I am NOBODY! Who are YOU? ~ ぽーぽー的ACIMブログ『エセー』 ~

“ひとのフリ見て我が(ego)フリ直せ” ナマケモノ系acimerの
『NO』奇跡のコース×奇跡講座×奇跡の道なエセー

センセイが こいねずの実相を トけない原因

2024-08-30 | homeworks

あのひとは ひとり
ラ・メールの 隅っこ いつもの席で 本を 読んでおりました。


  「 本が お好きなんですね。」

   すずやかな 眼差しが ふっと 綻ぶ 
    あのひとの言葉は いつも 穏やかでした。

 「 さあ、どうでしょう。 必 要 が あって 読んでいるだけですよ。

  普段は 仕事で使う 実用本ばかりだ。
  ここでは 昔 読んでいたSF小説や 冒険ものを よく 読んでいます。

  子供の頃 私は 病気がちで 身体が 弱かった。
  学校へ 行くより ベットで過ごす事が 多かったので 本を読んで 一日を 過ごしました。



ページを捲れば そこは 別世界 だ。

 「私」は 紀元前の英雄と 戦場で剣を交え
      沢山の深海生物と 海の中を泳いで
      100万光年先にいる 宇宙人と ダンスを踊った。


 空想の世界 の中でなら 私は 何にでもなれる。

 いつでも どこでも 好きなところへ 行き来 出来る でしょう?

 ずっと同じ 狭い部屋で  寝ているしかない
  「ちっぽけな自分」から 束の間 私は 自 由 で いられましたから。



Gem Club - Spine -


Ⅱ「動 画」いまここにある「私」の 力 動ダイナミクス


エセー: Mythos 人工天国のあがり (2024-7-24公開 以下「Mythosあがり」という)
    いりのトロイメルより λόγος (2024-07-30公開 以下「いりλόγος」という)で 使用した
    動画について 簡単に その趣旨を 述べておく。



「Mythosあがり」で 扱った MV動画は 
  「あのひと」の 心象イメージ に 沿う楽曲( 男性Vo.洋楽 + ピアノ )に なっている。

    洋楽オールディズなのは ふたりの 逢引場所 だった
      「ラ・メール」という喫茶店で よく流れていた エピソードによる。


「いりλόγος」は 逆に よるの「わたし」を あらわす 
  形象イメージ の 楽曲( 女性Vo.邦楽 + 実験映像、クラッシック、アートビデオ等アラカルト )だ。

    YOASOBI や yama は 夜好系 アーティストとされている。

    夜しか 会えなかった かつてのふたりが 
      ひる日なた に 再会する場景を 効果的に みせるための選曲である。




いままで 様々な ジャンルの動画を 扱ってきた。

8.16 公開のエセー「C'est si bon 風景 ー ぼくらのくには負けたくに ー」で 使った
 
(キングクリムゾン)や
(ニルヴァーナ)に 見られるように

私は ハードロック、ヘビメタ、
プログレ、グランジ 及び サイケデリックトランス、
病んでる系 ボカロだろうと ふつーに ブログに ぶち込める

スピ・精神世界広しと いえど、このような
  クール な 芸当 が できるのは まあ、私くらいだろうWWW





ここで 使用する動画も 画像と同じく 制約ルールがある。

ただ その採用基準が 画像のものと 真 逆 に なっているのだ。

  なるたけ 主義主張の 少ない 
  背景描写的な 抑制 ある フラット なものを 選ぶ画像に対し

  動画映像は インパクトの強い、キャッチーなもの、もしくは 
  アンビエント、ヒーリングミュージックなど しみじみ 心落ち着くようなもの

  「静」と「動」  両極端 な 動画を、
          私は 即興かつ 意図的 に ひとところ で 扱っている。






相反 する 想いや 思考、事象を 疎かにしない

言葉にならない「ありのまま」を 表現するための  媒 体ドウ・ガ なのだ。

最近は ブログのおかげで、
音楽だけでなく ショート ムービー、
アニメ、アートビデオ、実験映像など 動画映像の 選択肢の幅が広がった。

大まかな ルール設定はあっても、こと動画映像に関しては
「コレ!」 というものを 最優先で 採用する。


  


実際、自分でも 
そのとき 何がどう 成るか わからない。

まさに 今ココ 出たとこ勝負 である。


直近だと、エセー「Tally ho!」グレート・アーティストから( 8-9公開 )で
 
ブログUP直前 youtubeで たまたま見つけた、
配信公開直後の 米津玄師「RED OUT」を 当初 決めていた楽曲を

即 翻し 採用 したのが、その一例だ。



fox capture plan / 衝動の粒子


幼少の頃から よく 「 勘 」 が はたらく。

インスピレーションは 日常茶飯事だ。

生活する上で これは 非常に 便利な 性 状たち ではある。

あれこれ 悩むことは まずない。
その時 そのとき 自分に 必要なものごとが 分かるから。

無理がないので 無駄がない。

その場 そのバで ものごとの 最適化 が 
        自動で 図られるせいだと思う。

 生活保護レベルに近い生活も 経験したが
 餓える心配は なかったし 辛いと思う事が 殆ど なかった。

 必ず 誰かの支えや 助けが入る。 大ごとに 至る事は まずない。

ささいな幸せを 有難いと思える
 おかげで 「しあわせ」な 知足が 常にあった。


田中一村「海老と熱帯魚」 田中一村記念美術館蔵



しんに 覚った 幸せな人間ならば 
さとりを説く必要も 幸せを 乞う必要も 「ない」のだ。

幸せになる スピリチュアルも 覚醒のための 精神世界も 必要 「ない」

虚空無為ないおん ここにいる必要のない 幸せな自分・・・・・ だろうから。


必要が「ある」から ここに「いる」のだ。

幸せで「ない」 アタマだけ覚った 自分が「いる」から

スピリチュアルや 精神世界に 居続け 
   イジョウに 関わらなければならない必要「ある」自分ではないのか。
 

  


都合の悪い物事を 合理化し さとり成るモノに 執着 して 「イル」 自分

  それぞれに 必要な 教えや 学び、
       よくツカエル にんげんが むしょうに 「イル」 自分

  とくべつ 必要な めい想、超能力、霊能力、
     ツカエル 神仏や 真理真実が むげんに 「イル」 自分 だろう。

ようは 捕食者で アリたい、ただの ヨク深い 動 物ガキ である。


ここで 一般的に 価値と見做されている 見性、一瞥・覚醒・神秘体験、
  インスピレーションなるものは こと霊性、求道となると 

  実のところ、厄介な 弊害 を 引き起こす。


「まだガッコウだよ」


ACIMを通じて 私は
良くも 悪くも さらに この種の 勘が 様々働くようになった。

そのシンクロ率 たるや 笑えるくらい まぢで ハンパない。笑

エセーを したためている時 私は
インスピレーションの 暴風雨に 見舞われる。


 文字通りの・・・・・ 暴風雨 だ。 かなりキツイ。

だが、その通り せいかくに かけると 
よいもの が 出来上がる。ワレながら 出来上った 自作エセーに唸る。

インスピレーションによる 私の「モノかき」は ゆえに・・・ ひどく 人心を そそる らしい。


田中一村「熱帯魚三種」 個人蔵



ACIM関係者と 密にやり取りしていた頃 

 ふれ回ってもいないのに 
 「Mythosあがり」「いりλόγος」のような 
 ひと好き する よい話をすると わんさと ひとが 集まった。

 なかには 私宅まで 押しかけてこようとした 学習者もいた。

どうってこともない 素人のかいた 恋バナ
 「Bedtime story」を ブログで 公開した時も そうだった。

Quo abiit dilectus tuus, O pulcherrima mulierum?
Quo declinavit dilectus tuus? et quaeremus eum tecum.
(S_of_S 6:1)
 

女のうちの 最も美しい者よ、あなたの愛する者は どこへ行ったか。
あなたの愛する者は どこへおもむいたか。
わたしたちは あなたと一緒に たずねよう。
 


     

評価されるのは 素直に 嬉しい。
だが、「何か」が おかしい。 イジョウ が すぎる。

斯様な イジョウから 脱すべく 私は 
ACIM関係者の 評価や 常識を すべて排する 2015年 レポートに のぞんだ。

 
 あかつきの嵐にたぐふ
 鐘の音を 心の底にこたへてぞ聞く

   ・・・やはり、予測していた通りであった・・・・・・・・・・・・。もう やむを得ない、か。


それから ずっと 私は ここをたつ為に

 ひとり ソの 原因イン

きわめるべく 拙い「ものかき」を 続けている。


Joe Hisaishi - One Summer’s Day (English Version) featuring Grace Davidson (Visualizer)

 
 『遠い 知らない街に 行こう』
 『たくさんの国々を巡る 旅に出よう』 
 『地球を脱出して 未知の宇宙を冒険しよう』


元気になったら 空想ではない世界で したい事を し尽くそう、と
私は 普通の人より いたずらな 理想 ばかり 逞しくしてしまいました・・・」


   ・・・・・・告解する とがびとのように 彼は しずかに 目を伏せた。

   こぽこぽ、サイホンの 音と なつかしい ふるうたが しずかに 流れていく

   うつくしい夜 遠い「ひ」の記憶 は しぜん
   かなしいひとの くちをかり みずからを よみするかのように・・・




人間の心の本質が ほとんど変わっていない以上、
昔の人の祈りと、今の人の祈りの根本は、ほとんど変わっていない。

   「思考の癖」
   「行動の癖」
   「自己表現」
の 癖が、カルマとなって残り、

繰り返しのエネルギーとして、輪廻の旅で 継承されてゆく。

反動・リバウンドという エネルギーで、表面化することが多い。

個々の願望の祈りは、願解きなど
区切りを付けることは 可能だが、それは 一つのキッカケにすぎず、

まして、基本的な 信仰形態は、

    心の癖 となって、繰り返されてしまう・・・



何故だろう・・・・・・

不思議と、私は あの頃の自分が 今 とても いとおしく思えるんです。

・・・あのときの自分に あいたくて 私は
   当時 よく読んでいた 書物を 読み返しているのかもしれない。 」


   「 ・・・。
    そうでしたか・・・・・・
    最近は どこか お出かけになりました?」


「 いえ。遠出は かないません。
  仕事に 追われる しがない サラリーマンだ。

 私は もう 気軽には どこへも いけないのです。

 大人になれば 自由に いきていけると 思っていたのに
 子供の頃より  私は もっと 不自由 に なってしまいました。


エセー:『 Me ♯』どれみの詩③
    ~ The fish storyⅡ「光る風景」(2019.8.10 公開: 現在クローズ)
   : ら メール to クロノ風琴 / リブート版:The fish storyⅡ「光る風景」
     (2023-02-17 公開: 現在クローズ)を 再編集


Carpenters - Close to You (remastered)


( 動画映像を 多用する )

その主たる 目的であり 理由は 文字媒体とは 別様式 の 
ショートカット 及び バックドア 的な 仕様形態が 必要な「自分」 で「ある」からだ。


私は 韜晦する 語りのスタイルを
   採らざるを得ない 事情ある「ミ」
ゆえ

ブログ開始当初より ここのエセーは 様々 ある (語りの手法)形式 を 用いる。


   読者の 読解レベルを 考慮しないため 
   不親切で ぶしつけな文章と 感じられる方も 多いだろう。

   私じしん これを 十分承知した上での 取り組み Essaiエセー だ。




文字通り・・・・ の Essai こころみであり Essai企 て に つとめている為


ブログに載せて「いる」動画楽曲は 
ここのエセーを 理解したいのに、わからない 難しいと 感じるひとへ

 言葉ではない ことば
 私の かいている 言葉いみ に 近い 楽曲映像を セレクトして「ある」


どうかな? 私の言葉が 理解できなくても ことば ならば 聴けるだろう?
   
自身の 内なる声を 「ききたい」「きこう」と 
         しんじつ のぞむなら 容易に 解する、きこえる 言葉おと だ。



私の 韜晦する文章を よく読解する 知的な方にも また

理解したであろう 言葉いみ に 留まらない 
文意から ほど遠い、理解に苦しむ 楽曲ことば も 選んで「いる」

何でも 「わかる」「悟った」と 公言する 
  「いい」たがりの 善人覚者、
   神の子 ACIM信者 ならば 私の謂いを ヨク理解するだろう。


インタ―ネット の
「よい」スピ・精神世界 の イイひと、イイ事象事物に イ存する
「いい」にんげんの  認知バイアス など 小生、トーゼン 折り込み済みだ。

神仏の言葉や 現臨をトき、
頭の理解、アタマの覚り程度の
イイ御仁サマには ソレゆえに この Essaiエセー は 発足 当初より

決して ゆる せない 次元レベルの 言葉 「ムジカ」 に して 「あ る」 のだから。




私が MV動画を多用する キッカケ となったのは ある体験による。

このブログの 発端である
ACIM ( homeworks ) レポートを 書いていた  2015年

今まで 愛聴していた ポップス曲が 
何故だか 突如として 受け付けられなくなった。

歌詞が 兎角 うっとおしい。うるさい。非常に耳障りな ノイズ に 感じられた。

だが、 歌詞のない クラッシックだけは
不思議と 自分の心情に ぴったり 寄り添う。心地よい。安心できる。

その当時、私は きき馴染みのピアノ曲や 交響曲ばかり しがみつくように 聴いていた。




レポートを 全て書き終えた後 
私は 再び 歌詞入りの音楽を 受け入れ、楽しめるようになった。

それも 以前より その音楽を より深くかんじ ゆるす 自分 に 気づいた。


うちのブログで よくMV動画を 採用する 椎名林檎 女史は 言う。

   「 歌は いらない。
    歌が 入ると 風俗になる。
    歌が 入ると そこに 目がいってしまう」
のだと。

  彼女の 音楽の原点は クラッシックだ。

数年前から お気に入りの king Gnu のメンバー
常田大希、井口理 両氏は 東京藝大で 音楽(チェロ、声楽)を 専攻していた。




実のところ 
私も 小学生の頃 ピアノを 少々
中高校 6年間 がっつり ブラスバンドに あけくれた人間である。

それなりの 音楽的基礎を 備えてはいる。
だが それとは ちがう、私には 絶対音感のような能力ではない「なにか」

音に関して ひととは コトなる能力
文字や 数字に 色を見る 共感覚「シネスシージア」に 近いものが あるらしい。


  Röslein, Röslein, Röslein rot,
  Röslein auf der Heiden.


  ・・・・・・うすうす かんじてはいた。


画像同様 私は 何故だか 
動画映像の イるイらないの 是非を 瞬時に 直 観 するのだ。



Daisy Gray - Wicked Game -


7年前 ある講座テキストを 読み、

ひじょうな 感銘をうけた私は ハンナ・アーレントの

  「全体主義」について 当時の エセーで 取り上げた。(現在は クローズ)


人と人との ふれあいが 希薄になり
     ばらばらに 感じられる いまの 「私」たちである。


見通しのたたない 不安定な情況
  ( 経済格差の拡大、破綻寸前の社会福祉政策、予断を辞さない
    近隣諸国との摩擦、先進国、途上国による二極化する世界情勢等 )
に おいて

生じる 強い 不安・緊張状態、危機感 から 逃れるべく

ひとは なにか すがれる様な 救済ブツ
ダレかが 助けてくれる 分かりやすい 単純な 世界観や ものガタリ を 渇 望 する、とあった。


  


   Röslein, Röslein, Röslein rot,
  Röslein auf der Heiden.



ここに集う 私たちは 
  ソレ を スピリチュアルや 精神世界に 求めている。

 古今東西の 聖人君子、著名な 覚者賢者や師、 スピ団体、
 有用な書物や その教え、セミナー、セッション、 瞑想会 等々
 
 「同じ」有志、想いを「同じ」くする グループメンバーに 取りすがる。

そうするコトで、
ゼッタイ的な 安心感 を 求め得る、 
様々な問題を すべて一掃 する、してくれると 妄 信 する。
 




単純な解決策に 心奪われたとき
  「 現状を俯瞰する 」 視点の 大切さを

アーレントの全体主義をひいて その講座の師は 切々と こう述べられた。


 何かを知り始め 下手に「分かったつもり」になり

 陰謀論じみた 世界観 や
 単純明快な 物語的世界観 に 囚われ はまってしまう
 

 (全体主義)とは、単に 妄信的な ひとの 集まりでなく

  「 自分は 分かっている 」と 
  信じている、 思い込んでいる
 ひとの 集まりである、
と。




神軍平等兵・奥崎謙三、
過激すぎる暴力的正義 映画『ゆきゆきて、神軍』予告編



      #

Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.



第二次大戦下のドイツ

強制収容所の 塀の向こうで
ユダヤ人を 大量虐殺するだけでなく

彼らの名前も 思いも
人格も 個性も 「なかったこと」 にする

彼らの存在した 事実すら 抹消した 黒歴史

かつて 雄々しく誇り高い
ゲルマン民族の 「優生神話」 を 掲げ邁進したナチス

その末裔である 「善良」 「由緒正しい」 ドイツ国民が いた。





ユダヤ人など 「 はじめからなかった」 世界 に 仕立て上げるべく

  善良な にんげんが 善良でない 非にんげんたちから 
  つぎつぎ ひととしての 生存権 や 命、魂を 強奪していった。 


つらい現実 を 忘れさせ、 自分たちが のぞむ 見たい現実 を 見せてくれる

ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の 凱歌のごとき

  よきプロパガンダの イイ通り、なすがまま よき神の讃美歌を 奏上し
   甘美な トータルの 「 全き 美酒スピリット 」 に みなが 酔いしれた


   Sieg Heil  ナニでも 貪り喰える 
至上至高なる、えいえんの 幻想ユートピア は 嗚呼、この地上に 確かに 存 在 した。



LOUD SILENCE - tribute to The Zone of Interest 



      ♮

Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.



かつて 私は リアルに 演奏者プレイヤー で あった人間である。


    現在 言葉うた の おくり主として 
    ふかちな うた の うけとり主として

その 八雲わか を 会得するものとして 言明する。 

 わたしは 私に与えられた
 このちからを「ち」に 反する目的に 用いるつもりは ない。




      #

Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.



スピリチュアルの
短絡な物語的 世界観への 傾倒 妄信 コミットメント
尊師 グル、覚者印で ハク付けした 紋切り定型句による 刷り込み

御親切に 下々へ ご教授くださる
モノ知りたちの 多弁な解説 解読 試論だの
他思想の 流用借用による 甚だしく曲解逸脱した 自己啓発的 幸福論、


何でも 「自我のせい」 
すべて 「マインドのせい」にする ワカリヤスイ 単一的な教え
事情も よくたださぬ 思考停止の「ありのまま」の 在り方で あればいい

貴方も 私も 神様仏様ゆえ 
阿羅漢 覚醒 ナニを くぅ クウ くぅ 喰う
無責任な 一義的善行、形骸化した ソコの浅い 冥想求道の数々


           

   言うだけなら・・・・・・ ソンなこと
  クチが 有りゃ 誰でも イえる事だ・・・ ・・・・・


「Forgiveness」


「この世界は実在しない」
「すべて 夢である」

ものごとを 真摯に 観ることなく

自慰マスターベーション 的 良言至言を ヨクたれ流し、よく信じ込み、
否定的想念、 よくない対象物を 「すべて」なかったことにする、

真理真実を ヨク利用し続ける「その謂い」 一体 どういう 「マ・コト」であるか。


真の 自己イイナリ は スピリチュアル・精神世界 の 仮想現実ユートピア に い続け

責任転嫁も 甚だしい 霊性、大悟覚醒だか、
エゴだかしれん、神の子 御仏に等しい 無辜なる 自分サマ だ。 


斯様な 選ばれし世の 日のもと ニッポン人なる 我々と
かつての ナチス独逸は かつても いまも ひとしく「同じ」 畜 生 同志で あろう。





悪 は 「 陳 腐 」 で あ る 。

ナチスの アイヒマン裁判から 克ち得た
ハンナ・アーレントの 言葉まこと である。

つよく質実な 彼女の心眼にならい 私も 彼女の言葉に 応えたい

自己を 徒に 正当化し、
繰り返し イイ続けるしかない
すべての スピリチュアル・精神世界のものへ

我々の悪は「陳腐」であり
我々の善も また 同じく「陳腐」である。


自らを かえりミず、
観ることを 意志しない にんげんの言葉は、

(白か黒か) ニンゲンの「智」
(闇か光か) 二元の限界「陳腐」な 善悪観 なる 上っ面の 大言壮語ナルシズム に 堕す。

 そのイイ、 凡庸な 動物イきもの の ヨクある アリふれた空想、ただ の 無 明ヨイ に すぎぬ。





「イイ」スピリチュアル・精神世界を 要しない
いまをいきる 「自我にんげん」 を 私は それ故 「あえて」のぞんで ココに「いる」

  サヨウなら かつてのひとよ。

せいなる 貴方たちが もとめる 「チ」 へ 
とく 次元イコウ できるよう 貴方の時空間を ここから 更に速め その 願望イン・シ を かなえよう



         ♭

   Röslein, Röslein, Röslein rot,
   Röslein auf der Heiden.



さようなら かつてのかみよ サヨウナラ。



【字幕】ベートーベン交響曲第9番第4楽章 『歓喜の歌』 合唱