾大学、文学部の教室。
今でもよく 私の意識に よみがえってくる、
妙に もの悲しい、それでいて むしょうに 懐かしい心象風景だ。

今でこそ 羊のように おとなしくなってしまった私だが、
思えば、あの頃は 実に 生意気な学生だった。

よく言えば 批判精神 横溢というわけだが、
とにかく 他人にたいして批判的、特に 先生たちにたいしては
それが、極端で、はっきり言ってしまえば、たいていの先生を 軽蔑していた。





私が 覚えている 叔父は
面倒見がよく 明るく どこか ひょうきんなひとに 見えた。

お絵かきして遊んでいた ちっちゃな 私のために
彼は 絵を描いてくれた事がある。

どっしり構えた それは りっぱな 御家の絵 だった。

 
力強い タッチで すっすっと
よどみなく 真剣な顔をした叔父が  
まっしろな かみのいえに 吸い込まれていくかのように 

描かれた その絵は
屋根瓦の 一枚一枚、庭木や 花々まで 丁寧に かかれて
御家の横には とめはねの美しい 彼の署名があったように思う。





ふだんの叔父は 寡黙で 
書と歌と碁を嗜む 風雅なひと だったらしい。


اِنَّآ اَنْزَلْنٰهُ فِيْ لَيْلَةِ الْقَدْر


 どうして おじさんは わかってくれないんだろ。 
     あたし お姫さまの絵が いいのに。 

  ・・・・・・しょうがないなあ。

  おじさん、おとこだもん。かけるわけない。



叔父のくれた絵をみて 私は
子供なりに 自分を 納得させずにはいられなかった 

その絵は 子どもの私でもわかる とても こわい絵であった。



「無伴奏女声合唱のための あむばるわりあ」 2. 眼_I   西脇順三郎 詩/鈴木輝昭 作曲


四 かたい庭
五 やぶがらし



叔父は 地元でも 名の知れた会社で 仕事一筋に 過ごしていたが、

持病の悪化で 
早期退職を 余儀なくされ 
ながく 祖母と 二人 つましい 闘病生活を 送っていた。


生前の叔父を 最後に見たのは
同居の祖母が亡くなって しばらく経った頃
 
通学路、道向こうからやってくる
見知った姿に 「おじさん」と 声をかけようとした そのとき 

私は 「ひがん」の人間というものの  たるかを 理解した。
 



旅宿ぬ寝覚め 枕すばだててぃ 
覚出すさ昔 夜半ぬ辛さ



彼は、
私の知っていた 叔父は
もう どこかに いってしまった。 

呼びとめても 彼の世界に 私はいない。

彼には もう 自分の望むものしか 
何も見えない、何も聞こえない ひとがたの 生き物だった。


目は うつろで 黄色く濁り 
口は だらんと垂れて 半開き 
手には ぎゅうっと くたびれた財布を 握り締め

不自由な足は もどかしそうに けれど 迷うことはない 
小走りに 真っ直ぐ 「よい」の ありつける場所へ 向かっていた。

そこは すべての 望みを叶え すべて 受け入れてくれる 彼の 天国home である。



Dinu Lipatti plays Bach-Hess Chorale "Jesu Joy of Man's Desiring", rarer 1947 version



   وَمَآ اَدْرٰىكَ مَا لَيْلَةُ الْقَدْرِۗ


後日 聞いた話によると 叔父は 
祖母の死後 まともな 日常生活は 送れなくなっていた。

病気で たしなめられていた お酒を 
    毎日 朝から 浴びるように 際限なく 呑んでいたらしい。


何も通じない 酔いつぶれの 叔父に
対処できたのは 当時 兄である 私の父しかおらず、 

なにかにつけ 父は 呼び出され 面倒 を 押し付けられた。


その とばっちりを ずっと 受け続けてきた母は  
離れて暮らす 私相手に ストレス発散よろしく 電話口で 

   姻家に対する 積年の 憤懣 を あからさまに もらした。






  ニ九 蒼白なるもの
     セザンの林檎
     蛇の腹 
     永劫の時間
     捨てられた楽園に残る  
     かけた皿 

 

叔父をめぐる 過酷な状況に 
必死に堪えていた 父たちの 今にも ぷつりと切れてしまいそうな

 やるせない 張りつめた想いを 
よい自分にんげん は 当たり障りない よいことばで イイつくろう・・・ 


にんげん、誰しも 自分が 一番かわいい 
心身、ワレよしの自我を みな幾重も まとって いきている 「かみ」である。



  七三 河原の砂地に幾千といふ
     名の知れぬ草の茎がのびている
     よしきりや雲雀の巣をかくして 
     その心の影      



公けに 喧伝され得る 
精神世界の教え、 真我のみちなどは

畢竟 自己に 都合よい ササメ的人物を 正当、神格化しては
   自分に 便利な よい神、よい夢、よい真理へと 逃げる
 
         ヨクあらんがための いいわけである。

   ヨク 生き延びたい 賢き 動物にんげん の 
   ヨクない 煩悩 の なせる業、 凡夫の アリふれた 冥想ゆめ だ。



「無伴奏女声合唱のための あむばるわりあ」3. 眼_II  西脇順三郎 詩/鈴木輝昭 作曲


柴木 植いて置かば しばしばとぅいもり 


  2度目のアルコール中毒による
  心筋梗塞で 緊急搬送された 叔父は 
  幸運にも すぐに受け入れてくれる病院に 移ったのだが

  あい変わらず 病院や 親族から 電話は ひっきりなしで 
  そのたびに 昼夜かかわらず 父が 呼び出される日々が 続いていた。


真竹 植いて置かば またもいもり忍ば



  そんな中 その病院のトイレ脇で 
  叔父は 誰にも 看取られることなく あの日  ひとり 死を 迎えた。






  一〇二 草の実の
      ころがる
      水たまりにうつる
      枯れ茎のまがり
      淋しき人の去る




叔父が 亡くなる数ヶ月前に 
めずらしく 電話にでた 父と話をした。

朴訥で あまり 話をしたがらないひとである。

その日は かるく一杯ひっかけたのか
いつもは 重い 父の口は軽く、話しているうち 叔父の話になった。



لَيْلَةُ الْقَدْرِ ەۙ خَيْرٌ مِّنْ اَلْفِ شَهْرٍۗ


   病院から 
   叔父が 脱走した連絡を受け 

   付近を探し回り やっと駅に向かう通りで
   彼を 見つけた時の話である。


   父は 一瞬 
   自分の目を 疑ったと言う。 

   往来を 行く叔父は 病人では なかったのだ・・・・ ・・・・・・






麻痺の残る足を 
多少 引きずっているけれど
入院生活の長い患者には 全く見えなかったそうである。


旅や浜宿り 草の葉の枕
寝てん忘ららん わん親のお側




一歩一歩 
しっかりと じぶんのあしで 彼は歩く。
真っ直ぐ 一歩一歩  彼は歩いた。

ちゅいな チュイナ ちゅい
チュイナ ちゅいぬ チュイに ちゅいやぐとぅ



J.S.バッハ : 主よ人の望みの喜びよ【パイプオルガン】



先回りした駅前で
叔父を 待ち構えていた 父は はっしと 彼を捉まえた。

J! お前、 そんな からだで 一体どこにいくんだ?


    家に。 
    家に 帰るんだ。

    兄貴、帰りたいんだ 家に。

    離せ 離せ。 俺は 帰る。 帰るんだ。


金なんかさ ぜんぜん
持っていなかったんだよ、あいつ。

電車に 乗れない
帰れるわけないのに。 馬鹿だな。 



   愛おしそうに 
   それでいて 他人事みたいに話した 
   酔っぱらう父は あははと 笑った 。




黄ばんだ欅の葉先に舌の先が触れた
あの暗い晩
永遠の先に舌の先が触れた時
死に初めて生きながらふれるのだ
それは生命の初めであつて終りだ
言葉の塔の人々はみな話した
「男の言葉を女の言葉に
 近づけることを考えなければならない」
葡萄のような夕暮れになつた
もう訪ねるような人はいないだろう
もう自分自身の中にもどらなければ
ならなくなつた


自分自身の言葉を飾らなければ
ならなくなつた
「見せて
 この古い庭にとび出ている
 この梅の木
 わたくしのドレスに染めてみたいわ
 この薔薇の胎児
 この一つ眼のキュクロぺスの河童
 この木の木このやるせない木
 没落の天使のひそむこの芋虫
 このコリドンの庭に
 やがてもどりたいものだわ」

西脇順三郎「第三の神話」より(抜粋)




平凡で 退屈な講義。

洋書講読の時間ともなれば 頻発する誤訳、まずい発音。
とうてい先生と認める気にはなれなかった。

しかし そんななかで、西脇先生だけは
私が 心から先生と呼びたくなる、呼ばずにはいられない、

本当の 先生、、 だった。

             井筒俊彦「西脇先生と言語学と私」より
                     「読むと書く 井筒俊彦エッセイ集」慶應義塾大学出版会




叔父の訃報は 彼が死んだ日の夕方 

弟からのメールで知った。

会社帰り K駅 のホーム
帰りの電車を待つひとたちで 賑やかな

ここには いつもと かわらない いつもの 風景があった。







家路を急ぐ サラリーマン
学生の おしゃべりと 笑い声にあふれ

見上げると 
立ち昇る まっ白の入道雲が くっきり まぶしく

澄んで 晴れわたった青空は どこまでも
どこまでも 涯りなく 延びていくように 思われた。



تَنَزَّلُ الْمَلٰۤىِٕكَةُ وَالرُّوْحُ فِيْهَا بِاِذْنِ رَبِّهِمْۚ مِنْ كُلِّ اَمْرٍۛ



すべて 申し分のない
真夏の きらめくひかりが のみこんでゆく

    あのひとも 
    このひとも 私も  


 「な ぜ」




C.Debussy - Clair de Lune, Maria João Pires live at Jardin Musical



渡海や 隔じゃみてぃん 
照る月やふぃとぅち あまん眺みゆら 今日ぬ空や




携帯電話を 握り締め 
もくもく 湧き上がる想いを 振り払うように

私は まぶたを 閉じる

 ・・・叔父さん
    おじさん お父さん
 
            とうさん・・・・・・






まなかいに 
ゆうらり あらわれた 

御家の絵を くれた あの時の 叔父は

むずがる 私に 
すこし 困ったように 目を細め 
けれど うっすら 口元には 笑みを 浮かべ

どこからか あらわれた こがね色の ひかりの中へ
ふわりと 彼は 消えていってしまった。

何 ひとつ 答えては くれずに。



سَلٰمٌۛ هِيَ حَتّٰى مَطْلَعِ الْفَجْرِࣖ



          2015年 6月期 ACIM 課題レポート(随想文)より




サカナクション 「 目が明く藍色 」



文中の 緑字は 西脇順三郎「旅人かへらず」より
2015年 6月期 ACIM 課題レポート(随想文)は 当エセー用に 加筆 再編集いたしました♨



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