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I am NOBODY! Who are YOU? ~ ぽーぽー的ACIMブログ『エセー』 ~

“ひとのフリ見て我が(ego)フリ直せ” ナマケモノ系acimerの
『NO』奇跡のコース×奇跡講座×奇跡の道なエセー

「見ることもなかった景色」に あいにいく

2025-06-21 | わたしと私たちのくらし
カミだらけ 
「いなくなんないよね」
コピー機の主は ひとり 終末旅行
             


               
水 無 月


年に一度の 恒例行事
 
ひとを 振るい分ける為
大量の書類を プリントアウトしている

ふだんの私は 「まつりごと」の にんげん やっております。


日本全国 津々浦々 日々
さまざまな 現場から 上がってきた 
さまざまな 案件を 審査、承認、サポートするのが 私の仕事 です。


 案件ごとに 異なる様式の
 数百件近い 書類に 目を通して、決裁にまわし

 数千数万件を 超える データ処理更新を 行いつつ、
 メールや 電話相談、 ときには 対面応対、備品管理 その他諸々

複数の業務を つねにかかえ、迅速かつ丁寧に、ミスなく こなさなければならない



       Group IX-SUW, The Swan, No. 9 (1915)


私の前任者は 3か月も持たずに 辞職しました。

ひとの 生活、ひとの 人生を 
おおきく変えてしまえる とても 責任の重い仕事です。

判断の むずかしい案件の際 
上司は よく「淡々とやろう」と おっしゃいます。


 今まで 私は たくさんのひとを 助けてきました。
 また 同時に たくさんのひとを 見殺した。

 情に 流されず、
 けれど 理に 勝ちすぎてもいけない

公正公明 で ある事が 求められる

私のブログ「エセー」は そんな 坐標コトのバ から うまれたもの。



yama『返光』(映画『スイート・マイホーム』主題歌)


先日 たまたま 目にした番組で

病後のからだによい 
あるもの だけ を 食べ続けたひとの 再現VRを 観ました。

案の定 偏食が たたって その方は 病気になった。

そのままでいたら 
下半身不随の可能性も あったらしい。


身に つまされる話でした。

わかい頃 私も 似た失敗をして からだを こわしましたから。


当ブログ初期のエセー
「魔法のオクスリ」 ≪上薬篇≫ ≪下薬篇≫(2018-02-07、8)

その経験を 踏まえた 「ある」問題 を 取り上げた



「私」は 東洋医学を はじめ
     マクロビ、ナチュハイ ローフード、
     ホメオパシー アーユルベーダ、ゲルソン療法、西式ほか 

  自然療法 民間療法 代替医療 もろもろを 経由 して 

ACIM、スピリチュアル・精神世界に 関わった。


 上記の養生法は 必ずしも 
 科学的に 実証されているものでは ありませんが
 漢方や 鍼灸、あんまは 標準治療に準じるものとして 保険適用されており

健康維持のため とある療法を いまでも継続している

   私は、自分自身
   こころも からだも 全く健やかな

      真人間 で あるとは みなしておりません。



FACT - ape


それ故 霊的なことや
    自分が 培ってきた 効果ある実践法、
    ハウツーテクニックについて 公開することを 自粛して参りました。


  「 ○○さんのいうことだから 大丈夫 」
  「 誰にでも いいことなら問題はない 」
 

ひとのいう事を 鵜呑みするひと は 世の中 そうぞう以上に多い。


この世界、この自分を それなりに 
     生きてきた私では ありますが     この世界、自分の事を 「すべて」知っている訳では ございません。

         自信まんまんに 
         すべて「よい」「ただしい」「神」と
         スピリチュアル・精神世界の人たちは おっしゃる
 
        その拠り所、ソースは いったい 何なのでしょう?
        その拠り所、ソースは 確かなもの? しんじつ本当?



        すべて「よい」「ただしい」「神」と 見なしている 

    その感性、その思考、その自分「まとも」なんでしょうか? 



     Group IX,SUW No. 8, The Swan, No. 8 (1915)


    「 わ か ら な い 」

   灌頂や アチューメントなるものは 
   いったい 何のために あるんでしょう

   古今東西の 瞑想家たちが、
   何故に 肝心な部分をぼかして、曖昧にしてきたのか、



スピリチュアル・精神世界は 科学ではない。

「客観」ではなく 
 「主観」が ものをいうところで アリ ませんか

  何故、 こんな 自明 な事が 見過ごされるのか


すべてのものごとを理解し得る よい自分を 買いかぶり
そんな よい人間を ありがたがり  すべてアテにする


  自分を
  ひとを
  いのちを どこまで 冒涜 し続ければ 気が済むのか


私は スピリチュアル・精神世界を 
   いじょうに 過信 する ひと達を 信頼しません。

なにが  「いい」スピリチュアル・精神世界なのか
ナニの 「よい」スピリチュアル・精神世界に かぶれている者は 

 自他の人間を み捨てた イぎたない カミ であります。



Koto - Hideyuki Hashimoto (Live Session)


生前 とある覚者が 自身のあかした

秘伝 を 書物にとりまとめて 公開なさった。


・・・それは 何とも ふしぎな言葉で ありました。


  かなしいちと涙を 多分に
  ながしてきたひとの みたまをしづめる 祝ぎのうた

しかれど、これは 

  人間を人間ではないものにかえす たましずめの呪


     C i p h e r

おいそれと 開示して善いものではないでしょう? 老大




現代の狂った人間、狂った文明のなかで

「 人間進化の可能性に
 ほんのわずかでも 役立てばよいのだ 」


かのひとは 自己責任 の ただし書きを 添えた 書を遺された


      ś a i v a


  ・・・・・・ええ。

 真性の スピリチュアル、
 まことの 精神世界の事物は 万人に 適うものではない

    (自己)(責)(任)

 人間としての「しん」価を 問われる コレは 
 ひとを選ぶ  「ま」やく 



SiM - WHO'S NEXT


少しでも 違えば 廃人、死です。

否、それ以上の 厄災を招く、
これは ひとの「せい」いきに 関わる

 魂魄を 抹消可能にする 禁忌の行。


かの覚者は ある時から
いままで みてきた 弟子への指導を 中止 なさった。

「 純粋冥想は その師弟関係に於いて、
 弟子の側に、自明性が なければ 成り立たない 」


「 人類を救えるのは 冥想のみだが、君達には その前提が 欠けている 」



        


     「師弟関係」 
     「自 明 性」 
     「その前提」 

・・・・・・やはり。 ソコに 尽きますか・・・ ・・・・・

     地の加速。
     反治と仮象
     インが円通、
     しんはシタに 開竅し、その華は 面にある。


    然 り。


かつて 私の ゆる した クレアコグニザンス と 呼応 します。



Experimental Art Video; "SENSORY OVERLOAD "


私は もう そのテの サイキック能力を 卒業した ただの人間。


よき スピリチュアリストによる 無料の リーディング、ヒーリングや
ニルヴァーナ、アヴァターラ、精神世界を 己の 承認欲求の 見世物 に使う 良識者サマは

  理性 いらない Youtuber
  感性 いらない 生成AI、ネットの トリこ et
  ツカエル神技 アリをりはべりイマそかり 真実一路ショウ・ますと・ゴー・オン 



真理、真実、真我の 何たるか
覚醒 サトリ屋 センセイは ハナいき荒く オーム の ように 繰り返し

  「すべて」みせよう!
  「すべて」わからせてやろう!
  私ダケが 知っている!! 真理、真実、真我、「真」のしょーこを!!!


とりあえず ツイてりゃいいカモ♡ 右へならえ の 
「お客様は みな神様」アナタ様は ヨク知っておられる、 

(本当の自分) 
(善い自分)(正しい自分)
 すべてを 知ってる ゼッタイ神と ご一緒に
 

  
       Altarpiece No. 1 Group X (1915)


# 「覚醒」「神人合一」「ワンネス」 さんハイ♡

  ♪ しょーこう ショウコウ 
    ショコしょこ ショーコウ あさはらショーコー ♪ 


♮ 「クンダリーニ」尊師と マナ弟子 「サンガ」の 御成り おナリだ
 

  「一歩退き、神に 導いてもらう」ヨイ貴方

  「 私や ここの皆さんが 持つような 
   意識性への興味も理解も 全くわかない人達 」
を 排除ポアしたい 覚者センセエ


    コウフクを 科学する 
    とーほーの ホシ教団 de
   イイ国つくろー 理想郷シャンバラ ニッポン♨


  ・・・・・・ええ(笑)

  それらは 確かに・・・
  「すべて」 羽化 登仙 の 境地よしミ に イカされた・・・・・ 

貴方様の 「かみ」の 現臨present で アリます。


Knosis | 神喰(Kamigurai) | Official Visualizer


 「貴方と同じ」 ヨクわかる自分に 仕え、
 「私と同じ」 イけない自分を わかってくれるものを 

   その通り 求めさえすれば

   「あい」ある  最適な 先生
          最適な お友達
          最適な お相手

   「あい」する 最適な自分に ぴったり よいモノ

      「すべて」得られる 

      スピリチュアル、精神世界なるモノらの

  イ イ 通 り よくナレましょう

      イイ自分に ぴったりな
      イイ人間と たくさんイられる
      よき己に ツカエる この仮想現実空間は 

  のぞみ通り ヨクかなう ジツに 好都合な イ場所ですから




「ドウ」ぞ

ここで すきなだけ 何かを 肯定、否定して「いて」ください。
ここを 好きなだけ すべて解釈、解読なさると「いい」です。
ここに スキなだけ  イ得れば 何かを よく理解、共感でき
          おのぞみ通りの ひと、もの、コト、悟り、覚醒を 得る「かみ」に 成れる


天壤無窮 ノ 宏謨こうぼしたがヒ 
   惟神かんながら ノ宝 祚ヲ承継シ
 


ここに い続けられる よき 皆 様カミさま

このブログを 立ち上げる前 私は
スピリチュアル・精神世界の 様々な 棲家サイト を 数多く拝見しました




夏草や兵どもが夢の跡


どれも これも 読むに 堪えない シタイの累々

頭と心と金と時間の「ある」 カミ様は 人間を ミ捨てて 悟り覚醒三昧の ヤク中のよし  
頭も心も金も時間も「ない」 自分サマは おシャカに なるより 仕方のない アリさま


言葉が 穢れ、
言葉に み離された あとのマツリ でした。

いのち「ある」ものの言葉ではない。 もう 死んでおります。

言葉が 通じない
シタイの かたガタには もう
ひとの 思いや 考えを しんに 伝え表すことは できない。

イイ言葉、 イイ人間を クウほか 「ない」




行く春や鳥啼き魚の目は涙


じき 言葉を 読むひとも かくひとも いなくなります。

思うこと 考えること すべて 
他人任せ、AI 任せの イイ世の中に「なる」でしょう。

      あたまのない
      こころもない 
      言葉のいらない 

  (本当)という 動物セイぶつ、(すべて)という 餓鬼われヨシ

  現実社会、仮想現実空間の化生カミとなる。

彼らの カミに シタがい 一体化、
数多の 人間を シタがえる カミとなり カミを超えた

キよき 人間おおカミ に ひとの耳も目も 要りませんから。



yama『春を告げる(☆Taku Takahashi Remix)』


このブログが UPされる頃

私は 東京を経由して、 ある奥地へ 向っております。

12年前
とあるヒーラーが 浄化した
 あの池、あの地 あの「見ることもなかった景色」を 

私 直に 観てみたいと 思った。

彼のひとの ヒーリングの 師匠は 
虫が 一匹 死ぬだけで 傷付く人だったそうです。
樹の葉っぱが 一枚落ちただけで、魂が 傷付くような人間だった、と。


スピリチュアルや精神世界で よく見聞きする

「 気 」  
「波動」
「エネルギー」


これらは せい度が 高くなるにつれ 

計測器では 当然 計測不能の 
小数点以下、零コンマ れいレイれいレイ・・・・・・

・・・限りなく ゼロに近いレベルの事象のもの

ものいわぬ 小さな生き物の声を
感受する彼女は  
ひじょうに 精妙な 「何か」を 感知されていた


  
     Group IX,UW No. 25, The Dove, No. 1 (1915)


凡人には あずかり知らない
高次元の世界の あり様を 感得なさっていたと思われる

師匠さんは ひと並外れた 受容体 を お持ちだった方のよう

何かを「受容」する
   「受け入れる」という事を 

スピリチュアル、精神世界界隈では とても 肯定的 に 捉えられております。

ですが、これは 並大抵の事ではない。

じっさい 
ものごとを 感得できる能力が 上がれば上がるほど、

差異や 不和が 先鋭化し、快ではなく、むしろ 不快、痛覚 に なっていく

四六時中 何らかの
刺激や 痛苦を 受け続けるのです

「カオス」 針のむしろだったと 思います。

こころも からだも 休まるときは なかったでしょう。
正気を保つ事すら 困難であったはず。

彼女は 30代で亡くなりました。 ほんとうは 20代前半で 尽きる命でしたが。


「you」 Hideyuki Hashimoto


「受容すればいい」
「ありのまま 受け入れればいい」と かんたんに いう者は 

「受容」も
「ありのまま」も 受け入れてなんかいない

 感性の ない鈍麻、頭でっかちの イイ訳 です。


「ありのまま」とは、 (いい事)や(わるい事)

    (光)(闇)
   (清浄)(汚濁) 
   (快楽)(痛苦) 
    (愛)(恐れ)を 一切 歪めることなく

そのとおり すべて「あるがまま」 許容する 境地です。



常識、道徳、倫理など へったくれもありません。

 生きる事
 生かされる事だけでなく
 殺す事、殺される事も 受容する「ひじょう」です。

ひとの常識、ひとの道徳、ひとの倫理は 通用しない。


いい事 だけ しかない
だけ 清浄、快楽、愛 だけ を 肯定しつづけるものは 

「ありのまま」という言葉 だけ でなく
 自身の 身体と こころ、いのち、魂を 裏切っている。

   この世界
   この世界のいきものが 
   なにゆえに 変化し続けるか 

そのあり様を 「御自分」で よく み極めて いただきたい。


Srv.Vinci - ABUKU-


神 労すれば 魂魄散じ、志意 乱れる。


   しんに「よい」人間なら
   ここに い続ける必要は 「ない」でしょう。

   スピリチュアル、精神世界の 
   「いらない」 しあわせな人で あります。


   まどかな世界、
   生きとし 生ける地球、よき神々とともに「ある」

   その人に み合った 次元世界クラス で  健やかに いきている

   しあわせ人に
   「祈り」「赦し」「ヒーリング」は 要らない 「ナイ」

   しあわせだから その意味も 価値も 「ない」 必要ないんですよ・・・・・・・・


   
         Childhood Group IV (1907)

心は神を蔵し、肺は魄を蔵し、
肝は魂を蔵し、脾は意を蔵し、腎は志を蔵する



  神の み許に 還り 神と 一体化し 神と ともに「在る」もの
  この現象世界 すべての次元 しんに 覚醒し 「ない」 ものが

  (神)だ、(真理)だ、(覚醒)だと いえる? できる? わかりますか?


  ここに「在る」 神、真実、覚醒というモノは
  此処に「ない」 存在していない。 モノではない 「ある」 何かです。

     「在る」次元のもの を 

       言葉モノ で 「すべて」 いえるコト? 
                 できるコト、わかるコトなのか?

   ソレより 未だ ここに「有る」 コの 自分モノ は 一体 「何」だ?


Marmalade butcher - Anima -


    物質が変化する  現象界の「有る」「無し」と
    ひ、非ざる   存在の「ある」「なし」を せいかく に 

   弁えていない もののイイは 呪 詛 に なります。


いん 極まれば ヨウとなり、ヨウ 極まれば インとなる


  「よい」スピリチュアル、精神世界のイイ
   「しん」者の イジョウが 現象のイジョウ を 引き起こしてる

  その イジョウに「よい」反作用 が いま 内外で 起きているんです。




   スピリチュアル・精神世界に 関わる事象は「うら」であり
   「ま」ことによる 「いん」に 属するもの。

   それ故 秘匿され こころあるものによって
   護られ、 受け継がれてきた 「み」の「り」で あった。


陰 極まれば陽となり、陽 極まれば陰となる

それを 「おもて」に 出し 
多くシヨウさせる、これが 一体ナニ を 生じさせたか 存知ているのか?




ここにいる 私たちは その「み」の「り」を穢し
超えてはならぬ 一線を超え 人として おかしてはならぬ 罪を犯した。

    この世界の理 因果応報 摂理が はたらき

       Πάντα ῥεῖ


「よい」だけしかない 
スピリチュアル、精神世界のにんげんは、ソの通り為した 

  トウゼンの 代償むくい を 「アリのまま」受ける事になる。



yama『愛を解く』


これは 歌を 歌うようなものなのです。

 宇宙の中核 と、
 大地の地軸 と、
 恒星と惑星 と、 個々の真我・・・

私が 言う 神とのハーモニーの中から
旋律を 聞き取り、 歌を 歌うようなものなのです。

ただ 現実の歌と同じように、
旋律の無い伴奏から、 おぼろげな歌を歌うのは 不可能に近い。

だから私は、 本人がその旋律を 体感できるようになるまで、
旋律のリードを しているわけです。

 そのうちに、 自分固有の歌い方、
      自分の旋律 (神の質)、
      強弱 (力の分配と制御)、

そして 主旋律以外の 微妙な音の伴奏も 取れるようになってゆく。


                    SET  Aditi





縁とは なんとも ふしぎ なもので

声なきものの声を 聴く
彼女の弟子も また 
師のように 悲しみ多き人生で ありました。

筆舌に 尽くしがたい 苦しみを 彼は 受け入れ、癒し、

師のように 寿命を削り 苦しみ多き者に
自らの 生命エネルギーを 分け与え
逝かれた。

不慮の事故でした。

つらかった
苦しかったことでしょう。

あなたの 苦しみの受容と 癒しの道行きが 

Compassion 「あい」の奇跡を 生みました。


Most Powerful Cinematic Movie Scene of all Time!


縁には 「因縁」「ご縁」が あるようです。


個人的な 見解ですが

因縁 は 「同じ」業因や
      「同じ」次元のものだとか 
      「同じ」何かを 保つよう 「同じ」ものごとを 繰り返す

     カルマ、平面的関係、ヨコのつながり、かと。


ご縁 は 何らかのカルマの解消、又は 逆に カルマが優勢になったとき

     自身より 高位、下位レベルのものと出会い
     たがいのカルマに 干渉し合って、 たがいの存する 時空間を「変化」させる

     次元共鳴、立体的関係、タテのつながり、と かんじます。


 


多くの生き物の苦しみを 感受する
彼のひとの弟子も 悲しい輪廻を 繰り返してきた 悲しいひとでした。

「 本来ならば 私と出会うことが無かった人 」

 師について そう述懐していた
 彼には 
 何万人もの ひとの命を奪った 前世 があった。

 それが カルマになって
 ごめんなさい、ごめんなさい って、

 彼の魂は 苦しんでいたんです。

罪の意識 による 自己処罰の 業苦カルマ でした。

 彼、学校で ずっと いじめられてました。
 暴力を 振るわれたこともあったみたい。
 社会人になっても いじめられ続けました。

 ひとに たくさん 裏切られた。

何度も
何度も 何度も 繰り返し。



「Breeze」 Hideyuki Hashimoto


終わらせたかった。
終わらせて欲しかった。


彼、ずっと死にたかった。

あの事故。
死んでもおかしくなかった彼は 蘇生した。
けれど 彼の身体は 元のようには 戻りませんでした。

下肢機能の障害、神経を損傷し、
その後 何度も 手術を 受けなければならなくなった。

一生 歩けないって、お医者さんに 言われました。
大好きなバイクには もう乗れなくなった。

痛みは 消えない。 身体が もたない。ながくない。



     Group X, No. 2, Altarpiece (1915)


彼の一族は 呪いの霊障に苦しめられ、
精神の病で 自死する人の多い お家でした。
霊能のちからが ずいぶんと お強いお血筋なんですね。それがアダになった。

霊的障害、精神障害、身体障害の 三重苦。

「血」のカルマ は 非常に 厄介です。

「日本」人である 我々の 主たる業病 ですから。

魂も 心も 身体も 
いたいイタイいたいって、泣き叫んでた

彼、また 同じ 悲しい輪廻を 繰り返して、終わるはずでした。





でもね、彼は 諦めなかった。

最後まで 決して 魂を 捨てなかったんです。

ぼろぼろの心と 身体を 見棄てることなく、
彼は、自らを 癒し続け、痛みに 業苦カルマ に あがきつづけた。

持てるもの すべてを 賭して  この自分を 生き尽くした。

そう。
だからこそ、神は 
しんなる彼の 魂ののぞみを かなえてくださった。

「愛」の邂逅。

八方塞がりだった彼は 生涯の師に出会った。

彼は 自分の魂を 救ってくれた
師である 彼女のことを 「愛の人」と 呼んでおりました。



yama「GRIDOUT」 


         あいたくて
         だれかに あいたくて
         なにかに あいたくて
         生まれてきた
         そんな気がするのだけれど

         それが だれなのか なになのか
         あえるのは いつなのか
         おつかいの とちゅうで
         迷ってしまった子どもみたい
         とほうに くれている

         それでも 手のなかに
         みえないことづけを
         にぎりしめているような気がするから
         それを手わたさなくちゃ
         だから

         あいたくて


                            工藤直子「あいたくて」

                   



秘伝の冥想行法を 公開なさった
あの御仁も 多感だった頃 死を のぞんだ方でした。

ものごころついた頃から 
自殺を 考えていた彼は 眠っている間に
死んでしまう事が  唯一の願い だったそうです。

何度も 自殺未遂を 繰り返した。けれど 死ねない。
高校を中退し、この世界に 適応できない彼が 頼みにしたのが  只管打座でした。

スピリチュアル、精神世界の しんの行は 
自死の為 のものだと 彼のひとは 無意識下で 識っていたのかもしれません。

公にみられる 教えや術法の 多くは
スーパーや コンビニで 買える お薬や サプリレベルに 希釈、簡略化 されております。

   「 薬 は 毒 」でもあるのです。

   


   「自分の事は自分自身で きめるべきであって、
    人に強制されるべきではない。
    死ぬ自由、及び 生きる自由は 許されるべきである」


彼のひとは 人への干渉と 監理を 「暴力」だと 忌み嫌う方でした。


そんな彼が 覚醒するきっかけが
ローマ時代 キリスト者の殉教を テーマにした映画「ベンハー」だったらしいです。

彼は その殉教される直前に 語られた「愛」に共鳴した。

  人間は 絶対的に 救われない、
  人間のみではない、一切万物は 絶対的に救われないのだ、
と。


    鬱屈した自身の想いが 爆発し
    彼は 泣いた。気が 狂ったように泣いた。
    その絶対的と言っていい 苦痛と悲しみ の中で 彼に 「愛」が訪れた。



悲しいは そう、かなしい「あい」

日本語の古語で 
   愛しいは 「かなしい」 と 読む

この世の 悲しみのすべてを 受け入れられないものに 愛は ありません。
自身の 悲しみの すべて 受容できないものに 愛を 語り教え、説く資格はない、


それ故 私は「A Course in Miracles」に出会い、
       「愛の人」の弟子 に 出会った。

    「何で 生まれて来たの?」と 聞かれ
    「愛を 表現しに生まれてきた」と 即答する老師の詩に 出会えた。

かなしみを受容し、わかちあうひとの「愛」

  
     


私の大学卒業論文は 
キリスト教作家 グレアムグリーン
「The End of the Affair」に おける compassion についてだった。

恩師は 能楽やオカルティズムに詳しい 
英文学、英詩を 専門とする教授で、
年のちかい 兄のような  キリスト者 だった。

ふしぎ。

私の生は 意図しない
「何か」 ひとつの道に 収斂されてゆく

・・・・・・

かつての私が 果たせなかった 
わたしの 責任つとめ を 今こそ 私は 果たさなければなりません。



The Elders | Mothers


今回ブログで使用した クレジットのある絵は ヒルマ・アフ・クリントの絵画です☆


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