文体は、著作家の「物」であり、
彼の 光輝 に して、
彼の 牢獄 で あり、
彼の 孤独 で ある。
彼の 光輝 に して、
彼の 牢獄 で あり、
彼の 孤独 で ある。
ACIMの あるセミナーに 参加した時の話です。
トイレ休憩の間 ぼんやりと ひとり
講師の話を 反芻する私が そのひとには 異様に みえたのでしょう。
「 コース たのしんでやってます? 」
そう聞かれ 困ってしまった。
トイレ休憩の間 ぼんやりと ひとり
講師の話を 反芻する私が そのひとには 異様に みえたのでしょう。
「 コース たのしんでやってます? 」
そう聞かれ 困ってしまった。
周知のとおり、
言語体(langue) は、
ある時代の すべての著作家たちに
共通の規則や 慣習の集合体である。
言語体(langue) は、
ある時代の すべての著作家たちに
共通の規則や 慣習の集合体である。
親切なひと、なのだと思います。
なのに たのしげに 話し出した
そのひとの つるんと がらんどうの目は
はっきり 私を 見下していた。
ヒトリボッチノ アナタハ ナンテ カワイソウ!
無遠慮に
ひとの心情に ずかずか上がり込む
スピ・精神世界系関係者 特有の なれなれしさに
当時 呆然とするばかりだった 私をよそに
所謂 “奇 跡 ” な
出来事の数々が よどみなく 吐き出される
キセキノナカニアル ワタシガ イルカラ
モウ ダイジョウブ! アナタヲ ユルシテアゲル!
教則 の 言葉通り
幸せではない 可哀想な自我 には
幸せを 知っている、幸せな人間による
幸せな共有を 与えなければ 成らない ここの善行 ですから
ワタシハ「神」
ワタシハ「愛」
ワタシハ「まこと」
「本当」ノ ワタシト ユルシアイマショウ サア!
ビーだま みたいな目の彼女には
ナルほど 私のような 可哀想な 不幸の人間が 無尽蔵 に 要るのでしょう。
神も 愛も 真実も こんな風に作られてイくのだな 、と 腑に落ちた。
「ワタシ」ハ 「アナタ」
ああ。そうなる 。その通り。
言う通り、イイ通り そうしたイのだから、ソウなる
「悟り」 「認識」だとか、人間の「本能」だとか。
「アナタ」ハ「ワタシ」
いぶかる 私の相づちさえ 上手に抱き込み
ひとのひた面に
べったり とり憑いた
無生の のっぺらぼうは 往々にして 饒舌だ。
サア イラッシャイ!
「ワタシハ アナタ」
「アナタハ ワタシ」
オナジ ワタシタチ ハ ドウシ!!
ヒトツニナレル
ワタシノトコロニ イラッシャイ
サアサ ミナ ミナサマ イラッシャイ!
聖なる ゴ関係に イこえる
舌なめずりの 捕食者 である。
イ「ない」と見做す ママ事 を 手放すことなど ありえない。
だれも 気づかない。
否、気づきたくない。
気づく ワケが「ない」 気づく ヨシも「ない」
目の前の生贄 を サカナに
ないナイづくしの フル・コースに ゴ執心の
実に お シ・あわせな創造主 は
しんじつ 非現実な世界 を よく愛してイるから。
スピリチュアル・精神世界の
「わかちあい」と される場では さまざまな 真実が 語られます。
私は そこで 語られる 真実より むしろ
語られ なかった 物事 や
「わかちあい」の 場の 外 から それらをみたとき
話すひと 聞くひとの
意識的 無意識の心中が かいまみえて 興味深い。
1日24時間、
365日 × 自分が 生きてきた年数
膨大な経験や 知識を 有しているにもかかわらず
何故 「その」物事を 語り、
ひとと 「わかちあい」たいのでしょう?
ひとの心情に ずかずか上がり込む
スピ・精神世界系関係者 特有の なれなれしさに
当時 呆然とするばかりだった 私をよそに
所謂 “
出来事の数々が よどみなく 吐き出される
キセキノナカニアル ワタシガ イルカラ
モウ ダイジョウブ! アナタヲ ユルシテアゲル!
幸せな彼女のために
私は 「カワイソウ」な
「フシアワセ」な人間で あらねばならないのか
しんしんを 丸はだかに 供される場で
スキを穿つ こころよい彼女の言葉が じわりじわり
私の フシアワセなるものを 浸食し 真っ白に 塗りつぶす。
人間の わかり易い「やさしさ」は 残酷 だな、と 思いました。
私は 「カワイソウ」な
「フシアワセ」な人間で あらねばならないのか
しんしんを 丸はだかに 供される場で
スキを穿つ こころよい彼女の言葉が じわりじわり
私の フシアワセなるものを 浸食し 真っ白に 塗りつぶす。
人間の わかり易い「やさしさ」は 残酷 だな、と 思いました。
誰しも、著作家としての 自分の自由を、
気取りなしに 言語体の 不透明性のなかに 挿入することは できないのだ。
気取りなしに 言語体の 不透明性のなかに 挿入することは できないのだ。
幸せではない 可哀想な
幸せを 知っている、幸せな人間による
幸せな共有を 与えなければ 成らない ここの
ワタシハ「神」
ワタシハ「愛」
ワタシハ「まこと」
「本当」ノ ワタシト ユルシアイマショウ サア!
ビーだま みたいな目の彼女には
神も 愛も 真実も こんな風に
幸せな人間の イイ通り
幸せではない 可哀想な自我 を 見つけられて
饒舌にならずには イられない貴方は とても幸せ 幸せなひと ね。
幸せではない 可哀想な
饒舌にならずには イられない貴方は とても幸せ 幸せなひと ね。
アナタモ「神」
アナタモ「愛」
アナタモ「まこと」
「同じ」 ワタシタチト ユルシアイマショウヨ ネエ!
アナタモ「愛」
アナタモ「まこと」
「同じ」 ワタシタチト ユルシアイマショウヨ ネエ!
お決まりの ルーチン
いつもの大団円 おお見得
うるわしの霊的次元覚醒 とやらが ハナ ひらく。
いつもの大団円 おお見得
うるわしの
なぜなら 言語体を貫いて、
ひとつの<自然>のようなやり方で、完全であり、
結ばれあっているのは、<歴史>全体なのであるから。
ひとつの<自然>のようなやり方で、完全であり、
結ばれあっているのは、<歴史>全体なのであるから。
相田MontBlanc - 天動説 -
「ワタシ」ハ 「アナタ」
ああ。
言う通り、イイ通り そうしたイのだから、ソウなる
「悟り」 「認識」だとか、人間の「本能」だとか。
Because I could not stop for Death –
He kindly stopped for me –
The Carriage held but just Ourselves –
And Immortality.
He kindly stopped for me –
The Carriage held but just Ourselves –
And Immortality.
カイ狎らした
スピリチュアル・精神世界の 決めゼリフは
「全て」ある コタエ に 帰着する。当然だ。
無意味な真空より ああ、 畸形のロジックの方が まだ遊べるから。
スピリチュアル・精神世界の 決めゼリフは
「全て」ある コタエ に 帰着する。当然だ。
無意味な真空より ああ、 畸形のロジックの方が まだ遊べるから。
「アナタ」ハ「ワタシ」
いぶかる 私の相づちさえ 上手に抱き込み
ひとのひた面に
べったり とり憑いた
無生の のっぺらぼうは 往々にして 饒舌だ。
We slowly drove – He knew no haste
And I had put away
My labor and my leisure too,
For His Civility –
And I had put away
My labor and my leisure too,
For His Civility –
何でも よくわかる 真理命題
何でも よくわかりあえる 心的連立方程式による カイ だ。
カタらずには イられないモノにもなろう。
何でも よくわかりあえる 心的連立方程式による カイ だ。
カタらずには イられないモノにもなろう。
サア イラッシャイ!
「ワタシハ アナタ」
「アナタハ ワタシ」
オナジ ワタシタチ ハ ドウシ!!
ヒトツニナレル
ワタシノトコロニ イラッシャイ
サアサ ミナ ミナサマ イラッシャイ!
聖なる ゴ関係に イこえる
舌なめずりの 捕食者 である。
イ「ない」と見做す ママ事 を 手放すことなど ありえない。
作家は、文字通り、
そこから 何物をも 汲み取らない。 言語体は、彼にとって、
むしろ、その侵犯が おそろしく言語の超自然を 指示する事に なるであろう
準則なのである。それは、行動の敷地であり、可能なることの規定や期待なのだ。
そこから 何物をも 汲み取らない。 言語体は、彼にとって、
むしろ、その侵犯が おそろしく言語の超自然を 指示する事に なるであろう
準則なのである。それは、行動の敷地であり、可能なることの規定や期待なのだ。
だれも 気づかない。
否、気づきたくない。
気づく ワケが「ない」 気づく ヨシも「ない」
目の前の
ないナイづくしの フル・コースに ゴ執心の
実に お シ・あわせな
しんじつ 非現実な世界 を よく愛してイるから。
Massive Attack - The Spoils ft. Hope Sandoval
スピリチュアル・精神世界の
「わかちあい」と される場では さまざまな 真実が 語られます。
私は そこで 語られる 真実より むしろ
語られ なかった 物事 や
「わかちあい」の 場の 外 から それらをみたとき
話すひと 聞くひとの
意識的 無意識の心中が かいまみえて 興味深い。
1日24時間、
365日 × 自分が 生きてきた年数
膨大な経験や 知識を 有しているにもかかわらず
何故 「その」物事を 語り、
ひとと 「わかちあい」たいのでしょう?
言語体は、材料の貯蔵であるよりは、むしろ地平線なのだ。
すなわち、限界であると 同時に居住地であり、
要するに、ある経営の安心な領域なのである。共通の規則や慣習の集合体だ。
すなわち、限界であると 同時に居住地であり、
要するに、ある経営の安心な領域なのである。共通の規則や慣習の集合体だ。
なぜ 「その」物事 に
こころひかれたり、反発するの?
「ない」なら こころひかれる事
反発する事も 「ない」
この「ない」を「ある」に 変えても 同じ。
ひとのいう事 なす事「すべて」よい?
心も身体も「全く同じ」 貴方と私でしょうか?
「全く同じ」 自分かどうか どうわかるの?
こころひかれたり、反発するの?
「ない」なら こころひかれる事
反発する事も 「ない」
この「ない」を「ある」に 変えても 同じ。
ひとのいう事 なす事「すべて」よい?
心も身体も「全く同じ」 貴方と私でしょうか?
「全く同じ」 自分かどうか どうわかるの?
自分の言葉、他人の言葉の
「違い」を
「同じ」も また 等しく
精神の 高次的反映である 理性 は イチのなんたるかを 追尾 徹底し
下位次元にあたる 知性 は そのイチを前提に イシ「WILL」を ひとに求める。
理知性なきものの言葉は イきものの 排泄物に等しい。
言動に表れる 精神は ふつう 数学の公式のような
理路整然 とした「問い」 能動的 絶対形式「ロゴス」 を 介して 表出するものだ。
理路整然 とした「問い」 能動的 絶対形式「ロゴス」 を 介して 表出するものだ。
「書かされる」「言わされる」「いかされる」「愛される」・・・
「~される」 受動態を 多用する者には 動物の 打算 が 透けて見える。
何事も 無責任の(自分)ゆえ、
よい イメージや よくナイ 非を 相手に与え、
その利を貪る 「Lobha」 よく見世たい、よい 「チキン」 で ある。
印象操作の 便利な イチ修辞法 に イ存しなければ イきられない。
よい イメージや よくナイ 非を 相手に与え、
その利を貪る 「Lobha」 よく見世たい、よい 「チキン」 で ある。
印象操作の 便利な イチ
We passed the School, where Children strove
At Recess – in the Ring –
We passed the Fields of Gazing Grain –
We passed the Setting Sun –
At Recess – in the Ring –
We passed the Fields of Gazing Grain –
We passed the Setting Sun –
何故 「そうする」よい
「そうする」事で これは「わたし(だ)」と しなければならない
なぜ「そうしなければならない」自分か?
ソレが「わたし(である)」 だ、ほんとう、 嘘偽りない真実だと イイたいが故の
価値 の ソウゾウ、
とてもイイ 私たちは「オトモダチ」よき同志同胞の
連帯、共有「シェア」全一絶対 覚醒「ニルヴァーナ」解脱・・・・・・
とてもイイ 私たちは「オトモダチ」よき同志同胞の
連帯、共有「シェア」全一絶対 覚醒「ニルヴァーナ」解脱・・・・・・
で。 そんな風に 自分の事、相手の事を
ひとに 語っている、 語れる わかる、わかり合える
コレ って いったい どういう「コト」なんだ!?
Rufus Wainwright - Across The Universe -
「コレ」が 饒舌で あればあるほど
大抵 ソコには 周到な「トリック」が 潜んでおります。
だから 私は 語りたくない。
そのひとが 語るものは 饒舌です。
そのひとを 語るモノは 「じつに」饒舌だ。
だから わたしを 語りたくなかった。
言葉は 語ることがら : 言表だけでなく
そのひとの 存する次元カイ や
語り は 「騙り」 でもあるからです。
したがって、作家にとって、言語体は、
ある種の親密さ を 遠くの方に据えるところの 人間的な地平線なのである。
しかも、その親密さは、まったく 否定的なものである。
ある種の
しかも、その親密さは、まったく 否定的なものである。
よく イイたい「モノかたり」は
よく ナレない自分から 逃避 して、正当化 できる
よい行為 だから し続けるでしょう
し続けなければいけない。いきていけなくなる 「自分 」 だからです。
おなかが いっぱいだったら 食べなくて いい。
おなかが すくから食べる。食べ物を探して 手に入れる。美味しい食べ物を作る。
ただ「ある」だけで いいなら 何もしなくていいのです。
必要ないなら 何もしません。
イらない。よい行為なんて 必要ありません。
「満たされている」のよ、何も しなくたって イイんです。
よく ナレない自分から 逃避 して、正当化 できる
よい
し続けなければいけない。いきていけなくなる 「
おなかが いっぱいだったら 食べなくて いい。
おなかが すくから食べる。食べ物を探して 手に入れる。美味しい食べ物を作る。
ただ「ある」だけで いいなら 何もしなくていいのです。
必要ないなら 何もしません。
イらない。よい行為なんて 必要ありません。
「満たされている」のよ、何も しなくたって イイんです。
「私」という
より良く、より善い 、「わたし」という なにより好い
高次の形式に 当て嵌め、嵌まれば ナニでも 「よい」 コトに なるようです。
「何か」に 必要 な 言葉、必要 と されるための 言葉は
「ナニか」に (しがみつきたい)(しがみつこう) と するでしょう
だから、必要の多いヒトは (よい)言葉を いいたがる
(よい)そのヒトの言葉が なければ いきていけない ヒトよ
「ソレ」は それは かわいそうな ヨイひとの よい 「せい」欲 でしょう
作家の言語体は、
廃絶された形式と 未知の形式とのあいだに
宙ぶらりんになっていて、土台であるよりは、むしろ 極限なのである。
かえりみず 私だと信じているモノの思惑通りに
自身を 癒しが 必要なものと みなすなら 「癒し」を
幸せ を 求めるモノと するなら 「幸せ」を
自作自演のシナリオ通り「行為」する。
「起こる」 そんなキセキに 「ミ」いるのは 必然 です。
そうシタ 自分なのだから。
「ソレ」を わかちあえ、
わかちあうものだ という メイ・モクで
咎人 が 免罪を求めるかの 切実さ で 虚空 を泳ぐ その手が
いったい 何を わかちあうのか
いったい 何が 何をわかちあい
ワケあった 自分 ですか?
自身を 癒しが 必要なものと みなすなら 「癒し」を
幸せ を 求めるモノと するなら 「幸せ」を
自作自演のシナリオ通り「行為」する。
「起こる」 そんなキセキに 「ミ」いるのは 必然 です。
「ソレ」を わかちあえ、
わかちあうものだ という メイ・モクで
いったい 何を わかちあうのか
いったい 何が 何をわかちあい
【初音ミク】愛して愛して愛して【VOCALOID COVER】
その自分が (イイひと)で あり
(そのひとジシン)として あらシめる為には
ある (特定)の 事がら
(特定)の ひと
(特定)の 感情を 選び出し、 主張するものだ。
何か が あって ある(特定)の
「同じ」物事を イイ続ける。「よい」だ。
ソ・コ の「同じ」を とわない 因業 の チ・から
「ソ」のカルマ、業、「コ」の よい業力が つかえる。
「ソ」のカルマ、業、「コ」の よい業力が つかえる。
しんに 思考できない者は 故に シコウしないモノである。
「全ての 思考を棄てよう♡」 などと へつらい
よい ジシンの
せいしんを 依存させ セイシンに 固執するよう シ向ける。
Or rather – He passed Us –
The Dews drew quivering and Chill –
For only Gossamer, my Gown –
My Tippet – only Tulle –
かえりみることすら 忘れた
真の「私」で アル よい自分 の はかりごと通りに
自分を 「神の子」「光」「ワンネス」「真我」と すり替え 主張し
自分に 不都合な事は「自我」とし イけない豚箱 に 押し込め
The Dews drew quivering and Chill –
For only Gossamer, my Gown –
My Tippet – only Tulle –
かえりみることすら 忘れた
真の「私」で アル よい
自分を 「神の子」「光」「ワンネス」「真我」と すり替え 主張し
自分に 不都合な事は「自我」とし イけない
全一絶対 安全になった イイ自分の(よい)
イコール
「覚り」「超越」「現臨」「大悟覚醒」となさるのは
「moha」 当然のコトだ。
ナニのわかる、
ナニをわからせ、ナニが欲しい
ナニしかない ナニと ナニナニの
「癡」 トウゼンの 我ヨシで あらん哉。
私に ある「なにか」 は
あゝ たしかに ナニもかも みて「いる」
私は 識るものではない
(私)は 何も 識らない ( I DO NOT KNOW what )
その私を みているのは
(私)を 知らない わたし ( NO ONE knows what ) だろう?
(私)を 知らない わたし ( NO ONE knows what ) だろう?
ココにある わが
イイ自分を 饒舌に 語るモノ
よい モノ乞いは ヨク 「わたし」を 知っている、理解してくれる。
鋭利な刃のごとく 知覚される 「Avidyā」
ワぁの この事実に 耐えきれず 饒舌に ミズからを カタり
くーくーくうくう 空々しい
あいアイあいアイ 白々しき
嗚呼 たしかに 御前様ガタ は
「スベテ」の セイ・カイを
「たのしむ」「たのしまない」
「幸せ」「幸せじゃない」・・・言葉 の あわいで ひとめを 晦ませ
「よい」印象操作 で 切りさばいた よき わが「人生」
「幸せ」「幸せじゃない」・・・
「よい」
まっこと「神」「愛」「真実」とやらの為
忘我 三昧だかしれん
無我夢中の境地に べったり 執着した
超越的言動や 神秘的心情のものを まったき 至高とする
スピリチュアル・精神世界に その 口実 を 求める くだんのカタは多い。
げに ハナ白む「ゼン」行 である。
いぜんなら 無邪気に 見過ごせもした 私だが、
ワケもわからず ワケもわからないモノに 泥酔する自分 や
自分達 の ヨイわかちあい いいチチくりアイの ごっこ遊び は
げに ハナ白む「ゼン」行 である。
いぜんなら 無邪気に 見過ごせもした 私だが、
ワケもわからず ワケもわからないモノに 泥酔する
もう 結構。 興ざめだ。
~ 2015年 3月期 ACIM 課題レポート(論考文)より~
Son Lux — "Dream State"
・・・・・・このレポートには
じつは 続きがあるのですが、此処では 述べないことに いたします。
じつは 続きがあるのですが、此処では 述べないことに いたします。
レポートの 「核心」と 言っていい 非常に たいせつな一節。
ですが ゲンザイ その部分を 公開すれば
各方面に さまざま 面倒が 拡がってしまう。
各方面に さまざま 面倒が 拡がってしまう。
いま 慎重 かつ 冷静な 「チ」 が 試されております。
We paused before a House that seemed
A Swelling of the Ground –
The Roof was scarcely visible –
The Cornice – in the Ground –
私は 「書かされる」「言わされる」
神に 「向かわされる」「愛される」 よい自分を 肯定する
見せびらかしの 木偶の坊ではない。
愚かであろうと 自分の「WILL」が ある 人間です。
前回のエセーで 霊的ふるいわけの 殆どは
もうすでに 為された 後と 申しました。
「自分は違う」「
自分こそは「ただしい!」と 見做した方が 大半でしょう。 まあ、当然の反応です(笑)
ブログを通じ 様々な実証実験を行った
私の観立てでは 私じしんを含め
ほぼ 全員アウト。
「世のため」「人のため」 タイヘン結構。
大きなプロジェクトとか イってる
大いなる使命、伝道とか ヤってる その 善い「アナタ」が
非アセンション行きの 最たる 「よい」排除対象者ですから。
死んで ハイ 終わり、あの世だか この世だか
輪廻転生、ワンネス、覚醒解脱なんて お可愛らしい事には ならない。
大きなプロジェクトとか イってる
大いなる使命、伝道とか ヤってる その 善い「アナタ」が
非アセンション行きの 最たる 「よい」排除対象者ですから。
死んで ハイ 終わり、あの世だか この世だか
輪廻転生、ワンネス、覚醒解脱なんて お可愛らしい事には ならない。
昨年 名だたる 新興宗教の教祖、先生が 相次いで お亡くなりになった。
武蔵一宮 氷川神社を 詣でた際
その葬儀参列する 喪服の信者集団を みてかんじました。
同様の事が スピ・精神世界でも 起こる。
すでに 起きつつある。
アレでは もう 手の施しようがない。手遅れです。
極端に ハイ もしくは いじょうに ラリった 躁状態の方が
目だって 増えているでしょう、
死を 察知した身体は、意識を失わせ
幸せホルモン(モルヒネ様物質) を 多量に 放出するらしいです。
最近は 事象の アップダウンだけでなく
左右の 揺さぶり、時流サイクルまで 上がっている。
その影響 と 思われます。
引き寄せなる法則で 物事が 即 かなっている
お幸せな方は かなり危ない。
もう ツケのきく かつての 「よい」時代では 御座いません。
目だって 増えているでしょう、
死を 察知した身体は、意識を失わせ
幸せホルモン(モルヒネ様物質) を 多量に 放出するらしいです。
最近は 事象の アップダウンだけでなく
左右の 揺さぶり、時流サイクルまで 上がっている。
その影響 と 思われます。
引き寄せなる法則で 物事が 即 かなっている
お幸せな方は かなり危ない。
もう ツケのきく かつての 「よい」時代では 御座いません。
神々の御力が だいぶ落ちているという、
身許のたしかな 霊能者、神職のはなしを 伺いました。
神仏を ウリに している方々は
とても「よい」事を しなければ イけないヒト なのです。
自分の イイ言葉
ひとの ヨイ言葉に 喰われると 人相、とくに「肉眼」に 出ますよ。
文体にも 同様の ある シ症状 が 現れる。
少しでも 可能性を のぞむなら、
スピ・精神世界に 関わる ひと・もの・こと
全て 捨てなさい。
「ただの自分」「ただの人間」を いきる方が いい。
ゼロよりは ましです。
つぎに繋がる 確率が いくらか 上がる。
そう言う私が それでも 此処にいるのは
私を アテに
私に イ存する 縁者 貴方との 繋がりを
全て 断ち切る為です。
スピ・精神世界に 関わる ひと・もの・こと
全て 捨てなさい。
「ただの自分」「ただの人間」を いきる方が いい。
ゼロよりは ましです。
つぎに繋がる 確率が いくらか 上がる。
そう言う私が それでも 此処にいるのは
私を アテに
私に イ存する 縁者 貴方との 繋がりを
全て 断ち切る為です。
Max Cooper - Order From Chaos (official video by Maxime Causeret)
言語体は、否定性として、可能なるものの 原初的限界として機能するのであり、
文体は、著作家の気質を 彼の言語に結びつける<必然性>なのだ。
仮想現実空間 が どうイったところか すこしでも 考えられるひとならば
私のしている 非常識な振舞いの ウラ を
理解してくださると 思ったのですが、 買い被りが 過ぎました。
文体は、著作家の気質を 彼の言語に結びつける<必然性>なのだ。
私のしている 非常識な振舞いの ウラ を
理解してくださると 思ったのですが、 買い被りが 過ぎました。
ようは 理解する アタマがないから
スピリチュアル・精神世界に 逃避する ほかない
可哀想な人間の イたりと、ようやくワタクシ コトの現実 を 受け入れた次第です。
古今東西の 尊師グル、覚者聖者 聖典聖書仏法に いくら ならっても
みな 自分に 都合のイイ理解で 消費されるモノ。
わかっております 。
スピリチュアル・精神世界に 逃避する ほかない
可哀想な人間の イたりと、ようやくワタクシ コトの現実 を 受け入れた次第です。
古今東西の 尊師グル、覚者聖者 聖典聖書仏法に いくら ならっても
みな 自分に 都合のイイ理解で 消費されるモノ。
真実そのものに 理も情も 意味価値などない。
ここにいる ワレワレは みな
キよい 己のじゅうじ言葉に 架され
生きることも 死ぬこともない 無間に クだろう。
勿論
貴方は 貴方、私は 私だ。
今生 最後とナルものに
全き しあわせな 末期で アルよう
小生 こころより お祈り申し上げるとしよう。
今生 最後とナルものに
全き しあわせな 末期で アルよう
小生 こころより お祈り申し上げるとしよう。
Since then – 'tis Centuries – and yet
Feels shorter than the Day
I first surmised the Horses' Heads
Were toward Eternity –
Feels shorter than the Day
I first surmised the Horses' Heads
Were toward Eternity –
amazarashi 『カシオピア係留所』Music Video feat. 「チ。」
文中の青字は 「零度の文学」ロラン・バルト著/ 森本和夫訳(現代思想社)
橙色の英字は E.ディキンソン「Because I could not stop for Death –」からの引用です♡