サイレントなのに、いや、だからこそなのだろうトーキーよりも饒舌に訴えかけるシーンの数々に圧倒される。散り散りとなったアンリエッタ(リリアン・ギッシュ)とルイーズ(ドロシー・ギッシュ)は二度再会する。その「建物の二階と路上」と「被告席と陪審席」の悲壮のすさまじいこと。
互いに認識はできるが縮まらぬ残酷な“距離”をあいだにして、ふたりが名前を呼び合う悲痛な叫び声が、聴こえてくるような切迫感に圧倒される。情報過多の映画に慣らされてしまった私に「音のないこと」こそが映画演出の基本なのだということを思い知らせるのだ。
この映画、革命後からが俄然面白くなるのだが、勝利に狂喜し統制を失くした民衆の混乱は、踊り狂う女たちのダンス(どうみても16世紀にはあり得ないチャールストン!)として表現される。彼女らの服装も明らかに1910年から20年代(日本でいうところの大正時代のモガ)のそれなのだ。
映画の冒頭、D・W・グリフィスは、革命後の社会が無政府化や共産主義化することを「決してあってはならいこと」だど釘をさす。この秩序なく奔放に踊り狂う女(民衆)たちは、フランス革命後の混乱にダブらせた、同時代(1920年代)のアメリカ社会の「行き過ぎ」への警鐘なのだろう。
(9月1日/シネマヴェーラ渋谷)
★★★★
互いに認識はできるが縮まらぬ残酷な“距離”をあいだにして、ふたりが名前を呼び合う悲痛な叫び声が、聴こえてくるような切迫感に圧倒される。情報過多の映画に慣らされてしまった私に「音のないこと」こそが映画演出の基本なのだということを思い知らせるのだ。
この映画、革命後からが俄然面白くなるのだが、勝利に狂喜し統制を失くした民衆の混乱は、踊り狂う女たちのダンス(どうみても16世紀にはあり得ないチャールストン!)として表現される。彼女らの服装も明らかに1910年から20年代(日本でいうところの大正時代のモガ)のそれなのだ。
映画の冒頭、D・W・グリフィスは、革命後の社会が無政府化や共産主義化することを「決してあってはならいこと」だど釘をさす。この秩序なく奔放に踊り狂う女(民衆)たちは、フランス革命後の混乱にダブらせた、同時代(1920年代)のアメリカ社会の「行き過ぎ」への警鐘なのだろう。
(9月1日/シネマヴェーラ渋谷)
★★★★