「いらっしゃいませ」
営業スマイル全開に迎えられてデパートの一階にある喫茶店に入った。駅前とは違って人は少なく、ランチタイムもとうの昔に過ぎているので更に人が少なかった。
店内を案内されて席に付いた後、オムライスとコーヒー、それと食後にこの店の目玉らしいストローベリーパフェを頼んだ。
デパート内は割と人の話し声や店員の客寄せなどで騒がしかったりするのだが、この店は防音でもしているのかそんな音はほとんど聞こえてこず、天井に設置されたスピーカーから穏やかなBGMが店内を包んでいた。
「たまにはこういう店もいいな」
「うん、なんか落ち着く感じがする」
「デザートもうまそうだし、また来るか」
「あんまり甘いもの食べ過ぎると太っちゃうよ」
「はは、朋香とかこういうパフェ好きだからな、あいつが太らないか心配だ。一度食べたらまた来そうだし」
「そんなの失礼だよ」
注文した品が届いてからもそんな感じの会話は尽きなかった。ただ話していることが楽しくて嬉しくて、どうしようもなくくだらない話題でも笑うことが出来た。
料理のほうはというと、オムライスはうまかったしコーヒーも香りは抜群だったしパフェは最高だった。
また来よう、次は和哉と朋香も連れてきてやろうか。
そう思いながら喫茶店を出てからエスカレーターを昇って本屋へ行く。
三階フロアの一角、知っていなければ気づかないほど小さな本屋には人の数も店の大きさに比例して少なく、店主らしき新聞を読んでいるお婆さん女の子の二人だけ。
ちゃんと経営できてるのかなと心配したくなるその店で前から集めているシリーズの最新刊を買おうと思っていたのだが、残念なことに棚には並んでいなかった。在庫にはあるのかもしれないが出してきてくれとお婆さんに頼むのも面倒だったので、買う予定はなかったがほしいとは思っていた本を一つ手に取ってレジまで持っていく。女の子は随分大きな音で聞いているらしくヘッドフォンからは音が漏れまくっていた。
代金を支払い本を鞄に詰めて店を出る。
そこでそれ以上行くあてが無いことを思い出した。さてどうするか。
「そうだ、みつき」
「ん、何?」
「明日行きたいって行ってたやつなんだけど、明日じゃないといやか? 今からならまだ――」
途中で言葉を止めたのはみつきがふるふると首を振っていることに気づいたからだ。目を瞑って一生懸命に俺の言葉を否定していた。
「ごめん優君、今日じゃなくて明日がいい、ごめん、わがままだけど」
何度もごめんと謝る彼女を見ているとすごく悪いことをした気がしてくる。
みつきが今までに俺の言うことを否定することはほとんどなかった。何を言っても彼女は素直に頷いてくれて、それが普通だった。
だからきっと、今のみつきはひどい罪悪感のようなものを抱いているのだろう。
頭に手をぽんと置いて撫でてやると、落ち着いたらしく身を預けてきた。
「悪い、そうだよな、珍しくみつきが自分から行きたいって言った場所だもんな。絶対連れてってやるから、な? 全然わがままだなんて思ってねえよ。謝ることもないし、だからそんな泣きそうな顔すんな」
「うん」
その声がとても愛らしかった。やっぱり笑ってるほうがいいって、絶対。
「そうだ、じゃあ今どこに行きたい?」
「え、今?」
「別に俺行きたいとこ無いし、どこか無いか?」
「えっと、ちょっと待ってね、えっと……」
そのまましばらく固まってしまった。さっきとは違う意味で目をぎゅっと瞑ってうんうんと頭を唸らせていた、が結局何も出てこなかった。
「ごめんね優君」
申し訳なさそうにみつきは言うが、別に困る事は無い。最初から予定はなかったのだから。
もう一度柔らかな栗色の髪の毛を撫でた後、「それじゃ適当に歩こうか」と言ってデパート内から歩くことにした。
別に何かを買うつもりはない、ただ歩くだけだ。
最初に洋服屋を見て回ると、少し歩くたびにみつきがあれが可愛い、これが優君に似合いそうと楽しそうに洋服を見ていた。選ぶ服の大体が白っぽく、俺に似合いそうと言った服も雪のような白色をしていたのだが、俺には似合わないんじゃないだろうかと思った。鏡を見ても黒いこの服を着ている自分しか想像が出来ないくらいなのだから。その服を着た俺をみつきはどんな風に想像しているのだろう。
それから一つエスカレーターを降りて二階のゲームショップへ行く。何をするわけでもないが、なんとなくだ。
体験版ゲームコーナーからは様々な音が飛び出していてそこはとても賑やかだった。少し時間が遅いせいかいつもは小さな子供達で溢れているゲームの前には誰もいなかった。ただすぐ近くに設置されたベンチで同世代と思われる少年が堂々と寝そべっていた。こんなところで寝ていて恥ずかしくはないのだろうか?
「優君はあんなことしちゃ駄目だよ」
「……流石にしないと思うぞ。みっともないし」
少年を一瞥した後、同じフロアの家具屋で本棚を色々と見て回ってデパートを出た。
行く当てもなくただのんびりと歩いていると、いつの間にか小学校の前に来ていて、せっかくだから寄って行くことにした。
冬休みという時期と薄暗い雲模様が相まって校内はひどく静かだった。
大型の連休ともなると暇をもてあます小学生達がグラウンドで遊んでいたりしても良さそうなのだが、そんな声は全く聞こえて来ない。
ただ通り過ぎる冬の風がすっかり落ちきったイチョウの葉を渦巻いて遊んでいた。
数年ぶりに入った小学校は卒業した時のまま、しかし自分が大きくなったせいで色々なものが小さく見えた。花壇やウサギ小屋や下駄箱。
校舎や体育館は相変わらず大きかったけれど、やはり昔よりも小さかった。
「小学校なんて懐かしいね」
四棟並んだ校舎の間を歩きながら昔を思い出す。花壇の横ではいつも追いかけっこをしたりしていて、グラウンドでドッチボールをしたりしていた。
大きくなってからの小学校は不思議な感じがする。時間が戻ったような、そんな感覚。
「あの時は馬鹿ばっかりやってたな」
本当に今思えば恥ずかしい記憶ばかりだ。しかしそれすらもこの場所は懐かしい思い出に変えてくれていた。
「アサガオの話覚えてるか?」
「覚えてる、交代で水遣り当番するの。でも優君も和哉君もずっと忘れてて枯れちゃったんだよね」
「あの時は先生に怒られたよな、それでよせばいいのにみつきも一緒に怒られてて」
「だってあれは、私も忘れてた、から」
言葉は尻すぼみでしょんぼりとしていたが、どこか照れくさそうな顔で、俺と同じように昔を懐かしんでいた。
「俺達のときって四十人の二クラスだっただろ?」
「うん、そうだった」
「もう今は三十五人の一クラスだってさ」
「……少ないね」
「あぁ、少ないな」
「廃校、になっちゃうのかな」
「当分は大丈夫だろうけど、そのうちにはなるだろうな」
「……なんか嫌だね、そういうの」
「嫌だな、でも仕方ないんじゃね、変わらない物はないってことだろ」
「それはそうだけど……」
そのままみつきはうつむき加減で残念そうな表情をしていた。
すぐではない、しかし近い将来にそれはやってくるだろう。
変わらない物は無い。それは自分で言った以上に重くのしかかっていた。
分かってるさ、変わらない物がないくらい。分かっていても、どうしようもないことだろ。どんなに抗ったところでそれはいつかやってくる。例えば、死。
逃げようの無い、決して変えられない運命。
だからこそ人は必死に抗ってみせた。何年も掛けて死を遠ざけた。それでも、いつかはそのときが来る。
それが分かっているからこそ今を頑張って生きているんだろう。誰かが言っていた、人生は線香花火のようなものだと。
俺は今、光を放っているだろうか?
「寒くなってきたね」
携帯で確認すると時計は四時半を越えたところで、日は暗くなり始めていた。雲の分厚さのおかげで普段よりもずっと暗く感じられる。
「それじゃ、帰ろうか」
「うん」
並んで校門を出て小学校を後にする。また来ようと、さっきとは違う思いでそう誓った。
とぼとぼと家に帰って、その頃にはもう空は暗くなっていた。
中に入ると珍しく母は飛んでこず、代わりにリビングのほうで母の声が聞こえた。積極的に関わりたくはなかったのでそろりとリビングに入ると母と父は何かを必死に話し合っていて俺に気づく様子はなかった。好都合だ。
そのまま部屋に戻って息をつく。今度は自分から照明をつけて、そのままベッドに身を投げる。
「お疲れさま」
みつきは優しくそう言ってベッドのに座った。
「別に疲れてるわけじゃないけどな、いつもはこの十倍は動き回ってたわけだし」
どちらかというと精神的な面が大きい。ほんの二、三時間歩いただけなのにいろんなことがあった気がした。
「お昼のパフェ美味しかった?」
「うまかった、特にソースが良かったな」
「次は朋香ちゃん達と行きたいね」
家に帰っても話題に困る事はなかった。みつきだから落ち着ける。みつきだから小さなことでも笑えたりする。ここがセカイの中ということも忘れて。
突然母が部屋入ってきたのは俺達がベンチで寝ていた少年のことを話していたときだった。
ノックもせずに、母はどこか喜びに満ちた表情で進入してきた。ついにノックもしなくなったかと自分ですら聞こえない舌打ちをした。
「優、聞いて!」
表情と同じくその声も弾んでいた。対照に俺の表情は曇る一方。
「明日と明後日、一泊二日で旅行に行くことにしたわ! 行き先は福井! スキーで楽しむわよ! だから予定は空けといてね!」
それだけ言うと母は鼻歌でも歌いながら部屋を出て行った。
ドアを閉めていけよ、なんてことは全く、欠片も思うことが出来なかった。
「……は?」
ただそれだけが出てきた。意味が分からない。
理解が出来なかった。頭が理解することを拒んでいた。
旅行? 何の話だ?
隣では同じようにみつきが強張った表情で開いたドアのほうを見ている。
耐え切れないほどの沈黙がそこにはあった。
今までにも家族旅行と称した親の娯楽に何度もつき合わされてきた。俺は行きたくないと思っているのだが、ほとんど連行されるように連れて行かされる。
嫌々ながら連れて行かれた先でみつきはいつも励ましてくれていたりした。
「お母さん達も優君と遊びに行きたかったんだよ」
そう思うしかなかった。それだけが救いだった。
でも今は――
何も言うことが出来ず、ただドアを馬鹿みたいに見つめることしか出来なかった。
その沈黙を破ったのはみつきの言葉。
「あはは、旅行、だって」
今にも空気に溶けてしまいそうな細い声は、震えていた。
俺はそれに答えることも出来なかった。
「楽しそうだよね、スキーって。私はやったことないけど、雪の上を滑るんだよ。かっこいい、よね」
ただうつむいて、ただ小さく漏れるその言葉は、濡れていた。
明日から旅行? いくらなんでも、突然すぎるじゃないか。何がスキーで楽しむだ。俺はもう、楽しみを見つけていたのに。
「優君の滑ってるところ見たいなぁ、それにほら、向こうでも行きたいところとかあるかもしれないし」
違う、そんなところじゃだめだ。みつきが行きたいと言った場所はそこじゃない。
俺は右手で顔を鷲掴みにして、こみ上げてくる感情を押さえ込んでいた。そうしないと、今すぐにでも殴りに行ってしまいそうだったから。
「私、雪好きだよ。こっちじゃあんまり降らないけど、あっちは一杯積もってるんだろうな」
「…………」
「だから、大丈夫。元々は私のわがままだったんだもん。全然平気だよ」
「……平気な奴が、そんな声出すかよ」
「……仕方、ないよ。だって、お母さん達も、優君のために……」
泣いていた声は、やがて嗚咽に変わった。
俺にしがみついて頬を濡らす少女は、ひどく小さく見えた。
「ごめん……ごめんね優君……ごめん……」
いつかの暖かい気持ちになれるごめんなどではない。それは、悲しみに満ちていた。
ごめん……私が勝手に言ったわがままなのに……迷惑かける……ごめん……
胸元で溢れる涙とこぼれる声を、ただ感じることしか出来なかった。
右手を頭から離し、ほとんど抱きかかえるように栗色の髪を撫でた。
しばらく泣き続けた後、みつきは倒れるように眠り込んでしまった。幸せな眠りではない、ずっとずっと辛い眠り。
みつきをベッドに丁寧に寝かせた後、押し寄せる感情の波を抑えつけながら夕食を取った。夕食は、何の味もしなかった。耳障りな父の音も、何も耳には入ってこなかった。
頭の中で色々な思いがどす黒く渦巻いて気持ちが悪い。
風呂に入ってもその思いを洗い流すことは出来なかった。
だから今部屋で携帯を手にしている。わかってるさ、こんなものは八つ当たりだ。
番号を押すと携帯はルルルと軽い音を出して、すぐに相手を呼び出した。
「よう、俺だけど」
『おう、どうした』
電話からは当たり前のように和哉の声がした。
「まぁ聞いてくれよ相棒」
『早く言え』
何を言おうとしている? 言ってどうする?
抑えこんだはずの黒い思いがまた動き出した。
それで何か変わるのか? お前は変えることができるのか?
「実はさっき親が部屋に入ってきて“明日から旅行行くぞ、一泊二日くらいで”とか言い出すんだぜ。どう思うよ。明日は遊びに行くつもりだったのにさ」
わかってる、わかってるさ、こんな事は無意味だ。
でも、そうでもしないと、自分を抑えていられる自信がなかった。
『あ、あぁ実はそれな――』
「ほんとにもう参っちゃうよな、俺の予定も考えてほしいっての、マジで参ったよ、ははは」
和哉が何かを言おうとしたが、俺はどうしようもないことなのだと自分に言い聞かせるので必死だった。
そんな自分を誰かに見ていてほしかったのかもしれない。俺が暴走しないように。
それから何を話したかはよく覚えていない。くだらないことばかりだった気がする。
「じゃあな。夜に愚痴の電話して悪かった」
そう言って電話を切ってから、急に冷静さを取り戻し始めた。
和哉に色々吐き出して気が楽にでもなったのだろうか。
最低だな。
黒い思いと俺の考えが一致した。本当に最低だ。親友を吐き口に使うなんて。
それは俺がこのセカイの住人であると言っていた。この腐ったセカイの。
どうすることも出来ない。ただ流されていくだけだ。
月の無い空の下で、小さな呻き声が一つ――
ほとんど拉致されるように家を連れ出されたのは翌日の早朝。
昨日の晩に荷物を車に移していたらしく、人間が乗り込むとそれはすぐに動きだした。
八人乗りのワゴン。
運転席に父、助手席に母、二列目に修が座って、三列目に俺とみつき。
久しぶりの勉強からの解放と遊びへの思いで修の顔は喜びに溢れ、運転席と助手席の間に身を乗り出して三人で楽しそうに何かを話している。
とてもそんな気分にはなれなかった。
「大丈夫優君? 顔色悪いよ」
思えばいつも心配されてばっかりだな。不安げな顔をするみつきに微笑んで大丈夫だよと言ったが、本当に笑えていたかは分からない。
そのまま何を話すわけでもなく、車に揺られ続け、次第に外の景色には白い積雪が見え始めてお昼ごろにはスキー場へ到着していた。
言われるがままに車を降りると、目もくらむほど眩しい銀色の山々に囲まれたゲレンデが見えた。
「よーし、早速着替えて行くぞ、昼飯はリフトで上がったところにある小屋でうどんでも食おう」
父が高らかにそう言うと車から荷物を取り出してゲレンデの下にある木造の建物に入っていった。その後を子犬のように修が追いかける。
走ると危ないわよと言いながら母が後に続き、俺とみつきがゆっくりと建物のほうへ歩いていった。
レストランや売店で賑わっている建物の中にある更衣室に父と修が元気に飛び込んで行き、母も向かおうとしたときに俺の表情に気づいた。
「優、大丈夫?」
心配でもしているのだろうか。そうさせた人が。
「実は体調が良くないようで、休んでいて良いですか」
「あら、そうだったの、どうしよう、私も一緒に居ようか?」
「いえ、構わずに遊んできてください」
そう言うと母は少し考えた顔をした後、
「それじゃあ、お金渡すからそれで適当に食べてね、お土産とかも好きに買ってて良いから」
俺に一万円を託して更衣室のほうへ歩いていった。
だだっ広いフロアの真ん中。人の話し声。流れるラジオ放送。
とりあえずどっか座るか。
ゲレンデを見上げることができるレストランの中に入って適当にメニューを注文して一息ついた。
お昼時ということもあって店内は賑わっている。料理室のほうでは忙しそうにシェフが手を動かしていた。
「ねえ優君」
「ん?」
ウエイターが持ってきた水に口をつけながら答える。
「本当に大丈夫? 辛いなら横になったほうが……」
「大丈夫大丈夫、嘘だから」
完全な嘘といえば間違いだが少なくとも肉体的な疲労やだるさは無い。
しかしみつきは心底驚いた様子で目をパチクリさせていた。
「え、そうなの? なんで嘘なんて――」
「だってみつきは滑れないだろ?」
「別に構わなくても平気だよ、私待ってるから」
「はは、俺がそうしたいんだって」
するとみつきは目を伏せて恥ずかしげに「……ありがとう」と呟いた。そう言われるとこっちまで恥ずかしくなってくる。
注文したナポリタンを食べ終え、デザートのフルーツパフェをゆっくりと完食して食後のコーヒーを飲んで、後は席に座ってみつきといつものようにおしゃべりをしていた。
「これから何するの?」
「予定も無いしどうすっかなぁ」
「じゃあお土産見ようよ、和哉君達の」
「他にやることも無いしな、そうするか」
レストランを出た後、同じ建物内にある土産屋を見て回った。
この土産屋というのがなかなか広くてまず建物の一階の三分の一が土産屋であり、二階フロアは全て土産屋である。
そんなに土産になるもんあるのかよ……
そう突っ込みたくなったが、時間を潰すには丁度いい。
一階のを見回った後、二階に上って全てを一つずつ見て回るだけで二時間、さらにアレがいいコレがいいなどともう一度巡回するのに一時間。
土産を選んで購入する頃には午後四時を軽く回っていた。
「みつきってさ、趣味おかしいと思うぞ」
買ったばかりの土産を手の中で遊ばせながら言った。
「そんなことない、と思うけどなぁ」
言葉が尻すぼみなのは多少自覚しているのか、それとも俺がそう言ったからなのかは分からない。
しかし、これはなんだろう。
赤いリボンをつけた猫のマスコットが恐竜の着ぐるみを着たぬいぐるみ。以前UFOキャッチャーで取ったあれよりかは随分まともだが、それでもおかしい。
「可愛くない、かな?」
「…………」
全然可愛くねえ、とは言えず黙っておくしかなかった。だがみつきはその意味を捕らえたらしく、恥ずかしそうに下を向いた。
朋香は喜ぶかもしれないが、和哉どうだろうな。あいつの困った顔が想像できる。それはそれでありかもしれないな。
そんな事をしている間に時間は過ぎて、両親達が帰ってきた。
世界がセカイに変わる。
更衣室で彼らが着替えた後、再び車に乗り込んでホテルへ向かった。
十階建てくらいありそうなホテルにチェックインした後、七階の洋室に荷物を投げてすぐに夕食のためレストランへ向かった。流石にこのときばっかりは母も夕食を共にしたのだが、バイキング形式のそれは美味しくもなんともなかった。
部屋に戻ってから、彼らはホテルの自慢らしい浴場へ向かい、俺は引き続き気分が悪いと言って部屋に残ることにする。
一応部屋にもバスルームがあったので、そこでシャワーを浴びた。
シャワーも済ませ、部屋に備え付けられている浴衣は着ずに親が持ってきた替えの服に着替えた頃には時間は七時を回り、空は闇に溢れている。
本当なら、今頃はみつきと約束の場所にいるはずだった。
二人でそこで一緒に笑っているはずだった。
忘れようとしていた感情がむくむくと膨らみだす。夜の暗さが後押しするように、それは加速度的に大きくなっていった。
黒の思いが騒ぎ出す。
お前は、こんなところで何をしている? 約束したじゃないか、絶対連れて行くって。忘れようとしていた? それは約束を? それとも、みつきのことを? 間違えるなよ、今日お前が笑えたのは誰のおかげだ? お前は何をしてやれた? 何をしようとした?
仕方がないだろ、これは一種の運命だ、どうしようもない。
動く前からノックアウトか? まだスタート地点にすら立っていないぞ? お前でもやれることがあるだろう、例えば――――
…………いいな、それ。
「優、君?」
みつき。唯一このセカイから俺を救ってくれる存在。それは何よりもの最優先事項のはずだ。
迷う必要なんてなかった。
どうしてこんなことに気づかなかったのだろう。
みつきの髪を優しく撫でて、笑みを返した後、それを実行することを決意した。
営業スマイル全開に迎えられてデパートの一階にある喫茶店に入った。駅前とは違って人は少なく、ランチタイムもとうの昔に過ぎているので更に人が少なかった。
店内を案内されて席に付いた後、オムライスとコーヒー、それと食後にこの店の目玉らしいストローベリーパフェを頼んだ。
デパート内は割と人の話し声や店員の客寄せなどで騒がしかったりするのだが、この店は防音でもしているのかそんな音はほとんど聞こえてこず、天井に設置されたスピーカーから穏やかなBGMが店内を包んでいた。
「たまにはこういう店もいいな」
「うん、なんか落ち着く感じがする」
「デザートもうまそうだし、また来るか」
「あんまり甘いもの食べ過ぎると太っちゃうよ」
「はは、朋香とかこういうパフェ好きだからな、あいつが太らないか心配だ。一度食べたらまた来そうだし」
「そんなの失礼だよ」
注文した品が届いてからもそんな感じの会話は尽きなかった。ただ話していることが楽しくて嬉しくて、どうしようもなくくだらない話題でも笑うことが出来た。
料理のほうはというと、オムライスはうまかったしコーヒーも香りは抜群だったしパフェは最高だった。
また来よう、次は和哉と朋香も連れてきてやろうか。
そう思いながら喫茶店を出てからエスカレーターを昇って本屋へ行く。
三階フロアの一角、知っていなければ気づかないほど小さな本屋には人の数も店の大きさに比例して少なく、店主らしき新聞を読んでいるお婆さん女の子の二人だけ。
ちゃんと経営できてるのかなと心配したくなるその店で前から集めているシリーズの最新刊を買おうと思っていたのだが、残念なことに棚には並んでいなかった。在庫にはあるのかもしれないが出してきてくれとお婆さんに頼むのも面倒だったので、買う予定はなかったがほしいとは思っていた本を一つ手に取ってレジまで持っていく。女の子は随分大きな音で聞いているらしくヘッドフォンからは音が漏れまくっていた。
代金を支払い本を鞄に詰めて店を出る。
そこでそれ以上行くあてが無いことを思い出した。さてどうするか。
「そうだ、みつき」
「ん、何?」
「明日行きたいって行ってたやつなんだけど、明日じゃないといやか? 今からならまだ――」
途中で言葉を止めたのはみつきがふるふると首を振っていることに気づいたからだ。目を瞑って一生懸命に俺の言葉を否定していた。
「ごめん優君、今日じゃなくて明日がいい、ごめん、わがままだけど」
何度もごめんと謝る彼女を見ているとすごく悪いことをした気がしてくる。
みつきが今までに俺の言うことを否定することはほとんどなかった。何を言っても彼女は素直に頷いてくれて、それが普通だった。
だからきっと、今のみつきはひどい罪悪感のようなものを抱いているのだろう。
頭に手をぽんと置いて撫でてやると、落ち着いたらしく身を預けてきた。
「悪い、そうだよな、珍しくみつきが自分から行きたいって言った場所だもんな。絶対連れてってやるから、な? 全然わがままだなんて思ってねえよ。謝ることもないし、だからそんな泣きそうな顔すんな」
「うん」
その声がとても愛らしかった。やっぱり笑ってるほうがいいって、絶対。
「そうだ、じゃあ今どこに行きたい?」
「え、今?」
「別に俺行きたいとこ無いし、どこか無いか?」
「えっと、ちょっと待ってね、えっと……」
そのまましばらく固まってしまった。さっきとは違う意味で目をぎゅっと瞑ってうんうんと頭を唸らせていた、が結局何も出てこなかった。
「ごめんね優君」
申し訳なさそうにみつきは言うが、別に困る事は無い。最初から予定はなかったのだから。
もう一度柔らかな栗色の髪の毛を撫でた後、「それじゃ適当に歩こうか」と言ってデパート内から歩くことにした。
別に何かを買うつもりはない、ただ歩くだけだ。
最初に洋服屋を見て回ると、少し歩くたびにみつきがあれが可愛い、これが優君に似合いそうと楽しそうに洋服を見ていた。選ぶ服の大体が白っぽく、俺に似合いそうと言った服も雪のような白色をしていたのだが、俺には似合わないんじゃないだろうかと思った。鏡を見ても黒いこの服を着ている自分しか想像が出来ないくらいなのだから。その服を着た俺をみつきはどんな風に想像しているのだろう。
それから一つエスカレーターを降りて二階のゲームショップへ行く。何をするわけでもないが、なんとなくだ。
体験版ゲームコーナーからは様々な音が飛び出していてそこはとても賑やかだった。少し時間が遅いせいかいつもは小さな子供達で溢れているゲームの前には誰もいなかった。ただすぐ近くに設置されたベンチで同世代と思われる少年が堂々と寝そべっていた。こんなところで寝ていて恥ずかしくはないのだろうか?
「優君はあんなことしちゃ駄目だよ」
「……流石にしないと思うぞ。みっともないし」
少年を一瞥した後、同じフロアの家具屋で本棚を色々と見て回ってデパートを出た。
行く当てもなくただのんびりと歩いていると、いつの間にか小学校の前に来ていて、せっかくだから寄って行くことにした。
冬休みという時期と薄暗い雲模様が相まって校内はひどく静かだった。
大型の連休ともなると暇をもてあます小学生達がグラウンドで遊んでいたりしても良さそうなのだが、そんな声は全く聞こえて来ない。
ただ通り過ぎる冬の風がすっかり落ちきったイチョウの葉を渦巻いて遊んでいた。
数年ぶりに入った小学校は卒業した時のまま、しかし自分が大きくなったせいで色々なものが小さく見えた。花壇やウサギ小屋や下駄箱。
校舎や体育館は相変わらず大きかったけれど、やはり昔よりも小さかった。
「小学校なんて懐かしいね」
四棟並んだ校舎の間を歩きながら昔を思い出す。花壇の横ではいつも追いかけっこをしたりしていて、グラウンドでドッチボールをしたりしていた。
大きくなってからの小学校は不思議な感じがする。時間が戻ったような、そんな感覚。
「あの時は馬鹿ばっかりやってたな」
本当に今思えば恥ずかしい記憶ばかりだ。しかしそれすらもこの場所は懐かしい思い出に変えてくれていた。
「アサガオの話覚えてるか?」
「覚えてる、交代で水遣り当番するの。でも優君も和哉君もずっと忘れてて枯れちゃったんだよね」
「あの時は先生に怒られたよな、それでよせばいいのにみつきも一緒に怒られてて」
「だってあれは、私も忘れてた、から」
言葉は尻すぼみでしょんぼりとしていたが、どこか照れくさそうな顔で、俺と同じように昔を懐かしんでいた。
「俺達のときって四十人の二クラスだっただろ?」
「うん、そうだった」
「もう今は三十五人の一クラスだってさ」
「……少ないね」
「あぁ、少ないな」
「廃校、になっちゃうのかな」
「当分は大丈夫だろうけど、そのうちにはなるだろうな」
「……なんか嫌だね、そういうの」
「嫌だな、でも仕方ないんじゃね、変わらない物はないってことだろ」
「それはそうだけど……」
そのままみつきはうつむき加減で残念そうな表情をしていた。
すぐではない、しかし近い将来にそれはやってくるだろう。
変わらない物は無い。それは自分で言った以上に重くのしかかっていた。
分かってるさ、変わらない物がないくらい。分かっていても、どうしようもないことだろ。どんなに抗ったところでそれはいつかやってくる。例えば、死。
逃げようの無い、決して変えられない運命。
だからこそ人は必死に抗ってみせた。何年も掛けて死を遠ざけた。それでも、いつかはそのときが来る。
それが分かっているからこそ今を頑張って生きているんだろう。誰かが言っていた、人生は線香花火のようなものだと。
俺は今、光を放っているだろうか?
「寒くなってきたね」
携帯で確認すると時計は四時半を越えたところで、日は暗くなり始めていた。雲の分厚さのおかげで普段よりもずっと暗く感じられる。
「それじゃ、帰ろうか」
「うん」
並んで校門を出て小学校を後にする。また来ようと、さっきとは違う思いでそう誓った。
とぼとぼと家に帰って、その頃にはもう空は暗くなっていた。
中に入ると珍しく母は飛んでこず、代わりにリビングのほうで母の声が聞こえた。積極的に関わりたくはなかったのでそろりとリビングに入ると母と父は何かを必死に話し合っていて俺に気づく様子はなかった。好都合だ。
そのまま部屋に戻って息をつく。今度は自分から照明をつけて、そのままベッドに身を投げる。
「お疲れさま」
みつきは優しくそう言ってベッドのに座った。
「別に疲れてるわけじゃないけどな、いつもはこの十倍は動き回ってたわけだし」
どちらかというと精神的な面が大きい。ほんの二、三時間歩いただけなのにいろんなことがあった気がした。
「お昼のパフェ美味しかった?」
「うまかった、特にソースが良かったな」
「次は朋香ちゃん達と行きたいね」
家に帰っても話題に困る事はなかった。みつきだから落ち着ける。みつきだから小さなことでも笑えたりする。ここがセカイの中ということも忘れて。
突然母が部屋入ってきたのは俺達がベンチで寝ていた少年のことを話していたときだった。
ノックもせずに、母はどこか喜びに満ちた表情で進入してきた。ついにノックもしなくなったかと自分ですら聞こえない舌打ちをした。
「優、聞いて!」
表情と同じくその声も弾んでいた。対照に俺の表情は曇る一方。
「明日と明後日、一泊二日で旅行に行くことにしたわ! 行き先は福井! スキーで楽しむわよ! だから予定は空けといてね!」
それだけ言うと母は鼻歌でも歌いながら部屋を出て行った。
ドアを閉めていけよ、なんてことは全く、欠片も思うことが出来なかった。
「……は?」
ただそれだけが出てきた。意味が分からない。
理解が出来なかった。頭が理解することを拒んでいた。
旅行? 何の話だ?
隣では同じようにみつきが強張った表情で開いたドアのほうを見ている。
耐え切れないほどの沈黙がそこにはあった。
今までにも家族旅行と称した親の娯楽に何度もつき合わされてきた。俺は行きたくないと思っているのだが、ほとんど連行されるように連れて行かされる。
嫌々ながら連れて行かれた先でみつきはいつも励ましてくれていたりした。
「お母さん達も優君と遊びに行きたかったんだよ」
そう思うしかなかった。それだけが救いだった。
でも今は――
何も言うことが出来ず、ただドアを馬鹿みたいに見つめることしか出来なかった。
その沈黙を破ったのはみつきの言葉。
「あはは、旅行、だって」
今にも空気に溶けてしまいそうな細い声は、震えていた。
俺はそれに答えることも出来なかった。
「楽しそうだよね、スキーって。私はやったことないけど、雪の上を滑るんだよ。かっこいい、よね」
ただうつむいて、ただ小さく漏れるその言葉は、濡れていた。
明日から旅行? いくらなんでも、突然すぎるじゃないか。何がスキーで楽しむだ。俺はもう、楽しみを見つけていたのに。
「優君の滑ってるところ見たいなぁ、それにほら、向こうでも行きたいところとかあるかもしれないし」
違う、そんなところじゃだめだ。みつきが行きたいと言った場所はそこじゃない。
俺は右手で顔を鷲掴みにして、こみ上げてくる感情を押さえ込んでいた。そうしないと、今すぐにでも殴りに行ってしまいそうだったから。
「私、雪好きだよ。こっちじゃあんまり降らないけど、あっちは一杯積もってるんだろうな」
「…………」
「だから、大丈夫。元々は私のわがままだったんだもん。全然平気だよ」
「……平気な奴が、そんな声出すかよ」
「……仕方、ないよ。だって、お母さん達も、優君のために……」
泣いていた声は、やがて嗚咽に変わった。
俺にしがみついて頬を濡らす少女は、ひどく小さく見えた。
「ごめん……ごめんね優君……ごめん……」
いつかの暖かい気持ちになれるごめんなどではない。それは、悲しみに満ちていた。
ごめん……私が勝手に言ったわがままなのに……迷惑かける……ごめん……
胸元で溢れる涙とこぼれる声を、ただ感じることしか出来なかった。
右手を頭から離し、ほとんど抱きかかえるように栗色の髪を撫でた。
しばらく泣き続けた後、みつきは倒れるように眠り込んでしまった。幸せな眠りではない、ずっとずっと辛い眠り。
みつきをベッドに丁寧に寝かせた後、押し寄せる感情の波を抑えつけながら夕食を取った。夕食は、何の味もしなかった。耳障りな父の音も、何も耳には入ってこなかった。
頭の中で色々な思いがどす黒く渦巻いて気持ちが悪い。
風呂に入ってもその思いを洗い流すことは出来なかった。
だから今部屋で携帯を手にしている。わかってるさ、こんなものは八つ当たりだ。
番号を押すと携帯はルルルと軽い音を出して、すぐに相手を呼び出した。
「よう、俺だけど」
『おう、どうした』
電話からは当たり前のように和哉の声がした。
「まぁ聞いてくれよ相棒」
『早く言え』
何を言おうとしている? 言ってどうする?
抑えこんだはずの黒い思いがまた動き出した。
それで何か変わるのか? お前は変えることができるのか?
「実はさっき親が部屋に入ってきて“明日から旅行行くぞ、一泊二日くらいで”とか言い出すんだぜ。どう思うよ。明日は遊びに行くつもりだったのにさ」
わかってる、わかってるさ、こんな事は無意味だ。
でも、そうでもしないと、自分を抑えていられる自信がなかった。
『あ、あぁ実はそれな――』
「ほんとにもう参っちゃうよな、俺の予定も考えてほしいっての、マジで参ったよ、ははは」
和哉が何かを言おうとしたが、俺はどうしようもないことなのだと自分に言い聞かせるので必死だった。
そんな自分を誰かに見ていてほしかったのかもしれない。俺が暴走しないように。
それから何を話したかはよく覚えていない。くだらないことばかりだった気がする。
「じゃあな。夜に愚痴の電話して悪かった」
そう言って電話を切ってから、急に冷静さを取り戻し始めた。
和哉に色々吐き出して気が楽にでもなったのだろうか。
最低だな。
黒い思いと俺の考えが一致した。本当に最低だ。親友を吐き口に使うなんて。
それは俺がこのセカイの住人であると言っていた。この腐ったセカイの。
どうすることも出来ない。ただ流されていくだけだ。
月の無い空の下で、小さな呻き声が一つ――
ほとんど拉致されるように家を連れ出されたのは翌日の早朝。
昨日の晩に荷物を車に移していたらしく、人間が乗り込むとそれはすぐに動きだした。
八人乗りのワゴン。
運転席に父、助手席に母、二列目に修が座って、三列目に俺とみつき。
久しぶりの勉強からの解放と遊びへの思いで修の顔は喜びに溢れ、運転席と助手席の間に身を乗り出して三人で楽しそうに何かを話している。
とてもそんな気分にはなれなかった。
「大丈夫優君? 顔色悪いよ」
思えばいつも心配されてばっかりだな。不安げな顔をするみつきに微笑んで大丈夫だよと言ったが、本当に笑えていたかは分からない。
そのまま何を話すわけでもなく、車に揺られ続け、次第に外の景色には白い積雪が見え始めてお昼ごろにはスキー場へ到着していた。
言われるがままに車を降りると、目もくらむほど眩しい銀色の山々に囲まれたゲレンデが見えた。
「よーし、早速着替えて行くぞ、昼飯はリフトで上がったところにある小屋でうどんでも食おう」
父が高らかにそう言うと車から荷物を取り出してゲレンデの下にある木造の建物に入っていった。その後を子犬のように修が追いかける。
走ると危ないわよと言いながら母が後に続き、俺とみつきがゆっくりと建物のほうへ歩いていった。
レストランや売店で賑わっている建物の中にある更衣室に父と修が元気に飛び込んで行き、母も向かおうとしたときに俺の表情に気づいた。
「優、大丈夫?」
心配でもしているのだろうか。そうさせた人が。
「実は体調が良くないようで、休んでいて良いですか」
「あら、そうだったの、どうしよう、私も一緒に居ようか?」
「いえ、構わずに遊んできてください」
そう言うと母は少し考えた顔をした後、
「それじゃあ、お金渡すからそれで適当に食べてね、お土産とかも好きに買ってて良いから」
俺に一万円を託して更衣室のほうへ歩いていった。
だだっ広いフロアの真ん中。人の話し声。流れるラジオ放送。
とりあえずどっか座るか。
ゲレンデを見上げることができるレストランの中に入って適当にメニューを注文して一息ついた。
お昼時ということもあって店内は賑わっている。料理室のほうでは忙しそうにシェフが手を動かしていた。
「ねえ優君」
「ん?」
ウエイターが持ってきた水に口をつけながら答える。
「本当に大丈夫? 辛いなら横になったほうが……」
「大丈夫大丈夫、嘘だから」
完全な嘘といえば間違いだが少なくとも肉体的な疲労やだるさは無い。
しかしみつきは心底驚いた様子で目をパチクリさせていた。
「え、そうなの? なんで嘘なんて――」
「だってみつきは滑れないだろ?」
「別に構わなくても平気だよ、私待ってるから」
「はは、俺がそうしたいんだって」
するとみつきは目を伏せて恥ずかしげに「……ありがとう」と呟いた。そう言われるとこっちまで恥ずかしくなってくる。
注文したナポリタンを食べ終え、デザートのフルーツパフェをゆっくりと完食して食後のコーヒーを飲んで、後は席に座ってみつきといつものようにおしゃべりをしていた。
「これから何するの?」
「予定も無いしどうすっかなぁ」
「じゃあお土産見ようよ、和哉君達の」
「他にやることも無いしな、そうするか」
レストランを出た後、同じ建物内にある土産屋を見て回った。
この土産屋というのがなかなか広くてまず建物の一階の三分の一が土産屋であり、二階フロアは全て土産屋である。
そんなに土産になるもんあるのかよ……
そう突っ込みたくなったが、時間を潰すには丁度いい。
一階のを見回った後、二階に上って全てを一つずつ見て回るだけで二時間、さらにアレがいいコレがいいなどともう一度巡回するのに一時間。
土産を選んで購入する頃には午後四時を軽く回っていた。
「みつきってさ、趣味おかしいと思うぞ」
買ったばかりの土産を手の中で遊ばせながら言った。
「そんなことない、と思うけどなぁ」
言葉が尻すぼみなのは多少自覚しているのか、それとも俺がそう言ったからなのかは分からない。
しかし、これはなんだろう。
赤いリボンをつけた猫のマスコットが恐竜の着ぐるみを着たぬいぐるみ。以前UFOキャッチャーで取ったあれよりかは随分まともだが、それでもおかしい。
「可愛くない、かな?」
「…………」
全然可愛くねえ、とは言えず黙っておくしかなかった。だがみつきはその意味を捕らえたらしく、恥ずかしそうに下を向いた。
朋香は喜ぶかもしれないが、和哉どうだろうな。あいつの困った顔が想像できる。それはそれでありかもしれないな。
そんな事をしている間に時間は過ぎて、両親達が帰ってきた。
世界がセカイに変わる。
更衣室で彼らが着替えた後、再び車に乗り込んでホテルへ向かった。
十階建てくらいありそうなホテルにチェックインした後、七階の洋室に荷物を投げてすぐに夕食のためレストランへ向かった。流石にこのときばっかりは母も夕食を共にしたのだが、バイキング形式のそれは美味しくもなんともなかった。
部屋に戻ってから、彼らはホテルの自慢らしい浴場へ向かい、俺は引き続き気分が悪いと言って部屋に残ることにする。
一応部屋にもバスルームがあったので、そこでシャワーを浴びた。
シャワーも済ませ、部屋に備え付けられている浴衣は着ずに親が持ってきた替えの服に着替えた頃には時間は七時を回り、空は闇に溢れている。
本当なら、今頃はみつきと約束の場所にいるはずだった。
二人でそこで一緒に笑っているはずだった。
忘れようとしていた感情がむくむくと膨らみだす。夜の暗さが後押しするように、それは加速度的に大きくなっていった。
黒の思いが騒ぎ出す。
お前は、こんなところで何をしている? 約束したじゃないか、絶対連れて行くって。忘れようとしていた? それは約束を? それとも、みつきのことを? 間違えるなよ、今日お前が笑えたのは誰のおかげだ? お前は何をしてやれた? 何をしようとした?
仕方がないだろ、これは一種の運命だ、どうしようもない。
動く前からノックアウトか? まだスタート地点にすら立っていないぞ? お前でもやれることがあるだろう、例えば――――
…………いいな、それ。
「優、君?」
みつき。唯一このセカイから俺を救ってくれる存在。それは何よりもの最優先事項のはずだ。
迷う必要なんてなかった。
どうしてこんなことに気づかなかったのだろう。
みつきの髪を優しく撫でて、笑みを返した後、それを実行することを決意した。