
「 小学校に 入学したての頃の話です。
国語の時間
字をかく お稽古が ありました。
鉛筆の持ち方を ならい、書く姿勢を ただして
たて。たて。
よこ。よこ。線を かいた。
その次は ジグザグ。
たての ジグザグ
よこの ジグザグ。ジグザグ、ジグザグ。
鉛筆の持ち方を ならい、書く姿勢を ただして
たて。たて。
よこ。よこ。線を かいた。
その次は ジグザグ。
たての ジグザグ
よこの ジグザグ。ジグザグ、ジグザグ。
面白い。
ジグザグの次は ぐるぐる巻きです。
うえから したに 向って みぎの ぐるぐる ひだりの ぐるぐる。
ひだりから みぎに 向って うえの ぐるぐる したの ぐるぐる。
次に みぎと ひだり、
うえしたの ぐるぐるを
交互に かくよう いわれました。
ジグザグの次は ぐるぐる巻きです。
うえから したに 向って みぎの ぐるぐる ひだりの ぐるぐる。
ひだりから みぎに 向って うえの ぐるぐる したの ぐるぐる。
次に みぎと ひだり、
うえしたの ぐるぐるを
交互に かくよう いわれました。
紋の拍動 | Kamon Beat
その通り かこうとするのだけれど
何故だか、私の手は 動かない。
何をかくか わかってる。
なのに かけない。
・・・・・・なんで ?
「私」 なぜ かけないの?
Πρὸς δογματικούς
どうして いいかわからず まごまごしながら
お手本と似ても似つかない いびつな ぐるぐる巻きを かいた。」
わ か ら な い。
何故だか、私の手は 動かない。
何をかくか わかってる。
なのに かけない。
・・・・・・なんで ?
「私」 なぜ かけないの?
Πρὸς δογματικούς
どうして いいかわからず まごまごしながら
お手本と似ても似つかない いびつな ぐるぐる巻きを かいた。」
わ か ら な い。

『 ひとは よく「わかる」「わからない」という。
この「わかる」「わからない」は 一体 どういうコトなのだろう。
「考えるな」「思考マインドを捨てろ」 という スピ・精神世界関係者は 多い。
彼らの言動を 観察してみると
「考える」「思考」するマインド
↓
「自我」のする事
↓
「自我」のする事を している者は みな「自我」である
・・・といった ワンパターン 思考ロジックが キカイ的 に 適用されている。

その上、そんな自分を 正当化 できる
よいセンセイや
ネットの よい誰ソレさんを イジョウに 崇め奉り
古今東西の 聖賢の言葉、著名な書物を イジョウに 信仰しているのだ。
そんな イイ自分に よく シタがう
すべて 分かりやすい ワンパターンな
公式、形式、テンプレート、杓子定規に おさまる
(ある)何かを よく信じる、信じてくれるもの だけ を よくのぞんだ
イジョウな 盲信家 ほど 自分の ヨイ信仰に 固執する。
ジシンを よく脅かすものを ヨク恐れ、ヨク憎む、 実に ヨイ
「あいしていたのに」
「わからない」 「考える」ことが 駄目で、「思考を捨てる」ことが 善い事に 何故 なるんだろう?
「わからない」 センセイや 誰ソレさんのいう事、古今東西の 聖賢の言葉や
著名な書物が、本当に すべて「よい」 すべて「正しい」のか。
「わからない」 「自我」というひとは
「自我」と「自我」ではない
よい自分、本当の自分、正しい自分が「わかる」自分で
すべて「わかった」イイ自分を イジョウ信仰 しているようだが・・・・・・
ハ テ ?

おおう♡ カモねぎ発見!
「わかる」「わからない」は
どのように 「ミ」 られるか、 ジブンなりに 考えて 「みる」
どのように 「ミ」 られるか、 ジブンなりに 考えて 「みる」
前回、私は 「自分大好き人間である」と 述べた。
これを 別の 観方で 述べるなら、
「自分大好き人間である」と いう 私の言葉は
「ある」を「有る」もの に うつし変え 「アル」 プロセスを 経た でっち上げの
なまみの自分を 言葉の次元レベルの
↓
言葉の「有る」次元レベルの 法、ルールに したがって
↓
自分を「自分大好き人間」にした イイ仕分け、
「自分大好き人間」と見做した イイ価値判断 が 行われた イイ

・・・カモにされまシタ。泣
ここが 言葉にある 「いち」の盲点、急所の 「ヒ」 だ。
私たちが ここで扱う言葉のすべて 一言一句
何かしらの 法のモト
ルール通りの 仕分 が 行われた 事後
自分なり の イイ文言が 既に 成っているモノ
私たちが ここで扱う言葉のすべて 一言一句
何かしらの 法のモト
ルール通りの 仕分 が 行われた 事後
自分なり の イイ文言が 既に 成っているモノ
そのものではない 作り物の 作り事だ。
虚構。それも 過去のイ物、物化したモノで 存在する。物体 だ。
言葉を通じて ここに「居る」 私たちの言動は
必ず 各々 何かに 拠って「要る」 自分の イイ分けの明かし である。
よく成らなければ「イ」きられない
イイ自分になって「イ」得る 「私」タチは 二足歩行の 動物 で あるから。』
虚構。それも 過去のイ物、物化したモノで 存在する。物体 だ。
言葉を通じて ここに「居る」 私たちの言動は
必ず 各々 何かに 拠って「要る」 自分の イイ分けの明かし である。
よく成らなければ「イ」きられない
イイ自分になって「イ」得る 「私」タチは 二足歩行の 動物 で あるから。』

「 かきかたを習った その日は
授業参観日。 母が 来ておりました。
まわりの子みんなが 難なくできるのに
まともに かけない 私をみて
母は ひどくショックを 受けたらしい。
家に 帰ると かけなかった ぐるぐるの書き取りを
その日から 毎日 するよう いわれました。
どれぐらい 練習したでしょうか・・・・・・
自由に かけるようになるまで
かなりの時間が かかったように思います。
・・・今でも
ふと 思い出して
ときどき あの ぐるぐるを かく。
自由に かけるようになるまで
かなりの時間が かかったように思います。
・・・今でも
ふと 思い出して
ときどき あの ぐるぐるを かく。
よどみない線が
流れる川のように 真っ白い ノートを 両分する。
知らない人から 見れば ただのぐるぐる巻きです。
思いを込め 丁寧に 綺麗に かいたとしても 意味のない ただの線。
あのときの
甘くて 苦い想いを 語ることも
伝わることも かなわない どうでも いい落書きでしょう
流れる川のように 真っ白い ノートを 両分する。
知らない人から 見れば ただのぐるぐる巻きです。
思いを込め 丁寧に 綺麗に かいたとしても 意味のない ただの線。
あのときの
甘くて 苦い想いを 語ることも
伝わることも かなわない どうでも いい落書きでしょう
朝に 死に、夕べに 生まるるならひ、
ただ 水のあわにぞ 似たりける。
ここに 記される言葉も 同じ。どうでもヨイ ただの記号です。
「よどみに浮かぶうたかた」
そんな あはれなもののための これは 「私」の ワークみたい。」

『 何かを 言葉にする、言葉を使って 表現する行為は
(ある) 何かを モノ言葉にする為
そのモノに成れるよう 決まり通りに「分けた」
(有る) 前提に 成り立つ イイ
各々の 「ある」
このモノ の 決まり や 前 提 を
神 や 仏、 真理真実、もしくは
本当の自分 真我、魂、覚醒と 見做した イイ自分の フリ「わけ」
引き寄せの法則や 鏡の法則のオオモト、 因果律という コト「わけ」と
一体化 しているため 見落としやすく、気づきにくいモノになっている。
神 や 仏、 真理真実、もしくは
本当の自分 真我、魂、覚醒と 見做した イイ自分の フリ「わけ」
引き寄せの法則や 鏡の法則のオオモト、 因果律という コト「わけ」と
一体化 しているため 見落としやすく、気づきにくいモノになっている。
【歌詞を直訳で】厨病激発ボーイ【描いてみたら大変な事になった】
「わけ」と あるように
(ある)を(有る)モノに
「自分大好き人間である」とした 私の
何かしら 自分なりの 因子(原因、素因、動因・・・)あっての 結果
イイ「自分大好き人間である」に 成った、(ワケ有り)の「私」だ。
「 道が 一を生じ、一が 二を生じ、
二が 三を生じて 万物を作る 」と 老子が 言ったように
イイ言葉を 発すれば 自動的に
イイ物体、イイなりでは「ないモノ」も 等しく 生じる
ここは 物の理 が はたらく 次元「コトのバ」だから。

わし 只今 バケ学を 専攻ちゅう
同じ言葉には 違う言葉、よい言葉 と わるい言葉、
上 ⇔ 下、有る ⇔ 無い、裏 ⇔ 表、 正しい ⇔ 間違い、ゼロ ⇔ イチ
・・・・・・と イ 得 る 対なる「意味」と「価値」の言葉が 派生する
言えば 言うほど
「ある」何かは
「有る」何モノかに 転化し、分かれ
有る「いみ」を 生み 有る「かち」を 持つ
有難い「分かる」モノ
「有る」万物へと バラバラに 分離、分派 してゆくのだ。
そんな 分かれた バラバラの言葉 で
すべて「わかる」 よく「わかった」ものならば 文 字 通 り
言葉で「分かる」コト、 バラバラの「分かった」自分 に 成るだろう
ここが 言葉による 「ニ」の急所、盲点の 「イチ」だ。
「有る」万物へと バラバラに 分離、分派 してゆくのだ。
そんな 分かれた バラバラの
すべて「わかる」 よく「わかった」ものならば 文 字 通 り
言葉で「分かる」コト、 バラバラの「分かった」
ここが 言葉による 「ニ」の急所、盲点の 「イチ」だ。

マカ ふかしぎ「キ」ょうかい(笑)
モノの物理が 自動的に働く
現象世界の「ワレ」であり 「ワレワレ」だ。
「見ての通り」
自分の事しか「私」は かいていない イっていない
自己肯定を し続けている自らを分かった みな イイ自分 だろ。笑
イイ自分である必要が なければ 言わないなあ 「なにもする必要はない♡」ヨクのない自分ならね。
言葉で 自分を イイ表わす イ ジ ョ ウ
「ワレワレ」の 行為じたい 知覚、認識、価値判断、
ジャッジメント よい「判決」が
既に 下された イイなりの結果だ 。
イイ「自分 」を 否定 出来ない。 原理上、ソレは あり得ない 。
現象世界の「ワレ」であり 「ワレワレ」だ。
「見ての通り」
自分の事しか「私」は かいていない イっていない
自己肯定を し続けている
イイ自分である必要が なければ 言わないなあ 「なにもする必要はない♡」ヨクのない自分ならね。
言葉で 自分を イイ表わす イ ジ ョ ウ
「ワレワレ」の 行為じたい 知覚、認識、価値判断、
ジャッジメント よい「判決」が
イイ「
I am as free as nature first made man,
Ere the base laws of servitude began,
When wild in woods the noble savage ran.
John Dryden's heroic play「The Conquest of Granada」
「何 故」
真を 語り 、
言わされ 、書かされる 、
許されて トウゼンの 上級人間 が 「真実」を
わざワザ よくカタられる モノで 有るのか?
わざワザ よく

Πρὸς ῥητορικούς
問いのない よく「分かった」人間 様 ならば 考えない。
「神人合一」「ワンネス」
「現臨」「覚醒」・・・等々の
イイ言葉と べったり一体化し、 自身の ヨイ言葉を デキ愛する。いい続ける。
驕れる人も 久しからず也
ひとへに 風の前の塵に同じ
よい創造主 の イたり、 まさに モノのケら による 末法末期の至り、と 成らん。 』
「神人合一」「ワンネス」
「現臨」「覚醒」・・・等々の
イイ言葉と べったり一体化し、 自身の ヨイ言葉を デキ愛する。いい続ける。
責任転嫁の 口実 は さらなる イイ自分、イイ他者を 欲望し、
イジョウに 執着し ヨク情した言葉 の イイを 見せたがる 弱肉強食 の テンケイだ。
イジョウに 執着し ヨク情した
驕れる人も 久しからず也
ひとへに 風の前の塵に同じ
よい
「 スピ・精神世界のみちに入って つくづく思う
「わからない」ことだらけの 私は
何かを 学べる 「わかる」ところに いたい自分みたい。
わからない事 が わかる
出来なかったことが できるようになる
わたし 嬉しい。楽しい。
私みたいな お馬鹿さんには 学校のような所は 天国のよう。
ぐるぐる巻きのお話しと 同じ いちねんせいのある日
たまたま 担任の先生が なにかの用事で 居られず
代わりに 別の先生が 午後の授業を みてくださった事が ありました。

先生は 理科のセンセイでした。
私 理科の時間が 大好きだった。
虫眼鏡で いろんなものを 大きくして見たり
よく飛ぶ紙ヒコーキや たくさんのシャボン玉を 作ったり、
朝顔の種を 植えて育てて観たり。
おままごとより うーんとリアルな 面白い遊び。
どんな楽しい遊びを 教えてくれるんだろう
わくわくしながら 待っていると
センセイは 教えるのではなく 私たちに こう聞きました。 」
ねえ、みんな。
にんげん、って何だと思う?
私 理科の時間が 大好きだった。
虫眼鏡で いろんなものを 大きくして見たり
よく飛ぶ紙ヒコーキや たくさんのシャボン玉を 作ったり、
朝顔の種を 植えて育てて観たり。
おままごとより うーんとリアルな 面白い遊び。
どんな楽しい遊びを 教えてくれるんだろう
わくわくしながら 待っていると
センセイは 教えるのではなく 私たちに こう聞きました。 」
ねえ、みんな。
にんげん、って何だと思う?
Debussy plays Debussy: 「Children's Corner」Golliwogg's Cakewalk (1913)
『 さて。 こうして
言葉 で「分かる」
「分かり合う」とは
どういうことなのだろう。
イイ自分 の 「本当」の 言葉、
イイ自分たち の
そのモノの 法(文法・常識・習慣…etc.)による 分類、分析、分別した よい
言葉を使うひと 特有 の イイ
そのひとである 「かち」が 有り「いみ」の 有る イイ

バラバラの 言葉 で
「わかる」「わからない」と イえる
通じ合える ジタイ を つぶさに 観察すれば
「わかる」「わからない」お互いに 共通 する
同じ「有る」 イイ仕分 と
同じ「ある」 イイ大本 を 所有して(イ)る 自分の 所在(チ)が 判明する。
ある基礎、祖であるモト、
根源、原因によって できた共通認識 その結果であり、成果、所産に イ存する
ヒトの言動は 「ある」イイ自分の「分かる」「分からない」の結実 、その イたりだから。
「わかる」「わからない」と イえる
通じ合える ジタイ を つぶさに 観察すれば
「わかる」「わからない」お互いに 共通 する
同じ「有る」 イイ
同じ「ある」 イイ
ある基礎、祖であるモト、
根源、原因によって できた
ヒトの言動は 「ある」イイ自分の「分かる」「分からない」の

・・・・・・オマエ、水曜だな 🕱
さて。 つらつらと 私は
「わかる」「わからない」について 長々 分かり切った事を 述べてきた。
ここまでの 「私」の言葉に 引っかかりを 覚えず、
読んで よく分かった 頭のヨイ人間は この先は 読まなくて 結構
Πρὸς ἀστρολόγους
即、ここから お引き取り願いたい。 邪 魔 だ。
「わかる」「わからない」の イイ記述 に「在る」
私は 文字通り 「分かる」ために 努めて かいてイる。
かなしいかな、自他に 関わらず
「分かった」ひとの言葉の「わかる」「わからない」イイに
私は 文字通り 「分かる」ために 努めて かいてイる。
かなしいかな、自他に 関わらず
「分かった」ひとの言葉の「わかる」「わからない」イイに
生 憎 わたしは ナンセンス を 覚える人間で「有る」から。 』
【初音ミク】 うみなおし 【オリジナル】
「にんげん、って何だろう」
みんな 思いつくまま センセイに 答えました。
「 二本足で 歩けるの! 」
「 いろんなものを つくれます!」
「 言葉を しゃべる! 」
センセイは みんなの答えに 「違う」と 言いました。
「 二本足で歩ける おさるさんも いるんだ。 おさるさんは にんげんかなあ 」
「とりは 木の枝を つかって じぶんのお家をつくるんだ。
みのむしは はっぱを お洋服に、
ふんころがしは 自分のウンチを 玉にする。
にんげんじゃなくても ものをつくる いきものがいるよ。」
「 いいかい。
いぬや ねこを よく見てごらん。
いぬは いぬの、ねこは ねこの言葉で お話ししている。
にんげんと ちがう言葉をもつ いきものは いっぱいいるんだ。」

みんなが どんな答えを 言っても、センセイは「違う」と 言います。
「にんげん、って何だろう」
その後も みんなから たくさんの答えが 出たけれど
誰も 正しい答えを 出せず、
センセイも 正しい答えを 教えてくれなかった。
ふ し ぎ。
西日の差す こがねいろに 染まる教室
私と たくさんの私たちと センセイのいる じかん。
あのとき センセイから もらった「 問い 」を ときおり 思い出します。
「にんげん、って何だろう」
その後も みんなから たくさんの答えが 出たけれど
誰も 正しい答えを 出せず、
センセイも 正しい答えを 教えてくれなかった。
ふ し ぎ。
西日の差す こがねいろに 染まる教室
私と たくさんの私たちと センセイのいる じかん。
あのとき センセイから もらった「 問い 」を ときおり 思い出します。
Messiaen「 Vingt Regards sur l'Enfant-Jésus 」Première communion de la Vierge
あれから「私」は
いろんなこと、
たくさんのものについて 学び習った。
あの頃 より かしこくなり
あの頃 より もっともな答えの できる
センセイ 私、おとな に なりました。
問われれば
のぞむ答えは いくらでも 出来ます。
けれど、いえば 言うほど なにかが ズレていく。
それは それで (正しい)答えです。


いろんなこと、
たくさんのものについて 学び習った。
あの頃 より かしこくなり
あの頃 より もっともな答えの できる
センセイ 私、おとな に なりました。
問われれば
のぞむ答えは いくらでも 出来ます。
けれど、いえば 言うほど なにかが ズレていく。
それは それで (正しい)答えです。

けれど、 よく考えたら
「何か」 違っていて、
なんだ、 あの頃の ちっちゃな 子どもの自分と
「 同じ」私は わかっちゃいないや、って 可笑しく思う。
「わからない」
あのとき
答え の「わかる」他の子と 違って
私は センセイに 何も 答えられなかった。
「何か」 違っていて、
なんだ、 あの頃の ちっちゃな 子どもの自分と
「 同じ」私は わかっちゃいないや、って 可笑しく思う。
「わからない」
あのとき
答え の「わかる」他の子と 違って
私は センセイに 何も 答えられなかった。

Πρὸς φυσικούς
考えても
考えても 答えのでない
私の 拙い応えが いちばん 「正解」に 近い気がする。
「わからない」だから「しりたい」
「わからない」が あるから「わかる」
「わからない」が「わかる」
センセイ これが わたしの「こたえ」
考えても
考えても 答えのでない
私の 拙い応えが いちばん 「正解」に 近い気がする。
「わからない」だから「しりたい」
「わからない」が あるから「わかる」
「わからない」が「わかる」
センセイ これが わたしの「こたえ」
SING LIKE TALKING「 Will 」
先程、「私」は
言葉に拠る 意思疎通が 作り物 の 作り事 で ある
イイ言葉数 の 多いひと、
特定 の 言葉 を 多用するひと、
言葉に 多分 の
そのものから 離れて トク「別」な イイ
インターネットでは 更に そのジタイが 甚だしく成る為
「私」は ソレを 自覚し、
そのジシンに 対する自覚を さらに 深めるべく
「ある」考え のもと あえて ソの

Πρὸς γραμματικούς
「考える」師をもつ 弟子が
「考え」なしで イイ 言葉 と 同化した 自分では ハナシにならない
同じ イ場所に イつづける
イイ自分ジシンを 考えるため このブログ は 「エセー」
モンテーニュの 思考形式を 念頭に於いて 作成している。
随筆(エッセイ、エセー)という、
特定の 話題に関する 主観的な 短い文章の形式を 発明した
モンテーニュは 人間の あらゆる営為を 断続的な文章で 省 察 することにより
人間そのものを 率直に 記述しよう と ココロみた人間だ。
フランス語の essai は 「試み」「企て」 という意味である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
「考える」師をもつ 弟子が
「考え」なしで イイ 言葉 と 同化した 自分では ハナシにならない
同じ イ場所に イつづける
イイ自分ジシンを 考えるため このブログ は 「エセー」
モンテーニュの 思考形式を 念頭に於いて 作成している。
随筆(エッセイ、エセー)という、
特定の 話題に関する 主観的な 短い文章の形式を 発明した
モンテーニュは 人間の あらゆる営為を 断続的な文章で 省 察 することにより
人間そのものを 率直に 記述しよう と ココロみた人間だ。
フランス語の essai は 「試み」「企て」 という意味である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
Steve Reich - Clapping Music (Scrolling)
「考えるな」
「思考マインドを捨てろ」と いう
「分かる」スピ・精神世界関係者に むかいあう 彼らの
Πρὸς ἀστρολόγους
(考える)という行為は
「分かる」の 逆をゆく 逆行、 逆に 向かう(か向かう)事なのだ。
「考える」「思考」するマインド
↓
「自我」のする事
↓
「自我」のする事を している者は みな「自我」である
この ワンパターン 思考ロジックが
成り立つ 経緯を 一言一句 ひとつひとつ 徹底して 観る。
考えるとは 「イチ」を 吟味、検証、
ひっくり返して ソの「い」を (思索する) 事だ。
↓
「自我」のする事
↓
「自我」のする事を している者は みな「自我」である
この ワンパターン 思考ロジックが
成り立つ 経緯を 一言一句 ひとつひとつ 徹底して 観る。
考えるとは 「イチ」を 吟味、検証、
ひっくり返して ソの「い」を (思索する) 事だ。

言葉に拠った ワレワレの「分かる」は
「ある」何かを バラし 作り繋いで「かち」得た
おのれの 都合のヨイ 正当化した「カチ」有る
「分かった」モノで 在る
何故 その言葉を のぞむ イイ自分なのか
何故 その言葉を 必要としなければならない ヨイ自分か
何故 その 言葉が「わかる」「わからない」自分 で アル人間か
「ドウして?」
「ある」何かを バラし 作り繋いで「かち」得た
おのれの 都合のヨイ 正当化した「カチ」有る
「分かった」モノで 在る
何故 その言葉を のぞむ イイ自分なのか
何故 その言葉を 必要としなければならない ヨイ自分か
何故 その 言葉が「わかる」「わからない」自分 で アル人間か
「ドウして?」
Three Reasons: The Noisy Requiem
γνῶθι σεαυτόν
自他の言葉に 沿い
自他の言葉に対 って 考え抜き 考え尽くす。
しんに 考えるとは
「分かる」
「分からない」の みなもとに かえる
遡行、かえりみる営為 無知の「ち」
これが マインドの 適切な働き。「考える」言葉による 精神の力動 で ある。
自他の言葉に 沿い
自他の言葉に
しんに 考えるとは
「分かる」
「分からない」の みなもとに かえる
遡行、かえりみる営為 無知の「ち」
これが マインドの 適切な働き。「考える」言葉による 精神の

今 私が 述べた
「考える」イイに 即 反応した者は 多いだろうね。
そうだソウダ! その通りだ!
自分と 同じだ! 狂喜乱舞する 連中の シタリ顔 が 見えるようだ。
「考える」イイに 即 反応した者は 多いだろうね。
そうだソウダ! その通りだ!
自分と 同じだ! 狂喜乱舞する 連中の シタリ顔 が 見えるようだ。
ばーーーーーーか × ∞
アホが 見る 我癡 の ケツ、
ソレこそが まさに 能なしの牧者
ケに堕した 餓鬼畜生の ミしるし に 他ならない。
ソレこそが まさに 能なしの
ケに堕した 餓鬼畜生の ミしるし に 他ならない。
タワケよ、
御前は 一体 「自分」が
何を犯したか マダ 気付かないのか?
御前は 一体 「自分」が
・・・何でも よく知っている
もの知りで もの分かりの よいアナタに ぴったりの
都合のイイ ものカタりを 「プレゼント」して おきましょう。
もの知りで もの分かりの よいアナタに ぴったりの
都合のイイ ものカタりを 「プレゼント」して おきましょう。
「私」 こたえのない 「問い」を 所有する 自分でしたから
ただしい「答え」を 求められる
学校に入った頃の 私の成績は ずっと下の評価で
通信簿を 親に見せるのが ほんとうに 嫌だった。
自分 の「なぜ」と
学校 の「答え」が 一致しない
もどかしい、いたたまれない 思いが ずっと 私のなかにありました。

うち、いいところの お家柄で、
そのうえ 男尊女卑も 甚だしい イジョウな 旧家なんです。
父は その家の 跡取りで
その跡取りの長子が オンナ。 お馬鹿さんだった。
子供の頃 「お前は馬鹿だ」「役立たず」
「これだから オンナは ツカエナイ」と 父方の親族に ずっと 言われ続けた
「私」が 絵をかくのが 好きなのは
頭の良い悪いが いらない 自由 に なれるから。
インディーズ映画の極北 『追悼のざわめき』
図工の時間
好きなものを「描く」 授業がありました。
回転ジャングルジムで 遊んだ自分を 絵に 描いた。
当時 とても人気の遊具で
休み時間になると 学校じゅうの子が 一斉に 集まって遊んだ。
昇り、くぐって 自在のスピードで 回転する
ジャングルジムに つかまって 私も 一緒になって よく遊んだものです。
好きなものを「描く」 授業がありました。
回転ジャングルジムで 遊んだ自分を 絵に 描いた。
当時 とても人気の遊具で
休み時間になると 学校じゅうの子が 一斉に 集まって遊んだ。
昇り、くぐって 自在のスピードで 回転する
ジャングルジムに つかまって 私も 一緒になって よく遊んだものです。
空を飛んでいるみたいに
ぐるぐる まわる自分の
あの じゆうな 想い を 「私」は 絵に しました。
かいているあいだ
ジャングルジムで遊ぶ 自分にかえって
ぐるぐる、わくわく ほんとうに 楽しかった。
その絵が いま「私」が ここにイる原点 なんです。
ぐるぐる まわる自分の
あの じゆうな 想い を 「私」は 絵に しました。
かいているあいだ
ジャングルジムで遊ぶ 自分にかえって
ぐるぐる、わくわく ほんとうに 楽しかった。
その絵が いま「私」が ここにイる

とある新聞社主催の コンクールで
私のかいた そのジャングルジムの絵が 2番目に いい賞を 取りました。
それを知ったのは お盆、父方の実家で
新聞を読んでいた 叔父が 見つけて 教えてくれました。
はじめて 父のいえの人たちに 褒められた。
とても うれしかった。
絵を描けば 多くの人に 認められる 「私」は
イイ人間 に なれるんだな、って そのとき分かってしまった 。
それから 図工、美術だけは ずっと一番成績が よくて
大学受験まで 芸大志望のひとたちと 一緒に 絵を かいていました。

私のかいた そのジャングルジムの絵が 2番目に いい賞を 取りました。
それを知ったのは お盆、父方の実家で
新聞を読んでいた 叔父が 見つけて 教えてくれました。
はじめて 父のいえの人たちに 褒められた。
とても うれしかった。
絵を描けば 多くの人に 認められる 「私」は
イイ人間 に なれるんだな、って そのとき
それから 図工、美術だけは ずっと一番成績が よくて
大学受験まで 芸大志望のひとたちと 一緒に 絵を かいていました。

絵を描くのは 好きです。
だからこそ 絵かきには なれなかった。
なれない。なってはいけない。
違 う。
その道に ソのまま 進むのは 逃避、
この自分に 対する 裏切り、嘘になって 終う
スピリチュアル・精神世界に関わる ずっと以前に
「私」は 自分の「ある」不思議を すでに 識っていました。
「女」を いきているのだけれど、
私というものの せい質、そのエネルギー、たましいは 「男」
わたし両 性 の 「何 か」みたいです。
だからこそ 絵かきには なれなかった。
なれない。なってはいけない。
違 う。
その道に ソのまま 進むのは 逃避、
この自分に 対する 裏切り、嘘になって 終う
スピリチュアル・精神世界に関わる ずっと以前に
「私」は 自分の「ある」不思議を すでに 識っていました。
「女」を いきているのだけれど、
私というものの せい質、そのエネルギー、たましいは 「男」
わたし
It's 「 Yesterday Once More 」