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あるコリア系日本人の徒然草

反日・嫌韓が言われて久しいですが、朝鮮民族として、また日本人として、ありのままの感情を吐露していこうと思います。

生い立ち その六(帰国後現在まで)

2005年02月20日 | 生い立ち
さて日本に帰った後、長い闘病生活が待っていました。私自身海外における仕事は現地採用でしたので、当然失業保険も出るはずが無く、収入が突然0になってしまいました。また突然の帰国だったため、妻も日本での仕事がまだ決まっておらず、この時は本当に大変でした。貯金はあっという間に食いつぶし、足りない分は私の両親・妻の両親に頭を下げて借金をしました。

病院には、検査・治療をかねて3ヶ月近く入院していたのですが、この時素晴らしい出会いがありました。同じ病室に入院されていた、約90歳のおじいさんです。とても教養の高い方で、まだまだかくしゃくとされていました。ある晩私が彼に、「大きな病気をすると人生観が変わりますね。」と言いました。実際今までに最もショッキングなことで、当時これからどうしたらいいのだろう、と途方に暮れていた時でした。その時の彼いわく、「君みたいなまだ若いもん、これからあと3回も4回も人生観変わるわ。深く悩む必要あれへんで。」とのことでした。今考えると、とてもありふれた言葉なんですが、それを言われたとき目の覚める思いでした。

そしてこのおじいさんが退院されるとき、一つの書物を私にくださいました。それが「老子」です。儒教と双璧をなすもう一つの思想です。基本となる哲学は「無為自然」であり、「万物の流れるがまま」といったような思想哲学です。また機会があれば、この「老子」について述べたいと思います。

こうして病院を退院後リハビリをしながら、現在にいたってます。今は仕事も再開していますが、以前のように体が言うことをききませんし、まだ障害も残ってます。しかしこれも自分に課せられた運命だと、今では完全に受け入れてます。きっとこれからも、まだ3回も4回も人生観が変わるようなことがあるのでしょう。逆にそれを楽しみながら、日々人生を過ごしています。やはり人生の終焉を迎えるときに、自分の人生が本当に有意義なものであったと、心から思いたいものです。(前回はこちら

(終わり)

生い立ち その五(結婚そして海外生活)

2005年02月11日 | 生い立ち
昨日の続きです。大学・大学院在学中、自分が帰化したことは朝鮮民族への裏切りではないだろうか、と結構悩みました。別に、日本は敵だから、という理由ではありません。当時帰化したくても出来ない人がいる、という現実があったからです。何か自分だけが得しているかのような。心の中にわだかまりを感じながらも、それについてはあまり友達と話すこともなかったです。

さて、私には大学在籍中から付き合っていた女性がいて、結局大学院在学中に結婚したのですが、この結婚のときは予想通り両家から反対が出ました。私の方も妻の方も、両親とも反対でした。私の父は、希望としては同じコリア系日本人と結婚して欲しかったようです。母は、ただ単に私のような都会の出身者が良かったようで、田舎者が好きではなかったようです。しかし、私が説得すると両親ともに結構あっさり折れました。

一方妻の両親の方は大変でした。妻の実家は日本でも有数の保守の県(かなり田舎)にあり、特に理由もなくただ私が「元在日」というので反対していました。しかし妻がいろいろと説得してくれたこと、私が妻の実家に直接説得しに行った事などから、結局認めてもらいました。これを「差別」とは別に感じなかったです。これが差別なら、私の母の「田舎の人は素朴だけど、センスがないから嫌だわ」の方がもっとひどい差別です。ただちょっと感じたのは、もし私が帰化していなければ、もっと大変だっただろうな、ということです。

そうこうしている間に卒業し、自分の希望もあって、海外に出て働くことになりました(あまり私本人を同定されたくないので、このあたりからかなりぼかした記述になりますが、ご了承を)。最初の行き先はアメリカのニューヨーク。いきなり英語に苦しみました。とにかく皆英語の早さがすさまじく、しかも十人十色。それに全然親切ではない。この雑然とした徹底した個人主義が好き、という人もいるだろうが、私は全く好きになれませんでした。それに街がくさい。唯一気に入ったのは、リトルイタリーでした。この地区にあるイタリアレストランは、本当においしかった。

NYはあまり長くいる場所ではない、と思ったので、次は西海岸のサンフランシスコに行きました。ここは本当に楽しかったです。住んでいた場所が少し郊外だったこともあるせいか、わりと皆のびのびしている感じがあり、ご近所さんも感じがよく、英語もみな分かりやすくしゃべってくれるし、本当に楽しかったです。ただ、ここでは仕事の同僚がほとんどアメリカ人であり、その点で少し国際的でなく不満でした。

この頃から、自分は本当に日本人なんだな、と意識し始めました。自分がコリア系だと意識することはほとんどなかったのですが、ちょっと友達になったコリア系アメリカ人の家に招待されたとき、いっぱい韓国料理をごちそうになり、その時には何か彼とつながりを感じました。また、自分が帰化したことに対して後ろめたさのようなものも、一切消えていきました。なぜか、と言われると返答に困るのですが、考え方が「帰化の出来なかった人に申し訳ない」ではなく、「帰化できた俺ってラッキー」に変化したような気がします。アメリカというお国柄上、何事も肯定的に考えるようになっただけなのかもしれません。

さて、その次に行った場所はイングランドのとある都市でした。ここでの滞在期間はそれほど長くないのですが、本国から来ている韓国人と初めて友達になりました。彼は非常に優秀な人間であり、冷静さと優しさを兼ね備えた素晴らしい人格の持ち主でした。少なくとも、ネット上で言われているようなかっとなりやすい韓国人、のイメージとは程遠かったです。また台湾人とも仲良くなりました。私を含めて極東3人はすぐに仲良くなり、家に招待しあうようになりました。彼らと一度だけ歴史についての話をしたことがあります。私が「台湾の対日感情はいいのに、どうして韓国はこんなに悪いの?」と尋ねると、台湾人(内省人)いわく「後に入ってきた中国軍がもっとひどかった」と。韓国人いわく「日本陸軍と海軍の違いではないか」と。意外にいい点ついているのかもしれません。今度この話をエントリでしてみようと思います。

ここでも強く感じたのは、私は韓国人・朝鮮人ではなく、日本人なんだということです。実際台湾人・韓国人の友達も、私のことを日本人としてしか見ていなかったと思います(私が、自分は朝鮮民族だといっているにもかかわらず)。また本国からきた韓国人を見ても、私とはやっぱり違うなあ、と思いました。当然のことですが、私の英語には日本語訛がありますし、彼の英語には韓国語訛があります。押しの強さ、ということでは、別に皆それほど変わらなかったし、自分の意見の主張の仕方でもそれほどの違いはなかったです(私を含め皆はっきり言う)。

最後に行った場所がドイツ南部のとある都市でした。ここが結果的に一番充実していた気がします。以前にも書きましたが、私がドイツにとてもあこがれていたこともあり、とても楽しかったです。同僚ももっとも国際的で、さまざまな国から来ていました。ここで最も仲良くなった3人は、ドイツ人・メキシコ人・インド人でした。もはやこの頃になると、自分はコリア系日本人だという気持ちは何の揺るぎもないものになっており、帰化したことへのわだかまりは一切消えていました。むしろ、帰化してなかったら自分のこと喋るの大変やろな、とも思いました。メキシコ人などは、「本来ならメキシコはドイツ・日本と一緒に枢軸国に入るはずだったのに」と残念そうに話していて、相当おかしかったのを覚えています。あと面白かったのは、「日本はあの時やりすぎた、朝鮮・満州で止まってたらよかったのに、ちょっと欲張りすぎた」ともいってました。当時の国際的な帝国主義から見て、まあそういう見方もありかもしれません。

ここでは初めての非英語圏ということで、皆語学力に長けていました。一番肩身が狭かったのは、イギリス人とアメリカ人だったかもしれません。彼らは英語しか喋れないのですから。英語と母国語が別な人間は、それだけで2ヶ国語が喋れるし、プラスもう一つ言語が喋れると、本当に有利です。そういう意味で私も韓国語を勉強しといてよかった、と思いました。

ドイツにいる間に最も心に残った旅行は、ベルリン旅行です。ベルリンは冷戦時代東西に分割されていたため、私が好きだったスパイ小説にも必ずといっていいくらいでてきており、とても行きたかった場所でした。実際東西ベルリンの境界だったブランデンブルグ門を渡った時は、何とも言えず感慨深いものがあり、涙が自然にあふれてきました。やはり朝鮮民族だからかもしれません。統一を願わずにはいられなかったです(赤化統一は困るが)。一方妻はベルリンのエジプト博物館の方が楽しかったようです。

ドイツ生活はこうして大変順調で、仕事の方もかなり充実していたのですが、突然神経系の大きな病気に見舞われて、帰国することになります。初めドイツでも治療を行っていたのですが、あまりに状況が悪いので、本格的に日本に戻って闘病生活を送った方がいい、ということで帰国を決心しました。比較的順調に仕事を進めていた私としては、このことは非常にショックで、最初は何も先のことを考えられなくなりました。このお話はまた次回ということで。

(前回はこちら

生い立ち その四(政治団体に所属してみて)

2005年02月09日 | 生い立ち
さて、大学では在日政治団体系サークルに所属しました。民団系でも総連系でもないグループです。といったら分かる人には分かってしまうかもしれません。いわゆる○学△とか○青△とかいうやつです。サークルに入った感想は、結論から言うと、韓国語の勉強や韓国文化への触れ合い、という意味では非常に良かったですが、政治闘争という意味では私の主義とは、まったく相容れないものでした。

サークルに入った後知ったのですが、まず帰化しているのは私だけで、どうも帰化したコリア系はこういったサークルには所属しないようでした。また、在日運動家が帰化に対していい感情を持ってないことを、初めて知りました。やれ、帰化できるのは一部の人間で、在日への裏切りだとか、帰化しても差別は消えないだとか、民族を捨てるのかとか、日帝に押し付けられた名前(通名)で生活するのか、云々。これでは誰も帰化した人間は参加しないだろうな、と思いました。

サークルに入ってまずやった大きな経験は、(ある事件での)韓国大統領への抗議のためのハンガーストライキでした。これがまた、ものすごくお腹がすきます(当然なんですけど)。終わった後周りの中には、感極まって泣いちゃう子もいたのですが、私は二度とやるか、ってな気持ちでいっぱいでした。なんか単なる自己満足のためにやってるような感じ。シュプレヒコールを上げながらのデモもやりましたが、通行人にじろじろ見られてこっぱずかしかったです。という感じで、途中からこういった政治運動には一切参加しなくなりました。

政治関係の学習会では、在日関係の話と本国(韓国と北朝鮮)の話の2本立てでした。在日関係では、民団・総連などの歴史、在日の差別問題などが主でした。本国(韓国と北朝鮮)の話では、植民地時代、戦後の両国の建国の歴史、朝鮮戦争、その後の両国の復興などです。

在日関係については、在日への制度上の差別問題を学ぶと言う意味において、とても有意義でした。ただ私が通ってた頃はすでに就職差別などほぼ過去のことになりつつあったのに、それをさも現在進行形に言うのはどうかな、と思いました。政治団体については、当時韓国が軍事政権であり民団がそれを支持していたために、民団に対してはかなり厳しい態度でした。一方総連に対しては、あれだけ北朝鮮政府が軍事独裁にもかかわらず、非常に寛容な姿勢で、若輩ながらものすごく反発した記憶があります。以前にも書いたように、私は小さい頃から共産主義嫌いだったので、このダブルスタンダードには全く理解ができなかったです。

このことでは、上の人間と相当議論になったのですが、彼等いわく「北朝鮮とは統一を考えていかなければいけない。いわば結婚相手だ。だから我々は身内である韓国側の批判をしなければならない。」あと、彼らが常に言っていたのは、統一の最大の障害はアメリカだ、ということです。ソ連・中国はどうやねんっちゅうねん。

本国関係については、まずは日帝時代の歴史。これは今まで私が自分で学んできたきたことに比べて、相当偏ってました。いわば日帝は徹底して悪であり、それがために原爆投下も正当化される、というような論調です。また戦後に関しては、徹底してアメリカが悪。朝鮮戦争の責任もアメリカにあり(北朝鮮こそが正当国家であり、韓国はアメリカの傀儡)、その後の統一を妨げているのもアメリカ、という論調です。北によるテロ事件も、すべて韓国側の捏造。それこそ今話題の日本人拉致事件(当時は拉致疑惑)も、日米韓によるでっちあげ、云々。

ただひどい捏造も多かったですが、一部真実もあったのは確かです(赤狩りの名を借りた済州島虐殺事件や、民主化弾圧した光州事件など)。そういった自分の知らない事実を発見できたのは大きかったと思います。しかし結局、自分の考えと全く合わないサークルだったし、自分だけが帰化していると言うこともあり、違和感がどんどん強まっていきました。さらに、このサークルの団体も含め在日政治団体はいくつかあるのですが、どの組織もお互いに仲が悪く、まったくもって見苦しいほどの悪口の言い合いでした。まるで共産党と社会党の喧嘩のようです。こうして2年も経たないうちに離れていきました。

この組織を離れた後ソ連崩壊が起こり、欧州で東側諸国が次々とドミノのように倒れていきました。このときは本当に興奮し、ついに朝鮮半島も統一するか、という期待でいっぱいになりました。しかし結果は、中国の天安門事件をはじめ、極東アジアでのドミノ倒しは起きませんでした。これを機に私の中で完全に、朝鮮統一(ドイツ型の吸収合併)という夢が潰えました。その失望のせいか、今まで韓国にすら行った事はないし、未だに何か行く気がしません。

しかしここでの2年間は、それなりに私の考えに影響を及ぼしたのは確かなようで、特に帰化したことに対して、何か民族を裏切っているような罪悪感を持ってしまい、そのことに苦しむようになります。これをどう克服できたかに関しては、また次回ということで。

(前回はこちら

生い立ち その参(帰化するまで)

2005年02月08日 | 生い立ち
公立中学に進学して、まず驚いたことは、入学式での生徒たちのだらしなさでした。私の小学校では、先生の話中は水を打ったように静かだし、頭を動かすやつすらいません。ところがこの中学では、しゃべっていない生徒のほうが少ない。しかも注意する先生が一人もいない。この時点で一気に嫌になりました。さらに、私にとって驚くべきことは、国旗掲揚国歌斉唱がないことでした。前にも書きましたが、私にとってそれはごくごく自然なこと(毎日3度ご飯を食べるように)だったので、びっくりしました。

翌日、上級生との対面式があったが、これがまたえらいことになっていて、校庭で対面式が始まろうとしているのに、先生からも余裕で見える場所で、20人ぐらいが堂々とタバコを吸っていました。ふと見上げると、校舎の3階のベランダにも10人ぐらいたむろして、タバコを吸っています。でも誰も注意しません。よく見てみると、窓ガラスも所々割れたままになっていて無くなっていました。

さてその後授業が始まりますが、ここでもびっくり。先生が来る時、一人の生徒が「せんせいがきたー」って叫びました。私は心の中で「せんせいがいらっしゃった、やろ」とつぶやいていましたが、どうもその言葉が聞こえているはずの教師が、何も文句を言いません。しかもジャージ姿。私の小学校では、体育の先生でない限り、きっちりした格好だったので、ますます気が滅入りました。授業が始まると、またまた幻滅。先生と生徒の間に敬語が全くない。完全に友達感覚です。その日は本当に学校を辞めたくなりました。後に母親参観のときに、私の母も先生の言葉遣いの汚さに、あきれ果てていました。

ところが、子供は適応能力に優れているせいか、一ヶ月もすると友達も結構でき、皆と同じような言葉遣いをするようになりました。それにしてもこの中学校は、学力レベルは日本一と言っていいくらい最低だったし、ガラの悪さでは天下一品でした。それこそスクールウォーズの世界(若い人は知らないかな?このドラマでは高校の話だったが)で、窓ガラスはしょっちゅう割られるは、先輩がバイクで大勢学校の中に乱入してくるは、ネタには尽きなかったです。授業中はほとんど寝てましたが、休み時間・放課後は皆で遊びまわってました。勉強は自分のレベルに合わせて、家と塾でやっていました。

学校では私も皆といっしょに、ちょっと粋がってタバコ吸ったり、しょうもないことで喧嘩を吹っかけたり、むやみに窓を割ったりしながら、鍛えられていきました。あと近所に朝鮮中級学校があり、結構けんかになったりしてました。このとき初めて「チョンコ」という蔑称を知った。「今日チョンコぼこぼこにすんぞ。」みたいに。でも朝鮮中級学校のやつも、本当にガラが悪かった。喧嘩するとき、ふと「俺も朝鮮人なんやけど」と一瞬思ったが、それもつかの間、喧嘩にのめり込んでいました。まわりも、私がコリア人(戸籍上は韓国人)であることを知っていた(通名で普段の生活を送ってましたが、仲のいい子には普通にカミングアウトしてました)ので、単に学校対学校みたいな戦争でした。ただ一度、この朝鮮学校に通っている美人の従姉妹に見られたときは、本当にばつが悪くて恥ずかしかった。

私の学校はあまりに悪すぎて、制服・髪型はどうこう言える次元でなく、完全に自由でした。先生の中でも風紀担当の教師は、あまりにひどい生徒に対してはかなり殴っていたが、ただ威嚇するだけで全然威厳がなかったです。この中学校も日教組の勢力が非常に強かったですが、最近言われているような自虐史観云々を先生から教わった記憶は全くありません。理由は、授業を全然聴いてなかったから。ただテスト勉強するに当たって、「強制連行」という言葉が出てきたことは覚えています。

とにかく学校ではめちゃくちゃやってガス抜きし、家では勉強するという毎日でした。結果、自分の行きたい私立高校に今度は入学することが出来ました。今考えると、日教組の最大の弊害は、規律正しさ・礼儀・威厳ということをぶち壊したことだと思う(あくまで私の意見です)。歴史教育云々は、たいした問題じゃない。そんなものは後でいくらでも学びなおせるから。でも躾・礼儀作法はそうはいかないと思う。子供の頃に身についてないと、大人になってもちゃんとできないでしょう。

もう一つは、何でも平均化しようとするあまりに、競争原理が失われていることだと思う。いい競争原理は切磋琢磨につながり、悪い競争原理は足の引っ張り合いにつながる。それこそ教師が現場で教えることでしょう。それを教えないから、競争原理の働いている社会に出て、悪い方向である足の引っ張り合いをする人間が増えているんじゃないか。ものすごく奇妙なのは、こんな学校でも、クラブ活動においては完璧な競争が行われていることです(レギュラーポジションの争いなど)。一方、高校は私立の進学校ということで、健全な競争が行われており、学力レベルも皆それほど差もなく、また中学ほど先生の質も悪くなく、楽しく充実して過ごせました。

一方、中学から高校にかけて、政治・経済への興味は増していきました。家ではずっと日経新聞を読んでいて、最初は主にそこからの情報だけでした。過去の歴史がらみの問題で初めて目に付いたのは、あのいわくつきの「侵略・進出教科書書き換え事件」です。捏造した、いやしてない、といった昨今の朝日新聞 vs NHKみたいですが、私が当時新聞を読んで感じたのは、「なんかせこいことやってんな」でした。

この事件を機に、日本植民地時代(保守系の方でこの言葉に異論を言う方がいますが、とりあえずここではこの言葉を使います)、戦後の韓国・北朝鮮の歴史を積極的に学ぶようになったと思います。当然それに伴う、自由主義陣営 vs 共産主義陣営の冷戦などの知識も入ってきて、父親に薦められた本を読んだり、父と議論を戦わせたりしてました。その本の中には、旧日本軍のダークサイドを描写している本も有り、純粋に身内の恥、のように思ったものです。おそらく当時はまだ私の心の中で、「韓国人」としてのアイデンティティと「日本人」としてのそれが、はっきりと区別できてなかったのかもしれません。ドイツのホロコーストについて知ったのもこの頃です。

一方小学生からの軍事マニア的なところも順調に育っていき、朝鮮戦争時の仁川上陸作戦などに純粋に「かっこいー」と思ったりもしました。ノルマンディー上陸作戦とともに私の心に非常に強く残っている軍事作戦です。両親ともに共産主義嫌い(当時ソ連はブレジネフ・アンドロポフ体制)だったためか、もしくは祖父母ともに朝鮮半島南部出身だったためか、本を読みながら熱烈に韓国を応援してました。

同時に夢中になって読んだ本はスパイ小説です。特にはまったのはBrian Freemantleで、彼のノンフィクションものも大好きでした。その中でイギリスのキム・フィルビー事件・西ドイツのブラント首相秘書スパイ事件は特に青年期の私に衝撃を与えました。Brian Freemantleが本の中に書いていた言葉で、特に印象に残っているのは、「情報部を持っていない国ほど哀れなことはない」というやつです。こうして安全保障という分野に興味を示していき、憲法問題にも関心が強くなっていきます。

当時幼いながらも、歴史問題と安全保障問題は全く持って別物で、過去の日本軍のことについてはしっかり謝って反省すればいいし、それと同時に普通の軍隊・スパイ防止法・情報諜報機関を持てばいいし、別にこれらはお互いに矛盾するはずがない、といった考え方でした。また、当時の極東の国々に対する考え方は、中国・北朝鮮は共産圏だからダメ、韓国・台湾は軍事独裁だからダメ、でした。非常に単純な考え方ですが、基本的に西側諸国の自由主義・民主主義を強く支持していました。

でもアメリカに対しては、太平洋戦争で日本が負けたこともあり、ちょっと複雑な気持ちでした。心情的には、西ドイツにとてもあこがれていました。いくつかの理由があると思いますが、おそらく、日本と同様敗戦国だったこと、朝鮮半島と同様分断されていること、統一したいができないことなどが挙げられると思います。当時読んだ小説の中で、このドイツの統一への気持ちを表したスパイ小説「鉄血作戦を阻止せよ」(トンプソン著)は、とても印象に残っています。この小説の最後で、統一のためのクーデターが結局失敗に終わるのですが、この時朝鮮半島の統一とダブって涙した覚えがあります。結局私の気持ちの中では、日本と朝鮮半島の両方に深い愛情を抱いていたのかもしれません。

さて、そうこうしているうちに、社会生活において重大な出来事がありました。すなわち外国人登録・指紋押捺です。親と一緒に市役所の外国人窓口に行って、はじめて写真撮影と指紋押捺を行いました。当時の気持ちは、面倒くさいなあ、っていう感じです。別に差別されている、という気持ちもなく、俺はやっぱり外人なんやな、と改めて思った程度です。この翌日だったと思います。母が私に「あなた、帰化したい?」って訊いてきました。突然のことで面食らって、「何かメリットあんの?」って訊き返した覚えがあります。そのとき初めて、「在日韓国・朝鮮人」が「日本人」と比べ、どういう権利がないのか、また外国人としてどういう義務があるのか、などを細かく教わりました。「指紋押捺」「外登証常時携帯義務」「参政権」「外国旅行の不便性」云々。

結局それらを全部聞いた時、すぐさま「帰化しよう」って言いました。理由は、在日でいることになんのメリットも感じられないからでした。その後すぐに、両親は帰化手続きをはじめたと思います。後に聞いたことですが、私が小学校のときに一度帰化申請をして却下されたようです。帰化手続きは今でこそれなりに楽になっていますが(それでもお金はかかります。このあたりはらーさんのblogで詳しいと思います)、私が帰化した頃は本当に大変だったようです。ましてやそれ以前の小学校のときは、もっと厳しかったでしょうね。

財政的に裕福だし(ちなみに会社はいわゆる重厚長大産業です)、また民団・総連ともに全く関係ないのに、最初に帰化が却下された主理由は、父の交通違反(酒気帯び運転)だったようです。つまり、帰化条件の3)素行が善良であること(素行要件)に引っかかったわけです 。このことで、父は「二度と日本国籍なんか取るか。」と思った時期もあったようですが、私の外国人登録を見て、子供のためにと考え直したのかもしれません。

今は、うわさによると交通違反はあまり不利にならないと聞いていますが、それでもこの素行要件は残されています。ここで少し意見を述べさせてもらうと、こういった行政のさじ加減で決まるというような項目は、残すべきでないと思います。帰化条件を厳しくするにせよ、緩くするにせよ、もっと分かりやすい厳密な法律・項目が必要なんではないか、と思います。これではあまりにアバウトな項目で、とても法治国家の文章だと思えませんから。

また近所の聞き込み調査まで行われ(今はどうなってるのか知りませんが)、それが非常に不快だったようです。ご近所さんの中には、当然馬の合う人もいれば合わない人もいますからね。結局1年ほどの申請期間の後、無事日本国籍を取得できるようになりました。確か家族で法務局に行って、お役人さんから「おめでとうございます」と言われた覚えがあります。苗字は通名をそのまま使いました。私はずっと通名で生活してきたので、何の抵抗もなかったです。今日では改められましたが、当時は一文字名はまず許可されなかったようです。

こうして今後は日本人として生きることになり、大学に進学します。大学に入ると今までよりも自由な時間も多く取れ、自分の民族の言葉である韓国語を学ぼうと思いました。そこで父の知り合いの息子さん(在日の方)に誘われて、在日のサークルに所属します。サークルと言っても政治活動も行っている団体で(民団・総連とはまた別団体)、政治・社会の関心が高かった私は興味しんしんでした。このお話は、また次回ということで。

(前回はこちら

P.S. この後が皆さん、最も聞きたいことの一つでしょう。楽しみに待っててください。(笑)

生い立ち その弐(在日と知らされた時)

2005年02月06日 | 生い立ち
さて、何の疑問もなくすくすくと育っていたpontakaに、もっとも大事な瞬間がやってきた。うちの母親は、ものすごく厳しい人だった。小学生時代、とにかく習い事が多く(音楽・水泳・幼児教育などなど)、すべてにおいて完璧にやっていなかったら、めちゃめちゃに怒られた。今の時代だったら、虐待と言われても仕方のないぐらい、棒などで殴られた(母親いわく、躾)。でもこっぴどく殴られたあとは、死ぬほど優しかったのも覚えている。私が変な方向に走らなかったのは、父親が子供に甘甘で、家庭内バランスがうまく取れていたからかもしれない。

小学3年生のある夜のこと、家でピアノの練習をしていて、うまく弾けなかったせいか、またこっぴどく怒られた。いつものようにビービー泣いて、レッスンが終わった。その時母親が私を抱きしめて泣きながら、重要な言葉を述べた。

「私があなたに厳しくするのには、わけがあるの(母は私や父と違って、関西弁でなく、綺麗な標準語を使う)。あなたは日本人じゃないの。」
「何で?じゃあ、何人?」
「朝鮮人よ。あなたの本当の名前は、○ △△(韓国名)というの。」
「ふーん。かっこええ名前やん。外人みたい。」

ここまでの会話は多分一言・一句正しいと思う。当時は別にショッキングだと思っていなかったが、今まで覚えているというのは、相当インパクトは強かったんだろう。でも最後の「外人みたい」って、そのままやん、外人なんやから(笑)。さて続き。ここからは一言一句までは覚えてないが、内容的には多分正しいと思う。

「何で名前が二つあんの?(当時私は通名を名乗っており、これが帰化した後の現在の名前になっている)」
「昔朝鮮は日本に滅ぼされて日本の領土だったの。そのとき、日本式の名前をむりやり名乗らされたのよ。ママもパパもおじいちゃんもおばあちゃんも、朝鮮の名前と日本の名前を持ってるわよ。ママの本当の名前は、○ △△(韓国名)というの。」
「綺麗な名前やな。それで、いつ日本に来たん?」
「朝鮮が日本の領土だったとき、おじいちゃんとおばあちゃんが日本に来たの。朝鮮人の中には無理やり日本に連れてこられた人もいるのよ。」
「おじいちゃんとおばあちゃんも、無理やり連れてこられたん?」
「おじいちゃんとおばあちゃんは、朝鮮で生活できなくなって、日本に働きに来てすごく頑張ったのよ。それで今私たちが楽できるの。」
「おじいちゃん、おばあちゃん、めっちゃ偉いやん。」

母親としては、難しい事柄を子供にも分かるよう、やさしく伝えたかったんだと思う。まだ続く。

「それからね、日本では私たち朝鮮人は差別されてるの。」
「何で?」
「朝鮮が日本に支配されてたから。人間はね、見下せる人がいると安心するのよ。だって、その人より自分は上だって思えるでしょ。」
「そうなんかなあ。」
「あなたが大人になったら分かると思うけど、あなたが日本人と同じレベルだったら、絶対に日本人の方が評価されるのよ。あなたは外人だから。だから、あなたは他の普通の子よりも必ず上のレベルに行ってなきゃいけないの。それでこれだけ厳しくしてしまうの。ごめんね、許してね。(母がまた泣く)」

大体、こんな感じの話でした。とにかく突然の話なんで、当時どう反応したらいいか分からなかったのですが、直感的に、とにかく俺は頑張らなあかんねんな、ということは理解できました。あと、今思い出すとおもしろいんですが母は「韓国人」じゃなくて「朝鮮人」って言ってました。真意はよく分かりませんが、韓国はしょせん戦後成立した国なので、その名前よりは朝鮮半島の名前の方に愛着があるのかもしれません。あと、話をしている間に、韓国と北朝鮮の民族分断のことや、当時の韓国の軍事政権のことなどいろいろと話してましたが、そっちのことはあんまり記憶には残ってません。今こそ在日差別と言うのはほとんどなくなりましたが、当時は制度上・社会上ともに差別がまだまだ色濃く残っていた時代でした(想像するしかないのですが、現実的に一番大変だったのは、保険加入できなかったため、医者にかかる事が普通にできなかったことだと思います。)

この翌日、小学校で一番の中のいい子に早速、「俺日本人ちゃうねんて。○ △△(韓国名)っていうねんて。」って言ったら、その返事が「かっこえー名前やな(確かに、ペ・ヨンジュンよりも響きはいいと今でも思います)。」以上。子供ってあっさりしてるんですかね。ところが、帰宅して母親にこのことを言ったら、「そんなぺらぺらしゃべることじゃないわよ。」ってたしなめられたので、小学校ではその友達以外には言わなかったです。子供ながら、何か言ってはいけない様な雰囲気を感じたのは確かです。

このときから、韓国・北朝鮮の歴史に興味を持ち始めました。それまで私は、第二次世界大戦の間、日本はドイツと一緒にアメリカと戦っていた、というような知識しかなく、中国大陸・朝鮮半島における日本の行動を全く知りませんでした。この後、歴史漫画や歴史本、歴史教科書などで、「強制連行」「創氏改名」といった名前を目にするようになります。(上の母との会話の中には、この言葉は出てこなかったです。子供には難しいと判断したのかもしれません。)こういった話を読んだとき、まず思ったのは、ずいぶん日本も悪い事してんなあ、ということです。結構覚えているのは、意外かもしれませんが、清に対する21箇条条約です。当時の世界的な帝国主義については当然何も考えていないので、素直に、この要求書ってやくざのいちゃもんみたいやな、ってな感じです。(当時関西では山口組の三代目田岡組長がまだまだ健在で、子供でも山口組のことを知ってました)

一方で、小学校の雰囲気のせいか、教育のせいかは分かりませんが、こういった戦前の日本の暗部を知る様になっても、日本に嫌悪感を抱くことは全くなかったですし、あいも変わらず旧日本軍ゆかりの物語などが大好きでした。小学校の図書館でミッドウェー海戦の話を読んで、素直にとても悔しくなったり(大体空母4隻全部撃沈されたんですから)、神風特攻隊や海軍の回天の話を読んで胸が熱くなったのを、鮮明に覚えてます。また家では、戦艦大和・零戦・メッサーシュミットのプラモデルなどを組み立てて大喜びしてました。

そうこうしているうちに中学校に進学しました。とある自分の希望の私立の中学校を受験したのですが失敗して、地元の公立中学に通うことになりました。私の校区の中学校では当時校内暴力の嵐が吹き荒れていて、ものすごく行きたくなかったんですが、親父のひとこと「もまれてこい」、で心を決めました。入学した後、いろいろな意味でカルチャーショックを受けるのですが、その話はまた次回

(前回はこちら

生い立ち その壱(在日と知らされるまで)

2005年02月06日 | 生い立ち
生い立ちを述べていくと、かなり長くなるので、それぞれの時代に合わせて、いくつかのパートに区切って述べていこうと思います。

私pontakaは、在日韓国人三世としてこの世に生を受けました。両親はともに戦前生まれです。父方の祖父母は慶尚南道出身、母方の祖父母は慶尚北道です。彼らみんな日本に渡ってきたのは、1920年頃と聞いております。父方の祖父は陸士卒の旧日本帝国陸軍の将校でした。母方の祖父は、一発あてに日本にやってきて、呉服屋をはじめてずいぶん羽振りが良かったようです。

父方の祖父は戦後日本に帰還したあと、祖国(韓国)に帰るかどうか祖母とかなり長い間話し合ったそうです。結果祖国に帰ることを決心し、まず持っている財産(どんな財産かは知りません)を船で送ったところ、日本海にその船が沈んでしまい、すってんてんになってしまった、と聞いています。当然もはや帰れるわけもなく、そこから死に物狂いで働き(すでに私の父親を含め4人子供がいたようです)、その後の朝鮮戦争特需によって自分の作った会社が軌道に乗り、落ち着いたようです。一方母方の祖父は、祖国に帰ることは全く考えたこともないようです。戦前も戦後もそれなりに裕福だったようです。

私の父親は祖父の影響からか、自衛隊に本当は入りたかった、と言ってました。当然韓国籍だったためなれるはずもなく、祖父の会社に入社し、そこから自分で違う会社を起こし現在にいたっています。

という感じで、私pontakaは非常に恵まれた環境で育ち、小学校は私立の進学校でした。この小学校の先生方がまた、半分は旧日本軍の元将校(大部分が陸士卒で、ほんの一部海軍兵学校卒)のおじいちゃんでした。威厳はありましたね。今になってみると、戦争の生き証人だった人たちと普通に接することが出来たのは、自分の人生の中で本当に大きな財産だと思います。私は、小学校は私立進学校、中学校は地元の公立、高校はまた私立進学校と、かなり変則的なんですが、この中で先生方がいちばんよかったと思うのは小学校、一番最悪だったのは中学校でした。母親も、先生方の特に言葉遣い・服装において、私と同じ意見でした。

もちろん、小学校の旧将校の先生方がみんな人格的に出来ていたかと言えば、そんなことはなかったです。いわゆる「右翼」の方々が思い描くような本当にすばらしい先生もいらっしゃれば、いわゆる「左翼」の方々が思い描くような、子供がみても卑怯と思われる先生もいらっしゃいました。ただ共通して言えるのは、礼儀・作法・言葉遣いは、皆一律しっかりしていました。教育方針は今の学生には考えられないようなものかもしれません。

毎朝、(小学校の割にはかなり広い)校庭で朝礼で先生方の挨拶があり、当然われわれは「気をつけ」の姿勢です。よく先生に言われたのは、「気をつけ、と言われたら、例え蜂がさしても動くな」でした。たまに「休め」がありますが、「休めは、だらっとするんじゃない、気をつけの姿勢でないだけだ」と言われ、30cmに足を開いて両手を後ろで組む姿勢をとっていました(全然休んでませんね。。。)。

その後、朝のマラソン(一周300mほどの校庭を何周かする)があり、このときも皆で足並みを揃えて走っていました。でも上級生になるとずるを覚えてきて、先生のそばに近づくと見事に足並みがそろい、離れたとたんばらばらになる、というような曲芸ができるようになります。

その後教室にもどり授業が始まりますが、その開始時に学校の勅語を全員で唱和します。その後礼をしますが、これも前傾30度と決まってます。授業中は見事に水を打ったように静かで、私語をするものは当然殴られます(女子はさすがに殴られてませんでしたが)。中学の先生もよく殴る人が多かったのですが、威厳が違いますね。むやみに大声を張り上げて殴るのではなく、静かに厳かに殴られました。

上級生になると、受験科目(国・算・理・社)は学力別編成に振り分けられます。授業が終わるとお掃除タイムで、これがまた徹底しています。机の並べ方は、完璧に平行で揃ってないとやり直しさせられるし、床の汚い部分は、ホーミングジフで磨かなきゃいけないし、窓は毎日マジックリンで拭いていた記憶があります。一度、4人ぐらいで箒でちゃんばらごっこをしていたのが先生にばれ、往復びんたを一人当たり10発ぐらい食らい、へろへろになったのを今でも覚えています。

始業式・終業式・特別な休日などでは、国旗校旗掲揚、国歌校歌斉唱があり、もちろん、「気をつけ、脱帽!!」の号令の下でした。これらのことを何の疑問もなく、当然のことのように行っていました。(後日詳しく述べますが、私は今でも国歌国旗に何の抵抗もありません。むしろ厳かな気持ちになるくらいです。でも他人にそうしろと言うつもりもありませんし、国旗掲揚時に着席していても、「別にええんちゃう」、ぐらいの気持ちです。個人的に許せないのは、国旗を燃やされるくらいでしょうか?

さて、小学校の様子はこんな感じですかね。みなさん、感想はいかがでしょうか?私の友達は皆一様にびっくりしてます。何せ日教組がものすごい猛威を振るっていた時代ですからね。そうこうするうちに、母から私が在日だと告げられる小学校3年生がやってきます。このお話は次回ということで。