Cupka wa kamuy ran
Iwa teksam oran
Iwa tuysam konkani may na cinu
Iwa teksam oran
Iwa tuysam konkani may na cinu

しじんさん は
生まれたときから
「しじんさん」じゃ ありませんでした。
ひょろり ひょろひょろ ちっぽけで
びくびく ひくひく ぴくんぴくん
いつも ナニかに 怯えて ちいさく 小さく からだを丸めて
いつも べそべそ めそめそ ないていた
それは それは やわやわの 「ケモノさん」 だったんです。
よわいケモノは みんなと 同じ では 生きていけない。
shumatumu chashchash, towa towa to
nitumu chashchash, towa towa to
誰よりも やわやわの しじんさんは
よく ほかのケモノさんから いじめられました。
「どうして おれは いじめられるの?」
まっすぐな道でさみしい
生まれたときから
「しじんさん」じゃ ありませんでした。
ひょろり ひょろひょろ ちっぽけで
びくびく ひくひく ぴくんぴくん
いつも ナニかに 怯えて ちいさく 小さく からだを丸めて
いつも べそべそ めそめそ ないていた
それは それは やわやわの 「ケモノさん」 だったんです。
よわいケモノは みんなと 同じ では 生きていけない。
shumatumu chashchash, towa towa to
nitumu chashchash, towa towa to
誰よりも やわやわの しじんさんは
よく ほかのケモノさんから いじめられました。
「どうして おれは いじめられるの?」
まっすぐな道でさみしい
月初 事務手続きについて
必ず 電話を かけてくるひとがいる。
数年前に 退職し
70を ゆうに超えた そのひとの話は
いつも 同じ 間違いようのない事ばかりで
本人が それとなく 話していたのだが
おそらく 認知症が 進行しているのだと思う。
忘れないうちに 電話をしておこうと
思いましてね・・・・・・
そう話す 彼の声 は いつも 明るく 朗らかで 元気そうだ。

あるけばかつこう いそげばかつこう

閉じた空間
空腹を満たし、排泄する
憲法第13条で 許された ひとの幸福
徘徊するひとを始終 見守り
寝たきりのひとの下の世話 床ずれに気を配る
かみ合わない会話に お互いが お互いに腹を立て合う
「イマ」 である。
しずけさは死ぬるばかりの水ながれて

ケダモノのような思いが 次第
そのひとの こころにあった光明 を のみ込んで
金はない
時間がない
自由はない 苦しみしかない

必ず 電話を かけてくるひとがいる。
数年前に 退職し
70を ゆうに超えた そのひとの話は
いつも 同じ 間違いようのない事ばかりで
本人が それとなく 話していたのだが
おそらく 認知症が 進行しているのだと思う。
忘れないうちに 電話をしておこうと
思いましてね・・・・・・
そう話す 彼の声 は いつも 明るく 朗らかで 元気そうだ。

それでも この頃は
かんじんの言葉が 出てこず
しばしば 言いよどむことが 増えてきた。
へどもどする彼に 私は 先回りして
こう言いたいのでは、と 思われる 言葉を 差し出す
すると どこからか 小さく 背を丸め
ころもとない 笑顔を浮かべた彼の
かなしい瞳が みえるようで しぜん 私の声も まあるくなる。
電話口から 聞こえてくる
彼の近くにいると思 しき 彼の奥さんの
とがった声も まあるくなればいいな、と 願いながら。
けふもいちにち風を歩いてきた
かんじんの言葉が 出てこず
しばしば 言いよどむことが 増えてきた。
へどもどする彼に 私は 先回りして
こう言いたいのでは、と 思われる 言葉を 差し出す
すると どこからか 小さく 背を丸め
ころもとない 笑顔を浮かべた彼の
かなしい瞳が みえるようで しぜん 私の声も まあるくなる。
電話口から 聞こえてくる
彼の近くにいると
とがった声も まあるくなればいいな、と 願いながら。
けふもいちにち風を歩いてきた
I Have Confidence — The Sound of Music (1965)
あるけばかつこう いそげばかつこう
わずかな間だったが 以前 介護の仕事を していた。
介護されるひと
介護する ご家族のかたの
なまの声に 触れただけで かんじた
逃れ得ぬ
ひとの業が ありありと 浮かんで
私は 何も言えなくなることが 度々 あった。
終わりの見えない日々に倦 み
疲れきったひとの やるかたない現実には
幸せだとか
愛だとか 真実だとか 恵まれた人間の
生やさしい言葉も ご尤もな 精神論も 通用しない。
介護されるひと
介護する ご家族のかたの
なまの声に 触れただけで かんじた
逃れ得ぬ
ひとの業が ありありと 浮かんで
私は 何も言えなくなることが 度々 あった。
終わりの見えない日々に
疲れきったひとの やるかたない現実には
幸せだとか
愛だとか 真実だとか 恵まれた人間の
生やさしい言葉も ご尤もな 精神論も 通用しない。

ざんばら髪
表情の乏しい目
すえた臭い
筋張った声
色あせ よれよれの衣服
表情の乏しい目
すえた臭い
筋張った声
色あせ よれよれの衣服
Towa towa to towa towa to
閉じた空間
空腹を満たし、排泄する
憲法第13条で 許された ひとの
徘徊するひとを始終 見守り
寝たきりのひとの下の世話 床ずれに気を配る
かみ合わない会話に お互いが お互いに腹を立て合う
「イマ」 である。
Gibran Alcocer - Idea 10
自由に 生活を楽しむひとたちを しり目に
自由に 自分も いきられたはずの時間
自由の効かない
身体と心に 留められたひと
介護のために 供じられるひと
日の当たる世界から 隔絶した
先のみえない その苦々しい日常は
逃げ場のない監獄にいる われわれ繋囚 の
まったき苦海 だった。
自由に 自分も いきられたはずの
自由の効かない
身体と心に 留められたひと
介護のために 供じられるひと
日の当たる世界から 隔絶した
先のみえない その苦々しい日常は
逃げ場のない監獄にいる われわれ
まったき
しずけさは死ぬるばかりの水ながれて

元気だった頃の そのひとは
優しく 笑い 自分を 愛してくれた 大切なひとだったかもしれない。
何でも思い通り ひとを束縛する もう 関わりたくないひとだったかもしれない。
イマの 貴方は 意思疎通の よくかなわない「物体」
ひとのカワを被った 見知らぬ「イキモノ」
私の自由を さらに奪う 「お荷物」 「厄介モノ」 だ。
ああ
こんなモノは もうイヤダ 終わらせてほしい
ああ コレさえなければ
コイツが いなければ オマエが 死んでしまえば
どれほど「自分」は 楽に、幸せに なれるだろう・・・・・・
優しく 笑い 自分を 愛してくれた 大切なひとだったかもしれない。
何でも思い通り ひとを束縛する もう 関わりたくないひとだったかもしれない。
イマの 貴方は 意思疎通の よくかなわない「物体」
ひとのカワを被った 見知らぬ「イキモノ」
私の自由を さらに奪う 「お荷物」 「厄介モノ」 だ。
ああ
こんなモノは もうイヤダ 終わらせてほしい
ああ コレさえなければ
コイツが いなければ オマエが 死んでしまえば
どれほど「自分」は 楽に、幸せに なれるだろう・・・・・・
ネジ巻き師と太虚鳥 lasah × sasakure.UK / taixu
ケダモノのような思いが 次第
そのひとの こころにあった
Towa towa to ふかい
ふかい闇のソコへ 沈んでいく Towa towa to
ふかい闇のソコへ 沈んでいく Towa towa to
金はない
時間がない
自由はない 苦しみしかない
地獄絵図のような
そのひとの せいかつは かわらず 続いていく
にんげんらしい温情 など
はじめから なかったかのように
そんな ケダモノの目は 赫い。
そのひとの せいかつは かわらず 続いていく
にんげんらしい
はじめから なかったかのように
Towa towa to くらい
くらいソコなしへ 堕ちていく Towa towa to
くらいソコなしへ 堕ちていく Towa towa to
そんな ケダモノの目は 赫い。

Towa towa to
やわやわ ちっちゃな しじんさんは
いじめられないよう
誰もいない 山の奥、いつも 隠れるように いきていた。
しじんさんは いつもはらぺこ ぐうぐうぐう
おなかと ハートが ないてる ぐうるぐるう
Hokokse おれ「まんま」ほしい。
hokokse おれ「まんま」が ないと うごけない。
ああ(笑) ここにいると 「私 」 は はらぺこ になるんだ。

おれ「まんま」あると 気もちいいの。
shumatumu chashchash, towa towa to
おれ「まんま」ほしい。
nitumu chashchash, towa towa to
toishikimanaush, towa towa to
wenshikimanaush, towa towa to
ここには 「まんま」は ないんだ。
sarpoki huraot, towa towa to
sarpoki munin, towa towa to
だから みんな 「まんま」 いっぱい ほしいんだ。

ointenu, towa towa to
otaipenu, towa towa to
みんな私 と 「同じ」ケモノさん なんだ。
「まんま」 ありたい
「まんま」 いっぱいいる
inkar hetap neptap teta ki humi okai.
みんな君 と 「まんま」 同じ はらぺこのケモノさんなんだよ
My sweet heart.
酔ふほどに買へない酒をすするのか

お前達、
心を 停止させて 静寂を 探したり、
心を 集中して 世界を 光明化しようとしたり、
心を 制御して 内面を 光明化したり、
心を 統一して 三昧に 入ったりするなら、
こんな 奴らは 皆 偽もの にすぎん
あゝ 相変わらず 貴方は くえない御仁だ。
Towa towa to
ひとの不幸で、メシ食う ヨイ人間は
かくして 光でも 闇でもない おカミに 逃げるワケ、か。
道元禅師でさえ、その自由で 清浄な生活は
非常な 意識的な努力と 緊張とによって ささえられていたように思える。
悟りは あっても、それは 持続せず、
悟りの持続への願いは 正法眼蔵という哲学書に 化けてしまったのだろう。
それに対して ラーマクリシュナなどの生涯に 関するものを 調べてみると、
遥かに 自由そのもので あったような印象を受ける。

毎月 私に電話をくれる
あの年老いた 彼の声を聞くたび よみがえる
Cupka wa kamuy ran
あのときの じぶんの無力さ いたらなさ
じりじりと 身を焼かれる あの痛み
Iwa teksam oran
あの想い
この意志を
私は もう「なし」には できない。
「彼」は 方便を 好まない。
「彼」は 救世主を 好まない。
「彼」は 聖人を 好まない。
「彼」は 人格者を 好まない。
その「彼」の
すべてと ドウカするまで 存分に
しんじつ 善いおのれと おのが 追従者の自我を コエさせ シアワセに なさるが ヨイ
口先の 見せ方を ヨク会得した イけない おおカミ おカミのまにまに YOU tuber
toishikimanaush, towa towa to 眼の曇った つまらない奴
wenshikimanaush, towa towa to 眼の曇った 悪い奴
「彼」は 人間的人格者と 人間的努力を 認めない 実に イイ奴だ。

【国宝】雪舟「秋冬山水図」(冬景図)(東京国立博物館)
コのヨをば 我が YOUとぞ思ふ
カイ春に 売買ヨク成る メイソウかな、笑
西行の和歌に おける、
宗祗の連歌に おける、
雪舟の絵に おける、利休が 茶における
あの「幽玄」すら 感応し得ない 愚鈍の輩に 求道も 成道も 罷り成らん。
ある種の坊主どもは、
腹いっぱい 飯をくって座禅し、冥想に入るという。
聖なるものという 妄念をつかまえて放さず、
喧噪を嫌って 静寂ばかり好む。外道の教えだ。
ソの通り、
クンダリーニ・ヨガごっこ、
冥想ごっこ、救世主ごっこで 永遠に
疑似アストラル・トリップもどきと 戯れて イるがよい。
売れ線スピ本 精神世界用語集あたりで、
この世のすべてを ヨク学ばれた
アシュタール、バシャール、ゆうめい 高次元生命体様の 御言葉の如く
「 死は 変化に過ぎない 」「 魂や霊は 死ねない 」
「 善も悪も 存在しない 」なぞ イイたがるようでは ハナシに ならんなあ
「不可能説」の次は「可能説」を
ぶち上げる その程度の オツムの覚醒レベルなんぞ
今どき Chat GPT を 使いこなせば
コト足りる チンカス同然の カルマ「覚醒」思考だよ。
右のモノを 左に、左のモノを 右に
上下を 逆転、イイ言葉を 反転させれば イイだけ
「 精神 > 肉体」 とする カルト宗教、カルト教祖と 同じ シコウ式だ。
スピのレトリック、
精神世界の 修辞学みたいなもんだ、 カンタンさ。
「すべて」 単純な 方法論、テクニックで カタが つく モノにしただけ。

sarpoki huraot, towa towa to 尻尾の下の 臭い奴
sarpoki munin, towa towa to 尻尾の下の 腐った奴
私が 主に 観ているのは ココの論理形式 の 是非 だ。
「 2 たす 2 は 5 」という
イイ式「 ● たす ▲ は ■ 」の 洗脳を 解く事だよ、ACIM教 ワプニク信者諸君。
「レベル1」「レベル2」という その ヨイおクチは 今、一体どこに 在るのだ ?
式に 代入する 用語や数の「正誤」ではない。
そんな イイ論理形式で 得られるような「解」など こちとら ハナから 論外 だ。
「何か」を カタチにする
「何か」を 言葉にする事自体原因 あって 生じる 事象 だ。
カタチ、言葉にしたものは 「よい」「ただしい」から 「する」
カタチ、言葉にしなかったものは 「よくない」「ただしくない」から 「しない」
ただ、ソレだけの事だ。
カタチ、言葉にした時点で、既に行為主体者 の
「良し・悪し」「正しい・間違い」の 価値判断 が 下された 後 なんだから。

「 本当に言いたいことは 語ることが出来ない 」
まさに そのイイこそが
ゆうめい 非二元教祖 A氏と 同じ外道 に 堕ちた 証しだ。
「 本当に言いたいことは 語ることが出来ない 」なら 「語らない」が 正しい。
「 本当に言いたいことは 語ることが出来ない 」と 貴方は 語った、その文言は
本当に言いたいこと だから、そう語った、そのイイ行為は 一体 どういう了見か?
方便には 方便ナリの げんみつな ルール原則 が ある。 因果律 だ。
Towa towa to
スピの常套句や 精神世界の概念理論を 常用する その必要性 を
「多面」的に 観察し、捉えて
「多角」的に 考えて 続けていけば
リーディングや 霊視など 特別なコトを しなくても 相手の素性や 機根 など

「 娑婆の 大騒ぎを よそに 僕たちは 思考のない世界に入っていきましょう。 」

こんなふうに 言う、イケない
私の「シンイ」を ヨク引き出したくて イイかえすだろう
ビンゴ。
てふてふひらひらいらかをこえた
ささやかな 日々の営みが 壊れていく
どうしようもない 出来事に 翻弄されるひとたちを
私は 今まで 数多く 見送ってきた。
これからも 変わらず 見送ることになるだろう。
今よりも それは
もっともっと 多くなるだろうと 観じている。

酔へば物音なつかし街の落花踏む
できアイの理想論、 聖人覚者の教えを
他人サマに 説いて偉ぶるような 甘ったれた自分、
ひとごとの人生など いきるつもりなど 毛頭ない。
「 私 」 は

酔へば物音なつかし街の落花踏む
この無数の 個生命の活作用である 現象界では、
窮極本質と いうことや、
悟りの高低深浅など 問題に ならない。
要は、あらゆる 個生命が、もっとも、
それぞれに ふさわしく 生き切り、死に切るということなのだ。
それが、どのような 生き方であろうと、
もはや 自己の天命を 生きているものにとって、
いかなる問題も 存在しない。

やわやわ ちっちゃな しじんさんは
いじめられないよう
誰もいない 山の奥、いつも 隠れるように いきていた。
しじんさんは いつもはらぺこ ぐうぐうぐう
おなかと ハートが ないてる ぐうるぐるう
Hokokse おれ「まんま」ほしい。
hokokse おれ「まんま」が ないと うごけない。
ああ(笑) ここにいると 「

おれ「まんま」あると 気もちいいの。
shumatumu chashchash, towa towa to
おれ「まんま」ほしい。
nitumu chashchash, towa towa to
ああ、そうだ。笑
「まんま」おなか にあると 気持ちいいね。
ハートの「まんま」なら しあわせだあ。
「まんま」 いっぱい
「まんま」 しあわせ
「まんま」の ケモノさんは つよいんだよ。
「まんま」は 大事 だ。
「まんま」おなか にあると 気持ちいいね。
ハートの「まんま」なら しあわせだあ。
「まんま」 いっぱい
「まんま」 しあわせ
「まんま」の ケモノさんは つよいんだよ。
「まんま」は 大事 だ。
Andrea Vanzo - Windy Day (Official Visualizer)
おれ「まんま」いっぱい ほしい。
おれ「まんま」のしあわせ いっぱい ほしいよう。
おれ「まんま」のしあわせ いっぱい ほしいよう。
toishikimanaush, towa towa to
wenshikimanaush, towa towa to
ここには 「まんま」は ないんだ。
sarpoki huraot, towa towa to
sarpoki munin, towa towa to
だから みんな 「まんま」 いっぱい ほしいんだ。

ointenu, towa towa to
otaipenu, towa towa to
みんな
「まんま」 ありたい
「まんま」 いっぱいいる
inkar hetap neptap teta ki humi okai.
みんな
My sweet heart.
2025カイ)エセー:一献哥『白昼の海へ』~翰林による「しちく」
( 2019-10-09 公開 / 現在クローズ)
( 2019-10-09 公開 / 現在クローズ)
「60のゆりかご」- アイヌ語音声日本語字幕
ひとは ひとり
業火の苦しみに 耐え続けられるほど 強くはない。
誰かに なんとかしてもらいたくて
誰かに 受け入れてもらいたくて
繋がった 電話の先
ネットの向こうにいる 「誰か」に
ひとときでいい ひとりではない 慰めを 見出そうと恃 む
そんな ひとの話を 聞くだけの日が あの頃
よく あったように 記憶している。
業火の苦しみに 耐え続けられるほど 強くはない。
誰かに なんとかしてもらいたくて
誰かに 受け入れてもらいたくて
繋がった 電話の先
ネットの向こうにいる 「誰か」に
ひとときでいい ひとりではない 慰めを 見出そうと
そんな ひとの話を 聞くだけの日が あの頃
よく あったように 記憶している。
酔ふほどに買へない酒をすするのか

その頃の 私は ただ「はい」
「はい」と 応じる事しか できなかった。
Towa towa to
はなせる誰かが 居るひとたちは いい。
頼るもののいない 潜在のひとは ごまんといるだろう。
Towa towa to 彼らは 「私」 その反映 か。
「はい」と 応じる事しか できなかった。
Towa towa to
はなせる誰かが 居るひとたちは いい。
頼るもののいない 潜在のひとは ごまんといるだろう。
Towa towa to 彼らは 「私」 その
お前達、
心を 停止させて 静寂を 探したり、
心を 集中して 世界を 光明化しようとしたり、
心を 制御して 内面を 光明化したり、
心を 統一して 三昧に 入ったりするなら、
こんな 奴らは 皆 偽もの にすぎん
Samson François plays Debussy's 「 l' Isle Joyeuse 」
あゝ 相変わらず 貴方は くえない御仁だ。
Towa towa to
ひとの不幸で、メシ食う ヨイ人間は
道元禅師でさえ、その自由で 清浄な生活は
非常な 意識的な努力と 緊張とによって ささえられていたように思える。
悟りは あっても、それは 持続せず、
悟りの持続への願いは 正法眼蔵という哲学書に 化けてしまったのだろう。
それに対して ラーマクリシュナなどの生涯に 関するものを 調べてみると、
遥かに 自由そのもので あったような印象を受ける。
行雲流水に関する悟りと、
本当に その人間が 行雲流水であるということは、
ぜんぜん 宗教学や、
賢人聖者などという 世俗的評価とは 無縁のもののように思える。
どのような 深遠な思索を並べた所で、
自由そのもの
愛そのもの 解脱そのもの実感を、
あるいは 実際を 生きるということに、すべては 尽きるのではないか。
「正当行法による冥想」より
本当に その人間が 行雲流水であるということは、
ぜんぜん 宗教学や、
賢人聖者などという 世俗的評価とは 無縁のもののように思える。
どのような 深遠な思索を並べた所で、
自由そのもの
愛そのもの 解脱そのもの実感を、
あるいは 実際を 生きるということに、すべては 尽きるのではないか。
「正当行法による冥想」より

毎月 私に電話をくれる
あの年老いた 彼の声を聞くたび よみがえる
Cupka wa kamuy ran
あのときの じぶんの無力さ いたらなさ
じりじりと 身を焼かれる あの痛み
Iwa teksam oran
あの想い
この意志を
私は もう「なし」には できない。
Iwa tuysam konkani may na cinu
「 これは夢なんだ 」
そうイイきかせる呪文が 多くの ひとの口の端に のぼり
ひとになれない 数多の 獣の涙が 見過ごされる、
ひとの ヨイを 貪る快獣 が ナニでも ツカえる真実を モノにしてしまった。
「 これは夢なんだ 」
そうイイきかせる呪文が 多くの ひとの口の端に のぼり
ひとになれない 数多の 獣の涙が 見過ごされる、
Inkar hetap neptap
teta ki humi okai. なんという物の見方をしたのだろう
teta ki humi okai. なんという物の見方をしたのだろう
ひとの ヨイを 貪る
Riwkakant 「 gift 」
「彼」は 方便を 好まない。
「彼」は 救世主を 好まない。
「彼」は 聖人を 好まない。
「彼」は 人格者を 好まない。
その「彼」の
すべてと ドウカするまで 存分に
しんじつ 善いおのれと おのが 追従者の自我を コエさせ シアワセに なさるが ヨイ
口先の 見せ方を ヨク会得した イけない おおカミ おカミのまにまに YOU tuber
toishikimanaush, towa towa to 眼の曇った つまらない奴
wenshikimanaush, towa towa to 眼の曇った 悪い奴
「彼」は 人間的人格者と 人間的努力を 認めない 実に イイ奴だ。

【国宝】雪舟「秋冬山水図」(冬景図)(東京国立博物館)
コのヨをば 我が YOUとぞ思ふ
カイ春に 売買ヨク成る メイソウかな、笑
じせいのない 仮想現実空間の キよき者には
ドクドクしい 化石燃料物で 作る均等均一 AI 冥想 ニルヴァーナ が ヨク合う
ドクドクしい 化石燃料物で 作る
西行の和歌に おける、
宗祗の連歌に おける、
雪舟の絵に おける、利休が 茶における
あの「幽玄」すら 感応し得ない 愚鈍の輩に 求道も 成道も 罷り成らん。
ある種の坊主どもは、
腹いっぱい 飯をくって座禅し、冥想に入るという。
聖なるものという 妄念をつかまえて放さず、
喧噪を嫌って 静寂ばかり好む。外道の教えだ。
ソの通り、
クンダリーニ・ヨガごっこ、
冥想ごっこ、救世主ごっこで 永遠に
疑似アストラル・トリップもどきと 戯れて イるがよい。
Glenn Gould - Beethoven, Piano Sonata No. 17 in D minor "The Tempest": III Allegretto (OFFICIAL)
売れ線スピ本 精神世界用語集あたりで、
この世のすべてを ヨク学ばれた
アシュタール、バシャール、ゆうめい 高次元生命体様の 御言葉の如く
「 死は 変化に過ぎない 」「 魂や霊は 死ねない 」
「 善も悪も 存在しない 」なぞ イイたがるようでは ハナシに ならんなあ
「不可能説」の次は「可能説」を
ぶち上げる その程度の オツムの覚醒レベルなんぞ
今どき Chat GPT を 使いこなせば
コト足りる チンカス同然の カルマ「覚醒」思考だよ。
右のモノを 左に、左のモノを 右に
上下を 逆転、イイ言葉を 反転させれば イイだけ
「 精神 > 肉体」 とする カルト宗教、カルト教祖と 同じ シコウ式だ。
スピのレトリック、
精神世界の 修辞学みたいなもんだ、 カンタンさ。
「すべて」 単純な 方法論、テクニックで カタが つく モノにしただけ。

sarpoki huraot, towa towa to 尻尾の下の 臭い奴
sarpoki munin, towa towa to 尻尾の下の 腐った奴
私が 主に 観ているのは ココの
「 2 たす 2 は 5 」という
イイ式「 ● たす ▲ は ■ 」の 洗脳を 解く事だよ、ACIM教 ワプニク信者諸君。
「レベル1」「レベル2」という その ヨイおクチは 今、一体
式に 代入する 用語や数の「正誤」ではない。
そんな イイ論理形式で 得られるような「解」など こちとら ハナから 論外 だ。
「土着の民原始人類の意識を突き放した」 イイ 選民思想 による
亜流の チャールズ・マンソン「覚醒教」尊師は 人類種を ヨク目覚めさせんが為、
「グローバリズム と 反グローバリズム」など チンケな 試論もどきで
大悟 だか 許し だか ネットくんだりで イこえる イイ冥想家、イイ神の教師センセイらは
畢竟、ゼン人類 ヲタクの一元化 「教」 伝道 の 御為
今ココにいる 情弱の ボクちゃん、やりマン ジョウちゃんを ナンドも 何度も
自分に ツカえる供物 に メシあげ、ノシかかろうと ご登壇なさるだろうから
亜流の チャールズ・マンソン「覚醒教」尊師は 人類種を ヨク目覚めさせんが為、
「グローバリズム と 反グローバリズム」など チンケな 試論もどきで
大悟 だか 許し だか ネットくんだりで イこえる イイ冥想家、イイ神の教師センセイらは
畢竟、ゼン人類 ヲタクの
今ココにいる 情弱の ボクちゃん、やりマン ジョウちゃんを ナンドも 何度も
自分に ツカえる
Dinu Lipatti plays Bach-Hess Chorale "Jesu Joy of Man's Desiring", rarer 1947 version
「何か」を カタチにする
「何か」を 言葉にする事自体
カタチ、言葉にしたものは 「よい」「ただしい」から 「する」
カタチ、言葉にしなかったものは 「よくない」「ただしくない」から 「しない」
ただ、ソレだけの事だ。
カタチ、言葉にした時点で、既に
「良し・悪し」「正しい・間違い」の 価値判断 が 下された 後 なんだから。
要は ここにいる 原因 は カタチ通り 、言葉通り いきられないから
「よい」事を イイ つづける
「ただしい」事を イイ 表わさずには イられない
ソの原因 が 有るから、 未だ ココに 「イル」ワケだろ。
ointenu towa towa to お尻からやにの出る奴
otaipenu towa towa to お尻から汚い水の出る奴
「よい」事を イイ つづける
「ただしい」事を イイ 表わさずには イられない
ソの
ointenu towa towa to お尻からやにの出る奴
otaipenu towa towa to お尻から汚い水の出る奴

「 本当に言いたいことは 語ることが出来ない 」
まさに そのイイこそが
ゆうめい 非二元教祖 A氏と 同じ
「 本当に言いたいことは 語ることが出来ない 」なら 「語らない」が 正しい。
「 本当に言いたいことは 語ることが出来ない 」と 貴方は 語った、その文言は
本当に言いたいこと だから、そう語った、そのイイ行為は 一体 どういう了見か?
方便には 方便ナリの げんみつな ルール原則 が ある。 因果律 だ。
だから 釈迦は ルール通り
語ることが 出来ない「問い」 には 語らない「答え」で 返した。体現した。
ルール違反の 言動不一致 を 繰り返すだけでなく
「~だけ」 という語の多用に 反映する
排他的 シコウ ソレらは カルマ思考に よく見られる典型 だ。
おめでとう。これで 貴方も A 氏 同様
立派な「アナのムジナ」に お成りだ、ゴイ教の エナジーバンパイヤ君。
語ることが 出来ない「問い」 には 語らない「答え」で 返した。体現した。
ルール違反の 言動不一致 を 繰り返すだけでなく
「~だけ」 という語の多用に 反映する
排他的 シコウ ソレらは カルマ思考に よく見られる
おめでとう。これで 貴方も A 氏 同様
立派な「アナのムジナ」に お成りだ、ゴイ教の エナジーバンパイヤ君。
人生のメリーゴーランド (ハウルの動くシロ) from Seoul Han River
Towa towa to
スピの常套句や 精神世界の概念理論を 常用する その
「多面」的に 観察し、捉えて
「多角」的に 考えて 続けていけば
リーディングや 霊視など 特別なコトを しなくても 相手の素性や 機根 など
人並み の知覚と 読解力 で おおよそ、見抜くことは 可能だ。
言葉を 介して 我々は 意思疎通 を 図っている。むつかしい事じゃない。
オーラ、波動、気、エネルギー、霊なども
ただしく 勘案すれば より せいかくな 実態が 掴めるようになるよ
Towa towa to
言葉を 介して 我々は 意思疎通 を 図っている。むつかしい事じゃない。
オーラ、波動、気、エネルギー、霊なども
ただしく 勘案すれば より せいかくな 実態が 掴めるようになるよ
Towa towa to

「 娑婆の 大騒ぎを よそに 僕たちは 思考のない世界に入っていきましょう。 」
この一文から 相手に
「自分」は 特別な人間 と 思わせる イイ言葉 「 娑婆の 大騒ぎを よそに 」 「 思考のない (いい) 世界 」
シタてに 見せ、閉鎖的コミュニティ へ 誘う イイ言葉 「 僕たち (だけ) は ~しましょう 」 が 読み取れる。
また、 「 予言 」 「 量子力学 」 など 人の眼を引く 蓋然性の 曖昧な イイを ヨク利用し
「 日本神話 」 「 皇室 」 「 国家 」 などに 関する イイは 一体感、帰属意識 を ヨク助長できる シロモノだ。
「自分」は 特別な人間 と 思わせる イイ言葉 「 娑婆の 大騒ぎを よそに 」 「 思考のない (いい) 世界 」
シタてに 見せ、閉鎖的コミュニティ へ 誘う イイ言葉 「 僕たち (だけ) は ~しましょう 」 が 読み取れる。
また、 「 予言 」 「 量子力学 」 など 人の眼を引く 蓋然性の 曖昧な イイを ヨク利用し
「 日本神話 」 「 皇室 」 「 国家 」 などに 関する イイは 一体感、帰属意識 を ヨク助長できる シロモノだ。
ソの 人心掌握 の 手口 は いたって 単純。
ソの 誤魔化し様 も みな一様に、ワンパターン。
だが、負のエネルギー、 波動、 邪霊が 「イジョウ」 に しつこい。
自分に 「ヒ」が いかないような イイ言葉 を 繰り返し
手下を うまく使い、フォロワーを よく煽って 何度も 何度も 繰り返させる
Towa towa to towa towa to
ソの 誤魔化し様 も みな一様に、ワンパターン。
だが、負のエネルギー、 波動、 邪霊が 「イジョウ」 に しつこい。
自分に 「ヒ」が いかないような イイ
手下を うまく使い、フォロワーを よく煽って 何度も 何度も 繰り返させる
Towa towa to towa towa to

こんなふうに 言う、イケない
私の「シンイ」を ヨク引き出したくて イイかえすだろう
ビンゴ。
当人らが 自覚しているかは 別として、
じしんの 魂の断末魔 を 感じる度に、執拗に ナニモノかに 絡む。
なぜなら、図 星 だから。
じしんの 魂の断末魔 を 感じる度に、執拗に ナニモノかに 絡む。
なぜなら、図 星 だから。
「しんじつ」 善く 生きておれば
相手の言葉に 動じまい。こたえない。 貴方は その相手 を いきていないのだ。
「しんじつ」 自らを いきているのなら
スピリチュアル、精神世界など 必要ない。 ここにいない。いるはずがない。
Towa towa to towa towa to
繰り返す ソの原因が「ない」からだよ。
相手の言葉に 動じまい。こたえない。 貴方は その
「しんじつ」 自らを いきているのなら
スピリチュアル、精神世界など 必要ない。 ここにいない。いるはずがない。
Towa towa to towa towa to
繰り返す ソの原因が「ない」からだよ。
フジ子・ヘミング prays リスト「愛の夢」
てふてふひらひらいらかをこえた
ささやかな 日々の営みが 壊れていく
どうしようもない 出来事に 翻弄されるひとたちを
私は 今まで 数多く 見送ってきた。
これからも 変わらず 見送ることになるだろう。
今よりも それは
もっともっと 多くなるだろうと 観じている。
どうしようもない私が歩いている
日々 接するひとたちの眼が 光を 失いつつある。
まさに 生きながらにして 死んでいく
ひとのあり様を 今 この私は まざまざと 感じて生きている。
ひとが そのひととして 全うし
ひとが ひととして 生きて 死ぬことが
どれほど 軽んじられているか。
日々 接するひとたちの眼が 光を 失いつつある。
まさに 生きながらにして 死んでいく
ひとのあり様を 今 この私は まざまざと 感じて生きている。
ひとが そのひととして 全うし
ひとが ひととして 生きて 死ぬことが
どれほど 軽んじられているか。

今 目の前にいる
かなしい眼をした このひとを 「夢」だなんて
私は 思えない。
思えないものを
「夢」だと 私は 言いたくはない。
しんの実存は たしかに「神」とともに あるかもしれない。
かなしい眼をした このひとを 「夢」だなんて
私は 思えない。
思えないものを
「夢」だと 私は 言いたくはない。
しんの実存は たしかに「神」とともに あるかもしれない。
分け入つても分け入つても青い山
なれど 私は
かなしい「貴方」とともに こうして 生きているから。
胸に湧きあがる 甘く 狂おしい
愛にも 怒りにも 似た この情動のほとばしりを
あるがままに 受けとめるには 君よ
今の「私」は ひどく 小さいんだ。
かなしい「貴方」とともに こうして 生きているから。
胸に湧きあがる 甘く 狂おしい
愛にも 怒りにも 似た この情動のほとばしりを
あるがままに 受けとめるには 君よ
今の「私」は ひどく 小さいんだ。
"Edelweiss" ft. Christopher Plummer's Original Vocals
酔へば物音なつかし街の落花踏む
できアイの理想論、 聖人覚者の教えを
他人サマに 説いて偉ぶるような 甘ったれた自分、
ひとごとの人生など いきるつもりなど 毛頭ない。
「 私 」 は
崩れ落ちていく
ひとの姿をした ケモノたちを
抱きしめることの できる ひとの「身魂 」が ほしい。
ケモノにも成れる 「自分」が
ひととして この私として 生きていくことのできる
それが ここにいる 私の しんの「のぞみ」
possibility だ。
ひとの姿をした ケモノたちを
抱きしめることの できる ひとの「
ケモノにも成れる 「自分」が
ひととして この私として 生きていくことのできる
それが ここにいる 私の しんの「のぞみ」
possibility だ。

酔へば物音なつかし街の落花踏む
たがいの 爪牙 が 触れあうたび
たがいちがう 身心は 近ければ 近くなるほど
ひとを 傷つけ
ひとに 傷つけられるだろう。
血だらけになり、身心が ずたずたに 切り裂かれたとしても
それでも 「あなた」の
そのあたたかな 血の「ぬくもり」と
ふるえる 「こころ」を この身に かんじ 涙できるなら
これが この 「 私 」 の
今 ここで生きている 「わたし」 の たしかな 手応えである。
たがいちがう 身心は 近ければ 近くなるほど
ひとを 傷つけ
ひとに 傷つけられるだろう。
血だらけになり、身心が ずたずたに 切り裂かれたとしても
それでも 「あなた」の
そのあたたかな 血の「ぬくもり」と
ふるえる 「こころ」を この身に かんじ 涙できるなら
これが この 「 私 」 の
今 ここで生きている 「わたし」 の たしかな 手応えである。
「Climb Every Mountain」すべての山に登れ
この無数の 個生命の活作用である 現象界では、
窮極本質と いうことや、
悟りの高低深浅など 問題に ならない。
要は、あらゆる 個生命が、もっとも、
それぞれに ふさわしく 生き切り、死に切るということなのだ。
それが、どのような 生き方であろうと、
もはや 自己の天命を 生きているものにとって、
いかなる問題も 存在しない。

手負い の ままでよい
この「私」は
今日も また 戦場のような この世界に対 おう。
ただいま。 これが 私のいる 「現実」だ。
「夢のようですね。」
私は、いい酔い心地のまま そうつぶやいた。
老師は、半眠の程で静かにうなづかれたようだった。
夜が さらにふかまり、不思議に 静かな夜だった。
昭和51年7月31日 琉球の久遠の陽光の下 如意第慈 拝
この「私」は
今日も また 戦場のような この世界に
ただいま。 これが 私のいる 「現実」だ。
「夢のようですね。」
私は、いい酔い心地のまま そうつぶやいた。
老師は、半眠の程で静かにうなづかれたようだった。
夜が さらにふかまり、不思議に 静かな夜だった。
昭和51年7月31日 琉球の久遠の陽光の下 如意第慈 拝
サカナクション「 怪獣 」
文中の緑字は 2025カイ)エセー:一献哥『白昼の海へ』~翰林による「しちく」 ( 2019-10-09 公開 / 現在クローズ)
紅字は 種田山頭火の俳句
紫(アメジスト)字は Dダイジ「超宗派的冥想」「メディテーション・トラベルガイド」より
本エセーは 2019年6月25日公開(現在クローズ)した 『DO』 どれみ の詩 ① ~「手」ごころ ~ を再編集いたしました。
紅字は 種田山頭火の俳句
紫(アメジスト)字は Dダイジ「超宗派的冥想」「メディテーション・トラベルガイド」より
本エセーは 2019年6月25日公開(現在クローズ)した 『DO』 どれみ の詩 ① ~「手」ごころ ~ を再編集いたしました。