ポコピン亭

ポコピンの日々の記録と東方緋想天の戦いが綴られていきます。多分。

まえがき

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
ポコのものを読むに当たっての注意事項をよく読み御理解いただくようお願いします。

注意事項
1:気分が優れない時は無理をせず、目や体を休めてください
2:途中で吐き気やめまいなどに襲われた場合、すぐに中断し、体を休めてください
3:なんてったってポコ作品です。過度の期待はご遠慮ください。
4:単行本にして約265Pです(予想読破時間三時間
5:例によってリアルポコピン関係者にはとてもじゃないが見せられんとです。もし見るというならばポコピンの左前辺りにいつも居た【松の尾っぽは何色だ?】さんの携帯の受信フォルダが大変なことになります。やめてあげましょう。
6:そろそろ暖かくなってきましたね。気温の変化に気をつけましょう。
7:文字数の関係でぷちぷちと本編が切れています。ご了承ください。
8:タイトル横の数字は編集作業用のものです。気になさらずに。

読む準備はできましたか?
読む勇気はもてましたか?
とてもポコだけでは場を支えられそうにありません。尊敬する作家の言葉を借りましょう。

どうか、おもしろかったら笑ってください。
どうか、つまらなかったら笑ってやってください。
両手いっぱいの幸せが訪れますように。

プロローグ 時速120kmの箱の中

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
冬。暖房。放送。メロディ。赤いシート。人の声。一人。二人。

「皆元気かな?」
「そりゃまぁ元気だろうな」
「どうしてわかるの?」
「だってほら、馬鹿から元気取ったら何も残らないだろ」
「あはは、言いすぎだよ」
「んなことないって」
「たのしみ?」
「あぁ、でも――」
「平気」
「…………」
「本当に、だいじょうぶだから」

流れる景色。見慣れた町。灰色の空。揺れる体。一つ。二人。

『次はまもなく――』

第一章 冬風のしたで 一

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 その日も昨日に負けず劣らず猛烈に寒かった。
 朝には微妙に、ほんの五分くらいだけど雪が降ったほど気温は低い。
 空には羽毛布団みたいな分厚い灰色の雲がしっかりと太陽の光を遮っていて、夏には凶悪にも思えるくらいギンギン調子に乗って輝いている太陽もボロ負けだった。
 風が冷たい。マフラーで巻かれたところから上の部分、つまり頬の辺りから頭の先にかけてはもう寒すぎて感覚が無くなってきた。
 このすっかり薄くなった古いロングコートも僕を冷気から守りきるのは困難らしく、母親が買ってきた三組千円セットの手袋はむしろむなしくて、頼りになるのは僕が自分で買ってきたこのマフラーだけ。
 マフラーだけでこの寒さに耐えられるか!
 奥歯がカチカチと鳴り始める。これはシャレにならない。寒すぎる。
 今だけ、今この瞬間だけ夏の暑さが恋しくなった。
「ちょっと、大丈夫?」
 同じく隣に並んで立っている少女、一河朋香が心配そうに尋ねてきた。
 朋香も僕と同じ時間外気にさらされ続けているはずなのに全然寒そうな気配は無い。
 白に近い桃色のダウンコートに、もこもこした毛糸の手袋、赤と白のラインが入ったニット帽と見ているだけで暖かそうなのに手には買いたてのココア(HOT)まで握られている。
「見ての通りだ、大丈夫そうに見えるか」
 唇が震える。話すのも辛い。はっきり声が出せている自信は無い。少なくとも僕には「みえのおおいあ」にしか聞こえなかった。三重の多いア?
 それでも伝わったのは、おそらく慣れだろう。数分前からずっとこんな調子だからだ。
「えっと、うん、元気そう。良かった良かった」
 僕の顔を覗き込んで出た言葉がそれである。鬼だ。僕がこんなに震えているのに元気そうだってさ。多分寒さで視力が落ちているんだな。そうに違いない。きっとそうさ。
「本当にそう見えるなら朋香、お前は重症だ。早く眼科に行ったほうが良い」
「うるさい馬鹿!」
 うぅ、どうして神様は僕にこんな酷い仕打ちをするのですか、学校の小テストでカンニングしたからですか、遅刻回数が多いからですか、それとも買うつもりも無いのにスーパーの試食コーナーを回ったからですか。あんまりです、そんなことで僕をこんな酷い罰を与えるなんて、貴方は最低だ。僕はこれっぽっちも信じていない神様に愚痴ってやった。
「寒い、マジで寒い、ココアちょっとくれよ」
「なんで?」
「いいじゃんちょっとくらい」
「やだ、自分で買ってくれば?」
「少しくらいくれよ」
「うるさい馬鹿!」
 あぁ泣きたい。鼻をすする。泣いてるわけじゃないぞ、寒すぎて鼻水が出てきただけだ。
 僕達が駅に着いてから十分が経過していた。


 相棒兼、親友兼、幼稚園からの幼なじみが四ヵ月ぶりに京都に帰ってくるというメールが届いたのは、学校が冬休みに入った翌日のことだった。
 相棒は僕とは違って他府県の高校に通っている。電車を乗り継いでで二時間くらい走ったところ、らしい。
 実際に自分で行ったことが無いから分からないけど、とにかくそこそこ遠いところだ。
 相棒は屈指のテニスプレーヤーで、いろんな大会でそれなりに入賞と優勝を繰り返しているような化け物だ。
 親父さんが元テニスプレーヤーでスポーツジムを経営していて、小さい時に一度遊びに行ったことがあるが、全然遊ぶような雰囲気ではなかった。
 真剣な表情で玉を追いかける人たちは当時の僕を圧倒するのに十分だった。
 そんなジム経営の父に育てられた相棒はあっさりスポーツ推薦で高校に入学。スポーツで有名な高校だそうだ。
 でもそこは他府県であり、つまり京都ではない別の県、どこだったかな、まぁいいや、とりあえず他府県なわけで、電車で二時間。
 もちろんそんなところに家から通学するわけもなく、今は寮で一人暮らしをしている。
 出発前日に、いやぁ参ったよ学校遠すぎだってのわはははは、とか言っていたが結構あっさり出発してしまった。
 向こうの練習は厳しいらしく、京都には大型の連休の時しか帰って来ない。
 そして今、無事にお互いの高校が冬休みに突入して、僕達は相棒の帰りをこうして駅で待っているのだが、
「寒い寒い寒い寒い」
 本日二百回目に突入する寒いを連呼。正確には数えてないが多分それくらいは言っているだろう。寒い寒い。
 雨をしのぐための屋根しかなく、横からの風が当たりまくりなこの駅の製作者は僕のことが嫌いなのだろうか。あったことも無いのに。
 駅の横にはコンビニがあるのでそこに入って待っていようと朋香に言うと、
「もうすぐ来るだろうし、待ってよう」
 とかニヤニヤ笑いながら言うのだ。わざとだ。絶対にわざとだ。
「和哉うるさい」
 しかめっ面で朋香がそういうのだけれども、寒いものは寒い。冬は寒いもんだろ? 今俺は冬の試練に耐えているところなんだぜ。邪魔をしないでクレタマエ。
 とうとう頭まで怪しくなってきた。
 隣のタクシー乗り場で一人のおばさんが黄色いタクシーに乗り込むのが見えた。あの中は暖房全開であったかいんだろうな。自分がタクシーに乗ったつもりで想像してみる。
 暖房の暖かさ。紅潮する頬。寒さから解放された安堵の息。
 冷たい風がそんな妄想を軒並みなぎ払っていった。
 もう少しみせてくれてたっていいじゃないか…………。僕は大自然を相手に愚痴っていた。
 学校が冬休みに入ってから気温はグングン低下。温暖化はどうしたんだと言いたくなる。
「自分で一時には着くから待ってろとか言ったくせにもう十五分も経ってるし!」
 そうだ、今こうやって震えてるのはあいつのせいだ。あいつがもっと時間通りに駅についていればこんな思いはしなかったはずだ。
「電車遅れてるのかな」
 相変わらず暖かそうな格好で語りかけてくる朋香が握るココアの中身はもう無くなっていた。ちぇ、本当に一口もくれなかったな。少しだけ寂しい気持ちになった。
 それにしても遅い。線路でも凍っているのだろうか。それなら仕方が無いが、単なる遅刻なら一体どうしてやろうか。……どうするつもりんだんろう。
 やばい、本格的に頭がやばくなってきた。そのうち「ぐふふふ」とか謎の笑い声を上げだしかねない。
 そんなことを思っていた時だ。
「いーっよう!」
 男にしてはやけに高めの声と共に僕の受ける重力が二倍になった。後ろから誰かが乗りかかってきたらしい。突然のことだったのでバランスを崩してこけそうになったが何とかこらえるが、急に力が入ったせいで足が痛い。
 こんな馬鹿なことをするのは今あいつしかいない。
「重いっつうの」
 前かがみで今にもこけそうな体を勢いよく起こす。のりかかってきた奴もすぐに身を引いてくれた。
 慌てるわけでもなく振り返ると、そこには黒い塊があった。決して比喩などではない。
 上から下まで真っ黒。上は分厚いニット帽から始まり、口まで覆ったネックウォーマー、ベルト付きダウンジャケットにぶかぶかのカーゴパンツにスニーカー。途中で刺繍も何も無い。完全無地の黒。帽子を含めて高さ百八十センチ近い黒が立っていた。
 一言で言うと怪しさ全開。某探偵もののアニメの犯人像に服を着せたらこんな感じではないだろうかという感じで、ぱっと見は正直ビビる。
 あたかもその空間だけが切り取られたかのような、そんな風にも思えてくる。
 ただニット帽からはみ出た栗色の髪の毛だけが、その存在を主張するかのように色を持っていた。
 その黒い男、和泉優は紛れもなく相棒兼親友兼幼なじみである。
 初めこそその服装に少し違和感はあったが、今ではすっかり慣れてしまった。どうしていつも黒い服なのかと聞いてみたこともあるが、今はそんなことよりも、
「何で後ろから出て来るんだよ」
 僕の知る限りこの駅の出入り口は一つしかないはずだ。そこで僕達が待っていたのだからこんな目立つ奴を見逃すはずがない。他にも比較的黒い服装の人は居るが、優はそれをはるかに上回って黒いからだ。
 ……まてよ、まさか。
 僕の頭に笑えない冗談のようなものが浮かんだ。
「実は結構前から着いてたんだけど、ほら、遠目でもお前が震えてるのがすげえ見えるから面白くてずっと見てた。あそこの中から」
 優の指差す先には駅前自慢のドーナツ店。
 最低だ。鬼だ。こいつも鬼に違いない。
 僕の体は意思を無視してがくがくと震えだした。もちろん寒いからだ。
 なんだこいつは。もうちょっと悪びれろよ。むしろ謝れ、今すぐ謝ってくれ。
 そんなことを言ってやろうと思ったときにふと思い出してしまった。
 夏休み帰ってきたときに同じことされてるし!!
 あの時は暑くて最悪だった。連日三十度超えの猛暑が続く中、優を朋香と迎えに来たときのことだ。
 僕達が駅に着いてから五分くらい暑い暑いと言っていて、それから朋香がトイレに行ってくると傍のコンビニまで走っていって、僕は一人で優が来るのを待っていたんだ。十分くらい。
 殺人的な暑さの中を一人で突っ立っているのはかなり寂しくて、それでもずっと待っていた。
 それでも来ないからまだ着かないのかとメールをした二十秒後、朋香と優がコンビニから出てきた。
 今思えば朋香がコンビニに行った理由をもっと深く考えるべきだった。どう考えてもクソ暑いここから逃げ出すための言い訳だったんじゃないかと。しかも戻ってきた時には優まで一緒。
 おそらくコンビニに隠れていた優が僕達を見つけて、僕にばれないように朋香を手招きでもしたのだろう。そして暑さに苦しむ僕のことも忘れて話し呆けていたに違いない。最低だ。
 しかも戻ってきた時の言葉が、
「わりぃ、忘れてた」
 である。どうだろう、そりゃあ泣きたくもなるってもんだ。悲しすぎて涙も出なかったけど。
 そして今回は暖かなドーナツ店からの震える僕観察。悪趣味にもほどがある。
 あぁ、もういいや。きっと僕はいじめられっ子体質なんだろう。絶対にそんなの信じたくないが。
「朋香も久しぶり!」
「うん、久しぶり。元気そうだね」
「元気じゃないときがあったか?」
「そういえば無いよね」
 僕が黙々と暗いことを考えている間に二人は楽しそうに話して笑っていて、僕一人なんかみじめに思えてきた。ズズッ。鼻をすする。ちくしょう、本当に寒いな。
「おいおい、せっかく帰ってきたのに元気出せって」
 僕から元気を奪い取っているのは誰だと思っているのだろうか。
「…………」
「ほら土産やるからさ」
「え、まじで」
 自分の現金さが悲しくなったがもう考えないことにした。開き直りってやつだ。そうでもしないとやっていけない。
 優はポケットに手を突っ込んで、ほらよ、というかけ声と共に何かを僕に投げる。冷え切ってかじかんだ僕の手はそれを上手に掴めなくて、何度か手の中でバウンドさせながら何とかそれを捕まえる。
「……なんだこれ?」
 掴んだそれは大きさ五センチくらいの透明な小瓶に青っぽい液体と、星の形をしたガラスのようなものが入っていた。
 空に向けると中の液体が光の当たり具合で虹のように七光りして、とても綺麗だった。
 蓋のコルクのところに紐がついているからキーホルダーの類、かな?
 朋香にも同じものが渡されて、やはり僕と同じように光を当てて虹を楽しんでいた。
「なんか綺麗だから言われるがままに思わず買ってみた」
 誰に言われたんだろう、店員か? まぁ販売側の誰かだろう。
 確かに綺麗だ。ずっと見ていても飽きない気がする。少し振ると中で透明な星がキラキラと輝いた。
「すごく綺麗」
 感動した口ぶりで朋香が呟き、マジで綺麗だな、と僕も呟いた。
「はは、喜んでもらえてよかった」
 ポケットに手を突っ込んだままの優の目が笑っていた。きっと口元もニコニコとしているに違いない。
 僕達は少しの間、虹色の星を眺めていた。
 流れていく冬の風。さっきまでは随分と冷たかったそれも、今は不思議と暖かく感じられる―――わけはない。
 寒いものは寒いわけで、もう限界なんてとっくに超えている。さっさと用事を終えてぬくぬくとしたいのでさっさと用件を済ませることにする。
「それで、俺らは荷物持ちだろ。何でお前手ぶらなんだよ」
 ちなみに昨日きたメールの内容はこうだ。
『愛しい親愛なる親友へ。ついにこっちも冬休みだぜ! つうわけで明日の一時にいつもの駅で待機よろしく! 最高の荷物持ちを持つ幸せな俺より』
 俺より、っておいおい。それじゃ誰だかわからないだろう。
 一体僕は親愛なる親友なのか、最高の荷物持ちなのかどっちなのだろう。多分両方か。
 優はそういう奴だ。いつも冗談っぽく言うくせに、言いたいことは何でも言う。
 ふざけてるくせに、しっかりと話す優の正直なところが僕は好きだった。
 いつも自分をごまかして、見栄とかを張ったりして何とか生きている僕には優が羨ましかった。
 だから僕は荷物持ち。僕の名誉のために言っておくが別にこき使われているわけではない。友情ってやつだ。親友が助けを求めているのに放っておくことなんてできないだろう?
 そういうわけで僕達は親愛なる親友のために彼の荷物を持って帰るのを手伝うことになった。
「あぁ、荷物はな、あれ」
 優のポケットから出た指が明後日の方向を指し示して、僕の目がその先を追う。
 指の先は駅の端っこ。ただでさえ陰になって見えにくいくせに日の光が弱いせいでさらに暗くなったところを指していた。
 まだ昼間なのに暗すぎてよく見えない。よく見えないが、ぼんやりと何かが見えた。目を凝らすと少しずつ何かが見えてくる。それから思わず目を見開いてしまった。
 アウトドアなんかで使う巨大な肩に担ぐタイプの横長い鞄が二つ。どちらもありえないくらいパンパンに膨らんでいて、触るとはじけてしまいそうだ。
 何であんなにでかいんだとか、中に何が詰まっているんだとか、そんなことが出ては消え、消えては出てきてを繰り返した結果、残ったのは大きな溜息だけ。
 向こうで着る衣類や日用品だけでは説明できないその大きさに、僕は完全に圧倒されていた。
 前回はもっと可愛らしく、もっと一般的にしぼんでいたはずだ。
 だが今回はしっかり前の二倍以上はある気がする。無意識に二度目の溜息が漏れた。
「……すごい量だね……」
 朋香も驚いているようで、その声はどこか小さかった。
「すごいってレベルじゃねえぞ、あれは」
 はっきり言って常識外である。どうやってあんなものを担いでこの駅までたどり着いたのかと尋ねたくなる。しかしすぐに手で持ってきたのだろうという一般的な答えにたどり着き、優がそれぐらいのことを軽々とやってのける男だということを思い出して、再び溜息が漏れる。
「まぁ向こうで色々買っているうちに……色々と……な?」
 な? じゃねえよ、な? じゃ。
 とりあえず近くまで歩いてみるとそれは近くなるほどさらに大きくなっていって、すぐ近くで見れば僕一人位は軽く収まりそうなサイズだった。改めてこれを担いでいる優を想像してみる、が、あまりに非常識すぎて僕の想像力では全然足りなかった。とにかくでかすぎるのだ。
 シャレになってないぞおい。
 そんな僕は親愛なる親友の最高の荷物持ち。いまさら断るわけにはいかない。
 しかし世の中には不可能という言葉があるわけで、それを横でニコニコしている奴に言ってやった。
「なぁ優。どう考えてもこれは朋香には持てないだろ」
 見た目重量は軽く十キロは超えている。とてもじゃないが朋香がコレを持って歩くというのは考えられない。というか考えたくない。
「いやいやいや、でかいのを持つのは俺とお前で、朋香はこっち」
 そう言いながら優は腰を折って巨大なバッグの向こう側から何かを取り出した。出てきたのはごく普通の肩掛け鞄。しかもぺちゃんこ。
 それはいたって普通サイズで、地面に転がる二つのだるまと比べると余計に小さく見えた。
 おいおい、いくら朋香が女だからってそれはひいきすぎるだろう。僕はずっとこっちを見ている(気がする)だるまを見ながらそう思った。

 
 見た目重量十キロ、感触重量五割増し、つまり十五キロくらいの勢いで膨れ上がった荷物は思い切り僕にのしかかっていた。
 寒いなんて感じている余裕はない。重い。ひたすら重い。とって部分が肩にすごく食い込んできてすごく痛い。気がつけばほとんどおんぶするような格好でその荷物を持っていた。 
 駅から優の家までは二十分くらいかかるが、流石にこの大荷物を抱えて二十分を歩ききる自信が無かったので、丁度中間地点くらいのところにある僕の家で一時休憩することになった。
 とはいえそれでも半分。疲れるには十分な時間である。
「ほんとにお前どうやってこんな荷物こっちまで持ってきたんだ」
 横では清々しいくらい涼しい顔をした優が楽々とバッグを持ち運んでいた。一体どういう鍛え方をしたらそんな風になれるのだろうか。
「それはあれだ、お前らに会いたい強い思いと、再会を喜ぶ気持ちと、九割八分近い気合だ」
 どうやら僕達への思いは二分以下らしい。もう少し僕たちに会いたい思いと再会を喜ぶ気持ちに心を裂いてほしい。
 駅から僕の家に向かう住宅地の細い小道を横一列に並んで僕達は歩く。ただでさえ狭い道を並んで歩いているのだから余計に狭く感じられた。
 しかも右側を歩く優のさらに右側には人一人が入れそうなスペースが空いている。完全な無駄スペースだ。
「おい、優。もうちょっと右寄れよ」
 朋香を挟んだ左側の僕が必死に訴える。なんせこっちは隣の民家の壁とすれすれなのだ。時々飛び出ている木々にぶつかりそうになるのを何とか避けているくらいぎりぎり。
「いいか和哉、お前はバッグをおぶっている。つまり縦幅は一人分だ。でも俺は横に持っている。サイズ的に二人分だ。俺が右に寄ると俺のバッグはどうなる?」
 ならお前も背負えよ! とか思ったが、もうそんなことを言うのもばかばかしくなってきた。うお、あぶね、また木の枝にぶつかりかけた。
 よく見れば朋香と優の間にほんの少し隙間が空いていて、どちらかというと朋香が僕によってきて壁に押付けている感じ。
 お前も右に寄れよ、とか言いたかったけど、どうせ言ったところで痛い反撃がくるのは目に見えていたのでやめておいた。
「男らしくちゃんと持ちなさいよ」
 真ん中で小さなバッグを首にかけて前に持って歩く朋香が言う。そうは言うが朋香、このバッグは、
「まじで重てぇ」
 普段運動なんて通学と体育の授業くらいしか大してしていない僕にとってこれはかなりの重労働である。それに比べて朋香はどうだろうか。ペチャンコの見るからに軽そうなバッグを持って楽々と歩いている。
「それ軽そうだな」
「うん、すごく軽いよ」
「何が入ってんだ?」
「ん? 何も入ってないぞ、中の荷物は全部お前のバッグに突っ込んだからな」
 さらりとすごく酷いことを聞いた気がする。
「ついでにそのバッグも突っ込もうかと思ったんだが、見ての通りそれ以上入らなかったんだな、はっはっは」
 はっはっは、ってお前……。もっと僕のこともいたわってやってほしい。そのうちストライキを起こすかもしれないぞ、一人で。
 一人でストライキの旗を掲げて何かを叫んでいる自分を考えてみた。幼稚にデフォルメされた僕が一人で旗を振りつつ精一杯給料を出せと叫んでいる。間抜けすぎだ。
 もう考えるのはやめよう、なんだかさっきからこんなのばっかりだ。
「そういえば前言ってたあの本、中々良かったぞ」
 優が朋香に向かって話しかけた。
「でしょ? やっぱりあれがあの人の作品で一番良いと思うのよね」
 すぐさま答える朋香。
 一体何の、あぁ、小説の話か。僕の全然及ばない領域の話。僕はあまり小説を読むほうではなく、むしろ全然だ。まるで国語の教科書を見ているようですぐに眠くなってしまう。どうしてこの二人は大量の本を読み続けることができるのだろうか。漫画ならいくらでも読めるけど。
 優と朋香は二人ともかなりの読書家だ。
 朋香の家には大量の本が山ほど溢れていて、まるで家が本でできているってくらい本だらけ。全部父親が昔に買ってきた本らしい。しかしそんな本もすでに朋香によって読破済みで、今では朋香が大量の本を買う立場になっている。
 優のほうは昔彼が僕の家に遊びに来たとき、朋香がたまたま忘れていった全七巻の文庫本のうちの一巻から三巻をその場で読みきり、そこで何か変なスイッチが入ったらしく次の日には残りの四巻を全て購入していったという。
 そこから半ば暴走したように本を購入し続け、気がついたら自室の本棚が溢れているというような状況らしい。
 読書家の本に対する情熱というものがさっぱり分からない僕にとって、それはまるで別世界だった。
 優も朋香も家の近い幼なじみ。優は幼稚園から、朋香は小学校から。
 元々二人の間には何の交流も無かったようなのだけど、二人とも僕とよく遊んでいたわけで、自然と接触する機会も増えて、気がつけば二人は小説の話題で盛り上がっていた。
 どこかに取り残されたような気分になる。
 前に僕も小説を読もうかな、なんて思ってはみたのけれど、朋香から借りた小説を二分で投げてしまった。情けない。
 僕にもう少し根気があればこの輪の中に入っていけたのだろうか。
 そういえば一度だけしっかりと読めたことがあるが、あれはたしか―――
「んで、どうなのさ和哉は」
 急に話を振られて慌てた。
「え? あ、何?」
 全然話を聞いていなかったので何を聞かれたのかさっぱりわからない。
「だから、学校の成績だよ、どうだったんだ」
 どうやら小説の話はとっくに終わっていたようで今は学校の話で盛り上がってるらしい。優が相変わらず笑った目で僕を見ていた。
「お前わかってて聞いてるだろ」
「まぁな」
「いつもどおりだよ」
「そりゃひでえな」
 まぁ、確かに酷かった。頑張らないとクラスの馬鹿四天王になるのもそう遠くない未来な気がする。
「私が勉強教えてあげてるのに小テストみたいな点数とるんだよ?」
「和哉、お前は最低だ」
 なぜか急に真剣になった優の目が気持ち悪い。
「な、なんだよ」
「朋香が、この朋香がお前のために自分の勉強時間をさいてまで教えてくれているんだぞ。それなのに、それをムダにしたお前は最低だ」
「この朋香ってどういう意味よ」
「細かいこと気にすんな、いいか和哉、朋香に教えてもらっているならお前が俺並みの成績を取ることだって不可能ではない」
「そんなに力説されても困るんだが」
「……こともない」
「できないのかよ」
 ちなみに優は聞くに高校の成績がオール五の大馬鹿野郎。そんな成績を僕が取れるはずがない。朋香ですら評定平均が四くらいだというのに。
「とりあえずがんばれよ」
「お、おう」
 本当に頑張らなければいけない。馬鹿四天王入りしないためにも。
 どうしようも無くくだらない話題で盛り上がって、話に夢中で荷物の重さも忘れていた。
 気がつけば僕の家はすぐ目の前に迫っていた。

第一章 冬風のしたで 一-2

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 膨れ上がった荷物を部屋まで持っていくかどうかという話し合いの結果、荷物は玄関から入ってすぐ横に積んでおくことにした。
 優は邪魔になるから自分で持って上がると言ったのだが、こんなでかいものを持ってもし階段で足を滑らせたりしたら大変だということで納得させた。
「ただいま」
 誰に言うわけでもなく言った。返事は無い。
「ただいまー」
 朋香も続いて家に上がる。やはり返事は無い。
「おじゃましまーす」
 僕にはあれほど色々言うのにどうして他人の家に上がる時はおじゃましますって敬語なんだろうな。おじゃまするぜ、とかおじゃまー、とかではダメだろうか。だめだろうな。
 そんなどうでも良いことを考えつつ階段を上がって三階の自室を目指す。部屋に行くには一度二階のリビングを経由しなければならない。
 僕達が揃って階段を上ってリビングに着くと、弟がイヤホンをつけて携帯をいじりながらソファに寝転がっていた。携帯で曲でも聴きながらメールでもしているのだろう。なるほど、返事が無かったのもうなずける。
 ぞろぞろと三人がリビングに入ってくると弟も気づいたようで僕、ではなく優を見て、
「おお、優ちゃん! 久しぶり!」
「よっ、元気そうだな」
 という活気溢れる挨拶を交わした。
 何故だか知らないが菊池家の住人達(僕を除く)は優のことをちゃん付けで呼ぶ。ちなみに僕は一度も……いや、言っていた。幼稚園の時に。
 それを親が覚えていてずっと言っているのだろう。僕が忘れかけているようなことをずっと覚えているなんて。もっと他に覚えることはあると思うのだが。
 優と弟の交流も終わって僕の部屋へ向かう。階段を上ってすぐの部屋が僕の部屋だ。
「うおおおお、四ヵ月ぶりに懐かしい!」
 叫びながら僕のベッドへダイブ。
 しかも前の朋香みたいな感じじゃなくてもっと重量感と、破壊力のある感じ。
 ベッドのスプリングがピギャッと痛ましい悲鳴をあげた。どうして僕のベッドは人からプレスを受けなければいけないんだろうか。
「おいおい、頼むから壊すなよ」
「だが断る」
「断んな!」
「いやいや、他人のベッドが目の前にあったらまず全力でボディプレスをするのは礼儀だろ」
 ひどい礼儀だ。どのへんが礼の儀式なんだろうか。スキンシップにしては痛ましすぎる。
 大きな悲鳴をあげて沈黙したベッドに満足したのか優は体を起こしてベッドに腰掛ける。何故か左側の場所をぽんぽんと叩いているが。
「どうした?」
「いや、ゴミを見つけた」
 それは叩くんじゃなくて払わないといけないのでは、という疑問が浮かんだがすぐに消えた。
 僕はいつもどおり勉強机付属の椅子に座り、朋香は座布団を敷いて座った。
 丁度三角になるような形で僕達は座っているのは、コレが一番話しやすい形だから自然にそうなったのだろう。
「それにしてもお前の部屋漫画ばっかだな」
 ニット帽とネックウォーマーを取りながら部屋を見渡して優が言った。
「あ、それ私も思った」
 同じく朋香も帽子を取ってひざの上に乗せて同意する。
「ほとんど借り物だけどな」
 マフラーをくるくると外して答える。
 机の上にあったエアコンのリモコンに手を伸ばしてボタンを押すと、ピッという音と共にエアコンの口が開き、ゴォォっと暖かい空気が吐き出されていく。
 室温はみるみる上昇して、僕達の防寒着を剥ぎ取っていった。
 ジャケットを脱いでも尚黒い無地のフリースのせいで、優の栗色の髪の毛はすごく綺麗に見えた。
「そういえば向こうの学校って髪染めるの違反だとか言ってなかったか?」
「あぁ、まあ気晴らし程度にな。戻る時にはまた黒に直すつもり」
「でも染め替え続けると髪の毛溶けるとかって聞いたよ」
「げ、まじで?」
 朋香の一言に優は動揺しまくっていた。それぐらい先に調べておけよオール五。馬鹿と天才は紙一重ってこういうことだろうか? 違う気がするが。
「よし、このまま帰ろう」
「いや戻せよ」
 相変わらずどこまで馬鹿で、どこが賢いのかわからない。優はいつもとぼけているせいで普段からは賢さの欠片も見つけられない。まぁそれがいいんだけど。
「それでねー、聞いてよー」
 何がそれで、なのかよく分からないが朋香が話し始める。
「実は私、和哉の家に居候することになったようなんだよ」
「……は?」
 優は一体目の前の彼女は何を言ったんだというような顔でぽかんとしたが、すぐに顔を戻した。
「どゆこと?」
「それがね、ひどいんだよ、うちの親がさ――」
 それから朋香は自分が菊池家に居候するまでの経緯を話しだした。
 その話のほとんどが丁寧に何枚ものオブラートで包まれていたが、それを話す彼女はどこか必死で、額に汗を浮かべている。それは決して暖房のせいではなかった。
 話が進むにつれて優の顔が険しくなっていき、朋香はやはりぎこちない笑顔で続けていく。
「――とまぁ、そういうことがあって私は菊池家の居候になったわけですよ」
 ほんの数分の話だったのに、随分と長い間話していた気がする。
 沈黙。
 気まずい空気が流れる。
 最初に静寂を破ったのは、優の小さな吐息だった。
 目を閉じ首だけを動かして宙を仰いで、小さな小さな息を吐いた。
 再び開いた彼の目は、とても優しい目をしていた。
「よく頑張ったな、ありがとう」
 それを聞いた朋香は何故か背筋をピンと伸ばして、
「そ、そうなんだよ、本当にもう大変だったんだから、あれ、あれ? あはは、あははは、ちょっと私お茶入れて、くる、ね」
 そう言い残して部屋を飛び出していった。右手を目に添えながら。
 沈黙。
 音の世界から切り取られたような、そんな錯覚を受けるほど静かな空間がここにあった。
 外をヒュウヒュウと舞う風も、ゴォォというエアコンも、まったく耳に入ってこなかった。響くのは朋香の乾いた笑い声と―――
 今度は僕の吐息が沈黙に響いた。
「なぁ」
「ん?」
「ありがとう、ってなんだ?」
「……大切な人が居なくなるかもしれなかったんだ、朋香はよく頑張ったよ。お前もな」
「……あぁ」
「あいつが居なくなったら俺は悲しいし、でもそうはならなかっただろ。だからありがとう、だ、おーけー?」
 最後の口調がいつもと同じに戻っていたのは朋香が勢いよく扉を開けたからだろう。
「お茶とお菓子持ってきたよー」
 それらの乗ったお盆を片手に朋香が部屋に入る。
「おー、クッキーじゃん、もらいっ」
 おもむろに優がお盆からクッキーをさらっていく。
「こぼさないでよ、どうせ和哉は掃除しないんだし」
 明るく元気に怒る朋香。
 そんな、そんな赤い目で笑うなよ。
 静寂の波紋が、頭の中を駆け巡っていた。
「それでね、この前学校で――」



 僕達が解散したのは、日がすっかり暮れて時計の針が六時を指した辺りだった。
 元々荷物は優の家まで運ぶ予定だったので僕は玄関に降りて荷物を持とうとしたのだけど、死にそうな顔の奴が何言ってんだと優は笑いながらそう言って軽々と二つの荷物を持ち上げた。両手がパンパンに膨らんだバッグでいっぱいだったから、首から昼に朋香が持っていた小さなバッグをぶら下げていた。
 朋香がその小さなバッグだけでも持っていくよ、と言ったのだけれど、優は大丈夫、クッキー美味しかったよとか言って帰っていった。
 その日の夕飯は、その日も夕飯は美味しいはずだった。
 朋香が居候に来てから家の中の会話が増えた。
 夕飯の支度も手伝っていて、僕もそれを手伝おうとしたけれど、大丈夫だから休んでいてと怒られてしまった。
 どうして僕が気遣われているんだろう、そうじゃないだろう?
 夕食までの間、部屋で色々なことを考えていた。本当にどうしようもない、色々なことだ。
 今日は本当に寒かったとか、相変わらずあいつは意地悪だとか、あの荷物は重すぎるとか、優一人で二人分の道幅を使っていたとか、向こうの学校の校則が厳しいとか、朋香が話―――
 そこで思考が止まる。いくつものどうしてが頭の中を這いずり回って気持ち悪い。
 朋香が手伝ってくれた夕飯は、ちっとも味がしなかった。おかしいと思って何度もかみ締めてみても、やっぱり味を感じることが出来ない。
 母が何かを話していた気がするけど、全然耳に入ってこなかった。
 夕飯を終えて、逃げ込むように部屋に入ると、いつもはしない埃の臭いが妙に鼻について、あぁ、掃除しないとなとかを思った。思ってみただけだ。
 電気もつけずにベッドのところまで歩いていく。途中、何かに引っかかってこけそうになった。
 ベッドに倒れこむ。クィっとスプリングが鳴く。ほら、優のせいでちょっとおかしいじゃん。
 そのまましばらく、倒れこんでいた。
 コンコンとノックの音が聞こえたのは数秒後か、数分後か、あるいは数時間後だったかもしれない。
「和哉、起きてる? 入っていい?」
 朋香の声が聞こえて、いいよと促すと部屋のドアが開いた。廊下の光が部屋に漏れる。
「うわ、電気もつけずに何してんの、寝ようとしてた?」
「いや、考え事」
 体は起こさずに倒れたまま答える。
 朋香が電気のスイッチを探り当ててオンにするとすぐに部屋は明るくなった。ほとんど闇に慣れていた僕の目は一瞬目の前が真っ白になって、すぐに見えるようになった。
 勉強机の横にある椅子ではなく、昼間と同じように朋香は座布団に座った。あぁ、さっきつまずいたのはそれか。
 心配そうな彼女の顔。一体どうしたんだろう。
「ちょっと、大丈夫?」
 昼の駅にいたときのことを思い出した。あの時も朋香はそう心配してくれた。その後の仕打ちはひどいものだったけど。
「ん、大丈夫」
「大丈夫だったら何しぼんでるのよ」
「………………お前こそ大丈夫か?」
「え?」
 きょとんとした表情が僕を見ている。
「あの話した後、泣いてただろ」
「何言ってるのよ、そんな過ぎた事話したくらいで泣くわけ……」
「…………」
「あー、うん、ごめん、ちょっと泣いてた」
 気まずそうに頬を指でかきながら目を泳がしていた。
 どうして彼女は泣いてまでそのことを話したのだろうか、そのことがずっと頭の中をぐるぐると渦巻いていた。
 悲しいことなんて、みんな忘れてしまうほうが良い。辛いことなんて消してしまったほうが良い。
 ずっと笑ってて、その幸せを感じているほうが良いに決まっているのに。
 それなのに朋香は自分の胸を傷を掘り返した。掘った時間は少なかったけれど、掘り返した欠片を確かに見つめながら話していた。
 思い出したくない傷を掘り返していくのはどれだけ辛かっただろうか。
「なんで、話したんだ?」
 自分でも驚くほどその声は沈んでいた。
「だってさ、私達親友、だと思うの。だから隠しておくのはなんか嫌だなって」
 自分で親友と言うのが恥ずかしかったのか、少し頬が赤くなっていた。
「でも、辛くなる必要なんてないだろ。そんなもの、みんな忘れればいい」
「だめ」
 その声がさっきよりもずっと強いものだったので少し驚いて体を起こした。
「そういうのって忘れちゃいけないと思うんだ。あー、だから話したのかも、ほら、私記憶力いいほうじゃないし?」
「泣いてでも伝えることかよ」
「でもそういうことってあるじゃない?」
「なんで?」
「だってほら、親友だから」
 つまりは、親友だから?
 親友だから、話した?
 なるほど、そうか。
 何を難しいことを考えていたんだろう。数時間前からの自分を全部笑い飛ばしてやりたい気分だ。
 お前馬鹿だろって言いながら笑ってやりたい。
 何も理由はいらなかったんだ。
 好きだから好き、嫌いだから嫌い、それと同じことだろう。
 親友だから、話したいから話す。ただそれだけのことだ。
「和哉?」
 急にニヤニヤしだした僕に気味悪がっているのだろう。まぁ僕だってそんな奴が近くに居たら気持ち悪いし。
「もう大丈夫、治った」
 さっきまでのぐるぐるしたものはどこに行ったのか。単純な頭してるな俺の頭。ちょっとこれは自虐的か。今回はセーフだろ。
「ずっと私が話したこと悩んでたの?」
「そうだよ、解決したけどな」
「バーカ、そんな悩むようなタイプじゃないじゃんあんた」
「確かに似合ってなかったわ」
 悩みの無くなったすっかり晴れた思考というのは気持ちが良いもので、ほんの数分前までの僕はもう消え去っていた。
 そうだよな、だって親友だもんな。
 それにあいつは賢いから記憶力とかも良いし絶対に忘れないと思う。
 時計の針は十一時を過ぎていた。随分と長い間ベッドの上に倒れていたようだ。
「よし、元気になったし寝ようっと」
「ありがとな」
 朋香はどういたしましてと答えて、ゆっくりと立ち上り出口へ歩いていく。途中机の上に置いてあった小瓶を可愛らしく突付いた。中の青色の液体がふわふわと揺れる。
 ドアを出た後、そこから顔だけを覗かせておやすみと笑った。僕もおやすみと答える。
 あ、そういえばまだ風呂入って無いや、明日の朝に入ろう。
 机の上で、虹色の星が輝いていた。

第一章 冬風のしたで 二

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 次の日は朝から遊びに出かけることにした。
 朝起きて風呂に入ってから朝食を取った後に優に遊びに行こうとメールを出すと、さも当然のように二十秒くらいでメールが帰ってきて集合場所とか映画の時間等がが書かれていた。そして今は駅前で待機中。時間は只今九時五十五分。
 昨日の寒さに満足しなかったのか今日もすこぶる気温が低い。
 空には引き続き毛布のようなどんよりとした分厚い雲が覆っているし、風は鋭さを増していた。
 だが今日の僕は昨日とは違う。昨日はほとんど楽観的な考えで大丈夫だろうと軽装備で家を出たのが良くなかった。あれでは自滅しても文句も言えない。
 しかし今回の武装は完璧だ。
 まずは上着を一枚増やした。兄の持っていたお古のフリースだが全然着なかったらしく新品同然で、フードまで着いていて寒さをしのぐには十分だ。さらに今回はカイロを持参。
 だから今は昨日と違ってあまり寒くは無かった。相変わらずむき出しの頬は冷たいがそれは辛抱することにする。
 電車が駅を通るたびに中からいろんな人が出てくる。通勤のおじさんや、本を持った若い人、サングラスのにいちゃんに男女のカップル。
 みんな一様に顔をしかめて寒そうなそぶりをした後、そのままどこかへ行ってしまった。
 きっと彼らも明日には今以上の重装備になっているに違いない。そんなことを思った。
 朋香は相変わらずもこもこした暖かそうな格好で、手にはついさっき買ったばかりのホットオレンジを大事そうに握っている。ホットレモンなら聞いた事があるが、オレンジって美味しいのだろうか?
「それうまいか?」
「うん、美味しいよ」
 美味しいらしい。でもホットオレンジと聞いて美味しそうなイメージは少しも湧いて来ない。
「ちょっと飲む?」
「……いや、いい」
 それにしてももう集合時間になろうというのにまだ優の姿は見えない。
 もしかしたらまたどこかで僕を笑っているのかもしれないと、思わず辺りをきょろきょろと見回してしまう。
「・・・・・・なにしてんの?」
 なんて朋香に言われるくらい見てみたが、見つからない。
 約束の時間まで後一分。後十秒。三、二、一、本当に遅刻かよ。勉強ができるのは良いが時間くらいはしっかりと守ってほしうぐっ――
 突然の後ろからの衝撃と増える重力。昨日のワンシーンがフラッシュバックした。
「いよう! おっはよー」
 妙に高い声で優が耳元で言うものだから耳が少し痛い。
「だからなんでお前は後ろからでてくるんっだ!」
 勢いよく優を振り払う。今回は多少警戒していたつもりだったのに。
「毎回隠れて近づくのって結構大変なんだぜ? お前がきょろきょろした時はまじで焦った」
 ああもうどうしてこいつは普通に登場してくれないんだ。
 今日の優も昨日とまったく変わらず真っ黒な姿をしていた。本人曰く、同じ服をまとめて何着も買ってるらしい。しっかりと着替えても居るらしいが同じ服なので確認も難しい。
「おはよう優」
「おはよう朋香」
 ほほえましい光景で挨拶を交わす二人。僕もそんな普通な挨拶をしたかった。
 そして三人が無事集合したので、切符を買って電車を待つ。目的地は浜大津アーカスという建物。
 そこそこ巨大な遊戯施設であるアーカスには映画館やカラオケボックス、ボーリング場、ゲームセンターにマックやその他飲食店などが詰め込まれており、遊び倒すには十分な場所だ。
 三条のほうにも映画館やカラオケなどはあるのだが、一つ一つの距離が離れていていちいち外に出なければならないのでめんどう臭い。
 その点アーカスは一つの建物に全てがあるため、常に暖房で暖かい。最高だ。
 問題があるとすれば自転車で移動するような距離ではないので電車に頼るしかなく、電車賃を食うということだがそれは仕方がないことだろう。
 往復五百二十円で暖房の加護がついてくるのなら十分だ。
 というわけで、僕達は電車に乗り込んでアーカスを目指していた。
 僕達学生は冬休みとはいえ社会人はまだまだ忙しいらしく、しかしラッシュの時間帯ではないため電車の座席が埋まっている程度の人だった。
 入った扉とは反対の位置にある扉の辺りに集まり吊り革を持ってぶらぶら揺られる。思っていたよりも電車内の暖房が暖かかったので、ポケットの中のカイロがすごく熱く感じられた。
「映画何か見たいやつあるか?」
 吊り革ではなく扉の横にある手すりを掴みながら優が言った。電車が左右に揺れるたびに栗色の髪の毛も一緒に揺れる。
「もう見るの決まってるんじゃないのかよ」
「まぁ俺は決まってるんだけど、お前ら何か無いのか」
 そういえば最近の映画って何があるのだろうか。全然気にしたことも無いからわからない。
「俺は、別に無いかな」
「優は何見たいの?」
 吊り革の位置が高すぎてほとんど片手バンザイをしているような格好の朋香が尋ねる。優みたいに手すり持てばいいのに、と言うと恥ずかしそうな顔でプイとそっぽを向いて別に良いでしょと怒られた。
「和哉から聞いてないのか」
「うん、明日優と遊びに行くって言われただけ」
「お前……朋香にも言っといてくれって書いておいたろ」
 そんなこと書いてあっただろうか。ポケットから携帯を取り出してメールを確認してみるが、それらしい文章はどこにも見つからなかった。
「んなこと書いてねえぞ」
「書いたって、携帯貸してみろ。ほら、ちゃんと書いてある」
 確かに『噂のあの映画を見ようと思う。朋香にもこのメール見せておいてくれ』と書いてあった。ただ書いてある場所がひどすぎる。
 送られてきたメールのはるか下方。空白部分を約二十秒スクロールさせた先にそれが書いてあったのだ。
「お前は本当にダメな奴だ」
 僕の肩に手を当ててうなだれる優。絶対にわざとだ、お前それが言いたかっただけだろ。噂のあの映画ってなんだよ。そんなものたとえ見つけても伝わらねえよ。
「本当に和哉は頼りにならないなぁ」
 今のメールを見ていたはずの朋香でさえこの仕打ちだ。あぁ、どんどん僕の株が下がっていく。しかも故意に。最悪だ。
「それで、何が見たいの?」
「子犬の話だよ」
 子犬の話か、そのCMなら見覚えがあるかもしれない。名前はなんだっただろう。マリーと子犬の物語だっけ、メリーと子犬の物語だっけ、まぁそんな感じのはずだ。
 CMを見るに感動物の映画らしいが、それ以上のことはよく分からない。
「え…………見るのってあの映画なの?」
 明らかに朋香が動揺した顔をした。漫画なら一筋の汗の描写でもされているくらい見事に。
「いやか?」
「ううん、いやじゃなくて、むしろ見たかったんだけ……ど……ね」
 何故か床のあっちのほうを見つめている。何がいやなんだろうか。僕の頭でその理由を察するのは難しかった。
「なら丁度良いし決まりだな」
 優は目の前の朋香が見えているはずなのに明るくにこにこしていた。その朋香を見て楽しんでいるような風に見える。一体なんだろう。やはり答えは出なかった。


 それからしばらく吊り革を持ったままの僕と、何故かどんよりとしている朋香と、にこにこしっぱなしの優が浜大津に着いたのはそれから八分後のこと。
 電車から降りた朋香は「よし、諦めた」とか言って急に元気になった。むしろ開き直った。何を諦めたのかは知らないが。
 アーカスは浜大津駅を降りてほんの少し歩いた先にある。
 暖房全開だった電車内から降りて吹きさらしのホームに立つと、一段と風は冷たくなっている気がした。これなら電車から降りてくる人が寒そうにするのもうなずける。装備を整えたところでこの寒さを感じないというのは無理だろう。握ったカイロが暖かかった。
 改札口に切符を飲み込ませて駅の外にでると、すぐにだだっぴろい広場が目に入ってくる。
 街は何十階もあるようなビルが何本も立っていて、まさにコンクリートジャングルと呼ぶにふさわしいような場所だったが、人口芝で一面を覆われた広場はそんなジャングルから完全に切り離されていた。
 中には鬼ごっこをしている子供達と、それを遠目に眺める大人たち。
 コンクリートのジャングルの中では四角い鉄の塊がぶんぶんと慌てて走っていくのに、広場の時間はゆっくりと流れているような気がした。
 ほんの少しだけ、昔のことを思い出した。勉強も部活も知らなかった無邪気な幼稚園の頃の記憶。あの頃は毎日のように優たちと園内を走り回っていた。一緒に遊んでいた子達は今どうしているのだろうか、という思いは五秒くらいで消えた。
 広場から広い駐車場をはさんで存在するアーカスは灰色のジャングルの中でふてぶてしいくらい色とりどりな壁画で覆われていて、明らかに異質な存在をしていた。
「ここに来るのって久しぶりだよね」
 アーカスへ続く歩道を並んで歩く。誰が決めたわけでもないのに並びは決まって、前から見て右に僕、真ん中に朋香、左に優となった。多分僕と優が並んだら朋香からはどちらかの顔が見えなくなるから、だと思う。気がつけばそういう風になっていた。だからいまさらそれを疑問に思う人は居ない。
「そうだな、優が帰ってきたときくらいしかこないもんな」
「まじでか。お前らいつもどこで遊んでんだ?」
 優は驚いたような目で僕達を見つめてきた。別にそんなに驚くようなことでも無いと思うが。
 それに答えるために朋香が優を見るのだけど、身長差が大体二十五センチくらいあるのですごく見上げる形になる。首がつらそうな姿勢に見えるが朋香はあまり苦にしていないようだ。
「うーん、本屋とか、かな」
「それって遊びって言うのか?」
「楽しかったら遊びじゃない?」
「なるほど」
 それで納得したのか再び前を向いて歩いていく。すぐ傍で子供達の楽しそうな声が響いていた。

 建物の中は思っていた通り暖房が暖かくて気持ちよかった。
 入ってすぐの広々としたロビーには数人の人がベンチに座っていたり、立ったままおしゃべりをしていて、加えて館内に流れる流行の音楽で賑やかだった。
 はるか高くの天井からはいくつものガラス球がぶら下がっていて、さらにその球体によって大きな球体が構成されている。球で出来た球。初めてそれを見たときは少し感動するくらい神秘的に見えた。
 そんなロビーを通ってエレベーターに乗って映画館のある四階に向かう。
 チンッという音とともに開かれた扉の先に見えたのはシネマフロア。四階の床全面に敷かれた白色のカーペットが僕達を迎えてくれた。他の階は全部タイル張りなのにどうしてこの階はカーペットが敷いてあるのだろう。
 よく分からない白の上を歩きながらチケット売り場を目指す。
「…………」
 ふと隣を見ると朋香がこわばった表情をしていた。。
「……どうした?」
 別にチケットを買って、映画を見るだけだ。そんな顔をするようなことは何も無いと思うのだが。
「やっぱり見るの嫌だったり、とか?」
 少しだけ不安そうに優が尋ねると、朋香はぶんぶんと首を振って、
「ううん、本当に見たいよ。見たいんだけど、さ」
 と曖昧な答えを返した。
 良くはわからないが何か諦めたんじゃなかったのだろうか。元気付けてやりたい気もするが原因がまったく分からないのでかける言葉も見つからない。
「とりあえず楽しめればいいんじゃね?」
 それだけを言うので精一杯だ。それでも朋香は「う、うん。そうだね」と言って少しだけ表情が明るくなった。
 一枚千円のチケットを購入し、定番のポップコーンとドリンクも手に入れて指定された劇場に入る。ポップコーンは三人とも別々の種類を買ってみた。朋香が塩で、僕がバターで、優がキャラメル味だ。キャラメルの匂いは強烈で、それだけでお腹いっぱいになりそうなほど濃厚な匂いをしていた。
 劇場内には決して多くはない人がすでに座っていて、映画が始まるまでは後ほんの数分。多分僕達で入場するのは最後だろう。
 つまり、今空いている席ならどこに座っても問題は無いということになる。他に人が入ってくることが無いのだから。それを狙って遅めに入ろうと提案したのは優だ。
 幸いにも丁度中央よりやや後ろの部分が空いていて、僕達はそこに座ることにした。
 席が横列の真ん中なので、途中別の人の前を通っていくことになる。椅子と椅子、もしくは椅子と人の間の隙間を抜けてようやく中央にたどり着く。
 隣の席の人から三つ目の折りたたみ式の椅子を開いてに座り込む。朋香も僕の横に静かに座るのだが、何故か優は座らない。一応席は三つあるはずだが。
 不思議に思っていると、優は申し訳なさそうな顔で口元に手を当てて小声で、
「わりぃ、もう一つ横にずれてくれないか」
 と言った。隣の見知らぬ人と真横に並ぶのが嫌だったのだろうかと思いながら言われたとおりに一つ隣の席にずれる。同じように朋香も隣の席に移動してくれた。
「さんきゅ」
 ネックウォーマーを外した優が席に着き、僕もなんだか暑くなってきたのでコートを脱いで膝の上に乗せる。朋香はいつの間にか帽子や上着を取っていてもう膝の上に置いていた。
 変わらず帽子やジャケットはそのままの優が深く背もたれに身を預けたところで照明が暗くなり、爆音のような音と目が痛くなるほどまぶしい光が劇場内に広がり始めた。

 その映画はCMで言っていた通り、すごく感動的なものだった。
 特にクライマックスのシーンは心振るわせる感動的場面で僕も正直うるっときたのだが、何かが聞こえてきて隣を見るとそれはそれはもう大変なことになっていた。
 僕のうるっなんていう比ではない。どちらかと言うとだばーというような、いわゆる大泣きをしていた。
 声こそ上げていなかったけれども、目からは涙がとめどなく溢れていて、しきりにハンカチでそれをぬぐっている。
 映画よりも衝撃の映像を残したまま、エンディングの音楽と共にスタッフロールが流れ始める。スタッフロールが流れ終えて、照明が光を灯し始めるまで、二人はハンカチを手放さなかった。
 こんな格好をしているからいつも忘れかけてしまうが、優もかなり涙もろい人種で、『となりのトト○』でも泣いてしまうような奴だ。
 一体どこのシーンで泣くんだよと言ってみたら、
「最後二人がネコバスに乗って畑を駆け抜けるところでおばあちゃんが『めいちゃーん』って叫ぶところなんて最高じゃん」
 と強く言い切られた。
「わからねえよ」
「あのシーンで泣かないとかお前は一体全体何者だ?!」
 そんなやりとりがあった。あれって泣く映画なのか? あまりにも優の言葉に熱い気持ちが篭っていたため、もしかしたら僕はトトロの泣き所もわからないような愚か者なのかと疑ってみて、一度トト○の全シーンを高速で脳内再生してみたのだが。
 結論。やっぱり泣けねえよトト○じゃ。
 ようやく音楽も止まり、『ご観覧ありがとうございました』という女性の声の放送が流れて人が散り散りに解散していく。
 僕達も例外ではなく、そのまま席を立って劇場の外に出る。
 いつの間にかすっかり優の涙は止まっていて、泣いてた? 何のこと? という感じなのに、朋香の目はまだまだ潤んでる。
「大丈夫か?」
 別に怪我をしたわけでもないのだから、大丈夫なのは分かっているが思わずそう言ってしまう。
 朋香は恥ずかしそうに僕から顔を背けて「平気」と涙声で答えた。
「やっぱりよかったな。思ってた以上によかった。流れも自然な感じだったし、盛り上げ方もうまいし、ああいうのを良い作品っていうんだろうな」
 話の構成にも感動を覚えているらしい優は突然ポケットからメモ帳を取り出して、何かをしきりメモりだした。何を書いているかは見えないが、大体の想像はつく。
 それにしても朋香はよく泣いていた。
 なんとなくだが、朋香がこの映画を見ることを渋っていた理由が分かった気がした。泣き顔を見られたくなかったとか、そんな感じではないだろうかと思う。
 確かに人前で泣くのは恥ずかしいもんな。
 自分が誰かの前で大泣きしているところを想像してみると、とても恥ずかしすぎて続けられなかった。これは恥ずかしい。朋香が渋ったのも納得である。
 朋香が泣きやむのを待ってからどこへ行こうかという話になり、優がその答えをあっさりと出した。
「よし、それじゃ飯食ってカラオケでも行くか」


 携帯を見てもとすっかりお昼だったのでファーストフード店に突撃することになった。
 丁寧な赤で彩られた店内は人気と飯時も手伝って人で大賑わいしている。
「相変わらず人多いな、ここ」
「お昼だからね、それに美味しいもん。安いし」
 レジの前にできた行列に並びながら他愛もない会話を繰り広げる。
「何食おうかな、チーズバーガーでいいか」
「私フィレオフィッシュとシェイク」
「俺ビッグっと」
 各々の食べたいものも決まり、後は順番を待つだけ。フライドポテトの香ばしい香りと油のはねるパチパチという音が聞こえてきた。ポテトを作る所がわりとレジに近い場所にあるのでレジの前に並んでいてもそれを見ることができる。赤と白の帽子を被った女性がてきぱきと紙の袋にポテトを流し込んでいた。
「ポテトうまそうだな」
 その光景を見ていた優から言葉が漏れる。確かに美味そうだ。人がごった返しているせいでポテトの生産が追いついていないらしく、次々と熱された油の中にポテトが放りこまれ、食欲をそそる匂いと音をばら撒きながら揚げられて紙の中へ収められていく。
 そう言われるとやけに食べたくなってきた。セットを買うつもりだから当然ポテトもついてくるのだけど、なんとなく大きいサイズがほしくなった。よし、Lサイズにしよう。
「いらっしゃいませー」
 いつの間にか僕達の番が回って来て、マニュアル通りの軽快な声に迎えられた。営業スマイル全開でニコニコと立っている女性にそれぞれのメニューを人が混んでいることもあるのでまとめて頼んで受け取った後、空いていた四人掛けのテーブルに座った。僕が後悔したのはその数分後。
 まずチーズバーガーは美味かった。作りたてで熱々のそれはファーストフードとしては十分な価値があるように思えたし、それは満足だ。コーラも普通に美味かった。ハンバーガーにコーラはつき物だと思うのだけれども、他の二人はバニラシェイクとオレンジジュースである。それにしても優の格好でオレンジジュースが好きというのだから奇妙を通り越して何かおかしさがこみ上げてくる。服装と食の好みを一緒に考えるのはいささか問題もあるような気もするが、とことん見た目と性格が一致しない。
 問題はポテトだ。
 ポテトは間違いなく出来立てで美味かったのだけれど、しかしだ。よく考えてみればこんな脂っこいものをLサイズの量もいらないわけで、むしろSでも良かったのじゃないかという後悔の波が押し寄せてきた。何でLを買おうと思ったんだろうか。
 半分くらい残ったそれを力なく見つめながらコーラをすすった。
 隣に座った朋香と僕の正面に座る優はさっきの映画のことで話題が持ちきりであのシーンが良かったとか、このセリフがグッときたとか、犬が可愛かったよねとかを言い合っていた。
 大泣きした者同士で何かが共鳴しあっているのか、実に楽しそうだ。
 笑いあう二人を見ていると僕もどこか楽しい気分になってきたりするのだけれども、残ったポテトのオーラがそれを打ち消していた。なんだよポテト、Lとか頼んで悪かったと思ってるよ、もう頼まねぇからそんなオーラ出すなよ。
 とはいえもう体は油ものをほとんど受け付けなくなっているわけでそれに手を伸ばすことは躊躇われた。かといって捨てるわけにはいかない。
 さてさてどうしようかと思っていると優が僕の方を見て、
「さっきから何ポテト睨んでんだ?」
「もう二度とLなんて頼まないってポテトと約束したところだ」
「お前……ついにポテトと話をするくらい可哀想な奴になってしまったんだな……」
「和哉……いつの間にそんな……」
「ちげぇよ」
 目の前でよよよと泣く振りをする優と何か哀れみの目を向ける朋香。何でお前らそんなにグルなんだよ。味方無しかよ。
 しかしいまさら何かを言ったところで何かが変わるとは思いにくく、となるとやはりそれを受け止めてしまうしかないのである。実に悲しい。
「ポテトいるか?」
「それじゃ遠慮なく」
 優はあっさりと泣きまねをやめてポテトを口へ運んでいく。
「そういえば優、何でそんな端に座ってるの?」
 暖房ですっかり溶けてどろどろになっているであろうマックシェイクを飲んで朋香が言った。
 優の座っている位置は僕の正面。四人掛けの席で僕と朋香が並んでいるので自動的に優は一人で二人分座れることになるのだから、幾分ゆったりとしたスペースを確保できているはずだ。それなのに優は僕の前に座って、隣には丁度人一人が座れる空間があった。荷物を置いているわけでもない。
「それは俺が和哉の顔を近くで見たかったからさ」
 何のためらいもなくそう言い放った。もちろん冗談である。冗談であると分かっていても、かなり嫌なセリフだ。これは絶対に男同士で言う言葉ではない。
「お前な、そういう時はウホッとか言って乗れよ。振ってるんだからよ。まぁ冗談なわけだが」
 笑ってポテトを一つ食べる。ウホッてなんだ?

第一章 冬風のしたで 二-2

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 昼食を終えて店を出てから次はカラオケに向かう。
 さっきとはうって変わって物静かで、薄暗いカラオケ屋だった。防音がしっかりしているのか個々の部屋からは光が漏れているのに音は全然聞こえなくて、わざと落とされ気味の照明は上品な雰囲気をかもし出していた。
 一時間一人四百円で優が一人一時間だとか言って三時間歌うことになり、どこから入手したのか優は割引券を出して千二百円のところが千円になった。
 係りの人に誘導されて部屋に入ってから「それではごゆっくり」と丁寧に頭を下げる店員を見送って早速カタログに目を通す。
「よし! 久しぶりのカラオケだ、歌うぞ!」
 一人メラメラと炎をバックに燃えている優を含めてカラオケが始まった。
 まず初めに曲を入れたのはやはり優で、それはもう熱い曲だった。途中何度も叫ぶようなところも惜しまずに声を震わせて気持ち良いビブラートを作りながら曲は進んでいく。
 隣でカタログを見ていた朋香が僕の膝あたりをつんつんと突付いているのに気づいた。
「優ノリノリだね」
「いつもこの曲から歌い始めてるしな、こういう曲のほうがエンジンかけやすいんだろ」
 普段どおりの距離で話すとまったく聞こえないので、自然とお互いの距離は近くなる。優が大きな声で歌っているので余計に聞き取りにくい。
「ふーん、そういうものなのかな」
「そういうもんなんだろ、朋香は友達とカラオケとかあんま来ないのか?」
「うん、全然」
『ばかやろー!!!』
 突然の罵声に俺も朋香も一瞬ビクッと体が震えた。優がガラスを割らんばかりの声で叫んだからだ。
 しかしそれは僕達に言われたのではなく、歌詞の一部だったらしい。なんて迷惑な歌だ。
「相変わらずすごいね」
「あぁ」
 素直に同意する。ようやく曲が終わったのか優は肺から全ての空気を吐き出すように息をつき、深々と椅子に座り込む。
「お疲れさん」
「ふぅ、気持ちよかった。やっぱり最初はこれからだな」
「すごい叫び声だったな」
「お前も歌ってみれば?」
「いや、俺にはお前みたいな大声は出せないから遠慮しとく」
「それは残念だ。っと、次誰歌う?」
「あはは、私だったりして」
 優から朋香にマイクが渡されて、「やっぱり恥ずかしいな」と言いながらも朋香の選んだ歌が始まった。優とは違うもっと静かな曲――優の曲と比べれば何でも静かだと思うが――で、最近出たばかりの新曲だった。何かのドラマで使われていた曲だと思う。
 右手にマイクを持って、左手でリズムを取りながら恥ずかしそうに歌う朋香は可愛かった。僕の視線に気づくとすぐに画面に顔を戻してしまったけど。
 さて、僕は何を歌おうか。これといって歌いたい歌があるわけでもない。カタログをぱらぱらとめくって、最後までめくり終えて、また戻ってめくる。ぱらぱらぱら。
「どうした?」
 その行動を見ていた優が訊いてきた。
「いや、何歌おうかなって」
「そうだな、これとか良いと思うぞ、歌いやすいしな」
 自分の持っていたカタログを僕の前に持ってきて曲の名前と番号が書いてあるところを指差す。僕でも読める英語で書かれたその曲はどこかで聞いたことのある名前だった。どこで聞いたか、どんな曲だとかも忘れているけど、それはメロディを聴けば思いだすかもしれない。
 他に選ぶ曲も無いのでその曲を選んで機械に入力する。ピピッと高音の電子音がなった後、テレビ画面の上のほうに入力を受け付けたことを表すサインが表示された。
 それから朋香の歌に耳を傾ける。澄んでいて綺麗な、それなのに恥ずかしくて震え気味のその声は、聞いていて心地がよかった。
 歌が終わって間奏に入ると朋香は「あーやっぱり恥ずかしいよ」と両手で頬を押さえた。その手の下が染まっているのが容易に想像できる。
「なかなか良かったと思うぞ」
「そ、そうかな」
 うつむき加減に言う朋香の両手が少し顔を強く押さえた、ような気がする。
「それじゃ和哉がんばれ」
 背中をポンと優に叩かれながら朋香からマイクを受け取るとすぐにやはりどこかで聞いたことのあるメロディが流れ始めた。
 Happy Rainbowと画面にでかでかと映された文字は、名前の通り虹色に装飾されていて、なにか他の曲とは違うような印象を受けた。優や朋香が歌った曲のタイトルはこんなことはされていなかったのに。
 出だしの長い間奏。確かに聞いたことはあるはずのそのピアノで奏でられるメロディは優しくて、壮大で神秘的な何かをイメージさせていた。
 メロディは思い出されるが一向に歌詞を思い出す気配は無い。だがおそらくこの調子ならそのうち歌詞も思い出すだろう。ようやく画面に歌詞が表示される。
「…………」
 それは僕の動揺を誘うに十分だったようで、その歌詞を見た瞬間に言葉が出なくなった。
 なんせ出だしの歌詞が、まさかそんな曲だとは思っていなかったようで僕は色づいていく歌詞をしばらく眺めていた。
「どうした?」
 優が尋ねてくる。
「なんというか…………これ歌うか?」
「お前歌わないのか?」
「あ、あぁ、別の曲探してみる」
「じゃあこの曲もらうわ」
 優がリモコンで曲をリセットし、再び初めから曲が流れ始める。優雅で幻想的なメロディが流れた後、優が歌い始めた。それは最初に歌ったものとは似ても似つかないくらい優しい声で、持ち前の高めの音質を使って、綺麗に歌っていた。

 愛してる 大好きだ
 何度も何度も言ったのに 声は君に届いてるかな?
 ここに居ない君 ここにいる僕
 こんなに近くにいるのに どうして触れられないの?
 本当に 愛してる 本当に 大好きだ
 どこにも行かないで ずっと傍に居てほしい
 一緒に見た虹はすぐに消えてしまったけれども
 君にはずっと 居てほしい


 それから三時間のうち、大体優が五割、朋香が三割、僕が二割くらい歌って部屋を出た。
 朋香は優が初めのほうに僕の代わりに歌った歌が気に入ったのか軽快に口ずさんでいた。
「さて、次何しようか」
 大きな伸びをしながら優はスタスタと歩いていく。何をしようかと尋ねながらも何をするかは決まっているらしい。方向的にはゲームセンターのほうだ。
 ワインレッドのタイルを敷き詰められた上にあるゲームセンターは、やはりゲームセンターらしく様々な電子音が入り混じって壮絶な不協和音を展開していた。
「それで、何するんだ?」
 ゲームセンターに入ったはいいがそのまま少し動かなくなっている優に問いかける。「ん、あぁ」という返事が返ってきた。
「なんかやりたかったんだけど忘れた。まぁ適当に遊ぼうぜ」
 そう言ってずかずかと中に入っていく。
 何をしたとかは詳しく全部は覚えていないけれども結構色々やったと思う。
 対戦定番のレースゲームはもちろんやったし、音ゲーやガンアクション、格ゲー、パズル、シューティングに何故かクイズゲームまで制覇した。しかもことごとく優に圧倒的大差で完敗。朋香とのクイズゲームにいたっては一問も答えさせてもらえなかった。その瞬間だけ勉強しようという思いが膨らんで、別のゲームに行ったときにはもう消えていた。
「和哉弱ぇ」
 連敗続きですっかり心が折れてしまっていた僕はいつかと同じようにベンチでぐったりとして、あそこをこうすれば勝てたんじゃないかとか、あのタイミングがあーだこーだと考えていたのだけれど、結果はいつも完敗だった。優は僕の頭の中ですら連勝しているらしい。
「お前が強すぎるだけだろ」
 並んで広めのベンチに座っている優に最後の抵抗を試みるが、逆に僕のむなしさを煽った。自滅してどうすんだよ……。
 朋香がトイレに行っていて待機中の僕達はゲームについてあれこれ言い合っていた。
「大体なんでお前そんなに強いんだよ、向こうの学校でテニス漬けじゃなかったのかよ」
「そんなもん才能だ才能」
「ゲームの才能とかいらなすぎるだろ」
「案外そうでもないぞ」
「役に立ったことあるのかよ?」
「お前を叩きのめして抜群に気持ちが良い」
「…………」
 だめだ、これ以上続けても僕の心が削れていくだけだ。もう僕は何も言わずに朋香の帰りを待った。ベンチから窓越しに空を見ると日は随分と傾いているらしく、さらに相変わらず分厚い雲が空を覆っていて、限りなく闇に近い世界が広がっていた。
 朋香がトイレから戻ってくるとようやく帰ろうという雰囲気になってベンチから腰を上げる。
 出口へ向かう途中ふと優の顔が横を向いて何か見つけたらしく、「ちょっと待ってくれないか」と言い残して走り去っていった。その先にあるのはUFOキャッチャー。
「あれほしかったのかな?」
 共に待機命令を出された朋香が優の向かうゲームの景品を見て尋ねてくる。
「そりゃほしいから行くんだろ」
「あ、それもそうだね」
 サイフから百円を取り出して機械に投入後、クレーンが動き始めた。普通はもっとまじまじと見つめたり、ケースを横から見て奥行きを確かめたりするものだと思うのだけれども、優は一切そんなことをせずにクレーンを動かしているようで、迷いなくそれは景品の上まで移動してそれを掴む。見事に景品の一部にひっかかり、それをつまみ上げ、シュート。
 取り出し口に転がってきたそれを取り出して優が「悪い、待たせた」と言って戻ってくる。UFOキャッチャーをして待たされた分としてはかなり短かったと思うが。
 手には先ほど獲得した景品が収まっていた。
「……何だそれ?」
 優の手に持つそれは三十cmくらいの大福に豚鼻をくっつけて棒線を縦に二本書いて目を作り、頭部と思われる部分からさくらんぼを蔓部分から突き刺したような、小学生がデザインしたのではないかと思うほど恐ろしく単純で奇妙な生き物(?)のぬいぐるみ。何でそんなのほしかったんだ?
「何でそんなのほしかったんだ?」
 思わず言ってしまった。
 優はにこにこ笑いがなら、少し困ったような顔をして、
「俺もそう思う」
 と頭をかいた。照れ隠しだろうか? まぁトトロで泣くぐらいの感性の持ち主ならこの人形に何かを感じ取っても不思議ではない、様な気がする。
 とにかく無事優のUFOキャッチャーも終わり、皆で帰路に着いた。
 建物を出ると日が落ちた分、昼頃よりもずっと寒く感じられ、暖房のついた場所から出てきたために一層寒かった。
 来た時と同じように並んで駅に向かって歩く。比較的この辺りは明るく、街灯も多いため足元がよく見えるのだが、優の黒い服装はその光も遮って黒かった。まるでそこに光が無いような、そんな黒さ。手には鞄に入りきらなかった謎のぬいぐるみを持っているが。
「優って本当に黒色好きだよねー」
 可愛らしいフードを被った朋香が跳ねた声で言った。
「いつ見ても黒だし、レースゲームの時も車の色黒にしてたし」
「んー、別に好きってわけじゃないけどな」
 優はさっきのように困ったような声で苦笑する。
「じゃあどうしていつも黒なのよ」
「さぁ、なんでだろな?」
 はははと優の目は笑っていた。別に黒くたって良いじゃん。何色でも優だろ? そう言おうと思ったけれど、恥ずかしくてすぐにやめる。
「ほんと今日はよく遊んだなー」
 映画とカラオケとゲームセンター、高校生の僕達にとっては十分な量だろう。
「向こうじゃ部活ばっかやらされて全然遊べないんだよな。朝練があって勉強して昼から夜までずっと部活でテニスだぜ? 信じられねえよ」
「でも勉強時間が短いってことだろ? いいじゃん楽で」
「お前な……勉強の方が絶対楽だぞ。一日九時間もラケット振り回してみろ」
「う、確かに辛いかも」
「でも優って勉強の成績も良いよね」
「まぁ勉強はしてるからな。和哉の二倍、いや三倍はあると思うぞ」
「三倍は誇張しすぎじゃないか?」
「じゃあお前テストの平均点言ってみろよ」
「…………」
「もっと勉強しろよ」
「……やべ、ほらもう電車来るぞ、急げ」
「おい逃げんな」
 そりゃ走り出したくもなるさ。勉強なんて大嫌いだ。


 はぁはぁと息を上げながらも切符を買って、本当にやってきていた電車に慌てて乗り込んだ。もう一本待てば良いのだけど、なんとなくそれはできなかった。
 車内は昼よりも随分人の数が減っていて楽々とクロスシートに座ることができた。僕と朋香が並んで座り、優は一人窓の外を眺めている。
 帰りの電車は行きよりずっと早く感じられて、気がつけば電車は目的地に到着していた。
「さむっ」
 駅を出るとやはり寒く、体を縮ませて身を震わせる。相変わらずタクシーに乗り込んでいく人たちが羨ましく思えた。
 祭りの後の脱力感というか、なんとなくそんな雰囲気がゆったりと流れていて、適度な疲労も混ざり合って三人とも駅から出てしばらくは何も話さなかった。
 それは静かな沈黙だったけれど、逃げ出したくなるような感じではない。それはもうそんなことを考える余裕もなく疲れているのか、それとも一緒に歩いているのが慣れた親友だからか、それは分からないけれど、嫌ではなかった。
 丁度五分くらい歩いたところで最初に口を開いたのは優だ。
「和哉、ちょっと付き合ってくれないか?」
「俺にそんな趣味は無いぞ」
「本当にお前は馬鹿だな。サーカス団のミジンコのほうがよっぽど賢いぞ」
 少しぼけただけでなんて言われようだろう。昼食の時に優もかなり変なことを言っていた気がするが、気のせいだろうか。
「二人ともどこか行くの?」
 少し心配そうに優を見上げる朋香。時間が時間だしな、多少心配になるようなこともあるのだろう。もちろんこの町で物騒なことがあるとは思えないけれど。
 諭すように優が優しい口調で、少し借りていくだけだよと告げる。さっきから人扱いされて無いぞ僕。
「まぁその辺ぶらぶらしてすぐに返すよ、おばさんにもそう言っといてくれ」
「ん、わかった」
 そう言って朋香と分かれて二人でぶらぶらと歩く。特に行くあても無いらしく、ただ二人で歩いていた。
 この町には街頭が少なく、道が暗すぎるせいですぐ隣に居る優すら見失いそうになる。星も出ていないことがそれを手伝っている。
「そっちの学校はどうよ、なんかあったか?」
 唐突にそんなことを優が話始めて、なんて答えようか少し迷ったが、思いついたことを喋ることにした。
「別に、期末テストがあって先生の愚痴言って友達と馬鹿やったりしてただけ」
「そっか、まぁそんなもんだよな」
 その声だけがはっきりと優がそこに居ることを示している。
「一人暮らしってどう思う?」
「どうってなんだよ」
「家事が大変そうだとか色々あるだろ」
「そうだな、寂しそうとか、かな」
 そう言うと優は何か考え込むように僕とは反対の方向でうつむき、
「案外そんなこともないよ」
 表情は見えないがその声はどこか嬉しそうな、悲しそうな、あるいは自嘲気味に言った。
 ひたすらに歩いた。暗すぎてどのくらい歩いたなんてほとんど分からないが、会話はまだ続いていた。
「大学どこに進学するとか決めてるのか?」
「いや、まだ何も」
「やりたいこととかは?」
「勉強が嫌いだからな、まだ全然そんなの考えてねえ。テストで精一杯」
「それでもヤバイ点数なんだろ、朋香に迷惑かけんなよ」
「お、おう」
 突然朋香の名前が出てきて焦る僕に気づいているのか気づいていないのか、もっと別のことを考えているのかも分からないが優は淡々と質問を続ける。
「お前さ、幼稚園の頃とか覚えてるか?」
「幼稚園? まぁぼんやりとなら少し」
「一緒に遊んでた友達の名前とか、覚えてるか?」
「流石に、そこまでは覚えてないな」
「…………そりゃそうだよな」
 その声は確かに、僅かな悲愴が混じっていた。他人が聞けば笑っているように聞こえたかもしれないが、随分長い付き合いの僕には分かる。
 もう十年以上も前の話だ。小学校も一緒だった奴のことなら少しは覚えているが、優が言っているのはそういうのではないと気づいていた。
 あの頃はいつも優と俺と三人で遊んでいた。無邪気に遊んでいた頃が少し懐かしく思えてくる。三人? 
 もう一人、誰だっただろう。しかし記憶が古過ぎてまったく思い出すことが出来ない。その子は元気にしているのだろうか。
 優が言っているのはその子のことだろう。卒園と同時にまったく姿を見なくなってしまった。別の小学校に通っていたのか、それとも引越しでもしたのか、それとも――
 あまりに酷いことを考えてしまった自分が悲しくなった。そんなわけはない。頭をぶんぶんと振って考えをもみ消した。
 それでも残った残り滓のようなものがしばらく頭の裏側にこびりついて離れてはくれなかった。
「そうだ、今年デパートの前でイルミネーションやるの知ってるか?」
 先ほどとはうってかわって、優は普段の明るい声に戻っていた。
「そうなのか?」
「あぁ、クリスマスの夜までやってるらしいぜ、今朝のチラシになんか書いてあった」
「んなもんいちいち確認してねえ。なんかおばさんっぽいな」
「うるせえよ」
「わりい」
「お前、朋香と行ってこいよ」
「優は来ないのか?」
「俺は、まぁ、その、あれだ。荷物整理で多忙だ」
「別に変な気とか使わなくてもいいぞ?」
「今更お前らに気配りなんてするかよ」
 そう言って綺麗に笑った。僕もそれに釣られて楽しくなる。やっぱり笑ってるほうが楽しくていいよな。
 気がつけば踏み切りの前で話しこんでいた。
 途中で何度か電車が通り、お互いの声が聞こえなくなる時もあったが、それでも話し続けていた。
 再び遮断機が降り、カンカンという耳に障る高い音が響く。
「今日は中々楽しかったぜ」
「ん? 聞こえないって!」
「楽しかったっつってんだよ!」
「俺もだ!」
 お互いに叫びあっているのが妙におかしくて、やはり笑ってしまう。電車が通り、何度も聞いた轟音で耳が痛くなった。
「――――――――良かった」
 優が何かを言っているけれども残念なことにまったく聞こえなかったが、とりあえず何かが良かったらしい。なら悪い気はしない。
「んじゃ、俺帰るわ」
 そう言って優は手を振りながら歩き出す。
「朋香に今日はありがとうって言っといてくれ」
 それだけ言い残すとまるで影が闇に溶けるように、すぐに見えなくなった。だから黒すぎだっての。
 さて、帰るか。
 思い出したように冷たい風が頬を撫でた。立ち止まって話していたから寒い。
 ポケットの中に手を突っ込んでカイロを握り締めてみても、すっかり冷たくなっていて役に立たなかった。

間章 気温八度の箱の中

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 夜。闇。黒。部屋。息が一つ。音が二つ。体が一つ。心が二つ。

「……なぁ」
「なに?」
「……悪かった」
「ううん、全然平気だよ」
「……ごめん」
「本当に大丈夫だから、気にしないで」
「……でも、ごめん」
「…………」
「…………」
「そういえばさ、もうすぐクリスマスだよ」
「あぁ、そうだな」
「楽しみだなー」
「クリスマス、二人でどこか行こうか」
「え、でも……」
「いいよ、俺がそうしたい」
「えっと、じゃあ――」

 薄い影。淡い呼吸。ノックの音。響く声。ぬくもりが一つ。喜びが二つ。声が一つ。声が二つ。

第二章 想いの奥で 四

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 ぬくもりに包まれながら眠り続けることはなんて幸せだろうか。
 僕はその幸せを感じつつ眠るという器用なことをしていた。
 冬の朝の布団ってどうしてこんなに幸せなんだろう。しかも土曜日。冬休みだから毎日が休日なのだけれどやはり土日は平日とは何か雰囲気が違う。
 体いっぱいにその幸福を味わって眠っていた。そのまましばらくは眠るつもりだったのだが。
 枕元でカチッという爆弾処理班も真っ青な音が小さく鳴ったほんの数瞬後、
「おはよー! 朝だよー! 起きてー! 起きてー!」
 けたたましい叫び声によって目を覚まされた。最悪だ。
 その日は少し頭がいつもよりすっきりしていて、普段なら三、四回はループするその声を一回で止めてみせた。
 七時。
 どうして休みの日にこんな早く起きなければいけないとか、二度寝でもしようかとか、少し前まではそんなことを考えて後三時間は寝ていたものだが、朋香が来てからはそれも出来なくなった。
 母親の命により朋香が起こしに来るからだ。
 さすがに寝起きでグッタリな顔を見せたくはない。恥ずかしいし。
 そんなわけで平日だろうが土日だろうがお構いなく、僕の起床時間は七時にセットされていた。
 それにしてもこの目覚ましは改めよう。毎日こんなのに起こされて不快な朝を迎えるのは嫌だ。
 時計を買いなおすことを決心した僕だった。


 クローゼットを開けて服を取り出し、着ていたパジャマを脱ぎ散らかして着替える。
 昔ならそのパジャマもそのままにしていたところだが、例によって朋香の存在により片付けることが日課となった。今思えば当たり前のことだけれども、前はそれが出来てなかったんだよな。心の中で少し自嘲気味に笑っておく。声に出して笑っていたらそれはどう見てもただの変態だ。
 着替え終えて二階のリビングに向かう途中、階段あたりで卵を焼いている匂いがした。卵焼きを作っているらしい。
 既に暖房のきいた暖かいリビングに降り立つと、その匂いは濃さを増し、発生場所と思われるキッチンに母と朋香の姿が見えた。
「あ、おはよう」
 僕に気づいた朋香が嬉しそうな声をあげた。手にはお玉を持って鍋の中の味噌汁を書き混ぜている。多分僕が朝にちゃんと起きてきたことが嬉しいのだろう。
「おはよ」
「よく起きてこれたね。今日も起こしにいかないとって思ってたのに」
 どうやら当たりらしい。
「昨日もちゃんと起きてきただろ」
「あ、そういえばそうだね」
 楽しそうに笑う朋香の隣で使い終わったらしいフライパンを洗っていた母もふふふと口に手を添えて笑っていた。
「ほら、早く顔洗って、髪の毛すごいよ?」
 すごいと言われても自分で髪は見えないわけで、促されるままに洗面台のほうへ向かった。
 髪を梳かす前に鏡を見てみると、そこには中々こじゃれてイカしたボンバーな男が立っていてつい見つめてしまった。その、あまりにボンバーすぎて。
 風呂の後に髪が乾ききらないまま寝てしまったからだろうかと思い、次からはちゃんと乾かそうと自分に誓った。記念にもう数秒見つめておくことにする。
 それからすぐに水と櫛で髪を梳かし、顔を洗ってリビングに戻るとテーブルの上には朝食が並べられていた。
 玉子焼きに始まり、焼き魚、味噌汁、漬物、ご飯とお好みで納豆。
 ざっと品数は数週間前の三倍。まぁ前は前夜の残り物とご飯くらいだったしな。それを朝食と呼ぶのも悲しくなってくるくらいしっかりとした朝食が置かれていた。
 しかし並んでいるのは三人分で、他の兄弟と父の分が無い。
 弟は冬休みでも朝から部活で学校のほうへ行っているらしく、朝食は適当に済ませていることが多い。聞けば朝六時にはもう出ているらしい。
 父も朝早くから釣り仲間とどこかへ出かけていったようで、外のガレージにいつもはあるはずの車が無くなっていた。
 兄は昨日夜遅くまでバイトをしていたらしく、寝かせておいてあげようという母の気遣いで睡眠中。
 僕ももう少し寝ていたかったのだけども、以前話したところ朋香に「なんで?」と一蹴されて以来は反論もしていない。
 そういうわけで三人で並んだ朝食の前に座って「いただきます」という号令と共に食べ始める。
「毎日朋香ちゃんが手伝ってくれて嬉しいわ」
 にこやかな顔でそういう母は本当に嬉しそうだ。玉子焼きがうめぇ。
「いえいえ、お世話になっているわけですし、こちらこそ泊めていただいてありがとうございます」
 座ったまま深々と頭を下げる朋香。味噌汁と魚も結構いけるぞ。
「和哉もこうして朝に起きてくれるようになったのも朋香ちゃんのおかげかしらね」
「あはは、そうだと嬉しいですけどね」
 納豆も貰うか。
「ありがとうね」
「いえ、こちらこそ」
 納豆うめぇ。
 そんな感じに朝が過ぎていった。

 
 朝食を終えた後、僕と朋香に食器を洗を任せて、母は洗濯物を干しに行った。
 こんな時に人の化学が偉大だと関心する。
 単に蛇口からのお湯が出ているだけなのだけど、もしこれが水だったりなんかしたら手が凍ってしまうのではないだろうかとか、そんなことを考えていた。
「ねえ和哉」
 慣れた手つきで食器にスポンジを滑らせていく朋香が尋ねてくる。
「ん?」
「あんたもう少し喋りなさいよ」
「なんだ? ほら三文字になったぞ」
「今じゃなくてご飯のとき、一言も話してなかったでしょ」
 どうやら僕があの時黙々と箸を運んでいたのが気に入らなかったらしい。でもそれは仕方がない気がする。だって、
「お前、母さんとずっと話してただろ。どのタイミングで入るんだよ」
 朝食が始まって物を噛む時以外ずっと動いているような二人だ。僕が入る余地なんて見当たらない。
「それは、考えればいろいろあったでしょ」
「例えば?」
「えーと…………とにかく、いろいろよ!」
 どうやら見つからなかったらしい。言い出した朋香ですら見つけられなかったのを僕に要求してくるのは酷ではないだろうか。
「別に俺が話さなくても問題無くないか? 二人でも賑やかなわけだし」
「そうじゃなくて、ほら、やっぱり親子なんだし、ね?」
 そんな困った顔で、ね? と言われても。
 しかし朋香の言わんとすることは理解できる。親子なのだから親子らしく仲良く話せと、そういう事だろう。
「でも母さんかなり喜んでるんだぞ」
「え、あ、そうなんだ」
「だから気にすんなって」
 そう言ったが、朋香はどこか納得がいかないような顔をしたまま手を動かし続けた。
 別にいいんじゃないか、朋香が気にするほど今の僕と母の関係は悪くは無いはずなのだから。


 食器も洗い終え、特にやることも無くなった僕はリビングのソファでゆったりとくつろいでいた。
 テレビの中では背の高いメガネと背の低い帽子の漫才コンビが左右に首を振りながらマシンガントークで観客を笑わせているのだが、面白いかこれ?
 年末ともなるとバラエティの特番などが増え始め、こういった時間帯にはそういう番組でいっぱいだった。まだクリスマスにもなってないのに気が早いんじゃなかと突っ込みたくなる。
 そういえばクリスマスって明後日だよな。ということはイブは明日か。だからどうと言うことはないが、暇な僕は色々考えてしまうわけだ。
 誰も突っ込まないけどサンタクロースってどう考えても不法侵入だよな。親が警察官の子の家とかに入って掴まったりとかしないのかな。いや正式に親に雇われて入ってるのだろうか。それにサンタは本当は居ないって言う奴がいるけど世界にはサンタクロースっていう職業がちゃんとあるんだぞ? だからサンタは居ないというのは間違いで、サンタ(正式職員)は来た事がない、が正しいはずだ。
 ……何考えてんだろ。
 随分くだらないことを考えていた気がするが、まあいいや。
 それにしても暇だ。朝早くに起きるのは良いがやることが無ければ起き損な気もしてくる。早起きは三文の得って言った奴は何を考えてるんだ。
 朋香は洗い物が終わったらすぐに部屋に行ってしまったし、だから僕はこうして一人でテレビを見ているわけだけど、暇だ。ゲームでもするか。
 のっそりとソファから降りて四つんばいの状態でテレビの元まで歩く。ゲーム機まであと数センチ。
 そこで朋香がリビングに戻ってきた。もこもこした姿で。
「どこか行くのか?」
 テレビ下にあるゲーム機に手を伸ばした格好で尋ねると、朋香はあんたなにやってんの? って感じの顔をしながら、
「早く、出かけるよ」
 とか言い放った。唐突だなおい。
 しかしゲームをするくらいしかやることのなかった暇で暇で仕方がない僕としてはありがたく、すぐにマフラーとコートを羽織って準備をする。カイロも忘れない。
 一応優も誘ってみたのだけど、本当に荷物整理で忙しいらしく断られた。昨日は一日遊んでたからな、一昨日帰った後にあの量を整理できるわけない。
 というわけで今日は朋香と二人で出かけることになり、どこに行くのかと尋ねると「本屋」と短い返答が帰ってきた。
「この間大量に買った本をもう読んだのか?」
「気になってるシリーズの新刊が出たからそれだけ買いに行く」
 自転車にまたがって家から数分のところにある本屋へ走る。この前に行った大型書店は朋香が「少しでも本種類が多いほうがいい」と言って自転車でいけるがやや遠めの本屋に行ったけれど(もっとも朋香は並んでいた本の種類に満足してなかったが)、今日は最新のものということで比較的近いデパートの中にある本屋に行くようだ。
 休日だがそれほど派手でもなんでもない町なので人や車通りはまばら。少なくもないが多くもない。自転車で並んで走ろうが全然余裕なくらいだ。
 朋香はやはり二列走行はいけないんだよと注意をしてきたが、いいじゃないかと笑ってごまかした。
 空はここ数日と同じような灰色の天気で、母が「洗濯物が乾きにくくてね」と困っていたことを思い出した。
 風呂場に干して乾燥させれば? と言うと朋香に「外で乾かすのと中で乾かすのは全然違うの」と怒られた。よく分からないがそういうものらしい。
 そんなことを思っているうちにこの町ではそれなりな大きさのデパートに着いて、駐輪場に自転車を置いて中に入る。
 暖房の暖かさと、色々な食品が混ざり合ったなんとも表現しがたい匂いが鼻を突付いてきた。
 一階は食品売り場で、入り口付近には小さなケーキ屋やたこ焼き屋とか喫茶店が並んでいたりする。
 目的の本屋は三階にあるのでエスカレーターで上がりあっという間に本屋に到着した。
 その本屋というのは三階の洋服売り場の角に可哀想なくらい小さく存在していて、始めてきた人は見つけられないのではないだろうかと思うほど存在感が無かった。
「買う本ってどんなやつなんだ?」
 特に話題があるわけでもなかったので適当なことを聞いてみる。
「現代物のシリアスな恋愛小説」
「へぇ」
「女の子とその子のわがままに付き合わされる男の子の話」
 その男子にどこかひどく僕と通じるところがあるような気がしたが、多分気のせいだろう。
 レジには年齢もそこそこなお婆さんがちょこんと座っていて新聞を広げていた。見渡せば防犯カメラも見当たらず、無用心すぎますよと言ってあげたかった。
 その同情するほど小さな本屋には僕達以外に金髪で同世代くらいの女の子が一人居るくらい。やけに大きなヘッドフォンをつけていて古い物なのか音漏れが酷かった。
 シャカシャカ音を耳の端に聞きながら朋香は目当ての本を探し出す。
 探すといっても所詮はその程度の広さの店なのでほしかった本はあっという間に見つかった。可愛らしい女の子がこっちを見て微笑んでいる絵の本。
 棚に並んだ本をずっと眺めているポニテの彼女の後ろを通り過ぎてレジへ持っていく。
 分厚いメガネのお婆さんは新聞を置いて本を確認すると、かなりスローな動きでレジの機械のボタンを指で押して、ガチャンともパタンともいえないような機械の悲鳴と一緒に「五三〇円だよ」としわくちゃな声で言った。
 朋香がサイフから五三〇円ぴったりを出しレシートをもらって「じゃあ行こうか」と本を鞄に入れて歩き出した。
「次はどこ行くんだよ」
「そういえばどこに行こうか」
「考えてなかったのかよ……」
「うん、まぁ適当に行こうよ」
 そして適当に歩き出す。どこを目指すわけでもなく、とりあえずアパートの中をうろうろと。
 まずは同じ階の用事もない洋服売り場を見て周り、二階に移動して興味も無い家具売り場を見て周り、その同じ階の買うつもりも無いゲーム売り場を回った。
 ゲーム売り場では最新ゲームの体験コーナーが設けられていて、小さな子供達が変わりばんこにそれを楽しんでいた。
 …………一人だけ大きいのが混じってるんですけど。
 別に呼んでもいないのにその大きいのはこっちに気づいたようで、ゲーム機のコントローラーを子供に託してこっちへやってきた。来るな。
「よう一河さん、それと菊池」
 片手を上げて挨拶をしてくる大きいの。
「いよう、大きいの」
 俺も片手を上げて返してやる。すごく哀れみと蔑みを含んだ目で。
「なんだよその可哀想な奴を見る目は。そんな目で俺を見るなよ。あと大きいのってなんだよ」
 小学校低学年くらいの子供達に混じって一人ゲームをする高校二年生。恥じらいとかはないのだろうか。
「こんにちは、馬場君」
 朋香が微笑んでそう言うと、僕に何かを喚いていた馬場が少しだけ大人しくなった。
「お前何やってんだ?」
 相変わらず冷えた目を向けると耐えかねたように視線をそらして、
「暇、だったからよ。遊びにな」
「それで友達の居ないお前は子供達に混じってゲームと。結構可哀想な奴だったんだなお前」
「ちげえよ! 友達ぐらい居るって! たまたま他の奴と都合が会わなかっただけだ!」
「あんまりからかっちゃ駄目だよ」
 朋香は僕に止めるように促した。確かに馬場にはこの上ないほどの恩があるし、朋香にとっても、ひいては僕にとっても恩人そのものだ。
 しかしまぁ、なんというか、この世界には友情という素晴らしい言葉があるのだよ。うん、いいな、友情って。
 その僕と馬場の友情というのがこういう形なわけである。と、僕“は”思っている。
「ほら、一河さんもそう言ってるだろ。そんな目で見るなって!」
「…………」
「マジで友達は居るからな! 本当だからな!」
「ふーん」
 数少ない友達にも見捨てられた可哀想な奴。僕の中でそういうレッテルが貼られてしまった馬場。哀れだ。
「それで、お前らは――」
 馬場は僕達を交互に見た後に、
「あれか、デートか」
 と言い放った。さも当然のように。
「なっ――」
 馬鹿な発言に驚いて一瞬言葉を失ってしまったが、ふと隣を見ると顔を伏せて頬を朱に染めていた。
「くぅ、そうか! そうなんだな! やっぱデートか! くそぅ、見せつけやがって!」
「ち、違うっつうの。単なる付き添いだ」
「同じことだろうが! くそう、何で菊池ばっかり! よこせ! 俺にもそのデートってやつをよこせ!」
 完全に何かのスイッチが入ってしまったらしい馬場はわんわんと言いたいことをぶちまけている。
 隣では気の毒なほど顔を伏せて赤くなっているし、さすがに止めなければと思った。何より迷惑だ。
「俺だってな! その気になれば彼女の一人や二人くらいすぐがっ」
 ひとまず華麗にコブラツイストを素早く決めて黙らせる。
 目を瞑って必死に宙に手を広げて叫んでいた無防備な馬場は気持ち良いくらいあっさりと技にかかって締め上げられる。
「い……い……あ……が……」
 油の切れた機械のように馬場の口から空気が漏れるが、離すとまた叫びだしかねないのでまだ離さない。
「いち……か……さ……たす……け……」
 懸命に動かない手を朋香に伸ばしているようだが、相変わらず朋香はそのままだった。
 それにしても流石はかの有名なコブラツイストである。放課後のなんちゃってプロレス組の採用率が高いのもうなずける。
 猪木が愛用したコブラツイストによって絞められる馬場。猪木のライバルがジャイアント馬場であった辺り、何か運命的なものを感じられる。
 あほか。
 そもそも何で僕はやり方を知っているのかと疑ってしまいたくなるが、それ以上考えると悲しいことになりそうだったのでやめておくことにした。
 気がつけば向こうでゲームをしていたはずの子供達が興味津々といった感じに少し離れたところで見ていた。
「なになに?」
「すごーい」
「かっこいー」
「もっとやってー」
 そんな声援が飛び交う。馬場、お前って奴は本当にあれだな。
 純粋無垢な期待に答えるべく腕や足に力を込める。ほら、小さな子供の期待を裏切るなんてできないだろう?
「が……あ……あああ!」
 店の迷惑にならない程度に一層大きくなる馬場の悲鳴。ん? いまミシッて聞こえたか? まぁいいか。
 子供達のきらきらした眼差し。きっとその目には正義のヒーローと悪の刺客のように映っているのだろう。大体当たりだ。
「きく……ち……まじで……や……ば……ああああああ!!」
 何を喋ったのかよく聞き取れなかったがろくでもない気がしたので力を込める。願わくはその不愉快な心が壊れて綺麗な心になりますように。

第二章 想いの奥で 四-2

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 ショーも終わり、子供達は母親に呼ばれて散り散りに帰っていった。
「おーい、朋香」
「え、あ、うん、何?」
 ショーの間ずっとうつむきっぱなしだった朋香は焦り気味にそう答えた。やはり顔は多少染まっている気がしたが、言うと怒られそうなのでやめておく。
「母さんから晩御飯の用意買ってきてってメール来たから飯食って買いに行くぞ」
「あ、そうなんだ」
「この後どこか行く予定あるか?」
「ううん、無い」
 というわけで僕達は一階の喫茶店で何かを食べた後に食品売り場で晩御飯の用意を買って帰ることにした。エスカレーターに乗って降りるときに、ベンチにぐったりと転がっている馬場の口から何か白いものが見えたような気がする。
 強烈なコーヒーの匂いで他の匂いを打ちのめしている喫茶店に入って若いウエイトレスに席を案内してもらい、席に着いてからスパゲッティとコーヒー、朋香はサンドイッチとオレンジジュース、食後のストロベリーパフェを頼んだ。
「馬場君大丈夫かな、ぐったりしてたけど」
 タマゴサンドをつまみながら朋香が口をもぐもぐと動かして言った。
「まぁ大丈夫だろ、一応頑丈だし」
 ミートスパゲティをくるくるとフォークで丸めながら口へと運ぶ。
「馬場君って結構和哉にやられてるよね、色々と」
「そうだな、まぁ馬鹿だからな」
「学力なら和哉も負けてなさそうだけどね」
「うるせぇよ」
「そういえばおばさん今晩何にするって?」
「ん、あぁ、ちょっと待て。えっと、キャベツと豚、牛のひき肉とたまねぎにんじんナツメグ――」
「あら、朋香ちゃんと和哉君」
 僕の声を女性らしい高めの声が遮った。取り出した携帯から目を離して声のほうへ振り向くと見知った顔が立っていた。
 優のお母さんだ。
 僕の母と同じくらいの年齢のはずなのに化粧のせいか、それとも綺麗な服装のせいか幾分若く見える女性が少し驚き、嬉しそうな表情で僕たちを見ていた。
「隣いい?」
「はい、どうぞ」
 許可を得てからおばさんは朋香の隣の席に座った。来店したおばさんを案内していたウエイトレスは少し複雑な顔をして、すぐに営業スマイルに戻った。
「ホットコーヒーを一つお願い」
 おばさんがそう言うとウエイトレスはかしこまりましたと深々と頭を下げて去っていった。
「久しぶりね、元気?」
「はい、元気ですよ」
 優の母とも幼稚園からの付き合いである。当時の僕にそんな意志があったかどうかはともかく、おばさんは僕のことを家が近いことも手伝って昔からよく知っていた。
「朋香ちゃんも、相変わらず綺麗で可愛いわね」
「い、いえ、そんなこと、ないです」
 ふふふと笑うおばさんの隣で朋香が恥ずかしそうに顔を伏せた。
「優といつも遊んでくれてありがとう。きっとあの子もすごく喜んでるわ」
「こちらこそ、帰ってきたところなのに連れまわして申し訳ないです」
「そんなにかしこまらなくてもいいのよ和哉君。もう十年以上の付き合いなのに。昔のように『おばちゃん飴ちょーだい』っていう風に言ってくれてもいいのよ」
 そんなことを言われてもやはり年上の女性、それも見た目綺麗な人にタメで話すのは躊躇われる。無邪気な子供時代とは恐ろしい。
「そういうわけにもいきませんよ」
「ふふ、和哉君は大きくなっても優しいままね」
 先ほどのウエイトレスが湯気のたつコーヒーの乗った盆を片手にテーブルに持ってきておばさんの前に置き、ごゆっくりと再び頭を下げて戻っていった。
 おばさんはコーヒーのカップを手にとって口を一口つけ、美味しいとこぼす。その動き一つとっても優雅さを感じられる。
 一口しか飲んでいないカップをソーサーの上にゆっくりと置いて、同じくらいゆっくりと小さな息を吐いた。
「和哉君、朋香ちゃん」
「はい」
 二人が返事をしたのはほぼ同時だった。
「優が髪を栗色に染めたのは知ってるわよね?」
「はい」
「ええ」
「優から何か聞いてない? どうして染めたのか、とか」
「おばさんには何も言ってないんですか?」
 朋香がすぐに疑問で返したが、おばさんは少しうつむき加減になって、
「いいえ、何も。どうしたのかって聞いても教えてくれなくて」
「そう、ですか」
 それを聞いて朋香も申し訳なさそうにうなだれた。
「えっと、優は気晴らし程度にとか言ってましたけど」
 僕が言うと同時におばさんの綺麗な顔が少しだけ険しくなった。
「……何かあったんですか?」
 心配そうに朋香が尋ねる。尋ねざるをえないといった、そんな雰囲気。
「いや、私って優に嫌われてるのかなって」
「え?」
 やはりほぼ同時に返答する二人。
「最近、いえ、もう少し前から優とほとんど話さなくなってね」
「それは……反抗期っていうやつですか。遅めの」
 朋香がフォローを投げかけるがおばさんはふるふると首を振って続ける。
「家事とかは手伝ってくれるの。何も言わなくても。夕方に私がパートから帰って来た時にお米の用意がしてあったり洗濯物が取り込んでたたんであったり、夕飯の手伝いも何も言わないけどしてくれるの。だから反抗期とは少し違うと思うわ」
 ふと遊びから帰ってきた後の共に散歩していた優を思い出す。いつものおちゃらけな感じなどではなく、真剣で、そのくせまるで捨てられた子犬か何かのような困った顔をした優を。あの時の優は僕に何を伝えたかったのだろうか。
「母親の私が尋ねるのも恥ずかしいのだけど、どうすれば優ともっと話せるようになるかしら」
 不安と緊張と困惑、期待と希望を携えたような声。訪れる沈黙。そして、
「旅行とかどうですか。旅行って楽しいし、そしたら優も気軽に何か話すかもしれませんよ」
 それが僕の答えだった。色々考えていたらしい朋香も少し後にうんうんと同意した。
 おばさんはしばらくの間何かを考えるようにコーヒーを飲んだり飲まなかったりを繰り返したが、最後には「そうしてみましょう」と明るい声が帰ってきた。
 その笑顔は、やはり綺麗だった。
 何度もの「ありがとう」と「どういたしまして」を繰り返しておばさんは店を出て行き、朋香が美味しそうにパフェを食べるのを二杯目のコーヒーをすすりながら眺めた後、夕飯の買い物をして家に帰った。
 その日は珍しく僕も夕飯作りを手伝おうとしたのだけれど、大して広くないキッチンに僕と母と朋香の三人を収容するのは厳しかったようで追い出されるようにキッチンを抜けた。
 そりゃ普段から料理なんてしないけどさ。包丁とか全然使えないけどさ。ナツメグってなんだよって感じだけどさ。「和哉、邪魔」は無いだろう、邪魔は。
「…………はぁ」
 倒れそうなくらいもたれかかったソファからオレンジに染まったでこぼこの雲を逆さまに見ていた。相変わらず雲が邪魔をして夕日なんて見えない。僕と雲とどっちが邪魔なんだろうか、とそんなことを考えてみた。答えは出なかったが、雲のほうだと信じたい。
 帰ってきた時からつきっぱなしのテレビはよく分からない漫才をまた映していた。しかも朝と同じコンビだ、舞台は違うけど。だから面白くないって。
 次第にリビングには夕飯の良い匂いが充満し始めて空腹を促しだす。
 その日の夕飯はロールキャベツで、自分が(二厘くらい)手伝ったそれはとても美味しかった。自分の手が少しでも加われば美味しく感じられるってものだろ?
 まぁ、その、僕が居なくても間違いなく美味しく出来ていたとか、そんなことは考えてはいけないと思った。頭の中で繰り返される邪魔。うぅぅ。
 父は釣り、兄はバイトで夕飯の時も居なかった。部活から帰ってきた弟が加わった四人でテーブルを囲う。
 やはり母と朋香、今はそれに弟がトッピングされて会話に花を咲かせていた。常に誰かの口が音を出しているような状態。もちろん僕の入り込む余地はなかった。
 時々気遣うような目で朋香が僕を見てくるが、僕は別に良いじゃないかというような視線を送っておいた。一瞬むすっとしたような顔が帰ってきたけど、母が話を振ったためにすぐ笑顔に戻った。
 ゆったりとしたいつもどおりの時間が流れる。
 平和だ。
 食事が終わってしばらくお茶でも飲みつつゆっくりした後、部屋に戻って漫画を読んでいた。ベッドの上に寝転がってごろごろと。動くたびに膨らみかけていた布団が嫌そうにふしゅうと声を上げてしぼんでいった。
 これで月でも眺められれば文句なしだったのだけれど、大自然を相手にしたって仕方がない。
 ぺらっとページをめくる。その音だけが静かに部屋の端にまで届いていた。
 ぺらっ、ぺらっ、ぺらっ、たーらららーらーたったー。
 たったー?
 突然の大音量でわずかに肩をびっくりさせながらそれが携帯の着メロだということに気づいてポケットに手を突っ込む。
 タイトルもアーティストも分からないが、なんとなくテレビなどで流行ってるようだから自分で設定した有名ロックグループの曲。
 少しまぬけ、しかしやけに響くそのメロディは携帯を震わせながら僕を待っている。
 それがメールではないほうだったので慌てて画面を確認する。
 着信、和泉優。
 何の用だろう、明日遊びに行くとかか、ボーリングとか行きたいのかも。それとも終わらなかった荷物整理を手伝えとか言い出しそう。うん、多分そんな感じだな。
 通話ボタンを押して携帯を耳に当てる。
『よう、俺だけど』
 優はいつもどおりの明るい声を弾ませていた。
「おう、どうした」
『まぁ聞いてくれよ相棒』
「早く言え」
『実はさっき親が部屋に入ってきて“明日から旅行行くぞ、一泊二日くらいで”とか言い出すんだぜ。どう思うよ。明日は遊びに行くつもりだったのにさ』
 何故優の親がそう言ったかは分かっている。僕がそう勧めたからだ。それにしてもおばさん行動早いな、もう予定を決めてしまうとは。
「あ、あぁ実はそれな――」
『ほんとにもう参っちゃうよな、俺の予定も考えてほしいっての、マジで参ったよ、ははは』
 それは僕に言っているのではなく、どこか自分に言い聞かせているようなそんな話し方だった。
 しかしあまりにも優が明るい声で話すものだから、その時の僕は気づけなかったんだ。
 それからあれで遊ぶつもりだった、これで遊ぶつもりだったというのをひとしきり話し終えた後、くだらない雑談を交えて、
『じゃあな。夜に愚痴の電話して悪かった』
 と言って電話が切られた。
 会話の八割くらいは優が話していたようなものだけど。
 話を終えてすぐに部屋のドアがノックされた。「和哉、いい?」とドアの向こうで聞こえたので「いいよ」と言うと朋香が部屋のドアを開けて入ってくる。それと同時に体を起こしてベッドに座った。
「電話?」
「あぁ、聞こえてた?」
「うん、部屋の前にきたら和哉が誰かと話してたから」
「優からの電話だったよ」
 朋香は定位置の座布団に座って、
「優なんて?」
「明日遊ぶつもりだったのに親が旅行の予定入れてきたって困ってた」
「それって私達のせいだよね……」
 彼女の顔が少し曇ったが、フォローの入れ方はしっかりと考えてある。
「まぁ大丈夫だろ。いつもどおり元気だったし、旅行って行ってみれば楽しくなるもんだろ」
「あー、んー、そうだよね。旅行って楽しいもんね」
 予想通りに、少し考えた後笑顔に戻ったのを確認して成功を確信した。
「そういえばなんか用事があったんじゃないのか?」
「え、うんまぁ用事っていうほどのはないんだけど」
 急に焦ったような感じで頬をかくしぐさをしだした。なんだ?
「明日出かけたいなーと」
 そういうことらしい。出かけたいと。それを何故僕に言うのか。
「出かけるのか。どこに?」
「えっと、それはあれだよ、色々と」
「誰と?」
 ビシッと指差された。まるで漫画の中の教師が生徒を指すかんじに腕を伸ばして。でもすごくぎこちない。
「まじで?」
「まじで」
「今日出ただろ、買い忘れか?」
「違う! 明日出かけたいの!」
 それだけ言うと朋香はしまったと言う感じにややうつむき加減になった。なんだなんだ?
「だめかな?」
 しかし明日もいつもと変わりなく、むしろ優が旅行へ行くということが確定してる分、キング・オブ・暇なので断る理由もない。冬休みの宿題なんて考えたくない。
 朋香と出かけるのも結構それなりに楽しいし。
「全然問題ない。暇だしな」
 そう言うと朋香は見る間に元気になって、それはまるで夜明けから昼にかけてのアサガオ観察ビデオを高速再生しているような感じだった。
「それじゃあ、うん、それだけ!」
 何が「うん」なのだろうかと気にするまもなく朋香はおやすみと部屋を出て行った。なんか台風みたいだったな。目付きの。
 そういえば入ってきたときからなんかそわそわしてる感じだったけどなんだったんだろうか。
 今日一日で朋香がそわそわしそうな理由を探してみる。
 朝飯を母と作っって出かけて本屋へ行って本買っておばさんと会って材料を買って夕飯を作った。
 いつもどおりじゃん。
 もう一度考えてみても結果は同じ。
 わーかーらーねー。
 何度も狭いベッドの上をごろごろと往復し、その度迷惑そうに布団が鳴いた。
 明日、明日ってなんだっけか。えっと、えーっと、ん? そういえば明日って――
「そうだ和哉」
 突然がばっと部屋のドアが開けられる。一人ベッドの上を変な顔をしてごろごろし続ける奇妙な生物に気にする様子もなく――いや今一瞬なんか変な顔したぞ――続けた。
「明日! 十二時に駅で待ち合わせでよろしく! んじゃおやすみ!」
 バタン。
 静寂。
「…………」
 台風というより地震みたいだな。第一波、第二波みたいな。
 駅で待ち合わせ?
 同じ家に住んでいるのだから家から一緒に出ればいいと思うのだけど、まぁ朋香がそう言うのだからそうしよう。どういう意味かは分からないが。
 そういえばまだおやすみじゃねえ。風呂入ってないし歯も磨いてないし着替えてねえよ。
 そんなことを思いながらクローゼットから着替えを取り出して風呂へ行くことにする。
 ふと机の上の小瓶に目を向けると、星も色素も随分下方にたまっていて、それに光が当たって全ての色を練りこませたような鈍色を放っていた。
 赤でもなく、青でもなく、緑でもなければ黄色でもない、それらが全て混ざったような、どちらかと言うと黒に近い、そんな光をしていた。
「和哉ー、お風呂入らないの?」
 リビングから母の声が聞こえる。「今行くよ」と返して僕は部屋を出た。
 部屋の明かりを消すと、黒に近い光は黒になった。

第二章 想いの奥で 五

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 優から電話のあった翌日の早朝にはもう旅行へ行ったようだ。
 僕の母も僕達がおばさんと出会った後に相談の電話があったらしく、どこが良いかしらと尋ねられたようだ。
 母は自分の出身でもあり、スキーでも楽しんできたらどうかということで福井を推薦した。越前蕎麦がすごく美味しいんですよほほほとか言いながら電話をしていたに違いない。
 というわけで、優は家の車に連れられて今はせっせと福井に運ばれていることだろう。
 昨日電話ではああ言っていたけどスキーって楽しいだろ? きっと帰ってきたらスゲー楽しかったゼ、ボードとかでジャンプ台に突撃してさ、ぐるぐる回ってやったぜとか元気いっぱいにいってくるに違いない。僕も行きてぇ。
 しかし菊池家は旅行というものに縁遠いようで、父は毎週のように釣りへ行くし、今の母は朋香と家事が楽しいようでウキウキしながら料理や洗濯をしているし、弟は部活の試合が近いみたいで休みの度に朝から練習に行っているし、兄はずっとバイト、時々大学の勉強。
 そんなわけでここ数年は旅行なんてものには行っていない。
 旅行か、行ってみたいなぁ。
「なに気持ち悪い顔してるのよ」
 いつの間にか朋香が怪訝そうな顔をして僕を覗き込んでいた。
 朝食も終わり、約束の十二時までまだ三、四時間はあるのに暇をもてあましていた僕はいつものようにソファにへばりつきながらそんな考え事をしていたのだが、自分が旅行で楽しんでいる光景を妄想でアレな顔になっていたらしい。確かに自分でも気持ち悪いと思う。
「優楽しんでるかなってな」
「楽しんでると良いね」
「あぁ」
 今にも崩れ落ちそうな体を起こして時計を見る。まだ八時半だ。
「それで、どうした? まだ時間まで結構あるぞ」
「いやぁ、何にも無いんだけどね」
 朋香は昨日に引き続きどこかそわそわとしていて、実際にはほとんど隠れていて他の人が見れば多分気づかないんじゃないかと思えるほど自然体なんだけど、その声にはそわそわというか、わくわくというか、そんな感じのものが含まれているのに僕は気づいた。伊達に何年も一緒には居ない。
 相変わらずその理由は分からないけど、まぁ楽しいことがあるのだろう。
「とりあえず準備するか」


「さむっ」
 朋香に先に行っていてと言われて駅で待つ僕は只今冬の風と格闘中。やはり、一緒に出ないのかと訊くと出ないと言われてしまった。
 というわけで今は一人寒空の下にて防戦一方の戦闘を繰り返しているところ。以前として勝ち目は見えない。
 休日の昼ということもあって駅前はそこそこの人で賑わっていた。電車が来るたびに以前より四割増くらいの人が吐かれては飲まれていく。
 皆どこに行くんだろうなとか昼飯どこで食おうかななんてことを考えていた時だった。
「お待たせ」
 物思いにふけっていたので突然の声に驚いたが、聞き慣れた声だったのですぐに落ち着いて声の方向を向くと、そこには昨日までとは違う姿をした朋香が立っていた。
 もこもこしたコート姿ではなく、冬には似つかないくらいすらっとした格好。
 白と黄色のカーディガンにオレンジのセーターと桃色のスカート。ニット帽は無くなっていてそれは赤い髪留めに代わっていた。肩からは小さなバッグが下がっている。
 その服装はすごくよく似合っていて、丁度かわいいと綺麗を足して半分に……いや、割らなくいい、割らなくていいぞ。
 とにかく似合っていて、思わず見惚れてしまうほどだった。
「……感想も無し?」
 僕がじっと見たまま黙っていたので、朋香は少し不機嫌そうにそう言った。
 すげぇ似合ってるよ。その赤い髪留めなんかも可愛いじゃん。
 そんなことを言おうと思って口の辺りまでのぼってきたのだが、急にそのセリフが恥ずかしくなって飲み込んだ。そういうセリフは恥ずかしいもんだろ?
 代わりに出てきた言葉は、
「……寒くないか?」
 これである。
「それだけ?」
「あぁー、それはぁ、えーっとぉ……」
 当然のように朋香の表情は曇り、しかし口元は少し笑っているという難しそうな顔をした。怒ってるのか、笑ってるのか、どちらかは分からないが怒っているならそれはまずい。照れ臭さを押し殺して言うしかないようだ。
「……すげぇ似合ってるよ」
「え? なんて?」
 朋香から先ほどの曇った表情は消えたが代わりに悪戯な目とにやにやした口元が見えた。
 くそう、聞こえてるくせに。絶対聞こえてるくせに。
「似合ってるって、まじで」
 寒さも忘れてとにかく恥ずかしかった。
 それで満足したのか朋香は「よろしい」と先生が生徒に言うように言った。すごく嬉しそうに。
「でもやっぱり寒いからコート貸して」
 なんてわがままな。
 それでも冬にしては随分薄着な姿の彼女を放っておくわけにもいかず、仕方なく僕のコートを脱いで渡した。
「あー寒かった。無理しておしゃれしてみたけど冬は寒すぎてだめだね」
 じゃあ最初から着込んで繰ればいいのに、という言葉は飲み込んでおいた。言うとまた痛いしっぺ返しが飛んできそうな気がしたから。
 コートが大きすぎるせいで服を着ているというより着られているという表現の方が正しそうな朋香を見ると、本人はせっかく用意した服が隠れたにも関わらずどこか嬉しげである。
 見た目よりは実用性ということだろうか。よく分からないが、朋香がそれで喜んでいるのならそれでいい。
 無事に二人揃ってからどこかに向けて歩き始めた。どこに?
「それで、どこに行くんだよ」
「うーん、どこに行こうか」
「どこってお前、決めてないのかよ」
「うん、これから決める」
「…………」
「和哉どこか行きたいところ無い?」
「そうだな、それじゃ――」

 駅から歩くこと五分くらいにある電気屋に来て僕達はうろうろと歩き回っていた。
 今日こそはと思い続けて、思いはするが実行に移せなかった目覚ましの買い替えを実行しに来たのである。
 今は時計の置いてある場所を捜索中。
「あ、あったよ」
 フロアの端のほうに並べられている時計を二人で吟味していく。
 最近の目覚まし時計っていうのはかなりの種類があるのだなと関心してしまった。
 キャラクター物や、近未来をイメージした形のデジタル時計や、古すぎるだろというようなアナログ時計まで様々なものがズラリと並んでいた。
 別に朝に不快なく起きられれば問題はないのだけどキャラクター物は嫌だ。今使用しているのがそうであるように、試しに一つ手にとって目覚ましを鳴らしてみる。すかしたジェントルマンのような、しかしどう見てもピノキオがスーツを着ているようにしか見えない時計。ユニークというよりも奇妙なそれの針を回してやる。
『やぁ、朝だよ。今日もなんて清清しい朝なんだ。こんな日に起きないなんてあなたはなんておろプッ――』
 条件反射的な勢いで切った。
 こんな起こされかたをしたら今以上のストレスを感じて朝を迎えるに違いない。予想を通り越して確信に近いものが僕の中にあった。これは駄目だ。
「すごい起こし方だね」
 朋香も大体同じようなことを思ったのか苦笑いを浮かべてそれを見ていた。
「大体予想はしてたけどな」
 キャラ物はおそらく全滅だろう。青い耳無し自称猫型機械や黒い角の生えた原子君が買ってほしそうな眼差しを向けてくるが無視だ。
 それからいくつか時計を手にとっては鳴らしてみる。どれも相手を起こそうと必死になってアラームを鳴らすのだが、どれも音量が大きすぎて僕には合わなかった。
 寝ている相手を起こすのだから音が大きいのは当たり前のような気もするが、いきなりの爆音が耳元で聞こえてくるのを想像すると苦悶の表情を浮かべている僕が手に取るように見えた。
「これなんていいんじゃない?」
 僕が昭和時代にありそうな古時計型の物を見ていると朋香がデジタルの時計を手にして言った。
「ほら、音も他のより小さめだし表示も大きいし値段も普通だし」
 昭和のそれを棚に戻して朋香の持つ時計を受け取って手の中で回してみる。
 半円型のボディに大きなディスプレイ。サイズは丁度手の平くらいで、アラームを鳴らしてみると他の物よりも随分控えめなピピピという音が聞こえた。
 音量は小さいが、朝目覚めるには十分だろう。
「これでいいか」
 特に迷うこともなくレジに持っていき代金を支払って、綺麗な箱に詰められた時計を渡された。
 白いレジ袋を片手に店を出て、「次はどこに行こうか」と相変わらず笑顔な朋香が言った。僕も念願の新しい時計を手に入れてもう用事はないのだけど。
 ん? あぁ、今出来た。どうして早く気づかなかったんだろ。まず集まってから向かわなければいけないところがあったのに。
 すぐに気づけなかったことを反省しつつそれを口にする。
「飯だな」
 家を出た時間がまだ十二時になっていなかったこともあって家では昼食を食べていない。
 電気屋から出て昨日訪れたデパートへ向かう。くだらない雑談を言い合いながら歩くと歩いている時間がすごく短く感じられた。
 中に入るとやはり色々なものが混ざった匂いがしたが、すぐに目当ての喫茶店へ向かったのでそれはコーヒーの匂いに塗り替えられる。
 昨日と同じウエイトレスが同じ営業スマイルで迎えて店内を案内してくれた。それほど大きくも無い店内には昼時にも関わらず人がちらほらと居る程度で意外と静かだった。
 天井に取り付けられたスピーカーからはゆっくりとしたBGMが流れている。
 ここに来るまでにも飲食店は多々とあるのだが、朋香がここが良いと言うのでここになった。
「何でここが良かったんだ?」
 と歩いている間に尋ねてみると、
「パフェが美味しかったから」
 と当然のように帰ってきた。よほど気に入ったらしい。
 注文をとりに来たウエイトレスに僕がオムライスで朋香がピラフ、後二人で例のストロベリーパフェを頼んだ。
 かしこまりましたとウエイトレスが下がってからも雑談は続く。
「そういえば和哉この前貸してあげた本読んだ?」
「え、あー、おう、なんとかな」
「どう? 面白かった?」
「あ、あぁなかなか良かったぜ」
「ふーん、どのへんが良かった?」
「あぁー、えぇー、うぅー、ま、魔法使いとかが出てきたところ辺りかな」
「そうだよね、それがいいよねー」
「だ、だろ? かっこいいよなあいつ」
「でもね、あれノンファンタジーな本でね、魔法使いとか出て来ないんだけど、和哉は何を読んだのかな?」
「…………」
「…………」
「…………お、飯来た。ほら食おうぜ。うまそうだな、うん」
 帰ってから借りた本を読もうと誓うのだった。
 やってきたオムライスは綺麗にタマゴで包まれていて、ピラフは色とりどりで美味しそうだ。
 顔は笑っている朋香が笑ってない目で見てくるがしかたがないだろう? 小説を読むのは苦手なんだ。活字ばっかり読んでると眠くなってくるし。
 そういえば中学の頃に一度読んだことがあるがあれは――
「なぁ、優が小説書いてるのって知ってるか?」
「うん、知ってるよ。見たことはないけど」
 スプーンでピラフをすくいながら熱々のそれを冷ましていた朋香が不思議そうに「どうしたの?」と訊いてきた。
「前にあいつの書いてる奴読ませてもらったことがあるんだけどさ、すげえ読みやすくてよかったよ。ああいうところにも才能があるんだなって思わされたね」
「へー、私も読んでみたいな」
「頼めば見せてもらえるだろ」
「どうかな、そういうのってすごく恥ずかしいじゃん」
 優の書いた小説を読んだのはもう随分と前のことで内容もよく覚えていないけれど、僕でも読めるくらい読みやすい文章だったのは確かだ。
 内容は確かロボットと女の子の話。その女の子は大人しめで何を考えてるかよく分からないのだけど、ロボットを色々と振り回すといった内容だった気がする。多分。記憶が古くてかなりあやふやだけど。
 オムライスを頬張りながら内容をもっと思い出そうとするが、思い出せない。
「そういうのを書けるのっていいなぁ」
 ピラフをもぐもぐと食べ、しっかりと飲み込んでから朋香が言った。
「お前もそういうの書けるんじゃないのか? 本とかよく読んでるし」
「私は読む専門なの。書くのと読むのは全然違うんだよ」
 どうやらそういうものらしい。まぁ絵を描くのと見るのは全然違うもんな。多分そういうことだろう。
 たわいのない会話はしばらく続いて二人の皿が空になった頃にパフェが届いた。
 昨日も見たが朋香は、それはそれは幸せそうな笑顔で食べていく。それがあまりにも美味しそうなので僕もそれを食べ始める。確かにこれはうまい。イチゴとかクリームとかソースのバランスが絶妙で、これなら朋香が気に入るのも分からなくもない。毎日でも食べたいような、そんな味だった。
 少し遅い昼食も終えて、短い間再びくだらない雑談をしてから店を出て、そして話はどこへ行こうかという話題に戻る。


 結局のところ僕達はどこにも行かなかった。
 お互いにどこへ行く予定もまったくないので、デパートの中をうろうろと歩くことになった。
 まぁ外は寒いし、あても無いからどれだけ歩くか分からないし、中は暖かいし。
 まずは四階の百円ショップから順にケータイショップ、靴屋、それから三階に下りて本屋、洋服屋、二階の家具売り場、ゲーム売り場、は大きい何かが見えたので無視して一階へ行くことにする。
 二階と一階のエスカレーターの間で朋香が「そろそろ出よっか」と言った。
 携帯を取り出して時間を見てみるともう午後六時を軽く回っていて、用事も無いデパートで何やってたんだと笑えてしまうが、どこに行くにしても朋香はずっとニコニコと楽しそうに笑っていて、それを見ていると僕も楽しかった。
「もういいのか?」
「うん、他に行きたいとこある?」
「いや、ないけど」
 日はすっかり落ちている頃だ。今の朋香は黒いコートで見えにくいから気をつけなきゃな、とかそんなことを思いながら出口のドアへ歩いていくとまぶしい光が飛び込んできた。
「わぁ」
 朋香も思わず声を上げてしまうほど綺麗なイルミネーションがそこにはあった。
 道路沿いに並んでいる木々や、建物の壁などに張り巡らされている電球がこれでもかというほど七色に光り輝いていて、僕達がデパートに入ったときには無かったトナカイをかたどった置物やサンタの人形まどが電球と共に光っていた。
 それは芸術と呼んでも差し支えないほどの美しい光景だった。
 デパートから出てきた人、あるいは街中を歩いていた人が脚を止めて見入ってしまうほどの世界。
 見たこともないような景色がそこには存在していた。
「ねえ和哉」
 魅入っている僕の袖を引っ張って朋香が僕を呼んだ。「ん?」と間抜けな声と一緒に目をやると朋香は小さな箱を僕に差し出していた。
「メリークリスマス」
 そうか、と一人納得した。そういえば今日はイブじゃないか、と。だから朝からそわそわしていたのか。おそらくはこのイルミネーションのことも知っていたのだろう。いっつも新聞とかチラシとか見てるしな。
それが分かってから今日一日を振り返ると急に胸がどきどきしてきた。何慌ててるんだよ、別にいつもどおり過ごしただけじゃないか。落ち着け。スーハースーハー。
「何してんの?」
「いや別に」
「早く取ってくれないと腕疲れるんだけど」
「あぁ悪い」
 その声に焦りの色が出ていないことを確認して小さな箱を受け取った。丁寧に包装されてリボンまでついている。
 笑顔で開けてみてという静かな言葉に押されて包装を開いていくと中から白色の箱が出てきた。一度朋香を見てからその箱を開けてみると中には十字架のネックレスが入っていた。
 これはあれか。いわゆるクリスマスプレゼントというやつか。
 相変わらず朋香は僕の反応に期待を寄せているらしくニコニコと微笑んでいる。昼間の反省を生かして「ありがとう」と言うと朋香は恥ずかしそうに、
「あはは、やっぱり恥ずかしいねこういうの」
 僕から顔を背けてイルミネーションのほうへと視線を戻した。
 さて、困った。
 僕はというと何の用意もしていないわけで、ということは渡すものなんて何も無いわけで。
 ――――はぁ。
 景色はこんなに綺麗で、心はこんなに嬉しいのに溜息が漏れた。呼吸の一部くらいの本当に小さな溜息だったのですぐ隣の朋香も気づいていないようだ。
 何か無いか。ポケットに手を突っ込んで色々と探してみるが、カイロとティッシュくらいしか見つからなかった。しかも両方開封済みである。
 その途中で手に持っているものに気づいた。昼からぶら下がっている右手の袋。
 あぁもうこれでいいや。
 家に帰ってから何かを渡すというのも考えたけど、今渡すのと帰ってからするのとでは少し違う気がした。
「……これ」
 右手を朋香に突き出すと、予想はしていたが案の定彼女は「何?」といったポカンとした表情をした。
「それって自分に買ったやつでしょ?」
「いいよ、あげる。俺何も準備してなかったしな」
「でも、悪いよ。お返しとか全然気にしないからさ」
 両手をぶんぶんと胸の前で振って拒否されるが、僕にだってプライドってものが(多分)まだある。
「いいって、貰っとけよ」
「…………」
 固まられても困るんだが。
「早く取ってくれないと腕疲れるんだけど?」
「……うん」
 自分たちで選んだ時計。それも半ば朋香が自分で選んだようなものだ。それなのに彼女はそれを見つめて大事そうに抱きかかえた。綺麗な笑顔と一緒に。 
 それだけで世界はこの笑顔のために存在しているような気さえした。傲慢だってかまうもんか。世界の価値はこの笑顔にあるんだ。
「これ貰ったらまた時計お預けだね」
「しばらくは今のままか……まぁ我慢するよ」
「私の時計貸してあげようか?」
「いらねえよあんな恥ずかしいやつ」
「む、小さくて可愛いのに」
 こんな会話でさえ確かな幸せを感じることができた。
「雪でも降ったらいいのにな、ホワイトクリスマスとか良いじゃん」
「京都でもうクリスマスに雪は降らないだろ」
「そんなのわかんないよ、朝に時々降ったりするし」
「でもまぁ、そんなうまくはいかないって」
「和哉は夢が無いなぁ」
「現実的と言ってくれ」
 そんなことを言い合いながら家に向かって歩く。朋香は家に着くまでずっと時計を大事そうに抱きしめていたし、僕はずっとどきどきしっぱなしだった。



 旅行先で優が居なくなったという知らせを聞いたのは、翌日の早朝だった。

間章 幸せの裏側

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 そんなことはもう随分前から分かっていたことだ。
 分かっているつもりだった。理解したはずだった。
 それなのに俺はその衝動を押さえつけることが出来なかったんだ。
 あるいは、もう限界だったのかもしれない。
 このくだらないセカイが。
 だから俺はそのセカイから抜け出したかったのかもしれない。
 だってそうだろ?
 このセカイはあまりにも、
 くだらない。


「大丈夫?」
 心配そうな目で俺を見つめるその目は、ひどく儚いように見えた。
 大丈夫だよと少女の頭をそっと撫でると、彼女はくすぐったそうに片目を瞑った。
 その栗色のさらさらした髪があまりに心地よくて思わず撫ですぎてしまうが、それでも彼女は拒むことなく受け入れてくれる。
「皆元気かな?」
 撫でるのを止めて再びシートに体を預けると安物のシートがギィと唸った。
「そりゃまぁ元気だろうな」
 自信たっぷりにそう言ったのが不思議だったのか彼女は首を傾けて「どうして分かるの?」と尋ねてきた。
「だってほら、馬鹿から元気取ったら何も残らないだろ」
「あはは、言いすぎだよ」
「んなことないって」
 綺麗に笑う彼女を見ていると落ち着く。それだけでこのセカイにも希望が見えるような気がした。
 四人掛けのクロスシートの前を通った男が怪訝そうな顔で俺を見た後、気持ち悪そうにその場を去って行く。
 それはこのセカイに俺を引き戻してくるのに十分な威力をもっていた。
 幸いその男の姿は通路側に座っていた彼女には見えていなかったようだ。
「楽しみ?」
「あぁ、でも――」
「平気」
 曇る俺の表情を和らげるように、その口調はしっかりしていた。
「…………」
「本当に、大丈夫だから」
 がたごとと不規則にゆれる電車の中で、彼女はもう一度言った。大丈夫だと。
 途中で何人もの人が俺を見てその場を去っていった。
 それはおそらく、大量の荷物で向かいの席を埋めているだからだとか、暖房が効いているのに帽子もコートも脱がないからだとか、そんなものではない。
 一人で話していることが問題なのだ。

間章 幸せの裏側

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 隣に座る少女――如月みつきが俺にしか見えていないということに気づいたのは小学校に入りたての頃という随分昔のことだ。
 幼稚園までみつきと仲良くしていた子が急にみつきを無視し始めた。
 初めは単にその子達がみつきのことを嫌いになったのだろうとか、その程度にしか思って居なかったが、ある日みつきがその子達の一人におはようと言っても無視されたとき、俺がその子を捕まえてどうして無視するんだと訊いてやった。
 すると返ってきた答えは、
「そんな子は見ていない」
 たちの悪い冗談か何かに思えた。むしろそうだと思いたかったのかもしれない。
 小学校の、しかも低学年という幼さにも関わらず目の前が真っ暗になったような気がした。それは今でもよく覚えている。
 今思えば無視の範疇では言い表せないことも多くあった。
 まるでみつきがそこに居ないかのように。
 家が近くていつも一緒に遊んでいた菊池和哉でさえ見ていないと言う。
 それを聞いた時に絶望や、それに近いものに胸をつぶされそうになった。まだ六歳や七歳の頃の話だ。
 どうして俺にしか見えなくなってしまったのかとか、これからみつきと遊んだことを誰に言おうとか、そんなことは一切思わなかった。
 ただ思ったことはみつきの傍にずっと居ようという子供のようなことだった。当時まだ小学校低学年だったことを思えば子供のようなことではなく子供のことなのだが。
 まず訊けばみつきには帰る家がないということを知った。今までどうしていたのかと訊くとずっと幼稚園の講堂の隅に座っていたと言う。今でも想像すれは恐ろしいほどの孤独に殺されそうになる。暗い部屋に一人。俺なら間違いなく泣き喚いていたことだろう。
 だから俺は一緒に帰ろうと手を引いてみると、いいのと恐る恐る尋ねるみつきに大丈夫だよと胸を張った。
 思っていた通りに事は進み、親ですらみつきが見えないのだから俺が普段どおりにしていればばれることも怪しまれることも無かった。
 みつきは僕が学校へ行く時は一緒に学校へ行って、家に帰ると自分の部屋でずっとおしゃべりをしていた。学校では俺の横に座って一緒に勉強をしていたりした。椅子に半分しか座っていないものだから、みつきの見えない教師は「和泉君どうしたの、ちゃんと座りなさい」と言うのだけど、そんなものは無視してやった。本当のことを言っても何も分かってもらえないなんていうことはとっくに理解していたらしい。
 和哉と俺、それとみつきが並んで下校したりするときに決まって彼女は笑っていた。
 俺が和哉に「みつきを覚えてないか」と訊くと彼はあーとかうーとかいう声を出しながら「悪い、覚えてないや」と申し訳なさそうに言うのだ。
 家に帰ってからはずっと部屋で先生がどうだった、遊びがこうだった、ウサギがああだったと二人で話続けていた。
 時々母が部屋に入ってくるのだけど、そのときは静かに勉強している振りをした。そのたびにみつきはどこか悲しそうな顔をして、それを見ると俺も悲しくなった。
 母は「よく頑張ってるね」と頭を撫でてくれるのだけれども、少しも嬉しくなかった。
 本当のことを言っても分かってもらえない悲しさ、誰にも理解されない悔しさ、そんなものが混ざり合っていた。
 中学年になるころには一河朋香とも仲良くなった。しかし彼女にもみつきは見えていない。俺が四人で話していても、彼女達には三人しか見えてはいないのだ。
 次第にそんな関係にも慣れ始め、うまく立ち回り、綺麗な言葉を使ってみつきのこともごまかせるようになった。
 そんな感じに時間は進んでいって今に至る。
 電車は目的の駅に到着し、馬鹿みたいに口を開けて俺が出るのを待っている。
「それじゃ行こっか」
 手を後ろに組んで踊るようにホームへ降り立つ彼女を追って、俺も荷物を持って電車を降りた。
 時間は昼の十二時四十三分。約束の時間までまだ十七分もある。荷物持ちを頼んだ人達はまだ駅には居ないようだ。
 彼を待つ間ずっと外で待機するのは勘弁だったので、荷物は人気の無い駅の端っこの暗がりでよく見えないような場所に丸太のような巨大な鞄を二つ端に置いて、
「それじゃ時間まで店にでも入ってるか」
「うん」
 駅前にあるドーナツ店にした。ここの窓側の席なら待ち合わせ場所が見れるし和哉達が着てもすぐに確認できる。
 ネックウォーマーを外しつつ店に入るとすぐに店員が「いらっしゃいませ、お一人ですか?」と確認する。慣れたつもりではいたのだが、やはりそういう言葉を聞くと「いいえ、二人です」と言いたくなるのを胸に押さえつけてそれにうなずく。
 内側の席に案内されそうになるのを断って窓側でも良いかと訊くと、店員は快く良いですよと言ってくれた。
 席についてからコーヒーを一つ頼む。
「もう冬だね、すごく風が冷たい」
「あぁ、そうだな」
「風邪とか引かないようにしないとね」
 冬休みに入ってからの空はすっかり冬らしい天気になった。分厚い雲や頼りない太陽がもう冬なのだと告げている。
 風が並木を揺らすたびに歩行者が寒そうに身を丸くして歩いていく姿はいかにも冬らしい。
 届いたコーヒーの三口目を飲んだところで見知った二つの人影が見えた。和哉と朋香だ。
 約束の場所に約束の時間通りやってきた彼らを確認してよく遅刻しなかったなと関心した。しっかりした朋香はともかくあの和哉が遅刻をしないなんて夢のようだ。
 そんな失礼なことを頭の端に思いつつコーヒーを飲み干して店を出ようとした
 が、和哉が朋香に何かを言って怒られているのが見えたので、そのペコペコというかヘナヘナした和哉が面白くてしばらく見物することにする。
「行かなくていいの?」
 不思議そうにみつきが言うが、
「もうちょっと二人で居させてあげようか」
 そういうとみつきは少し悩んで、何かに納得したのかうんと首を縦に振って一緒に二人を眺めていた。
 和哉が尋常じゃないくらい震えてる。何か喋っているみたいだけど唇が震えすぎててまったく読めない。朋香の持ってるココアくれみたいな感じか? あ、朋香がなんか言ってる。和哉がよくわからんが泣きそうだ。しかたがない、そろそろ行ってやるか。
 見ていて楽しいが和哉が泣きそうな顔をしていたので少し気の毒になって行ってやることにした。
 残っていたコーヒーを飲み干し席を立ち会計を済ませてから店を出て、いつもと同じように、気づかれないように和哉の後ろへ回り込み、
「いーっよう!」
 思いっきり乗っかってやった。
 和哉がちょっとこけそうになって共に倒れそうになったが、何とか持ちこたえてくれた。
「重いっつうの、何で後ろから出て来るんだよ」
 乗りかかった俺を振り払った和哉が怪訝そうな顔でこっちを向くがそれも十分に予想の範囲内だ。
「実は少し前から着いてたんだけど、ほら、遠目でもお前が震えてるのがすげえ見えるから面白くてずっと見てた。あそこの中から」
 俺がさっきまで居たドーナツ店を指差すと和哉はしばらく固まって動かなくなった。
 寒さのせいか少し震えているが、多分大丈夫だろう。
「朋香も久しぶり!」
 赤と白のニット帽を被った朋香にニッと笑ってやる。朋香もニッと笑い返して、
「うん、久しぶり。元気そうだね」
「元気じゃないときがあったか?」
「そういえば無いよね」
 お互いに笑いあったりして、みつきもそれにあわせて笑顔になった。 
 その間ずっと和哉はしょんぼりした顔をして俺を見ていた。
「おいおい、せっかく帰ってきたのに元気だせって」
「…………」
 ははは、これは重症だな。
「ほら、土産やるから」
「え、まじで」
 途端に和哉は元気になって目が光った。現金なやつ。
 もぞもぞとポケットのなかに手を突っ込んで今回の土産をほらよと放り投げてやると、和哉はうまく掴めないのか何度かバウンスさせてからそれを掴んだ。
「……なんだこれ?」
 渡された小瓶を見つめて和哉の頭の上にいろんなハテナが浮かんでいそうなくらい首をかしげてそれを見ている。
 まぁそうなるわな、俺も最初はそう思ったし。
 朋香にも同じ土産の小瓶を渡した後、
「なんか綺麗だから言われるがままに思わず買ってみた」
 と付け加えた。
 この土産の小瓶を選んだのはみつきだ。
 京都に帰ってくる前、土産屋で何を買おうかと選んでいる時にみつきがこれが綺麗と言うので買ってしまった。それも四つ。
 ダウンのポケットの中には後二つ残っている。俺と、みつきの分。
「すごく綺麗」
 朋香が小瓶を太陽光に当てて七色に光るそれを楽しんでいた。和哉からも「マジで綺麗だな」という呟きが聞き取れる。
 その感動したような口ぶりが嬉しかったのか、それとも隣でみつきが二人を見て幸せそうに笑っているのが嬉しかったのか、とにかく俺も嬉しくなった。
「はは、喜んでもらえてよかった」
 なんて言ってみたりもする。
 少しの間二人がそれをじっと眺めているのを眺めた後、突然思い出したかのように和哉が体を寒さにブルッと震わせた。
「それで、俺らは荷物持ちだろ。何でお前手ぶらなんだよ」
 そういえば荷物持ちとして呼んだんだっけ。あまりにも二人が嬉しそうに小瓶を眺めるから忘れかけていた。
「あぁ、荷物はね、あれ」
 先ほどドーナツ店を指差した要領で荷物の置いてある駅の端に指を向ける。かなり影になっていて荷物が見えるかどうか心配だったが、問題なく見えているらしい。予想通り二人の目が点になっていた。
「……すごい量だね……」
 朋香からそんな言葉が漏れるほどの大きさだ。自分で見てもどうしてこんなに肥大化したのか不思議でたまらない。
「すごいってレベルじゃねえぞ、あれは」
 和哉からもそんな言葉が飛び出してくる。
「やっぱり和哉君達驚いてるね」
 隣であははとみつきが笑うのを横目で見つつ、どうしてあんなに巨大になったのかと考えてみることにする。
 確か衣類とかを鞄に突っ込んでいるときはまだ普通のサイズだったはずだ。それでその後に読まなくなった本を押し込めて、そうか、寮の本棚に収まりきらなくなったから読まなくなった本を持って帰ろうと鞄に詰めている間にあんな丸太になってしまったのか。なるほどなるほど。
「まぁ向こうで色々買っているうちに……色々と……な?」
 何冊くらいの本が詰まっているのだろうか、四百や五百では全然利かないとは思う。あと本を守るために何重にもタオルとかでカバーしてるからその分も膨れてるというわけか。
 我ながら買いすぎたとは思う。自慢ではないが本を読む速度は早いし一日に十冊を読みきったりすることもある。しかも先輩や友人や学校の教師達からも色々と読まなくなった本を貰ったりするものだからあっという間に自室が本で埋まったりする。
 本の虫とは思いたくは無いが、それに近い存在であるのは認めよう。
「やっぱりもっと抑えなきゃ駄目だと思うな」
 普段おっとりしているみつきにも怒られる始末だ。今はそれに答える事は出来ないが。
 近くまで歩くと改めてその大きさを実感する。
「なぁ優。どう考えてもこれは朋香には持てないだろ」 
 和哉の発言にあわせてみつきも首を縦に振る。しかし流石にこの荷物を朋香に持たせるつもりもなく、その辺は考えてある。
「いやいやいや、でかいのを持つのは俺とお前で、朋香はこっち」
 二つの巨大鞄の横に置いた小物入れ用の普通サイズなバッグを引き上げて朋香に渡す。和哉が何か叩きのめされたような顔をしているが、どうしたんだろうか?
 何か白い顔をしているが、多分寒いせいだろう。
 だるまのように膨れ上がった鞄の一つを和哉に渡し、もう一つを担ぎ上げる。
 確かに重いがまだ持てる程度。だが和哉はそんなわけでもないようで必死にそれを持ち上げていた。
 しかしまぁ、その必死な表情を見るのも悪くはなかったので、そのまま放って帰宅することにした。


 家まで荷物をもって帰る途中で和哉が休憩を挟もうと弱音を吐いたので一度和哉の家に行くことになった。
 駅から菊池宅に行く間も随分苦しそうな顔をしていて、何度もみつきに「持ってあげたら?」と言われたけど放っておくことにした。
 みつきには分からないかもしれないが男っていうのは多少なりともプライドってやつがあるわけで、おそらくは和哉にもそれを持っているはず。だから手伝いはしなかった。それに女の前で弱いところを見せるのも嫌だろう?
 菊池宅に到着した後、荷物を持って中に入ろうとしたところ和哉に止められた。そのでかい荷物は玄関にでも置いておけば良いという。
 どちらかと言うと和哉がすぐにでも荷物を降ろしたかったのかもしれない、がそれは黙っておくことにした。
「ただいま」
 靴を脱いで和哉が玄関を上がって中へ入っていく。続いて朋香も「ただいまー」と中へ続いた。
 ただいま? 新手のギャグだろうかとも考えたが考えてみれば朋香も昔からこの家にはよく来ていて自分の家と変わらないくらい勝手が分かっているほどだからただいまでも問題が無いのか。
 大体そんなどうでもいいことを考えつつ「おじゃまします」と俺も続く。その後から「おじゃましまーす」とのんびりした声が玄関を通っていった。
 相変わらず広くはない廊下を歩いて階段を上り、いつものように和哉の部屋を向かう。
 家の造りの関係で一度二階のリビングを経由しなければいけない。
 だからまずはリビングに入ることになる。階段を上りきってリビングに出ると菊池家の三男、つまり和哉の弟がソファに寝転がってイヤホンの伸びる携帯をいじっていた。
 帰ってきた時のただいまとかおじゃましますとかの声には気づかなかったらしいが、流石にリビングに三人もの人間が入ってくるとすぐに気づいて、
「おお、優ちゃん! 久しぶり!」
 と元気そうな声をあげた。
「よっ、元気そうだな」
 俺も右手を上げてそれに答えてやる。彼と少し話してから和哉の部屋へ向かうため階段をのぼって部屋のドアを開け、
「うおおおお、四ヵ月ぶりに懐かしい!」
 というかけ声と共に思いっきりベッドへ我が身を放り投げる。着地と同時にベッドのスプリングがピシッとなるのを体で感じつつやりすぎたかと思ったが、和哉のだし良いかという結論に至った。まぁ本当は良くないのだが。
 昔俺の家がまだベッドではなかった頃に和哉の家に遊びに来てはベッドの上で飛び跳ねていたが、中学に入ってから我が家にもベッドが導入されたのでそれは終わったはず、だったのだけど。
 高校に入って寮生活が始まってからこっちに帰ってくる機会が少なくなって、それで懐かしさ余ってそんなことをしてみたりもするわけだ。本当になんとなく。意味は無い。なんとなく、だ。
「おいおい、頼むから壊すなよ」
 案の定和哉からそんな言葉が聞こえてくるが、
「だが断る」
 と一蹴してやった。
「断んな!」
「いやいや、他人のベッドが目の前にあったらまず全力でボディプレスするのは礼儀だろ?」
 自分でも言ってからそんな礼儀があるかと突っ込みを入れたくなったが、世界中のどこかにはそういう礼儀があるのかもしれないと何とか言い聞かせた。
 ベッドの上に倒れた体を起こして座る。和哉は勉強机の椅子に座って、朋香は元々準備されていたらしい座布団に座った。みつきが、ただ一人ドアの前で微笑みながら立っていた。何してんだ?
 久しぶりに来る和哉の部屋を色々と見ているのかもしれないが、そんなところで一人立っていられるとこっちが落ち着かない。
(こっち座れよ)
 ベッドをぽんぽんと叩いてみつきを見ると、彼女はすごく嬉しそうに「ありがとう」と言いながら隣に座った。
 これ位なら自然だろう、そう思ってはいたのだがやはりどこか不自然だったのか和哉が「どうした?」と首をかしげた。
「いや、ゴミを見つけた」
 ありふれた嘘にも関わらず彼は納得したのか追及はしてこなかった。追求されたところで理解はされないのだけれども。
 相変わらずみつきは部屋をキョロキョロと見渡して、その目が部屋の中に乱雑に置かれた漫画を追っていることに気づいた。
「前に来た時も和哉君の部屋漫画ばっかりだったよね」
 暖かな笑顔でみつきが言ったことに俺も同意する。
「それにしてもお前の部屋漫画ばっかだな」
「あ、それ私も思った」
 朋香も同じことを思っていたようだ。三人が同じことを思えるくらい、その部屋は漫画ばかり。
「ほとんど借り物だけどな」
 僅かに自嘲を含んだ顔で和哉がマフラーを外しながら答えた。
「そういえば向こうの学校って髪染めるの違反だとか言ってなかったか?」
 俺の通う学校では髪の染色は違反だ。だから普段はしっかりと黒なのだが、帰郷するたびに色を入れるのに理由はある。
「あぁ、まぁ気晴らし程度にな。戻る時にはまた黒に直すつもり」
 もちろん理由なんて言ったところで分かってもらえないのは分かっているので言うつもりも無い。ただほんの少し、滓みたいな希望を持っていただけだ。
「でも染め替え続けると髪の毛溶けるとかって聞いたよ」
 朋香からの予期せぬジャブが飛んできた。
「げ、まじで?」
 うんうんと朋香が縦に首を振るものだから少し焦った。
 溶けるのか俺の髪の毛。溶けるってことはつまりあれだよな、ハゲ一直線ってことだよな。それは困る。
「やっぱり私も黒のままがいいな、それにほら、優君の格好でその髪色ってすごく目立つもん」
 みつきまでそんなことを言ってくる。でもな、戻すって事はもう一度染めるってことだぞ、ってことはまた一歩ハゲ道を進むってことなわけで、
「よし、このまま帰ろう」
「いや黒に戻せよ」
 せっかくの決断も和哉に遮られてしまった。仕方がない。次からは髪の毛に優しい染色剤を使おう。心の中でそう言っておいた。
「それでねー、聞いてよー」
 何がそれで、なのかよく分からないが急に朋香がさっきとは違う、一瞬聞いただけでは聞き逃してしまいそうな、どこか硬い声で口を開いた。
「実は私、和哉の家に居候することになったようなんだよ」
 何だその喋り方は、なんて思う前にまず出てきた言葉は、
「……は?」
 だった。頭が何を言われたのかよく理解していない。
「どゆこと?」
 多分相当馬鹿な顔をしていたと思う。横ではみつきが普段よりも幾分真面目な顔で朋香を見つめていた。
「それがね、ひどいんだよ、うちの親がさ――」
 それから朋香は話し始めた。俺が居ない間にあったことを。朋香が父親に殺されそうになったり、母親が死に掛けたりしたこと。
 朋香の声は明るくて、表情は笑っているのだけど、彼女の性格は理解しているつもりだ。きっと話している以上に辛いかったに違いない。
 みつきも似合わない真面目な顔でそれを聞いて、気づけば俺もそれに近い表情になっていた。
 笑って話すようなことではない。どこかで一つ違えば朋香は死にかねていたのに。
 ふと死という言葉が頭を埋め尽くした。
 俺の家族は生きているし、祖父祖母もまだ皆生きている。死なんて本やテレビの中のことだと思っていた。
 それでも彼女の言葉には俺が死をイメージさせるには十分であったし、おおよそ朋香の持っている死はそんなのとは比べ物にならないものであることが理解できた。
 何でそんなことが笑って言えるんだよ。死にかけたんだぞ。
「――とまぁ、そういうことがあって私は菊池家の居候になったわけですよ」
 話が終わった。笑顔のまま。
 何か、何かを言わなければいけない。そんな思いとは逆に、口からは何も出てこなかった。
 沈黙は続く。流れる空気がひどくまずかった。
 その静けさを破ったのはみつきの言葉。
「朋香ちゃん、よく頑張ったね。生きていて良かった。本当に。ありがとう」
 それは二人には届かない言葉だったが、ただ一人俺だけが聞こえていた。
 女ってさ、すげぇ強い生き物だよな。そんなことを思った。
 俺だったらさそんなこと思いもつかねえよ。馬鹿みたいにポカンとしてるばっかりだしさ。朋香が話してるときの和哉はどうだった? ほんと馬鹿みたいな顔してただろ。多分みつきが居なかったら俺もそんな顔してたんだぜ。情けねえ。
 目を閉じて自分にそう言い聞かせながら小さく息を吐いた。
 みつきの言葉は二人には届いていない。だから俺が届けてやるしかなかった。
「よく頑張ったな、ありがとう」
 言った後で、どうしてそんな言葉も一人じゃ言えないんだろうなと恥ずかしくなる。
「そ、そうなんだよ、本当にもう大変だったんだから」
 体の前で手を曖昧に振って朋香は変わらず元気な声だった。ただ、目の端に涙を浮かべて。
「あれ? あれ? あはは、あははは、ちょっと私お茶入れて、くる、ね」
 自分でも不思議に思えるほどの涙と一緒に朋香は部屋を飛び出して行った。言葉の語尾がゆれていたのは、気持ちを抑え切れなかったのだろう。
 再び訪れた沈黙は重たくて、気を抜けば吐き気まで引き起こしそうな空間だった。
 朋香が出て行ってから、和哉はまるで生気を吸い取られたような顔をしていた。
「なぁ」
 弱弱しい、外の風鳴りにだって負けそうな声で和哉が話を切り出した。
「ん?」
「ありがとう、ってなんだ?」
 みつきのありがとう、俺のありがとう。その意味が同じかどうかは分からないが、確信に似た何かを感じていた。
 だから今度は自分の言葉で、はっきりと言う。
「……大切な人が居なくなるかもしれなかったんだ、朋香はよく頑張ったよ。お前もな」
「……あぁ」
 力なくうなずく和哉がひどく小さく見えた。
「あいつが居なくなったら俺は悲しいし、でもそうはならなかっただろ。だからありがとう、だ。おーけー?」
 途中で朋香が部屋のドアを開けたのに気づいて調子を戻した。あるいは俺自身がその雰囲気から逃げ出したかったのかもしれない。
「お茶とお菓子持ってきたよー」
「おー、クッキーじゃん、もらいっ」
 いつもの自分を思い出しつつ、その場の暗い空気を払おうとした。
「こぼさないでよ、どうせ和哉は掃除しないんだし」
 朋香の声にはもういつもの調子が戻っていたが、その目は赤いままだった。
 相変わらず和哉に生気らしいものは戻っていない。
 彼女も和哉に気づいたのか必死に声を出して、元気付けようとしていた。
「それでね、この前学校で――」

間章 幸せの裏側

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 それからしばらく明るく話していたが、一向に空気はまずいままだった。
 何を話していたのかもよく分からない。楽しすぎて忘れてしまったのではない。右から左へ次々抜けていってしまった感覚。
 時計が六時を指した頃に解散をして、今にも死にそうな顔をしている和哉が荷物を運ぶと言うので俺はそれを制した。
 小さなバッグを首にかけて、巨大な丸太を二つ肩にかける。
 朋香が首にかかったバッグだけでも持っていくと言ってくれたが、どう見ても和哉の状態がおかしいので傍に居てやってほしかった。だから朋香の申し入れも断って帰路についた。
 日が暮れるともうほとんど人なんて見当たらない。ここはそういう場所だ。街灯すらまともにないこの町の夜はひどく静かで、闇が満ちていた。
「優君、大丈夫?」
 並んで歩いているみつきが心配そうな顔をしていた。
「ん、なんで?」
「なんか、辛そうな顔してる」
 言われてから随分とまぶたが下がって、頬が落ちている事に気づいた。はは、そりゃそんな顔に見えるわな。
 慌てて首を振っていつもの顔に戻す。目も開けて頬も上げた。
「どう?」
 ニッと笑ってみつきを見てやると、まだ彼女は「ううん、辛そう」と繰り返した。
 おそらくは表情のことを言っているのではない。
 朋香からのあんな告白があった後だ。楽しい気持ちになるわけもない。加えてこの暗い静けさに満ちた道は、その思いを増幅させていた。
 そして、向かっている目的地がそれに拍車をかけている。
 帰ってきてた。このセカイに。
 和泉と書かれた表札の家にたどり着き、鍵を取り出してそのドアに差し込む。鍵穴は大げさな音を立ててドアを開いた。
 その音に気づいて中からぱたぱたという足音とともに人が飛び出してくる。母だ。
「おかえり優。いつもより遅かったのね」
 ソプラノトーンの声がひどく耳に残る。
「ただいま母さん」
 何度も何度も繰り返してきたセリフ。抑揚なく発せられたその言葉は実に機械的だった。
「和哉の家にお邪魔していました。遅くなってすいません」
 感情を殺しきったその言葉は冷え切っている。何かに気づいた母が眉間に皺を寄せて、
「優、その髪の毛どうしたの?」
「なんでもありません」
 あなたには関係ありませんから。そう続けようとして、何とか言葉を飲み込んだ。これも何度も繰り返してきたことだ。もう慣れている。
「何でも無いって、ちょっと優、待ちなさい」
 母の制止を振り切って中へ入っていく。みつきが申し訳なさそうな顔で母に頭を下げて俺の後を追う。
 リビングでは今年の仕事を終えた父がテレビの前のソファに座って新聞を広げていた。
 年末にはテニススクールの生徒も休みがちになってあまり人が集まらない。だから年末の早いうちにテニススクールは休校となる。
 世間よりも早めの連休に入った父が新聞を一枚めくり、俺の存在に気づいた。
「優か、おかえり」
「ただいま帰りました」
「ん? その髪はどうした?」
「…………なんでもありません」
 母の時と同じように答える。ただ声を出すという行為をして、すぐに二階にある自室へ向かった。やはりみつきは父に一度頭を下げてから後ろをついてきた。
 部屋のドアを開け、中に入り、みつきも入ったことを確認してそれを閉める。
 そのドアがこのセカイと俺を分ける唯一の壁だった。
 脆くて、簡単に壊れてしまう壁でも、それにすがるしかなかった。
 部屋の隅に荷物を投げて、自分の体はベッドの方へ放り投げる。
 丁寧に敷かれた毛布や布団がクッションになって、ベッドが悲鳴をあげることはなかった。
 倒れる俺の横にみつきが座る。
「……疲れた」
 肺一杯の空気を吐いてそう呟く。
「おつかれさま」
 綺麗な声で、みつきが微笑んでる気がした。顔は俺の顔が布団に埋まっているから見えない。
「ねぇ優君」
「どうした?」
「まだお母さん達のこと、嫌い?」
「…………嫌いなわけじゃない。すごく好きじゃないだけ」
 そう、嫌いではないはずだ。頭では分かっている。
 コンコンと部屋のドアがノックされた後、返事を待たずに母が部屋に入ってきた。
「何してるの優。電気くらいつけなさい」
 カチッという音がして部屋が明るくなった。
「すいません、母さん」
 顔を上げて母を見ると、やはり母は怪訝そうな顔で僕を見た後「もうすぐご飯だからね」と部屋を出て行った。ドアを開け放ったまま。俺とこのセカイを隔てていたはずの扉は、今は無力にその口を開けていた。
 だから好きじゃないっていうんだ。
 例えば返事を待たずに部屋に入ってくるところとか、頼んでもいないことをして良いことをしたつもりでいるとか、ドアを閉めないで出て行くとか。
 人から見ればそんな些細なことで何腹を立ててるんだと馬鹿にされるだろう。そんな事は分かっている。
 自分の心が異常に狭いだけじゃないのかと疑ったこともある。それでも、俺はそれが嫌だった。
 ベッドから降りて開いたままのドアを乱暴に閉めて再びベッドに体を預ける。
「お母さんも、相変わらずだね」
 みつきは笑顔でそう言うが、俺の心は暗いままだった。あるいはその笑顔は俺を元気付けるための笑顔だったのかもしれない。
「だから好きじゃないんだ」
 好きじゃない。もう一度言った。
「でもお母さんだってきっと優君が心配で、元気かなって様子を見にきたんだと思うよ」
「元気かどうか見に来て元気を奪って帰っていくなんて笑い話にもならないぞ」
「えっと、それは、えーと……」
 手をあごに当てながら首をひねって必死に考え込むその姿がおかしくて、みつきの髪をクシャクシャと撫でた。
「お前は別にそんなこと考えなくて良いから大丈夫。それより悪かったな」
「どうして優君が謝るの?」
 片目を閉じて上目遣いに尋ねてくる姿はとても愛らしく思えた。
「辛かっただろ」
「ううん、和哉君も朋香ちゃんも私が見えてないことは分かってるから、だから大丈夫」
 ふと昔の映像が頭をよぎる。まだ小学校に入って間もない、みつきが周りから見えなくなる頃。
 あの時のみつきは本当によく泣いていた。だれも私のことを見てくれないの、私なんか居ないみたいに、私きらわれちゃったのかな、ゆう君、ゆう君――――
 そう言いながら俺にしがみついて泣き続けるみつきを、俺はただ撫でてやることしか出来なかった。
 当時はまだ六歳だ。突然誰かが見えなくなるなんて思いもよらなかったから何か原因があるのだろうと思っていた。
 次第に周りの声を聞いて回るとそんな子は見ていないと真顔で言われるようになる。そこでようやくみつきが見えていないことに気づいた。
 それからいろいろ調べた。まず思いついたのは座敷童子の類ではないかと。隣でその資料本を見ている子が妖怪などとは信じたくはなかったが、普通で無い事は確かだ。だからとにかく見てみることにした。

 一般に座敷童子は悪戯好きで、旧家の座敷に住んでいる。

 パタン。
 その一文を読んで座敷童子説を否定する。みつきは悪戯好きなのではなく、むしろされてしまうくらい大人しい子だ。それに今まで居た園だってかなり新しく立てられたものである。一般的でなかったらどうなのかと今になっては思うが、当時は横でニコニコしている女の子を妖怪などではないと必死に思っていたのだろう。
 次に幽霊では無いかと思ったが、みつきには足もあるし、第一一緒に育って大きく成長している。幽霊であるにしては不自然すぎた。
 結局のところ何もわからないままずるずると時間は経って、今ではそういうものなのだという認識になった。
 みつきが何者だろうが関係はなく、みつきはみつきなのだと。
「そんな心配そうな顔しないで、本当に大丈夫だから」
 撫でたせいでくしゃくしゃになった髪の毛を手櫛で梳きながら、優しい笑顔でみつきはそう言った。
 その声があまりに健気で、思い切り抱きしめたくなった。ずっとこの手で掴んでいたい。
 かわりにもう一度その綺麗な栗色の髪の毛をクシャッと撫でてやる。
 片目を瞑った彼女の微笑みも俺は好きだった。
「ご飯できたわよー」
 その一声でこのセカイに引きずり戻される。
 リビングから響いた母の声は、緩みかけた口を自然と強く結ばせた。
「それじゃ行ってくる」
「うん、いってらっしゃい」
 冗談っぽく言うその声だけがこのセカイの救いだった。
 みつきは食事をしない。出来ないというほうが正しいかもしれないが、とにかくしない。
 腹は減らないのかと訊くと「うん、いつもお腹いっぱいなくらい」と帰ってきた。それは便利で良いな。この糞みたいなセカイに出てこなくていいのだから。そう言うとみつきに「そんなこと言っちゃだめだよ」と怒られるのだが、ほとんど本心だった。
 みつきを残して部屋を出る。階段を下りるところで同時に部屋を出てきたらしい弟の修に出くわした。
 修はまるで仇を見るような目で俺を憎悪に満ちた、死んだ魚のような目で睨んだあと、舌打ちをして階段を下りていった。
 まだ続いているのか、当然だよな。
 修は親の期待によって一日の大半を勉強に費やしている。長男である俺の成績がすこぶるよかったので、次男の修にかける思いも一際大きいらしい。父と母から教材を渡されては「お兄ちゃんを見習いなさい」とまるで呪文のように言われているのを聞いたことがある。その度に修は素直にうなずくのだが、修はまだ中学一年だ。まだまだ遊びたい時期にも関わらず、親の期待とそのプレッシャーに日々押し潰されそうになっている。
 オマエノセイデ……オマエガイルカラ……
 その目からはそんな言葉が聞こえてきそうだった。
 しかし両親は修がそんな目をしていることを知らない。自分たちはただ修のためを言っているのだと思っているから。
 階段を下りるとテーブルの上には平べったい電気プレートと、その横には野菜や牛肉が並べてあった。
 あぁ、焼肉、か。
 和泉家では些細なことでも特別な何かがある度にこうして電子プレートがテーブルの上に置かれる。今日はさしずめ俺の帰宅祝いといったところだろう。
 焼肉は嫌いではない。むしろ好きなくらいだ。しかしこの家で食べる焼肉は好きにはなれなかった。
 焼肉ということは当然肉を焼くわけだが、それには数秒、あるいは数分の時間が必要なわけだ。それはつまり俺がこのセカイを逃げ出せない時間でもある。
 既製品を並べてくれるほうがずっと楽なのに。
 テレビの前のソファに座って新聞を読んでいた父もプレートの置いてあるテーブルの椅子に移って、すでに肉を並べ始めていた。
 修も父の前に座って箸を取って肉や野菜を並べ始める。
 僕と母の席だけが空席となっている。
 母は先に洗濯物を干してくると言って洗濯物を持って二階のベランダへ歩いていった。いつもどおりの光景。
 いつも母は食事を始める時に席には居ない。食事の終盤、もしくは終わった頃に戻ってきて一人で食べ始める。
 灰色の匂いと共に。
 比較的臭いに敏感らしい俺の鼻はベランダから戻ってきた母に染み付いた臭いに気づいてしまった。
 タバコだ。
 父も修もその臭いには気づいていない。ただ僕だけがそれに気づいている。
 元々タバコなんて吸わない家族だから誰も吸っているとは思わない。それは普段から父が俺や修に口すっぱく「タバコは駄目だ」と言っていたからだ。
 それでも母がタバコを吸い始めたのは、何か抑えきれないストレスをタバコに溶かしているのだろうと考えていた。
 初めは家事ことで問題があるのかと思っていた。父は家事なんてほとんどやらないし、修は勉強漬けだ。だから少し前に俺が家事を手伝ったりしたのだが、一向にタバコは止まなかった。原因もわからないまま、その問題は放置されている。
 今もきっとベランダの月の無い雲の下でもくもくとふかしているのだろう。
 父の隣に座って小さくいただきますと呟いてから箸を手にとって焼き始める。
 隣では父がもう焼けた肉を頬張っていた。
 これも嫌だ。父はだらしなく口を開けたまま物を食べる。その度にくちゃくちゃと汚い音を出して周りに不快を与えている。もしかすると母はこれからも逃げているのかもしれない。
 昔父にそのことを注意すると「別に良いだろう、好きなように食わせてくれ」と逆に怒られてしまった。小学校三年の頃だ。
 それからも何度か言っていたのだが、その度に父は同じ言葉を繰り返し、やめる気配はなかった。
 もう諦めた。疲れてしまったのだろう。そんな音が耳の端で響きながら焼けた肉を取って食べる。父とは対照に静かに咀嚼を繰り返す。
 テレビは何か賑やかなバラエティ番組がやっている。出演者と一緒にスタッフの笑い声まで聞こえるようなやつだ。
 テレビを見ているときだけは修の顔は笑顔になって、一日の少ない娯楽がここにあるということが見て取れた。
 勉強という暗い海の中で、このひと時だけはそこに光が灯されているような気がした。
 しかし、そこにも父の手が加わることがある。父はそんな賑やかというより騒がしい番組が好きではない。ニュース番組などを見ているほうが好きな人だ。
 だから今日もテーブルの上に置かれたリモコンに手を伸ばしてボタンを押した。チャンネルは何かのニュース番組に変わり、修の顔も笑顔ではなくなった。
『本日午後六時十五分ごろ、十六歳の少女が突然線路に飛び出すという事件がありました。自殺ではないかと思われます。幸い少女は近くに居た男性に助けられかすり傷程度で済んだということですが、警察ではこの事件の――』
 暗い内容のニュースが流れている。電子プレートの前にもそんな雰囲気が漂っているが、それは決してニュースの内容のせいではなかった。
 例の目に戻った修は、今度はテレビを睨みつけながら物を食べていた。決して父を見ようとはしない。
 これも以前からあったことだ。だからもう何も言わない。言ったところで父がチャンネルを戻すような事はしないだろう。
 修は両親に逆らえない。畏怖や恐怖といったものが彼を縛り付けているのだ。
 その憎悪の矛先が、俺である。
 俺にそういった思いをぶつけることで理性を保っている。もし俺がその矛先を潰すようなことをすれば、修は簡単に壊れてしまうだろう。
 だから何もしない。俺を恨んだところで何も変わらないことを修も分かっている。だから何も言ってこない。
 そろそろ並んだ肉や野菜が無くなりかけた頃、母が戻ってきた。ねばっこい、どろどろとした臭いと共に。
 焼肉ということもあって、その臭いはほとんど消されかかっていたが、臭いのあることを知っている俺はほとんど意識的にその臭いを嗅いでいたのかもしれない。
 鼻につく灰色の臭い。肺が悲鳴をあげる。喉の奥がじりじりと痛んだ。
「ごちそうさま」
 手を合わせて箸を置く。同時に「あら、まだお肉はあるのに、もういいの?」と母が部屋に戻ろうとする俺を呼び止めたが、それを無視して席を立った。同時に修も席を立って階段をのぼっていく。
 修の顔は今まで見たことがないほど生気がなく、目の下には大きな隈を作っていた。薄暗い廊下では気づかなかったが、まさか徹夜で勉強をしているのか?
 死にそうな顔で階段をのぼる修の後に続いて俺も二階へあがった。
 セカイを隔てる壁の中に入るとみつきがベッドに腰掛けて俺を迎えてくれた。
「おかえり優君」
「ただいま」
 ゴミのようなセカイのことを忘れて、あるいは忘れたくて微笑んでそれを返した。
「ご飯美味しかった?」
「全然。いや肉はうまかったけど他が最悪だ」
「ちゃんと野菜も食べなきゃだめだよ」
 そういう意味じゃないんだけどな。俺もみつきと並ぶようにベッドに座る。
「そういえば優君が部屋を出るときに少しだけ修君が見えたんだけど、修君大丈夫そう?」
「大丈夫、じゃなさそうだ。相変わらず勉強漬けらしい」
「体、壊さなきゃいいけど」
「そうだな。気をつけてやらないと」
 実際俺が修にしてやれることはほとんど無いだろう。せいぜい矛の的になってやるくらいが精一杯だ。
 修は確かに普通ではない。普通の人間にあんな目が出来るはずがない。
 そんなことを思いながらベッド横の机の上にあるPCの電源を入れる。
「それじゃ、一時間くらい集中するから」
「うん、待ってる」
 操作可能な画面になったのを確認した後、持ち帰った荷物の中からCDを取り出して、それをPCの中に入れてその中身のソフトを起動させる。
 文書製作ソフトが立ち上がって、何万という文字がそこに表示された。
「私優君の書く小説好き」
 ニコニコとみつきがベッドから俺を見つめてそう言った。
 一日にほんの少しだけ書き進める、自作の小説。
 それを書いているときは完全にこのセカイを切り離すことが出来た。
 自分で作った世界、そしてその住人達に自分を移すことでこのセカイを忘れさせてくれる。
 キーボードに手を置いて指を動かし始める。
 何もなかった白紙のページが文字で埋まっていき、何もなかった世界が色鮮やかに変わっていった。それはただ俺一人が作り上げる世界。
 その中の人間は皆いきいきとしていて、心から仲間と笑いあったり、悲しんだりしていた。
 ただそんな彼らが羨ましかったのかもしれない。こんなくだらないセカイではない、幸せな世界に生きる彼らが。
 一時間はあっという間に過ぎていき、大体きりのいいところまでを書き終えて、保存ボタンを押してからPCの電源を落とす。画面は名残惜しそうに一度大きく輝いた後プツンと闇に飲まれていった。
「今回はどんなお話なの?」
「かなり前に書いたやつのリメイク。女の子とロボットの話書いただろ?」
「うん、あのお話も好き」
 子供のように綺麗な笑みを見るだけで書いていて良かったという気持ちになれる。同時に自分で発した言葉であのことを思い出し、とてつもない不快感を覚えた。
「…………」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
 今更思い出すこともないだろ。思い出したところでくだらない過去だ。
 頭でそう考えるのとはまったく逆に、記憶は鮮明によみがえってくる。
 それはいわば、俺がこのセカイを思う根源のようなもの。
 中学三年のときだ。あの時も同じようにお話を書いていた。周りが受験勉強に必死な最中で。
 そのときはまだ進学が確定していたわけではないが、内申の成績も実力も十分にあったので周りのように必死に勉強するようなこともなかった。
 主な遊び相手だった和哉も夏休みごろから勉強を始めて、それに伴って朋香や他の友達も勉強しだし遊ぶことがほとんど無くなった。
 その頃には部活も引退していたので実に暇だったわけだ。
 だから家に帰ると決まってパソコンの電源を入れて小説を書き始めたりしていた。あの時もみつきは笑顔でベッドに座りながら俺を見ていた。
 二ヵ月ほどで出来た作品は自分で見ても意外に出来がよく、みつきに読ませてみても中々の高評価だった。
 その世界は、どんな世界よりも輝いているように書けたと思う。そこには俺自身の夢が込められていた。
 当時中学生だったことを考えると世間的にそこまで良作であるとは思えないが、製作の努力分が点数に加算されていたのだろう。
 とにかくその作品をなんとなく適当なコンテストにでも送ってみようと思った。
 入賞とかそんなものは全然考えてもいなかったが、もしかしたらという思いでそれを印刷し、封筒に詰めて送ろうとした。
 だがタイミングが悪かった。祝日だったその日は父も母も休みで、俺が原稿を郵便に届けに行こうとしたとき丁度二人が買い物から帰ってきた。
 母のただいまという声の後ろに居た父は、俺の手にもつ物を見て「なんだそれは」と訝しげに尋ねてきた。
「自分で書いた小説だよ」
「ずっと部屋に篭っていると思ったらそんなものを書いていたのか」
 そう言うと父はおもむろに俺から原稿を奪うとあっさりとそれを二つに破った。俺の夢を。
「お前はもう受験生だろ、周りが受験勉強を頑張っているのにお前は何をやっているんだ」
 顔を赤くして怒鳴る父の後ろでは母がわなわなと震えて、
「優、どうしてそんなものを」
 青い顔でヒステリック気味に母はそれだけを呟いた。
「こんなくだらない物を書く暇があったら勉強しろ、周りから置いていかれたくなかったらな」
 そう言って父がリビングに入っていった後、ガコンという鈍い音が耳に入った。乱暴に夢がゴミ箱へ捨てられた音。
 それに詰まっていたはずの夢や希望等といった物は、ゴミ同然に扱われた。
 父も母も異常なほど過敏に世間の目を気にする人間だ。このときも息子が受験戦争の中で遊び呆けていたなどとは信じたくなかったのだろう。
 加えて俺への期待も人一倍大きく、甘やかすようなことはなかった。例え学校のテストで九十点を取ってきたとしても何故百点を取れなかったんだと罵られるほどに。
 それも二人とも思考の古い人だから、受験生は勉強を必死にしているイメージしかないのかもしれない。
 狂った声と裂かれた夢。震える声、捨てられた希望。
 くだらないと罵られた物。それはいわば俺自身。
 ただその場に立ち尽くすしかなかった。
 しばらくの間動けずにいた。母がその場を去って行った後もずっと。
 ようやく動くことが出来たのはみつきの「優君、戻ろう」という声が聞こえてからだった。
 データ上の原稿は残っている。もう一度文章データを印刷すればいいだけだ。
 しかしそれはできなかった。実の親にそんなものと言われ、くだらないと吐き捨てられたものを、また作り出す事はできなかった。
 部屋に戻った後もただうなだれるだけ。何かみつきが励まそうと言ってくれているはずなのに、それは俺の「くだらない、くだらない」という呟きにかき消されていた。
 その日からだ、俺が親との距離を置くようになったのは。それを親だとは思いたくなかった。親っていうのはもっと子を愛する生き物だと思っていた。
 あの行動が愛であるはずが無い。
 その日からこのセカイを拒絶するようになった。和泉優という存在を認めてくれなかったこのセカイを。
「優君? 優君?」
 俺の手に自分の手を当てて心配そうな顔でみつきが俺を見ていた。
「大丈夫? すごく苦しそうな顔してたよ」
 いつの間にか自分の世界に入り込んでいたらしい。
「悪い、大丈夫だから心配するな」
 と頭を撫でるとその顔は笑顔に戻って可愛らしく「うん」と頷いた。
「書き終わったら真っ先に見せるから、しっかり感想くれよ」
 撫でながらそう言うとやはり嬉しそうに「うん」と頷いてみせた。
「それじゃ俺風呂入ってくるわ」
「いってらっしゃい」
 立ち上がって部屋の扉に手をかける。俺はもう一度、そのセカイへと入っていった。

間章 幸せの裏側

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 風呂を上がってからは部屋に戻ってみつきといつものように並んでベッドに寝転がっていつものようなおしゃべりをしていた。
「和哉君元気になったかな?」
「どうだろうな、でも多分元気になってるさ」
「どうしてわかるの?」
「朋香もいるみたいだし、それにあいつ馬鹿だから寝たら治るだろ」
「あ、また馬鹿って言った」
「馬鹿なもんは馬鹿だから仕方ない。明日には『いよう優! これから遊びに行くんだけどお前も来ないか』みたいなメールがくるな」
「そうだったらいいね」
「あぁ」
 その夜はとても静かで家の中では物音一つしていない。親はもう寝たのかな。修は、多分勉強してるだろうな。
 響くのは俺とみつきの声だけ。
「それじゃ明日早く起きられるように寝なきゃ」
「よし、じゃあ寝るか」
 布団にもぐりこんで照明のリモコンのスイッチを押す。
 視界が真っ暗になった後、「おやすみ優君」という声が聞こえた。俺も「おやすみ」と返す。
 それからどのくらい時間が経ったのかはわからない。
 その日何故か寝付けないでいた。寝始めるのがいつもより少し早かったからかもしれないが、気持ちの悪い予感が胸の中でもぞもぞと動いていた方が強いと思う。
 隣ではみつきがすやすやと可愛い寝顔で夢の中を散歩している。
 それを起こさないように体を動かして枕元にある時計で時間を確認すると、もう午前三時を回ったところだった。
 はは、こんな時間まで何起きてんだ俺。トイレ行ってホットミルクでも飲んで寝よ。
 寝れないのは多分空気が乾燥して喉が渇いていたからだろう。そう自分に言い聞かせながら胸の中で動いているものを抑えつけた。
 慎重に、みつきを起こさないように、ゆっくりとベッドから出ようとしたのだが、
「ん……どうしたの優君」
 起こしてしまったらしい。
「悪い、起こした。トイレ行ってくる」
「わかったぁ……」
 眠たそうな声を後にして部屋を出る。気持ちよく寝ていた彼女を起こしてしまったというほんの少しの罪悪感と一緒に。
 階段を下りてリビングに向かう途中、リビングのほうで何かが光っているのが見えた。しかし部屋の電気は消えたままである。
 なんだ?
 泥棒が懐中電灯片手に忍び込んでいるのだろうかと思ったが、それにしては光が鮮やかすぎる。少しの警戒心と疑問を持ってリビングへ降りる。
 そこには、
「――――っ!」
 修が居た。
 テレビの前のソファの上でちょこんと三角に座って見つめている。
 音の無いテレビを。
 深夜のバラエティ番組らしいそれの中では賑やかに出演者が手を叩いて笑っていたりするのだが、無音であるそれは不気味だった。
 疑いようの無い狂気がそこにあった。
 部屋の照明もなく、ただテレビから発せられる光が部屋を染めている。
 テレビを見つめる修の目はどこか空ろで、夕食の時に一瞬見えた笑顔はどこにもなかった。ただ見つめているだけ。
 普通ではないのは明らかで、今すぐにでもどうしたのかと駆け寄ってやりたい衝動に駆られた。
 それすらも俺は出来なかった。
 修がこうなった原因はほとんど分かっている。日々のストレスと、意味の無い憎悪と、耐え切れない重圧。
 俺が駆け寄ったところでそれが無意味なことであることは分かりきっている。
 ただ、それを見つめることしか出来なかった。
 その場に居ることも躊躇われてすぐに部屋に戻り、壊れたセカイと結ぶ扉を強く閉じた。
「……どうしたの優君?」
 ずっと起きていたのか、それともドアを強く閉めたせいで起きてしまったのか、みつきは心配そうな声で尋ねてきた。
「なんか、息が荒いよ」
 言われてから自分の呼吸の乱れに気づく。数回深呼吸を繰り返してなんとか落ち着かせた。
 そのままベッドによって「何でもない」と横になっているみつきの頭を撫でた。
 なんでもないはずがない。どう考えても異常だ。普通の人間があんなことを出来るはずがない。
 もう一度何でもないと繰り返して布団にもぐる。
 あんなものをみつきが知る必要は無い。現実にしては辛すぎる。話せばきっとみつきは自分のことのように心配するだろう。今更ではあるが、出来ることなら彼女にはずっと笑っていてほしい。
 俺が眠りについたのは空が白み始めた頃だった。

間章 幸せの裏側

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 次の日の朝に予想通り和哉からメールがあって遊びに行くことにした。
 いつものようにアーカスへ映画を見に行くように伝えてすぐに準備して家を出る。
 その映画は前から見たかった物なので家を出るときは少しウキウキしていたかもしれない。みつきに「楽しそうだね」と言われるほど。
 楽しい思いは昨日のことを夢だったのかもしれないという風に思わせた。
 あるいはそう思いたかったのかもしれない。
 時間通りに待ち合わせ場所に着いてアーカスへ向かって映画を見た。
 想像以上に感動的な内容で、そりゃ涙もこぼれまくるさ。
 映画が終わった後にみつきから「優君泣きすぎだよ」と言われてしまった。仕方がないだろう。感性豊かなのだから。
 もちろんこの気持ちを小説のほうへ生かすのも忘れない。劇場から出た後、今の気持ちをメモ帳へ書きとめた。
 それから飯を食ってカラオケに行ってゲームセンターで遊んだ。相変わらず朋香の歌声は綺麗で、和哉の歌声は音痴だった。
 ゲーセンでは和哉は負けっぱなしで悔しそうな顔をして、それを見るのが楽しかった。特にクイズゲームで和哉が朋香に完敗させられたときの顔は写真に残しておきたかったほど馬鹿な顔をしていた。
 とにかく楽しかった。
 ゲーセンを出るときにみつきが珍しく何かを物欲しげに見つめていて、その先にはUFOキャッチャーがある。
(あれほしいのか?)
 本当に小さな声で訊くと、みつきは恥ずかしそうな顔をして「……うん」と頷いた。
 だから二人に少し待つように言って一人でゲーム機に近寄ってコインを入れてその中にある謎の形をしたぬいぐるみをゲットする。
 クレーンゲームは苦手ではない。というか苦手なゲームはほとんど無い。楽々とクレーンはそのぬいぐるみを掴んで出口へシュートする。
 取り出し口に手を突っ込んで間近で見てみると、人形はよく分からない形だった。白大福にさくらんぼを突き刺したような形。
「何でこんなのほしかったんだ?」
 思わず尋ねるとみつきはもじもじと「その……可愛いから」と消え入りそうな声で言った。その声を聞いた後、改めてぬいぐるみを見てみる。やっぱりわかんねえよ。
 それは三十センチほどの大きさだったので持ち合わせの鞄には入りきらず、手で持って帰ることになった。
 帰る途中それを持ってるのはすごく恥ずかしかったが、横で幸せそうな顔をしているみつきを見るとそんなことも忘れられた。


 電車に乗って町に戻った後、短い沈黙があった。
 点々としか存在しない街灯の下を何を言うわけでもなく、ただ並んで歩く。
 疲労や脱力感もあるだろうが、住み慣れた町に帰ってきた安心感がそうさせているような気がした。何より夜の暖かい暗さが、心を落ち着かせていた。
 その安心感が、不意に俺の気持ちを駆り立てる。夜の包み込むような暗さが、忘れかけていた淡い希望に火をつけた。
「和哉、ちょっと付き合ってくれないか?」
「俺にそんな趣味は無いぞ」
 多少真剣味に言ったつもりだったのだが想像以上に和哉は馬鹿だった。
「本当にお前は馬鹿だな。サーカス団のミジンコのほうがよっぽど賢いぞ」
 サーカス団にミジンコが所属してるかどうかは兎も角、っておいおいこんなことを言いたいんじゃないぞ。
「二人ともどこか行くの?」
 朋香がどこか不安そうな目で俺を見つめてくる。私は? と言っているような気がした。
「まぁその辺ぶらぶらしてすぐに返すよ、おばさんにもそう言っといてくれ」
「ん、わかった」
 悪いな。心の中だけで謝ってから朋香と分かれた後、話をどうやって切り出そうかと考えながら夜道を歩いていた。
「そっちの学校はどうよ、なんかあったか?」
 気がつけばそんなことを訊いていた。違うそんなことを訊きたいじゃない。
「別に、期末テストがあって先生の愚痴言って友達と馬鹿やったりしてただけ」
「そっか、まぁそんなもんだよな」
「一人暮らしってどう思う?」
「どうってなんだよ」
「家事が大変そうだとか色々あるだろ」
「そうだな、寂しそうとか、かな」
 一瞬隣のみつきと目が合った。
「案外そんなこともないよ」
 寂しくは無い。いつもみつきが居るのだから。
 俺の訊きたいはずの問いはまだ出て来ない。
「大学どこに進学するとか決めてるのか?」
「いや、まだ何も」
「やりたいこととかは?」
「勉強が嫌いだからな、まだ全然そんなの考えてねえ。テストで精一杯」
「それでもヤバイ点数なんだろ、朋香に迷惑かけんなよ」
「お、おう」
 そこでようやく問う決心がついた。同時に頭の中でもう一つの考えが囁きだす。
 そんなことを訊いてどうする? 答えはもう分かっているだろ? お前は気づいているだろ? やめておけ、悲しむだけだ。まだ間に合う。笑って帰れ。
 暗い思いが頭を支配する前に、口は動き出していた。
「お前さ、幼稚園の頃とか覚えてるか?」
「幼稚園? まぁぼんやりとなら少し」
 何度も何度も暗い思考が頭をよぎる。
 大丈夫だ。まだ間に合う。何か馬鹿を言って終わらせろ。また大切なものを傷つけるのか? 
 そんな囁きを振り払って、俺は尋ねた。夜の暗さに押されるように。
「一緒に遊んでた友達の名前とか、覚えてるか?」
 暗い思考が頭の中でうなだれているのが分かった。言ってからすぐに後悔をした。何を訊いてるんだ俺は。
「流石に、そこまでは覚えてないな」
 その言葉を聞いた瞬間に、心の中の何かが音を立てて崩れていくような気がした。ほれみろ、だから言っただろう。汚い希望なんて持ちやがって、腐った期待なんて持ちやがって。お前はまた、みつきを傷つけた。
 横を見るとみつきはうつむき加減に頭を下げていた。暗くて表情を見る事は出来ないが、俺は確かにその顔を見ることが出来た。
 本当は分かっていた。言われるずっと前から分かっていたことだ。
 髪を栗色に染めたのだって、和哉がもしかしたらみつきのことを思い出してくれるかもしれないという希望を持ってやったことだ。みつきのような綺麗な栗色にはならなかったけど、結果はどうだった? 結局何も変わらなかったじゃないか。
 気づいていたさそんなこと。もう和哉の中にみつきは居ない。俺はその事実をただ掘り返してしまっただけだ。
「…………そりゃそうだよな」
 そうやって自分に言い聞かせるしかなかった。もう二度とそんな事を言わないと、もう二度とみつきを傷つけないと、ただ誓うしかなかった。
 もうやめよう。こんな暗い気持ちは笑って吹き飛ばしてしまったほうが良い。
「そうだ、今年デパートの前でイルミネーションやるの知ってるか?」
 話題なんて何でも良かった。たまたまそんな事を思い出しただけだ。
「そうなのか?」
「あぁクリスマスの夜までやってるらしいぜ、今朝のチラシになんか書いてあった」
 チラシの写真に載っていたイルミネーションはすごく綺麗で幻想的だったのを覚えている。
「んなもんいちいち確認してねえ。なんかおばさんっぽいな」
「うるせえよ」
「わりい」
「お前、朋香と行ってこいよ」
「優は来ないのか?」
「俺は、まぁ、その、あれだ。荷物整理で多忙だ」
 あながち嘘ではない。
「別に変な気とか使わなくてもいいぞ?」
「今更お前らに気配りなんてするかよ」
 そう言って笑ってやった。笑い飛ばしてやった。いろいろなものを。
 踏み切りの前で止まって話していたせいで時々お互いの声が聞こえない時も合ったが、そんなことも気にせずに笑い続けた。
「今日は中々楽しかったぜ」
「ん? だから聞こえないって」
「楽しかったっつってんだよ!」
「俺もだ!」
 何馬鹿みたいに叫んでるんだろな。でもそれがおかしくて、やはり笑ってしまう。
 再び遮断機がカンカンと鳴り出し、電車が猛スピードで俺達の横を通り過ぎていく。
「俺さ、和哉と朋香とみつきに会えてすげえ良かった」
 その声はほとんど電車の音にかき消されてしまったが、もしかするとそれにあわせてそう言ったのかもしれない。だってそんなセリフ、恥ずかしすぎるだろ?
「んじゃ、俺帰るわ」
 踏み切りを乗り越えて歩き出す。その右手はしっかりとみつきの左手を掴んでいた。この暗がりなら大丈夫だろ。そう思いながら。
 和哉の居る前でそんな事をされるとは思っていなかったのか、みつきは「あっ……」と小さな声を漏らして、でもしっかりと手を握り返してくれた。それが少し恥ずかしくて、
「朋香に今日はありがとうって言っといてくれ」
 と言ってみたりした。
 和哉からの返事も待たずに歩く。気がつけば和哉の姿はもう見えなくなっていた。


 そして、またこのセカイへと帰ってきた。
 玄関の前で立ち止まる俺の手を、みつきはしっかりと握ってくれる。
「ただいま帰りました」
 玄関のドアを開いて中に入る。キッチンのほうから「優ー? おかえりー」と耳につく飛んでくる。
 その声に何を言うわけでもなくそそくさと自室へ戻り、セカイとの空間を絶った。
 静寂。
 階下からは包丁の音やテレビの音がかすかに聞こえてくる。向こうのセカイの音は、嫌な記憶を思い出させるのに十分な力を持っていた。
 むくむくと湧いてくる忘れかけたはずの後悔。
 ベッドに座って、必死に思い出さないようにと頭を片手で抱える。右手は繋いだまま。
「……なぁ」
「何?」
 優しい声でみつきは答えてくれる。
「……悪かった」
「ううん、全然平気だよ」
 平気なわけはない。辛かったはずだ。苦しかったはずだ。そうでなきゃ、あんな顔は出来ないだろ。
「……ごめん」
「本当に大丈夫だから、気にしないで」
 みつきは強い子だ。俺ならとっくに折れてしまいそうなのに、彼女は平気だと、大丈夫だと言ってくれる。
「……でも、ごめん」
 しかし謝らずには居られなかった。沈黙が覆う。みつきはぎゅっと俺の手を握って、
「そういえばさ、もうすぐクリスマスだよ」
 暖かい笑顔を見せてくれた。
「あぁ、そうだな」
「楽しみだなー」
 そこに夢があるように、みつきは笑顔で宙に何かを見ていた。きっとそこには何かが輝いているのだろう。
 思いついた。くだらない思いつきだけど、もしかすると喜んでくれるかもしれない。
「クリスマス、二人でどこか行こうか」
 謝罪、あるいはもう二度と傷つけない決心のつもりだったのかもしれない。
「え、でも……」
 みつきは遠慮がちな声で申し訳なさそうに言うが、
「いいよ、俺がそうしたい」
 俺がそう言うとはにかみながら、少しだけ顔を伏せて恥ずかしそうに言った。
「えっと、じゃあ、優君と一緒に――」
 今にも消えてしまいそうな声、しかししっかりとした声。
「そんなところで良いのか? もっと遠くのほうでも行けるぞ?」
「ううん、そこがいい」
「わかった」
 コンコン。
 二回のノックの後、返事を待たずに部屋のドアが開けられて父が入ってきた。
「どうした優、電気もつけないで」
 そう言って母と同じように照明のスイッチを入れる。
「ほら、この前このガットほしがってただろう。買ってきたから張り替えておきなさい」
「……ありがとうございます、父さん」
「またほしくなったら言いなさい」
 それだけを言い残して父は満足げに部屋を出て行った。だからドアを閉めろよ。
 ドアを閉めてから渡されたガットに視線を落とす。
 テニスをしていないと知らないかもしれないが、ガットには色々と種類があって、俺が使ってるのは割と細いタイプだから頻繁に痛んだりする。だからガットを張り替えることも多い。
 この前もテニスの試合に父が、これまた頼んでもいないのに応援に来ていた。
 その試合の後に俺がベンチで次のガットを何にしようかと悩んでカタログを見ていたところにこのガットが載っていて、それがたまたまカタログに大きく書いてあったからどんなものなのかとその解説を見ていただけなのだけど、それを見ていた父は俺がこれをほしがっていると勘違いしたらしい。
 満足げな顔でこれを渡して、気持ちよく帰って行った。本人はすごく良いことをしたつもりなのだろう。息子のために何かをしてやった。それが快感なのだろう。
 こんなことはたびたびあった。
 ほしくなかったわけじゃないさ、でも、頼んでねえよ。
 そんなものはエゴだ。自分勝手な思い込みでしかない。
 またほしくなったら言え? 俺は一度もほしいなんて言っていない。
 乱暴にガットの箱を置きっぱなしの荷物の上に放り投げて、再びベッドの上に体を戻した。
「ガット、張り替えなくて良いの?」
「あぁ、明日やる。今日はもう疲れた」
 本当に疲れた。そもそも今日は朝から動きっぱなしだったんだ。疲れもするさ。
 ベッドに身を投げ出して横になる。下からご飯が出来たとキンキンした声が飛んできたが、今はそんな気分ではない。
 大きめの声でいらないと返すと、それ以上はもう返ってこなかった。
「もう寝るの?」
「悪い、今日はちょっと、いやかなり疲れた。寝かせてくれ」
「うん、わかった」
 それからまもなく眠りに落ちる。
「おやすみ、優君」
 眠る間際に心地良い、柔らかな声を聞いた気がする。


 翌日はいつもよりもずっと睡眠時間が長かったおかげかとても気分良く起きることができた。
 起きてすぐにみつきの「おはよう」という笑顔を見られたことも一役、いや心地良い朝の大部分を占めていたりする。
 他の家族はまだ起きていないらしく静かな朝だった。
 まだセカイが眠っているうちにキッチンへ出向いて朝食製作を開始。珍しくこの日はみつきもキッチンへ降りてきたいというので一緒に行こうと言った。
 それはきっとこのセカイが動き出していないから、今はまだ普通の世界だったからだろう。
 冷蔵庫を開けてみると見事に何もなかった。卵が二個と牛乳と他調味料の類。電子レンジの上にはぽてっと倒れている二切れだけ入った食パンの袋。
 インスタントで何か無いかと棚を探してみたが、中から見つかったのはボルシチの元だけだった。それも五年前の。
 うえ、何でこんなの残ってるんだ。
 仕方がないので冷蔵庫最後の卵と牛乳を取り出してフレンチトーストでも作ることにする。むしろそれ以外作れる気がしねえ。
 深めのバットに卵を入れてよく書き混ぜた後牛乳と砂糖を混ぜて卵液を作った後、食パンを四つ切りにして卵液につけて、その間にフライパンを熱して油を引き、液の染み込んだパンを焼いて出来上がり。
「優君料理上手だよねー」
 その作業をずっと楽しそうに眺めていたみつきが出来上がったフレンチトーストを見て言った。
「誰でもできるだろこんなの」
 ただ卵と牛乳にパンつっこんで焼くだけだし。
「ううん、きっと私だったらこんな上手には焼けないもん」
「みつき料理したことないだろ」
「うん、だからきっと」
「……そっか」
 あまり笑えない冗談だ。こんなにも楽しそうに料理を眺めることができる子が、料理をすることが出来ないなんて。もし本当に神様がいるなら殴り飛ばしてやりたいところだ。
 調理器具諸々を片付けた後、テーブルに移動して自作のフレンチトーストを食べ始める。
 卵が良く染みていてうめぇ。焼き加減も最高だな。
「おいしそうだね」
 向かいの席に座ったみつきがやはり楽しそうに俺の朝食風景を眺めていた。
「おう、うまいぞ」
「私も食べられたら良いのになぁ。すごくおいしそうだもん」
 それに答えることが出来ず、ただ食べ続けた。
 朝食も済んで部屋に戻ってからずっと放置されていた荷物(主に本)を整理することにする。
 本の整理というのは意外に大変で、本棚に綺麗に並べようと思うと結構な神経と労力を使うことになる。
 例えば本棚の一段目にシリーズ物を並べていって最後の数巻だけが入りきらなかったりとかすると悲しいだろ。それに続刊が出ていたりしたら今まで綺麗に入れていた本を取り出してぴったりとはまる位置を探し出さなければいけない。
 というようなことをみつきに言うと「優君几帳面すぎるよ」と笑われてしまったが、これって常識じゃないか?
 一々続刊を見つけるたびにシリーズ全てを取り出すのがめんどうだったので、一度本棚に詰まっている本を全て取り出して一から整理しなおすことにした。
 しかしまぁ、こうして本を並べて改めてみてみると、
「足の踏み場も無いってこういうことだな」
「本当にすごい量」
 ベッドの上に避難しているみつきからも驚きの言葉が漏れた。
 溢れかえった本をシリーズごとに整理し、その分厚さや本棚の隙間などを考えつつあれはここに、これはそこになどと算段をしている途中で和哉から『これから朋香と出かけるんだが優も来ないか?』とメールが来た。もちろんこんな状態で本達を放置するわけにもいかなかったので断っておいた。
 それから色々と計算をしながら次々と本棚に本を納めていく。
 大体四割くらい終わったところでぱたぱたと誰かが階段を登ってくる音がして、足音からそれが母のものだと分かる。
 二回のノックの後、やはり返事を待たないで母はあっさりとドアを開いた。
「あら、掃除してたの?」
「はい」
「これから病院にお見舞いに行って買い物してくるけど、何かほしいものある?」
「いえ、特に何も」
「そう、それじゃあ行ってくるわね」
 それだけを言い残して母はすぐに部屋を出て行った。当然のようにドアは開きっぱなしである。
 お見舞いというのは母の妹、つまり俺の叔母の子供が小さいときから入院しているらしく、母は度々病院を訪れている。というのを訊いてもいないのに聞かされた。
 俺も何度か一緒に行かないかと誘われたことがあるが、その度に結構ですと断ってきた。どうせ向こうのセカイのことだ。くだらない。拒否というよりも拒絶に近かった。
 あらかた整理も終えて一息着けるようになったのは時計の針が二時を指す頃だった。
 ちょこんと座るみつきの横で、倒れるようにベッドに乗りかかる。肉体的にも精神的にもそこそこの疲労感。
「お疲れさま」
「次からはもっと自制するわ」
「うん、そのほうが良いと思う。すごく大変そうだったもん」
 寮にいる時から大変だろうなとは思っていたが案の定だ。自業自得ってやつ。
 それから遅い昼食を取ろうとして朝材料を使い切っていたことを思い出した。そういえば修達は何食べたんだろうか。まぁ修のことだから近くのコンビニから買ってきたりでもしたのだろう。もう中一だしな。
 俺もコンビニ行くかな、と思ったが外に出るついでにぶらぶら歩いてみようか。一日中家の中にいるっていうのも体に悪そうだし。
「ちょっと出かけよう」
「どこ行くの優君?」
「さぁ? とりあえず飯食いに行って散歩でもするか」
「うん」
 ベッドから飛び降りてからいつもの外出スタイルで家を出る。
 相変わらず空は冬らしく灰色な空で太陽はノックダウンしているし、風は殺人的に冷たい。雪が降っていないのが不思議なくらいの天気だった。
 晴れてくれないと布団干せなくて困るんだよなぁ。
 そんな事を考えながらとぼとぼと歩く。隣ではみつきが鼻歌混じりでご機嫌な様子で歩いていた。
「嬉しそうだな」
「うん、なんかね、空も飛べそうなくらい元気なの。なんでだろう」
「本当に飛んでいくなよ」
「あはは」
 しばらく歩いて駅前で何か食べようとしたのだが、こんな時間にも関わらず満席で座れなかった。ドーナツでも食べながら歩こうかと言うとみつきに「食べ歩きは行儀が悪いから駄目だよ」と怒られた。
 仕方がないので他を当たることにする。とはいえ行きたい場所があるわけでもなく、食べたいものもなかったので大体何でも揃っていそうな喫茶店で昼食をとることにした。
 丁度買いたい本もあるし、デパートでいいか。数分前までの自制するという言葉はほとんど消えかかっていた。