昨日の「日本とドイツの戦後(謝罪と賠償) 其の壱」の続きです。今日は「ドイツの戦後賠償・補償」を中心にお話しようと思います。本題に入る前に、日本ドイツ以外の枢軸国(イタリア・フィンランド・ハンガリーなど)の戦後賠償について、簡潔に述べさせていただきます。(前回のお話はこちら)
早期に休戦・降伏したヨーロッパ枢軸諸国(ドイツ以外)は、1947年のパリ講和条約によってその賠償額が決定されました。いずれも大戦中の直接の交戦相手国に対する損害賠償の支払いということになっており、ソ連を除く多くの連合国が賠償請求権を放棄しました。それでは、本題のドイツについてお話します。
(2) ドイツの戦後賠償・補償
ドイツの場合、日本を含む他の枢軸国と異なり、講和条約を締結していません。主な理由としては、日本と異なり東西に分断されたことが挙げられます。従って、日本のような明確な国家賠償を行うことが困難であり、戦後処理の形態として個人補償が中心になりました。ドイツの補償方法は非常に複雑で多岐にわたるため、まず国家賠償と個人補償とを分けて考えたいと思います。(かなり長くなりますが、我慢してお読み下さい)
<国家賠償>
日本の場合と同様、戦後(米英仏ソを中心とする)占領軍は、莫大な在外資産の没収、在内資産の接収などを行いました。ドイツは日本と異なり、(満州台湾朝鮮などの)植民地はそれほど持っていませんでしたが、広範囲にわたるドイツ固有の領土を喪失しました(主にポーランド・チェコスロバキアに吸収)。従って、在外資産の没収はやはり相当な金額にのぼるようです。また在内資産においては、ドイツは良質な石炭・鉄鋼の産出国であり、これらの鉱山の接収だけでも莫大なようです。もちろん、その他日本と同様に、機械・車両・生産設備などすべて接収されています。
1955年、西欧諸国と西ドイツとの間でロンドン債務協定が締結されます。この協定において、戦前戦後ドイツの負債借款の清算に関する取り決めが行われましたが、戦争に起因する賠償・請求権問題は、ドイツ統一後の講和条約において取り決められることとなりました。一方東ドイツにおいては、1953年、ソ連を中心とする東側陣営諸国が、東ドイツに対して賠償請求権を放棄しました。
さて年月を経て、1990年9月、東西ドイツと旧連合4ヶ国の間で「最終規定条約」、いわゆる「2プラス4条約」が締結されました。この条約において旧連合4ヶ国は、ドイツに対するすべての権利と責任を最終的に消滅しました。これによって、ドイツ政府は「賠償問題は決着済み」としていますが、異論を唱える人もいるようです。まず、この条約では賠償請求権について言及していないことが挙げられます。次に、たとえこの条約において賠償問題が決着済みだとしても、それは米英仏ソの旧連合4ヶ国のみに対してであって、その他オランダ・ギリシャなどとはまだ決着していないことが挙げられます。実際、現在においても見解は分かれているようで、最終決着はついていません。
<個人補償>
個人補償の方法は大まかに3種類に分類されますが、いずれもナチスドイツ第三帝国による被害者救済のものです。その3種類とは、a) 国内法による補償、b) 国際協定による補償(国家賠償ではない)、c) 民間企業による強制労働者に対する補償、です。東ドイツにおける個人補償については全く分からないので、ここでは西ドイツ・統一ドイツにおける個人補償を見ていこうと思います。
a) 国内法による補償
国内法の中で最大規模のものは「連邦補償法」であり、ナチス迫害犠牲者を対象として1953年に制定されました。当初は、ナチス迫害により生命、身体、健康、自由、所有物、財産、職業上経済上の不利益を被ったものに対する補償、と定義づけられていました。これとは別に1957年、「連邦返済法」が制定され、ナチスによって没収されたユダヤ人財産に関しては、別途返済ないし損害賠償を行うことが取り決められました。すなわち、ユダヤ人財産に関しては、他のドイツ人財産よりも優先的に返済・賠償が行われたようです。
時代を下って1980年代に入ると、連邦補償法の対象者が大幅に拡大され、それまでは対象になり得なかったジプシー、同性愛者、兵役忌避者、脱走兵、反社会分子などにも補償が行われるようになりました。また、一連の連邦政府による補償とは別に、各州においても独自の補償措置が取られているようです。(何を対象にしているのか、私には分かりません)
これら国内法には「居住地条項」が存在し、その対象者となり得る人民は、(1)法律制定時に西ドイツに居住している人、(2)ナチス時代に、法律制定時の西ドイツ領内に居住していた人、(3)ナチス時代に、第三帝国領内に居住しており、法律制定後西ドイツ領内に居住地を移した人、です。逆にいえば、ナチス時代に第三帝国領内に居住していても、その地域が戦後チェコやポーランドに割譲された地域であれば、対象者にならないということです。この場合には上の(3)に従って、法律制定後居住地を西ドイツ領内に移さなければいけません。もしくは、次に挙げる国際協定による補償対象者となります。もっともこの「居住地条項」にもかかわらず、(連邦補償法の場合)給付先の8割が外国人になっているようです。
b) 国際協定による補償
まず最初に挙げられるのが、1952年イスラエルとの間で締結されたルクセンブルク協定です。この協定において、イスラエルに居住するナチス迫害犠牲者にまず保証金が支給されました。また、他地域のユダヤ人に対しては、対ドイツ物的請求ユダヤ人会議を通じて補償が約束されました。この協定には、西ドイツ国内でも非常に反発が強かったようです。理由は、イスラエルに居住するユダヤ人に対する補償が優先され、イスラエルに対する国家賠償のような意味合いをもっていたからです。もちろん、戦争中はイスラエルという国家すらなかったのですから、国家賠償などあり得るはずもなく、「補償」という形式をとったと思われます。
この協定締結後、フランスを初めとする西側12ヶ国と、ナチスの不法行為に対する包括補償協定を締結します。この場合の不法行為とは、大枠において、上記の国内法の対象行為と同等のものだと考えられます(レジスタンス運動弾圧も含まれる)。また1970年代になると、ポーランド・チェコスロバキアなど東欧4ヶ国との間で、強制収容所での(主に)生体実験に対する補償協定を締結します。この補償協定の代わりに、西ドイツはこれら東欧4ヶ国に国家賠償請求を放棄させました。
さらに、この東欧諸国との協定により、(ドイツ国内の非常に強い反発にもかかわらず)ドイツ東側国境が正式に確定し、領土問題に終止符を打ちました。もっともこの旧ドイツ帝国領における財産請求をめぐって、現在いろいろな問題が生じているようです。(このことについては、次回お話します)
ドイツ統一後、東欧諸国の(強制収容所への)強制連行労働者のための財団が設立されました。これら財団による基金により、上記の補償協定の恩恵に預かれなかった強制連行労働者も、補償を受けられるようになります。またソ連崩壊後、独立したそれぞれの国々(ロシア・ウクライナなど)とも独自に補償協定を締結しています。
c) 民間企業による強制労働者に対する補償
この補償がもっとも理解しにくい部分です。戦時中、東欧諸国から民間人や戦争捕虜を別の地域に移送して、強制労働につかせました。この場合の雇用主は企業であり、上記の強制収容所とは全く異なります。ドイツ政府は、「強制連行労働はナチス迫害ではなく、戦争に伴う一般的現象である」との立場を取っています。そのため、少し前まで、「法的義務ではなく人道上の措置」として、各企業の自由意志に補償を任せていました。
ところが1999年米国カリフォルニア州にて、大戦中にドイツ・日本などの企業により強制労働させられたすべての人とその遺族が米国で裁判を起こせるとの州法を公布します。この州法に基づき、元強制労働者を中心に集団訴訟・一括訴訟が行われ、世界ユダヤ人会議を中心に不買運動が起こります(日本企業に対しても訴訟が行われています)。
このことに危機感を抱いたドイツ企業は政府とともに基金財団を設立し、「国家社会主義の犠牲者に対する政治的、道徳的責任」から、まだ生存している「強制労働者」に対して補償を行うことを決定しました。
以上で、ドイツの戦後賠償・補償の説明は終わりです。最後に付録として、軍人・軍属に対する補償として、援護法について見てみます。
<付録:援護法>
ドイツには、「戦争公務、平時の軍務、準軍事業務による損傷及び直接的戦争影響による民間人の損傷に対する援護をひとつの法律に一括したもの」として連邦援護法が存在します。対象者は、「ドイツ人及びドイツ民族に属するもの」の他、「その損傷とドイツ国防軍下の職務もしくはドイツの機関のための準軍事的業務との因果関係が存在し、かつそのものが居所または通常の滞在地を連邦領域に有する」外国人が適用となります。すなわち、外国人に対しては、上述した連邦補償法の「居住地条項」のようなものが、適用されています。
ここで援護法について簡単に記述したのは、旧日本軍所属の(植民地出身者で現在日本在住の)軍人・軍属に対する補償問題と絡むからです。この問題も含めて、次回以降「賠償・補償問題における日独比較論」でいろいろと考察してみたいと思います。
今日はここまで。それでは次回お楽しみに。
早期に休戦・降伏したヨーロッパ枢軸諸国(ドイツ以外)は、1947年のパリ講和条約によってその賠償額が決定されました。いずれも大戦中の直接の交戦相手国に対する損害賠償の支払いということになっており、ソ連を除く多くの連合国が賠償請求権を放棄しました。それでは、本題のドイツについてお話します。
(2) ドイツの戦後賠償・補償
ドイツの場合、日本を含む他の枢軸国と異なり、講和条約を締結していません。主な理由としては、日本と異なり東西に分断されたことが挙げられます。従って、日本のような明確な国家賠償を行うことが困難であり、戦後処理の形態として個人補償が中心になりました。ドイツの補償方法は非常に複雑で多岐にわたるため、まず国家賠償と個人補償とを分けて考えたいと思います。(かなり長くなりますが、我慢してお読み下さい)
<国家賠償>
日本の場合と同様、戦後(米英仏ソを中心とする)占領軍は、莫大な在外資産の没収、在内資産の接収などを行いました。ドイツは日本と異なり、(満州台湾朝鮮などの)植民地はそれほど持っていませんでしたが、広範囲にわたるドイツ固有の領土を喪失しました(主にポーランド・チェコスロバキアに吸収)。従って、在外資産の没収はやはり相当な金額にのぼるようです。また在内資産においては、ドイツは良質な石炭・鉄鋼の産出国であり、これらの鉱山の接収だけでも莫大なようです。もちろん、その他日本と同様に、機械・車両・生産設備などすべて接収されています。
1955年、西欧諸国と西ドイツとの間でロンドン債務協定が締結されます。この協定において、戦前戦後ドイツの負債借款の清算に関する取り決めが行われましたが、戦争に起因する賠償・請求権問題は、ドイツ統一後の講和条約において取り決められることとなりました。一方東ドイツにおいては、1953年、ソ連を中心とする東側陣営諸国が、東ドイツに対して賠償請求権を放棄しました。
さて年月を経て、1990年9月、東西ドイツと旧連合4ヶ国の間で「最終規定条約」、いわゆる「2プラス4条約」が締結されました。この条約において旧連合4ヶ国は、ドイツに対するすべての権利と責任を最終的に消滅しました。これによって、ドイツ政府は「賠償問題は決着済み」としていますが、異論を唱える人もいるようです。まず、この条約では賠償請求権について言及していないことが挙げられます。次に、たとえこの条約において賠償問題が決着済みだとしても、それは米英仏ソの旧連合4ヶ国のみに対してであって、その他オランダ・ギリシャなどとはまだ決着していないことが挙げられます。実際、現在においても見解は分かれているようで、最終決着はついていません。
<個人補償>
個人補償の方法は大まかに3種類に分類されますが、いずれもナチスドイツ第三帝国による被害者救済のものです。その3種類とは、a) 国内法による補償、b) 国際協定による補償(国家賠償ではない)、c) 民間企業による強制労働者に対する補償、です。東ドイツにおける個人補償については全く分からないので、ここでは西ドイツ・統一ドイツにおける個人補償を見ていこうと思います。
a) 国内法による補償
国内法の中で最大規模のものは「連邦補償法」であり、ナチス迫害犠牲者を対象として1953年に制定されました。当初は、ナチス迫害により生命、身体、健康、自由、所有物、財産、職業上経済上の不利益を被ったものに対する補償、と定義づけられていました。これとは別に1957年、「連邦返済法」が制定され、ナチスによって没収されたユダヤ人財産に関しては、別途返済ないし損害賠償を行うことが取り決められました。すなわち、ユダヤ人財産に関しては、他のドイツ人財産よりも優先的に返済・賠償が行われたようです。
時代を下って1980年代に入ると、連邦補償法の対象者が大幅に拡大され、それまでは対象になり得なかったジプシー、同性愛者、兵役忌避者、脱走兵、反社会分子などにも補償が行われるようになりました。また、一連の連邦政府による補償とは別に、各州においても独自の補償措置が取られているようです。(何を対象にしているのか、私には分かりません)
これら国内法には「居住地条項」が存在し、その対象者となり得る人民は、(1)法律制定時に西ドイツに居住している人、(2)ナチス時代に、法律制定時の西ドイツ領内に居住していた人、(3)ナチス時代に、第三帝国領内に居住しており、法律制定後西ドイツ領内に居住地を移した人、です。逆にいえば、ナチス時代に第三帝国領内に居住していても、その地域が戦後チェコやポーランドに割譲された地域であれば、対象者にならないということです。この場合には上の(3)に従って、法律制定後居住地を西ドイツ領内に移さなければいけません。もしくは、次に挙げる国際協定による補償対象者となります。もっともこの「居住地条項」にもかかわらず、(連邦補償法の場合)給付先の8割が外国人になっているようです。
b) 国際協定による補償
まず最初に挙げられるのが、1952年イスラエルとの間で締結されたルクセンブルク協定です。この協定において、イスラエルに居住するナチス迫害犠牲者にまず保証金が支給されました。また、他地域のユダヤ人に対しては、対ドイツ物的請求ユダヤ人会議を通じて補償が約束されました。この協定には、西ドイツ国内でも非常に反発が強かったようです。理由は、イスラエルに居住するユダヤ人に対する補償が優先され、イスラエルに対する国家賠償のような意味合いをもっていたからです。もちろん、戦争中はイスラエルという国家すらなかったのですから、国家賠償などあり得るはずもなく、「補償」という形式をとったと思われます。
この協定締結後、フランスを初めとする西側12ヶ国と、ナチスの不法行為に対する包括補償協定を締結します。この場合の不法行為とは、大枠において、上記の国内法の対象行為と同等のものだと考えられます(レジスタンス運動弾圧も含まれる)。また1970年代になると、ポーランド・チェコスロバキアなど東欧4ヶ国との間で、強制収容所での(主に)生体実験に対する補償協定を締結します。この補償協定の代わりに、西ドイツはこれら東欧4ヶ国に国家賠償請求を放棄させました。
さらに、この東欧諸国との協定により、(ドイツ国内の非常に強い反発にもかかわらず)ドイツ東側国境が正式に確定し、領土問題に終止符を打ちました。もっともこの旧ドイツ帝国領における財産請求をめぐって、現在いろいろな問題が生じているようです。(このことについては、次回お話します)
ドイツ統一後、東欧諸国の(強制収容所への)強制連行労働者のための財団が設立されました。これら財団による基金により、上記の補償協定の恩恵に預かれなかった強制連行労働者も、補償を受けられるようになります。またソ連崩壊後、独立したそれぞれの国々(ロシア・ウクライナなど)とも独自に補償協定を締結しています。
c) 民間企業による強制労働者に対する補償
この補償がもっとも理解しにくい部分です。戦時中、東欧諸国から民間人や戦争捕虜を別の地域に移送して、強制労働につかせました。この場合の雇用主は企業であり、上記の強制収容所とは全く異なります。ドイツ政府は、「強制連行労働はナチス迫害ではなく、戦争に伴う一般的現象である」との立場を取っています。そのため、少し前まで、「法的義務ではなく人道上の措置」として、各企業の自由意志に補償を任せていました。
ところが1999年米国カリフォルニア州にて、大戦中にドイツ・日本などの企業により強制労働させられたすべての人とその遺族が米国で裁判を起こせるとの州法を公布します。この州法に基づき、元強制労働者を中心に集団訴訟・一括訴訟が行われ、世界ユダヤ人会議を中心に不買運動が起こります(日本企業に対しても訴訟が行われています)。
このことに危機感を抱いたドイツ企業は政府とともに基金財団を設立し、「国家社会主義の犠牲者に対する政治的、道徳的責任」から、まだ生存している「強制労働者」に対して補償を行うことを決定しました。
以上で、ドイツの戦後賠償・補償の説明は終わりです。最後に付録として、軍人・軍属に対する補償として、援護法について見てみます。
<付録:援護法>
ドイツには、「戦争公務、平時の軍務、準軍事業務による損傷及び直接的戦争影響による民間人の損傷に対する援護をひとつの法律に一括したもの」として連邦援護法が存在します。対象者は、「ドイツ人及びドイツ民族に属するもの」の他、「その損傷とドイツ国防軍下の職務もしくはドイツの機関のための準軍事的業務との因果関係が存在し、かつそのものが居所または通常の滞在地を連邦領域に有する」外国人が適用となります。すなわち、外国人に対しては、上述した連邦補償法の「居住地条項」のようなものが、適用されています。
ここで援護法について簡単に記述したのは、旧日本軍所属の(植民地出身者で現在日本在住の)軍人・軍属に対する補償問題と絡むからです。この問題も含めて、次回以降「賠償・補償問題における日独比較論」でいろいろと考察してみたいと思います。
今日はここまで。それでは次回お楽しみに。