公立中学に進学して、まず驚いたことは、入学式での生徒たちのだらしなさでした。私の小学校では、先生の話中は水を打ったように静かだし、頭を動かすやつすらいません。ところがこの中学では、しゃべっていない生徒のほうが少ない。しかも注意する先生が一人もいない。この時点で一気に嫌になりました。さらに、私にとって驚くべきことは、国旗掲揚国歌斉唱がないことでした。前にも書きましたが、私にとってそれはごくごく自然なこと(毎日3度ご飯を食べるように)だったので、びっくりしました。
翌日、上級生との対面式があったが、これがまたえらいことになっていて、校庭で対面式が始まろうとしているのに、先生からも余裕で見える場所で、20人ぐらいが堂々とタバコを吸っていました。ふと見上げると、校舎の3階のベランダにも10人ぐらいたむろして、タバコを吸っています。でも誰も注意しません。よく見てみると、窓ガラスも所々割れたままになっていて無くなっていました。
さてその後授業が始まりますが、ここでもびっくり。先生が来る時、一人の生徒が「せんせいがきたー」って叫びました。私は心の中で「せんせいがいらっしゃった、やろ」とつぶやいていましたが、どうもその言葉が聞こえているはずの教師が、何も文句を言いません。しかもジャージ姿。私の小学校では、体育の先生でない限り、きっちりした格好だったので、ますます気が滅入りました。授業が始まると、またまた幻滅。先生と生徒の間に敬語が全くない。完全に友達感覚です。その日は本当に学校を辞めたくなりました。後に母親参観のときに、私の母も先生の言葉遣いの汚さに、あきれ果てていました。
ところが、子供は適応能力に優れているせいか、一ヶ月もすると友達も結構でき、皆と同じような言葉遣いをするようになりました。それにしてもこの中学校は、学力レベルは日本一と言っていいくらい最低だったし、ガラの悪さでは天下一品でした。それこそスクールウォーズの世界(若い人は知らないかな?このドラマでは高校の話だったが)で、窓ガラスはしょっちゅう割られるは、先輩がバイクで大勢学校の中に乱入してくるは、ネタには尽きなかったです。授業中はほとんど寝てましたが、休み時間・放課後は皆で遊びまわってました。勉強は自分のレベルに合わせて、家と塾でやっていました。
学校では私も皆といっしょに、ちょっと粋がってタバコ吸ったり、しょうもないことで喧嘩を吹っかけたり、むやみに窓を割ったりしながら、鍛えられていきました。あと近所に朝鮮中級学校があり、結構けんかになったりしてました。このとき初めて「チョンコ」という蔑称を知った。「今日チョンコぼこぼこにすんぞ。」みたいに。でも朝鮮中級学校のやつも、本当にガラが悪かった。喧嘩するとき、ふと「俺も朝鮮人なんやけど」と一瞬思ったが、それもつかの間、喧嘩にのめり込んでいました。まわりも、私がコリア人(戸籍上は韓国人)であることを知っていた(通名で普段の生活を送ってましたが、仲のいい子には普通にカミングアウトしてました)ので、単に学校対学校みたいな戦争でした。ただ一度、この朝鮮学校に通っている美人の従姉妹に見られたときは、本当にばつが悪くて恥ずかしかった。
私の学校はあまりに悪すぎて、制服・髪型はどうこう言える次元でなく、完全に自由でした。先生の中でも風紀担当の教師は、あまりにひどい生徒に対してはかなり殴っていたが、ただ威嚇するだけで全然威厳がなかったです。この中学校も日教組の勢力が非常に強かったですが、最近言われているような自虐史観云々を先生から教わった記憶は全くありません。理由は、授業を全然聴いてなかったから。ただテスト勉強するに当たって、「強制連行」という言葉が出てきたことは覚えています。
とにかく学校ではめちゃくちゃやってガス抜きし、家では勉強するという毎日でした。結果、自分の行きたい私立高校に今度は入学することが出来ました。今考えると、日教組の最大の弊害は、規律正しさ・礼儀・威厳ということをぶち壊したことだと思う(あくまで私の意見です)。歴史教育云々は、たいした問題じゃない。そんなものは後でいくらでも学びなおせるから。でも躾・礼儀作法はそうはいかないと思う。子供の頃に身についてないと、大人になってもちゃんとできないでしょう。
もう一つは、何でも平均化しようとするあまりに、競争原理が失われていることだと思う。いい競争原理は切磋琢磨につながり、悪い競争原理は足の引っ張り合いにつながる。それこそ教師が現場で教えることでしょう。それを教えないから、競争原理の働いている社会に出て、悪い方向である足の引っ張り合いをする人間が増えているんじゃないか。ものすごく奇妙なのは、こんな学校でも、クラブ活動においては完璧な競争が行われていることです(レギュラーポジションの争いなど)。一方、高校は私立の進学校ということで、健全な競争が行われており、学力レベルも皆それほど差もなく、また中学ほど先生の質も悪くなく、楽しく充実して過ごせました。
一方、中学から高校にかけて、政治・経済への興味は増していきました。家ではずっと日経新聞を読んでいて、最初は主にそこからの情報だけでした。過去の歴史がらみの問題で初めて目に付いたのは、あのいわくつきの「侵略・進出教科書書き換え事件」です。捏造した、いやしてない、といった昨今の朝日新聞 vs NHKみたいですが、私が当時新聞を読んで感じたのは、「なんかせこいことやってんな」でした。
この事件を機に、日本植民地時代(保守系の方でこの言葉に異論を言う方がいますが、とりあえずここではこの言葉を使います)、戦後の韓国・北朝鮮の歴史を積極的に学ぶようになったと思います。当然それに伴う、自由主義陣営 vs 共産主義陣営の冷戦などの知識も入ってきて、父親に薦められた本を読んだり、父と議論を戦わせたりしてました。その本の中には、旧日本軍のダークサイドを描写している本も有り、純粋に身内の恥、のように思ったものです。おそらく当時はまだ私の心の中で、「韓国人」としてのアイデンティティと「日本人」としてのそれが、はっきりと区別できてなかったのかもしれません。ドイツのホロコーストについて知ったのもこの頃です。
一方小学生からの軍事マニア的なところも順調に育っていき、朝鮮戦争時の仁川上陸作戦などに純粋に「かっこいー」と思ったりもしました。ノルマンディー上陸作戦とともに私の心に非常に強く残っている軍事作戦です。両親ともに共産主義嫌い(当時ソ連はブレジネフ・アンドロポフ体制)だったためか、もしくは祖父母ともに朝鮮半島南部出身だったためか、本を読みながら熱烈に韓国を応援してました。
同時に夢中になって読んだ本はスパイ小説です。特にはまったのはBrian Freemantleで、彼のノンフィクションものも大好きでした。その中でイギリスのキム・フィルビー事件・西ドイツのブラント首相秘書スパイ事件は特に青年期の私に衝撃を与えました。Brian Freemantleが本の中に書いていた言葉で、特に印象に残っているのは、「情報部を持っていない国ほど哀れなことはない」というやつです。こうして安全保障という分野に興味を示していき、憲法問題にも関心が強くなっていきます。
当時幼いながらも、歴史問題と安全保障問題は全く持って別物で、過去の日本軍のことについてはしっかり謝って反省すればいいし、それと同時に普通の軍隊・スパイ防止法・情報諜報機関を持てばいいし、別にこれらはお互いに矛盾するはずがない、といった考え方でした。また、当時の極東の国々に対する考え方は、中国・北朝鮮は共産圏だからダメ、韓国・台湾は軍事独裁だからダメ、でした。非常に単純な考え方ですが、基本的に西側諸国の自由主義・民主主義を強く支持していました。
でもアメリカに対しては、太平洋戦争で日本が負けたこともあり、ちょっと複雑な気持ちでした。心情的には、西ドイツにとてもあこがれていました。いくつかの理由があると思いますが、おそらく、日本と同様敗戦国だったこと、朝鮮半島と同様分断されていること、統一したいができないことなどが挙げられると思います。当時読んだ小説の中で、このドイツの統一への気持ちを表したスパイ小説「鉄血作戦を阻止せよ」(トンプソン著)は、とても印象に残っています。この小説の最後で、統一のためのクーデターが結局失敗に終わるのですが、この時朝鮮半島の統一とダブって涙した覚えがあります。結局私の気持ちの中では、日本と朝鮮半島の両方に深い愛情を抱いていたのかもしれません。
さて、そうこうしているうちに、社会生活において重大な出来事がありました。すなわち外国人登録・指紋押捺です。親と一緒に市役所の外国人窓口に行って、はじめて写真撮影と指紋押捺を行いました。当時の気持ちは、面倒くさいなあ、っていう感じです。別に差別されている、という気持ちもなく、俺はやっぱり外人なんやな、と改めて思った程度です。この翌日だったと思います。母が私に「あなた、帰化したい?」って訊いてきました。突然のことで面食らって、「何かメリットあんの?」って訊き返した覚えがあります。そのとき初めて、「在日韓国・朝鮮人」が「日本人」と比べ、どういう権利がないのか、また外国人としてどういう義務があるのか、などを細かく教わりました。「指紋押捺」「外登証常時携帯義務」「参政権」「外国旅行の不便性」云々。
結局それらを全部聞いた時、すぐさま「帰化しよう」って言いました。理由は、在日でいることになんのメリットも感じられないからでした。その後すぐに、両親は帰化手続きをはじめたと思います。後に聞いたことですが、私が小学校のときに一度帰化申請をして却下されたようです。帰化手続きは今でこそれなりに楽になっていますが(それでもお金はかかります。このあたりはらーさんのblogで詳しいと思います)、私が帰化した頃は本当に大変だったようです。ましてやそれ以前の小学校のときは、もっと厳しかったでしょうね。
財政的に裕福だし(ちなみに会社はいわゆる重厚長大産業です)、また民団・総連ともに全く関係ないのに、最初に帰化が却下された主理由は、父の交通違反(酒気帯び運転)だったようです。つまり、帰化条件の3)素行が善良であること(素行要件)に引っかかったわけです 。このことで、父は「二度と日本国籍なんか取るか。」と思った時期もあったようですが、私の外国人登録を見て、子供のためにと考え直したのかもしれません。
今は、うわさによると交通違反はあまり不利にならないと聞いていますが、それでもこの素行要件は残されています。ここで少し意見を述べさせてもらうと、こういった行政のさじ加減で決まるというような項目は、残すべきでないと思います。帰化条件を厳しくするにせよ、緩くするにせよ、もっと分かりやすい厳密な法律・項目が必要なんではないか、と思います。これではあまりにアバウトな項目で、とても法治国家の文章だと思えませんから。
また近所の聞き込み調査まで行われ(今はどうなってるのか知りませんが)、それが非常に不快だったようです。ご近所さんの中には、当然馬の合う人もいれば合わない人もいますからね。結局1年ほどの申請期間の後、無事日本国籍を取得できるようになりました。確か家族で法務局に行って、お役人さんから「おめでとうございます」と言われた覚えがあります。苗字は通名をそのまま使いました。私はずっと通名で生活してきたので、何の抵抗もなかったです。今日では改められましたが、当時は一文字名はまず許可されなかったようです。
こうして今後は日本人として生きることになり、大学に進学します。大学に入ると今までよりも自由な時間も多く取れ、自分の民族の言葉である韓国語を学ぼうと思いました。そこで父の知り合いの息子さん(在日の方)に誘われて、在日のサークルに所属します。サークルと言っても政治活動も行っている団体で(民団・総連とはまた別団体)、政治・社会の関心が高かった私は興味しんしんでした。このお話は、また
次回ということで。
(前回は
こちら)
P.S. この後が皆さん、最も聞きたいことの一つでしょう。楽しみに待っててください。(笑)