ポコピン亭

ポコピンの日々の記録と東方緋想天の戦いが綴られていきます。多分。

間章 幸せの裏側

2008-03-04 | one day -鈍色の叫び-
 それからしばらく明るく話していたが、一向に空気はまずいままだった。
 何を話していたのかもよく分からない。楽しすぎて忘れてしまったのではない。右から左へ次々抜けていってしまった感覚。
 時計が六時を指した頃に解散をして、今にも死にそうな顔をしている和哉が荷物を運ぶと言うので俺はそれを制した。
 小さなバッグを首にかけて、巨大な丸太を二つ肩にかける。
 朋香が首にかかったバッグだけでも持っていくと言ってくれたが、どう見ても和哉の状態がおかしいので傍に居てやってほしかった。だから朋香の申し入れも断って帰路についた。
 日が暮れるともうほとんど人なんて見当たらない。ここはそういう場所だ。街灯すらまともにないこの町の夜はひどく静かで、闇が満ちていた。
「優君、大丈夫?」
 並んで歩いているみつきが心配そうな顔をしていた。
「ん、なんで?」
「なんか、辛そうな顔してる」
 言われてから随分とまぶたが下がって、頬が落ちている事に気づいた。はは、そりゃそんな顔に見えるわな。
 慌てて首を振っていつもの顔に戻す。目も開けて頬も上げた。
「どう?」
 ニッと笑ってみつきを見てやると、まだ彼女は「ううん、辛そう」と繰り返した。
 おそらくは表情のことを言っているのではない。
 朋香からのあんな告白があった後だ。楽しい気持ちになるわけもない。加えてこの暗い静けさに満ちた道は、その思いを増幅させていた。
 そして、向かっている目的地がそれに拍車をかけている。
 帰ってきてた。このセカイに。
 和泉と書かれた表札の家にたどり着き、鍵を取り出してそのドアに差し込む。鍵穴は大げさな音を立ててドアを開いた。
 その音に気づいて中からぱたぱたという足音とともに人が飛び出してくる。母だ。
「おかえり優。いつもより遅かったのね」
 ソプラノトーンの声がひどく耳に残る。
「ただいま母さん」
 何度も何度も繰り返してきたセリフ。抑揚なく発せられたその言葉は実に機械的だった。
「和哉の家にお邪魔していました。遅くなってすいません」
 感情を殺しきったその言葉は冷え切っている。何かに気づいた母が眉間に皺を寄せて、
「優、その髪の毛どうしたの?」
「なんでもありません」
 あなたには関係ありませんから。そう続けようとして、何とか言葉を飲み込んだ。これも何度も繰り返してきたことだ。もう慣れている。
「何でも無いって、ちょっと優、待ちなさい」
 母の制止を振り切って中へ入っていく。みつきが申し訳なさそうな顔で母に頭を下げて俺の後を追う。
 リビングでは今年の仕事を終えた父がテレビの前のソファに座って新聞を広げていた。
 年末にはテニススクールの生徒も休みがちになってあまり人が集まらない。だから年末の早いうちにテニススクールは休校となる。
 世間よりも早めの連休に入った父が新聞を一枚めくり、俺の存在に気づいた。
「優か、おかえり」
「ただいま帰りました」
「ん? その髪はどうした?」
「…………なんでもありません」
 母の時と同じように答える。ただ声を出すという行為をして、すぐに二階にある自室へ向かった。やはりみつきは父に一度頭を下げてから後ろをついてきた。
 部屋のドアを開け、中に入り、みつきも入ったことを確認してそれを閉める。
 そのドアがこのセカイと俺を分ける唯一の壁だった。
 脆くて、簡単に壊れてしまう壁でも、それにすがるしかなかった。
 部屋の隅に荷物を投げて、自分の体はベッドの方へ放り投げる。
 丁寧に敷かれた毛布や布団がクッションになって、ベッドが悲鳴をあげることはなかった。
 倒れる俺の横にみつきが座る。
「……疲れた」
 肺一杯の空気を吐いてそう呟く。
「おつかれさま」
 綺麗な声で、みつきが微笑んでる気がした。顔は俺の顔が布団に埋まっているから見えない。
「ねぇ優君」
「どうした?」
「まだお母さん達のこと、嫌い?」
「…………嫌いなわけじゃない。すごく好きじゃないだけ」
 そう、嫌いではないはずだ。頭では分かっている。
 コンコンと部屋のドアがノックされた後、返事を待たずに母が部屋に入ってきた。
「何してるの優。電気くらいつけなさい」
 カチッという音がして部屋が明るくなった。
「すいません、母さん」
 顔を上げて母を見ると、やはり母は怪訝そうな顔で僕を見た後「もうすぐご飯だからね」と部屋を出て行った。ドアを開け放ったまま。俺とこのセカイを隔てていたはずの扉は、今は無力にその口を開けていた。
 だから好きじゃないっていうんだ。
 例えば返事を待たずに部屋に入ってくるところとか、頼んでもいないことをして良いことをしたつもりでいるとか、ドアを閉めないで出て行くとか。
 人から見ればそんな些細なことで何腹を立ててるんだと馬鹿にされるだろう。そんな事は分かっている。
 自分の心が異常に狭いだけじゃないのかと疑ったこともある。それでも、俺はそれが嫌だった。
 ベッドから降りて開いたままのドアを乱暴に閉めて再びベッドに体を預ける。
「お母さんも、相変わらずだね」
 みつきは笑顔でそう言うが、俺の心は暗いままだった。あるいはその笑顔は俺を元気付けるための笑顔だったのかもしれない。
「だから好きじゃないんだ」
 好きじゃない。もう一度言った。
「でもお母さんだってきっと優君が心配で、元気かなって様子を見にきたんだと思うよ」
「元気かどうか見に来て元気を奪って帰っていくなんて笑い話にもならないぞ」
「えっと、それは、えーと……」
 手をあごに当てながら首をひねって必死に考え込むその姿がおかしくて、みつきの髪をクシャクシャと撫でた。
「お前は別にそんなこと考えなくて良いから大丈夫。それより悪かったな」
「どうして優君が謝るの?」
 片目を閉じて上目遣いに尋ねてくる姿はとても愛らしく思えた。
「辛かっただろ」
「ううん、和哉君も朋香ちゃんも私が見えてないことは分かってるから、だから大丈夫」
 ふと昔の映像が頭をよぎる。まだ小学校に入って間もない、みつきが周りから見えなくなる頃。
 あの時のみつきは本当によく泣いていた。だれも私のことを見てくれないの、私なんか居ないみたいに、私きらわれちゃったのかな、ゆう君、ゆう君――――
 そう言いながら俺にしがみついて泣き続けるみつきを、俺はただ撫でてやることしか出来なかった。
 当時はまだ六歳だ。突然誰かが見えなくなるなんて思いもよらなかったから何か原因があるのだろうと思っていた。
 次第に周りの声を聞いて回るとそんな子は見ていないと真顔で言われるようになる。そこでようやくみつきが見えていないことに気づいた。
 それからいろいろ調べた。まず思いついたのは座敷童子の類ではないかと。隣でその資料本を見ている子が妖怪などとは信じたくはなかったが、普通で無い事は確かだ。だからとにかく見てみることにした。

 一般に座敷童子は悪戯好きで、旧家の座敷に住んでいる。

 パタン。
 その一文を読んで座敷童子説を否定する。みつきは悪戯好きなのではなく、むしろされてしまうくらい大人しい子だ。それに今まで居た園だってかなり新しく立てられたものである。一般的でなかったらどうなのかと今になっては思うが、当時は横でニコニコしている女の子を妖怪などではないと必死に思っていたのだろう。
 次に幽霊では無いかと思ったが、みつきには足もあるし、第一一緒に育って大きく成長している。幽霊であるにしては不自然すぎた。
 結局のところ何もわからないままずるずると時間は経って、今ではそういうものなのだという認識になった。
 みつきが何者だろうが関係はなく、みつきはみつきなのだと。
「そんな心配そうな顔しないで、本当に大丈夫だから」
 撫でたせいでくしゃくしゃになった髪の毛を手櫛で梳きながら、優しい笑顔でみつきはそう言った。
 その声があまりに健気で、思い切り抱きしめたくなった。ずっとこの手で掴んでいたい。
 かわりにもう一度その綺麗な栗色の髪の毛をクシャッと撫でてやる。
 片目を瞑った彼女の微笑みも俺は好きだった。
「ご飯できたわよー」
 その一声でこのセカイに引きずり戻される。
 リビングから響いた母の声は、緩みかけた口を自然と強く結ばせた。
「それじゃ行ってくる」
「うん、いってらっしゃい」
 冗談っぽく言うその声だけがこのセカイの救いだった。
 みつきは食事をしない。出来ないというほうが正しいかもしれないが、とにかくしない。
 腹は減らないのかと訊くと「うん、いつもお腹いっぱいなくらい」と帰ってきた。それは便利で良いな。この糞みたいなセカイに出てこなくていいのだから。そう言うとみつきに「そんなこと言っちゃだめだよ」と怒られるのだが、ほとんど本心だった。
 みつきを残して部屋を出る。階段を下りるところで同時に部屋を出てきたらしい弟の修に出くわした。
 修はまるで仇を見るような目で俺を憎悪に満ちた、死んだ魚のような目で睨んだあと、舌打ちをして階段を下りていった。
 まだ続いているのか、当然だよな。
 修は親の期待によって一日の大半を勉強に費やしている。長男である俺の成績がすこぶるよかったので、次男の修にかける思いも一際大きいらしい。父と母から教材を渡されては「お兄ちゃんを見習いなさい」とまるで呪文のように言われているのを聞いたことがある。その度に修は素直にうなずくのだが、修はまだ中学一年だ。まだまだ遊びたい時期にも関わらず、親の期待とそのプレッシャーに日々押し潰されそうになっている。
 オマエノセイデ……オマエガイルカラ……
 その目からはそんな言葉が聞こえてきそうだった。
 しかし両親は修がそんな目をしていることを知らない。自分たちはただ修のためを言っているのだと思っているから。
 階段を下りるとテーブルの上には平べったい電気プレートと、その横には野菜や牛肉が並べてあった。
 あぁ、焼肉、か。
 和泉家では些細なことでも特別な何かがある度にこうして電子プレートがテーブルの上に置かれる。今日はさしずめ俺の帰宅祝いといったところだろう。
 焼肉は嫌いではない。むしろ好きなくらいだ。しかしこの家で食べる焼肉は好きにはなれなかった。
 焼肉ということは当然肉を焼くわけだが、それには数秒、あるいは数分の時間が必要なわけだ。それはつまり俺がこのセカイを逃げ出せない時間でもある。
 既製品を並べてくれるほうがずっと楽なのに。
 テレビの前のソファに座って新聞を読んでいた父もプレートの置いてあるテーブルの椅子に移って、すでに肉を並べ始めていた。
 修も父の前に座って箸を取って肉や野菜を並べ始める。
 僕と母の席だけが空席となっている。
 母は先に洗濯物を干してくると言って洗濯物を持って二階のベランダへ歩いていった。いつもどおりの光景。
 いつも母は食事を始める時に席には居ない。食事の終盤、もしくは終わった頃に戻ってきて一人で食べ始める。
 灰色の匂いと共に。
 比較的臭いに敏感らしい俺の鼻はベランダから戻ってきた母に染み付いた臭いに気づいてしまった。
 タバコだ。
 父も修もその臭いには気づいていない。ただ僕だけがそれに気づいている。
 元々タバコなんて吸わない家族だから誰も吸っているとは思わない。それは普段から父が俺や修に口すっぱく「タバコは駄目だ」と言っていたからだ。
 それでも母がタバコを吸い始めたのは、何か抑えきれないストレスをタバコに溶かしているのだろうと考えていた。
 初めは家事ことで問題があるのかと思っていた。父は家事なんてほとんどやらないし、修は勉強漬けだ。だから少し前に俺が家事を手伝ったりしたのだが、一向にタバコは止まなかった。原因もわからないまま、その問題は放置されている。
 今もきっとベランダの月の無い雲の下でもくもくとふかしているのだろう。
 父の隣に座って小さくいただきますと呟いてから箸を手にとって焼き始める。
 隣では父がもう焼けた肉を頬張っていた。
 これも嫌だ。父はだらしなく口を開けたまま物を食べる。その度にくちゃくちゃと汚い音を出して周りに不快を与えている。もしかすると母はこれからも逃げているのかもしれない。
 昔父にそのことを注意すると「別に良いだろう、好きなように食わせてくれ」と逆に怒られてしまった。小学校三年の頃だ。
 それからも何度か言っていたのだが、その度に父は同じ言葉を繰り返し、やめる気配はなかった。
 もう諦めた。疲れてしまったのだろう。そんな音が耳の端で響きながら焼けた肉を取って食べる。父とは対照に静かに咀嚼を繰り返す。
 テレビは何か賑やかなバラエティ番組がやっている。出演者と一緒にスタッフの笑い声まで聞こえるようなやつだ。
 テレビを見ているときだけは修の顔は笑顔になって、一日の少ない娯楽がここにあるということが見て取れた。
 勉強という暗い海の中で、このひと時だけはそこに光が灯されているような気がした。
 しかし、そこにも父の手が加わることがある。父はそんな賑やかというより騒がしい番組が好きではない。ニュース番組などを見ているほうが好きな人だ。
 だから今日もテーブルの上に置かれたリモコンに手を伸ばしてボタンを押した。チャンネルは何かのニュース番組に変わり、修の顔も笑顔ではなくなった。
『本日午後六時十五分ごろ、十六歳の少女が突然線路に飛び出すという事件がありました。自殺ではないかと思われます。幸い少女は近くに居た男性に助けられかすり傷程度で済んだということですが、警察ではこの事件の――』
 暗い内容のニュースが流れている。電子プレートの前にもそんな雰囲気が漂っているが、それは決してニュースの内容のせいではなかった。
 例の目に戻った修は、今度はテレビを睨みつけながら物を食べていた。決して父を見ようとはしない。
 これも以前からあったことだ。だからもう何も言わない。言ったところで父がチャンネルを戻すような事はしないだろう。
 修は両親に逆らえない。畏怖や恐怖といったものが彼を縛り付けているのだ。
 その憎悪の矛先が、俺である。
 俺にそういった思いをぶつけることで理性を保っている。もし俺がその矛先を潰すようなことをすれば、修は簡単に壊れてしまうだろう。
 だから何もしない。俺を恨んだところで何も変わらないことを修も分かっている。だから何も言ってこない。
 そろそろ並んだ肉や野菜が無くなりかけた頃、母が戻ってきた。ねばっこい、どろどろとした臭いと共に。
 焼肉ということもあって、その臭いはほとんど消されかかっていたが、臭いのあることを知っている俺はほとんど意識的にその臭いを嗅いでいたのかもしれない。
 鼻につく灰色の臭い。肺が悲鳴をあげる。喉の奥がじりじりと痛んだ。
「ごちそうさま」
 手を合わせて箸を置く。同時に「あら、まだお肉はあるのに、もういいの?」と母が部屋に戻ろうとする俺を呼び止めたが、それを無視して席を立った。同時に修も席を立って階段をのぼっていく。
 修の顔は今まで見たことがないほど生気がなく、目の下には大きな隈を作っていた。薄暗い廊下では気づかなかったが、まさか徹夜で勉強をしているのか?
 死にそうな顔で階段をのぼる修の後に続いて俺も二階へあがった。
 セカイを隔てる壁の中に入るとみつきがベッドに腰掛けて俺を迎えてくれた。
「おかえり優君」
「ただいま」
 ゴミのようなセカイのことを忘れて、あるいは忘れたくて微笑んでそれを返した。
「ご飯美味しかった?」
「全然。いや肉はうまかったけど他が最悪だ」
「ちゃんと野菜も食べなきゃだめだよ」
 そういう意味じゃないんだけどな。俺もみつきと並ぶようにベッドに座る。
「そういえば優君が部屋を出るときに少しだけ修君が見えたんだけど、修君大丈夫そう?」
「大丈夫、じゃなさそうだ。相変わらず勉強漬けらしい」
「体、壊さなきゃいいけど」
「そうだな。気をつけてやらないと」
 実際俺が修にしてやれることはほとんど無いだろう。せいぜい矛の的になってやるくらいが精一杯だ。
 修は確かに普通ではない。普通の人間にあんな目が出来るはずがない。
 そんなことを思いながらベッド横の机の上にあるPCの電源を入れる。
「それじゃ、一時間くらい集中するから」
「うん、待ってる」
 操作可能な画面になったのを確認した後、持ち帰った荷物の中からCDを取り出して、それをPCの中に入れてその中身のソフトを起動させる。
 文書製作ソフトが立ち上がって、何万という文字がそこに表示された。
「私優君の書く小説好き」
 ニコニコとみつきがベッドから俺を見つめてそう言った。
 一日にほんの少しだけ書き進める、自作の小説。
 それを書いているときは完全にこのセカイを切り離すことが出来た。
 自分で作った世界、そしてその住人達に自分を移すことでこのセカイを忘れさせてくれる。
 キーボードに手を置いて指を動かし始める。
 何もなかった白紙のページが文字で埋まっていき、何もなかった世界が色鮮やかに変わっていった。それはただ俺一人が作り上げる世界。
 その中の人間は皆いきいきとしていて、心から仲間と笑いあったり、悲しんだりしていた。
 ただそんな彼らが羨ましかったのかもしれない。こんなくだらないセカイではない、幸せな世界に生きる彼らが。
 一時間はあっという間に過ぎていき、大体きりのいいところまでを書き終えて、保存ボタンを押してからPCの電源を落とす。画面は名残惜しそうに一度大きく輝いた後プツンと闇に飲まれていった。
「今回はどんなお話なの?」
「かなり前に書いたやつのリメイク。女の子とロボットの話書いただろ?」
「うん、あのお話も好き」
 子供のように綺麗な笑みを見るだけで書いていて良かったという気持ちになれる。同時に自分で発した言葉であのことを思い出し、とてつもない不快感を覚えた。
「…………」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
 今更思い出すこともないだろ。思い出したところでくだらない過去だ。
 頭でそう考えるのとはまったく逆に、記憶は鮮明によみがえってくる。
 それはいわば、俺がこのセカイを思う根源のようなもの。
 中学三年のときだ。あの時も同じようにお話を書いていた。周りが受験勉強に必死な最中で。
 そのときはまだ進学が確定していたわけではないが、内申の成績も実力も十分にあったので周りのように必死に勉強するようなこともなかった。
 主な遊び相手だった和哉も夏休みごろから勉強を始めて、それに伴って朋香や他の友達も勉強しだし遊ぶことがほとんど無くなった。
 その頃には部活も引退していたので実に暇だったわけだ。
 だから家に帰ると決まってパソコンの電源を入れて小説を書き始めたりしていた。あの時もみつきは笑顔でベッドに座りながら俺を見ていた。
 二ヵ月ほどで出来た作品は自分で見ても意外に出来がよく、みつきに読ませてみても中々の高評価だった。
 その世界は、どんな世界よりも輝いているように書けたと思う。そこには俺自身の夢が込められていた。
 当時中学生だったことを考えると世間的にそこまで良作であるとは思えないが、製作の努力分が点数に加算されていたのだろう。
 とにかくその作品をなんとなく適当なコンテストにでも送ってみようと思った。
 入賞とかそんなものは全然考えてもいなかったが、もしかしたらという思いでそれを印刷し、封筒に詰めて送ろうとした。
 だがタイミングが悪かった。祝日だったその日は父も母も休みで、俺が原稿を郵便に届けに行こうとしたとき丁度二人が買い物から帰ってきた。
 母のただいまという声の後ろに居た父は、俺の手にもつ物を見て「なんだそれは」と訝しげに尋ねてきた。
「自分で書いた小説だよ」
「ずっと部屋に篭っていると思ったらそんなものを書いていたのか」
 そう言うと父はおもむろに俺から原稿を奪うとあっさりとそれを二つに破った。俺の夢を。
「お前はもう受験生だろ、周りが受験勉強を頑張っているのにお前は何をやっているんだ」
 顔を赤くして怒鳴る父の後ろでは母がわなわなと震えて、
「優、どうしてそんなものを」
 青い顔でヒステリック気味に母はそれだけを呟いた。
「こんなくだらない物を書く暇があったら勉強しろ、周りから置いていかれたくなかったらな」
 そう言って父がリビングに入っていった後、ガコンという鈍い音が耳に入った。乱暴に夢がゴミ箱へ捨てられた音。
 それに詰まっていたはずの夢や希望等といった物は、ゴミ同然に扱われた。
 父も母も異常なほど過敏に世間の目を気にする人間だ。このときも息子が受験戦争の中で遊び呆けていたなどとは信じたくなかったのだろう。
 加えて俺への期待も人一倍大きく、甘やかすようなことはなかった。例え学校のテストで九十点を取ってきたとしても何故百点を取れなかったんだと罵られるほどに。
 それも二人とも思考の古い人だから、受験生は勉強を必死にしているイメージしかないのかもしれない。
 狂った声と裂かれた夢。震える声、捨てられた希望。
 くだらないと罵られた物。それはいわば俺自身。
 ただその場に立ち尽くすしかなかった。
 しばらくの間動けずにいた。母がその場を去って行った後もずっと。
 ようやく動くことが出来たのはみつきの「優君、戻ろう」という声が聞こえてからだった。
 データ上の原稿は残っている。もう一度文章データを印刷すればいいだけだ。
 しかしそれはできなかった。実の親にそんなものと言われ、くだらないと吐き捨てられたものを、また作り出す事はできなかった。
 部屋に戻った後もただうなだれるだけ。何かみつきが励まそうと言ってくれているはずなのに、それは俺の「くだらない、くだらない」という呟きにかき消されていた。
 その日からだ、俺が親との距離を置くようになったのは。それを親だとは思いたくなかった。親っていうのはもっと子を愛する生き物だと思っていた。
 あの行動が愛であるはずが無い。
 その日からこのセカイを拒絶するようになった。和泉優という存在を認めてくれなかったこのセカイを。
「優君? 優君?」
 俺の手に自分の手を当てて心配そうな顔でみつきが俺を見ていた。
「大丈夫? すごく苦しそうな顔してたよ」
 いつの間にか自分の世界に入り込んでいたらしい。
「悪い、大丈夫だから心配するな」
 と頭を撫でるとその顔は笑顔に戻って可愛らしく「うん」と頷いた。
「書き終わったら真っ先に見せるから、しっかり感想くれよ」
 撫でながらそう言うとやはり嬉しそうに「うん」と頷いてみせた。
「それじゃ俺風呂入ってくるわ」
「いってらっしゃい」
 立ち上がって部屋の扉に手をかける。俺はもう一度、そのセカイへと入っていった。

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