天に在るべきは天に
地に在るべきは地に
元の御座に還り給へ
sasakure.UK「LIN NE KRO NE」 feat.lasah
ゴールデンウィーク前
観たい展示があり、久方ぶりに なじみの美術館に 行った。
人気の画家とあって
週中にもかかわらず 館内は よく混んでいた。
何を のぞんで
美術館にやって来た 人たちなのだろう
チケットを買い求める人の列に並ぶ
自分の番を 待つ ひとときの 無聊
浮かんだ 問 い は 薄暗い室内から ふと 見遣る
窓向こう もえたつ樹々の新緑に 霧散した。
ただしい問いに 答えられるものは
ただしい答えを 知っているという ウソツキ で ある。
ただしい答えを 知っているという ウソツキ で ある。
私ではない 私のうつしゑに 浴する
言葉の要しない このかくりみ の交感 を 私は 殊の外 愛していた。
言葉の要しない このかくりみ の

子供の頃 絵を描くのが 好きだった。
ノート や スケッチブック
新聞 折込広告の裏紙 ときに 本の裏表紙まで 描き及んだ。
まっさらな 空白が 嬉しかった。
描く事のできる 何かを 見つけると 胸が 弾んだ。
上手く 描けると 楽しい。
時を忘れ 我を忘れて 私は 描き続けた。
カミの上では 思いの通り 好き勝手が 出来る。
ノート や スケッチブック
新聞 折込広告の裏紙 ときに 本の裏表紙まで 描き及んだ。
まっさらな 空白が 嬉しかった。
描く事のできる 何かを 見つけると 胸が 弾んだ。
上手く 描けると 楽しい。
時を忘れ 我を忘れて 私は 描き続けた。
カミの上では 思いの通り 好き勝手が 出来る。

拙い図画にも かかわらず よく評価されるので
大人になったら 絵描きになるものだと 漠然と 思っていた。
しかし 私は 絵描きには ならず 一介のサラリーマンに なった。
世慣れると
様々の楽しみを ひとは 覚え
社会性というものを 要する 生きもの だ。
「 いかされたい 」「 よく思われたい 」「 評価されたい 」
「~
ソレは 凡庸な人間の しぜんな 性情 だったらしい。

世の中には 沢山の 画家が いて
沢山の 画家のたまごが いた。
彼らと 肩を並べ 絵を描いているうち 私は 理 解 した。
彼らのように
絵を描かずにはいられない 情熱 も
生涯をかけ 描き続けたい
絵に 全てを賭けた 画家の
魂を揺さぶる 渾身の絵を 眼にするたび 思い知らされる。
私には 絵を描く

「ない」ものは 描けぬ。
Qu'il vienne, qu'il vienne,
Le temps dont on s'éprenne.
「ない」ものに 描く 必要は ない。
「ない」もののために 生きる 価値は ない。
「ない」ものに 夢も希望も 持てやしない。
Qu'il vienne, qu'il vienne,
Le temps dont on s'éprenne.
真実とは かくも 残 酷 な ものよ。
Qu'il vienne, qu'il vienne,
Le temps dont on s'éprenne.
「ない」ものに 描く 必要は ない。
「ない」もののために 生きる 価値は ない。
「ない」ものに 夢も希望も 持てやしない。
Qu'il vienne, qu'il vienne,
Le temps dont on s'éprenne.
真実とは かくも 残 酷 な ものよ。
エゴン・シーレ「 座る裸の男(自画像)」


Ô Reine des Bergers,
Porte aux travailleurs l'eau-de-vie,
Que leurs forces soient en paix
En attendant le bain dans la mer à midi.
Porte aux travailleurs l'eau-de-vie,
Que leurs forces soient en paix
En attendant le bain dans la mer à midi.
絵描きにならなくて よかったと 思っている。
「好き」で イられる
無邪気な夢は 夢のままに ある方が よい。
無邪気な夢は 夢のままに ある方が よい。
「好き」が 覚め 無慈悲 な 真実と 対峙するより
「 ウソが この世のゲームを 戯れているんだという ウソツキ 」
とか いって、この世の中の「全て」を 鼻であしらえよう
本当を 求めていない
ウソツキには 粉飾の言分を 多分に要する。
それが このヨの ならい 「
Daiki Tsuneta - N.HOOLYWOOD COMPILE IN NEW YORK COLLECTION -
人並みの 社会人になれた頃
岸田劉生の絵を 観た。
岸田劉生の絵を 観た。
岸田といえば 「麗子像」で 有名な あの画家だ。
相当の変人だったらしい。
つくり手と 創作物との間に 結びつかない因果 が 有ろうと無かろう
ひとは 自分の頭に収まるよう 都合のよいモノで 解釈 したがるものである。
「岸田の首狩り」「千人斬り」
と 言われた頃に描かれた ある絵の前で
私は 自分のついた 嘘 を 全て 画家に 見透かされているように感じた。
相当の変人だったらしい。
つくり手と 創作物との間に 結びつかない
ひとは 自分の頭に収まるよう 都合のよいモノで 解釈 したがるものである。
「岸田の首狩り」「千人斬り」
と 言われた頃に描かれた ある絵の前で
私は 自分のついた 嘘 を 全て 画家に 見透かされているように感じた。

ふかい 漆黒の背景から 浮かび上がる
深淵な肖像の 真直ぐな 双眸 に 言葉は 要さぬ
「なにも知らないというウソツキ」 よ
確かな 「そのもの」を 捉える 画家の
WHO ARE YOU?
斯様な問いを ゆるす
ウソツキ は 言葉を 失うが
ウソツキではない 正直者 は 多弁だ。

正直者は 神仏の名を 名乗り、 高次の
ツカエル 数多 の名士の イイ引用は 自身が 正直者たる 証しだ
ツカエル数多 のひとを 自分と 同じ正直者に シたてあげようと
「愛・平和・調和・智慧・安心・歓喜・自由という ウソツキ」の 真実を 教える。
正直者は 自我という 便利な定型思考 で ツカエナイものを 切り捨て
真我という 全き観念理論 の 論理論法で 全て 定義し
他我にかわって 間違えない 正しい解答解釈 してくれる
「すべてを知っている ウソツキ」で ある。
ツカエル
「愛・平和・調和・智慧・安心・歓喜・自由という ウソツキ」の 真実を 教える。
正直者は 自我という 便利な
真我という 全き
他我にかわって 間違えない 正しい
「すべてを知っている ウソツキ」で ある。

己が 本音 を 聴 せぬ者ほど
ウソツキではない 自分を 好く 主張しなければ イけない
自分のイに沿わぬ 他者を 善く 粛正せねば イられない
「聖者やさぎ師という ウソツキ」の 自分である。
ありのまま
あるがままという「非ウソツキ」
聖者という イイナリの 「非ウソツキ」
さぎ師の イイナリではない 「非ウソツキ」 なってイル
「人間という ウソツキ」よ
自分のイに沿わぬ 他者を 善く 粛正せねば イられない
「聖者やさぎ師という ウソツキ」の 自分である。
ありのまま
あるがままという「非ウソツキ」
聖者という イイナリの 「非ウソツキ」
さぎ師の イイナリではない 「非ウソツキ」 なってイル
「人間という ウソツキ」よ
非ウソツキの その 自分 は
「 本当の自分」というモノを ヨク 繰り返すだけの「自分」だろ?
「 本当の自分」というモノを ヨク 繰り返すだけの「自分」だろ?

何度も 説かざるを得ない 「釈迦という ウソツキ」
何度も何度も 明かさざるを得ない「キリストという ウソツキ」
神も仏も 真実も「悟りや迷いという ウソツキ」の 御前は
何でも ヨク イえる
実に ご立派な 自分様 に ナれただろう?
自分に 都合の悪いと 自分と コトなる 「ウソツキ」と イイあい
自分に 都合の良いと 自分と 同じ 「非ウソツキ」と 分かりあえる
何度も何度も 明かさざるを得ない「キリストという ウソツキ」
神も仏も 真実も「悟りや迷いという ウソツキ」の 御前は
実に ご立派な 自分様 に ナれただろう?
自分に 都合の悪いと 自分と コトなる 「ウソツキ」と イイあい
自分に 都合の良いと 自分と 同じ 「非ウソツキ」と 分かりあえる
「その自分」を 繰り返したい
「私」たちは みな「私という ウソツキ」
「あなたという ウソツキ」に 過ぎぬモノだ。
「私」たちは みな「私という ウソツキ」
「あなたという ウソツキ」に 過ぎぬモノだ。
椎名林檎 「私は猫の目」
Qu'il vienne, qu'il vienne,
Le temps dont on s'éprenne.
常設の絵画を 観終わり
階下に降りる フロワー角の アートショップで
私は 岡上淑子と藤野一友の画集を 買った。
階下に降りる フロワー角の アートショップで
私は 岡上淑子と藤野一友の画集を 買った。
エゴン・シーレの画集も 手に取ったが 棚に戻した。
「イらない」
「イらない」
Qu'il vienne, qu'il vienne,
Le temps dont on s'éprenne.
彼の画集を 欲しいと思う「何か」 が 失せていた。
Le temps dont on s'éprenne.
彼の画集を 欲しいと思う「何か」 が 失せていた。
今の私は もう
彼のひとを 必要としなくていい 自 分 なのだと 知った。
彼のひとを 必要としなくていい 自 分 なのだと 知った。

エゴン・シーレ「隠者たち」
本当に 非二元の次元に 突入したら、ただ事では 済まなくなる。
歴史を見ても、多くの 致命的な事故が 起きている。
現代の自称覚醒者が 体験する 非二元・ノンデュアリティの境地は、
アストラルの 自他同一化の法則が もたらす 「疑似ワンネス体験」 と言える。
現代人の 多くは 「丹田」 が 出来上がっていない。
スピリチュアル実践者も 同じだ。
姿勢が 崩れている。肚も 据わっていない。
丹田は、眉間のチャクラと 密接な関係がある。

岸田劉生「自画像」
眉間のチャクラは
真理を見通す 洞察力に 関係しており、高度な思考力を 司っている。
だが、丹田が 確立していない限り、
その洞察力も 思考力も 一つのライン上で コントロール することが 出来ない。
現代の自称覚醒者が 思考を 否定し
ノーマインド (無思考)を 強調するのは、
丹田が 出来ていないが 故に、頭が すぐ パンクしてしまうせいだろう。
彼らには 透徹した 知性も 理性もない。
真理を見通す 洞察力に 関係しており、高度な思考力を 司っている。
だが、丹田が 確立していない限り、
その洞察力も 思考力も 一つのライン上で コントロール することが 出来ない。
現代の自称覚醒者が 思考を 否定し
ノーマインド (無思考)を 強調するのは、
丹田が 出来ていないが 故に、頭が すぐ パンクしてしまうせいだろう。
彼らには 透徹した 知性も 理性もない。

岸田劉生「二人麗子図 / 童女飾髪図」
口を揃えたように 彼らが
「マインドは 分離しか生まない」 と 中傷するのも
要は 彼らの思考力が 「只の雑念思考」 として 作用している 機能不全の 地頭によるものだ。
メンタル体から 湧き出る 高度な 理智性 を 自称覚醒者らは 知らない。
個人的な頭の問題のくせに、その原因を省みず
不特定多数の人間に 当てはめるのは、最大級に 無礼な話である。
頭のパンクした自分を 棚に上げ
全人類の頭を指差して 「お前ら全員 アホや」 と 罵ったも同然だ。
2015.8.2 R K
「マインドは 分離しか生まない」 と 中傷するのも
要は 彼らの思考力が 「只の雑念思考」 として 作用している 機能不全の 地頭によるものだ。
メンタル体から 湧き出る 高度な 理智性 を 自称覚醒者らは 知らない。
個人的な頭の問題のくせに、その原因を省みず
不特定多数の人間に 当てはめるのは、最大級に 無礼な話である。
頭のパンクした自分を 棚に上げ
全人類の頭を指差して 「お前ら全員 アホや」 と 罵ったも同然だ。
2015.8.2 R K
「語り」は「騙り」だ。
私の師は そう 仰っていた。
語れば 語るほど
言葉は 「そのもの」から 遠ざかる。
言葉に とって代わられる
「そのもの」は 「そのもの」でなくなってしまう。ウソになる。
「そのもの」は 言葉ではない。
言葉ではないものが 何故 言葉で わかるのだろう?
何故 言葉で わかりあえるのだ?
私の師は そう 仰っていた。
語れば 語るほど
言葉は 「そのもの」から 遠ざかる。
言葉に とって代わられる
「そのもの」は 「そのもの」でなくなってしまう。ウソになる。
「そのもの」は 言葉ではない。
言葉ではないものが 何故 言葉で わかるのだろう?
何故 言葉で わかりあえるのだ?

(深層心理)だとか (空性)だとか
(根源神)だとか そんなもん、
言葉は 「そのもの」ではない。
「そのもの」を いいあらわす為に有る イ場所
表現の媒体 ただのうつわ。代用。代わりだ。
「そのもの」とは 根本的に コトなる ウソ なのだ。
ウソである 言葉のイイで
何もかも 全て 分かりあえるものらとは
結局のトコロ どうしようもない ウソツキ というコトだ。

語れば 語るほど
私は 自らを 騙り、どうしようもない自分を 晒すハメになる。
(本当の自分)だとか、
(そうでない)だとか イえる つくり事 ウソツキの自分だ。
もの語りの このやるせない 構造形態に 私は しばしば 絶句 する。
「私は見た 私は直視したという ウソツキ」を カタる 非ウソツキ
全きウソにカイする「ウソ本来なしという ウソツキ」の 非ウソツキ
「悟りを開いた 解脱した 宇宙意識になったという ウソツキ」の
おタガイさまで サカりあえる
非ウソツキが 何故 に まだ 此処にイル

言葉を 尽くせば 尽くすほど
イジョウに 「そのもの」を 弄するコトになる。 自分と同じ アホ を 殖やす。
イジョウに 「そのもの」を 弄するコトになる。 自分と同じ アホ を 殖やす。
世界を 変えたければ
自分の頭を よくしろ。
そう諭した 私の いちの師は 「理のひと」だった。
詭弁を 認知 する者が ナニを スキ好んで ココで
ペラペラ べらべら 無節操に カタって イられる「自分様」か?
もっと マシなウソを ツキ給えよ
希望、幸福という ウソツキ
「NO」なしの ウソツキども
希望、幸福という ウソツキ
「NO」なしの ウソツキども

自他の セイを しんに 全うせず
ヨク 回避しつづけ イき延びし者は 全て
この先 己が
Qu'il vienne, qu'il vienne,
Le temps dont on s'éprenne.
神も 仏も 悪魔、死神
世界、社会 国 地球、宇宙のみならず
イ次元 タ次元 それらは みな ひとしく 同じ コト・ナリ
ワレらは
「ウソツキという ウソツキ」の
コトのバに ありし イきもの 故
「ウソツキという ウソツキ」の
コトのバに ありし イきもの 故
大栗 裕 - 吹奏楽のための「神話」(天岩屋戸の物語による) -

नमो भगवतोष्णीषाय ॐ रु रु स्फुरु ज्वल तिष्ठ सिद्ध लोचने सर्वार्थ साधनीये स्वाहा



नमो भगवतोष्णीषाय ॐ रु रु स्फुरु ज्वल तिष्ठ सिद्ध लोचने सर्वार्थ साधनीये स्वाहा
腹時計に 促され 美術館を出ると
外は しろ 一面
炎天の 初夏のような日差しが 刹那 私から 色彩を奪った。
目を 伏せ 日の当たらない通りを 選んで 歩く。
コロナ禍の制限を 解かれ
我が世の春を 謳歌する人たちが いたるところに 溢れていた
いろ鮮やかな 「私 」の 世 界 は
戯れ踊る 千々の 光彩と 陰翳の おマツリだ。

切れ目ない 人いきれを かいくぐり
ようやく お目当ての 韓国料理屋に たどり着いた 私は
イジョウの熱気に のぼせ上った勢いのまま
血の色をした 真っ赤な スンドゥブチゲと 激辛ビビンバを 頼んだ。
料理を 待つ間
大ジョッキの 生ビールを あおりながら
「 舞台を 画面として、五体で
そこに 絵が
と 仰った ある舞踏手の言葉を 反芻した。
ふと 美術館を出る直前に 観入った
紙上を 跳ね踊る 禅僧の かすれた肉筆の文字が まなうらを 掠める。

岸田劉生「道路と土手と塀」- 重文 -
私には 私の
貴方には 貴方の
ひとには ひとの それぞれ の イき方が あるのだ。
貴方には 貴方の
ひとには ひとの それぞれ の イき方が あるのだ。
老婆は 聖者に
正真正銘の真剣さで たずねた
「どうしたら この地獄から 解放されましょうか?」
聖者は 素直に答えた
「地獄へ落ちろ、クソ婆ばあ!」
そういうウソツキ
正真正銘の真剣さで たずねた
「どうしたら この地獄から 解放されましょうか?」
聖者は 素直に答えた
「地獄へ落ちろ、クソ婆ばあ!」
そういうウソツキ
なるほど。
真昼に 呑む酒は 背徳の よい味だ
実に 滋味 深いものだと 私は 思った。
真昼に 呑む酒は 背徳の よい味だ
実に 滋味 深いものだと 私は 思った。
Kento Mori - Dragon Fly ft. 石見神楽(日本遺産)
♨紫の文(日本語)は ダンテス・タイジの詩
「地獄へ落ちろ、クソ婆ばあ!」からの 引用デス♨