ぬくもりに包まれながら眠り続けることはなんて幸せだろうか。
僕はその幸せを感じつつ眠るという器用なことをしていた。
冬の朝の布団ってどうしてこんなに幸せなんだろう。しかも土曜日。冬休みだから毎日が休日なのだけれどやはり土日は平日とは何か雰囲気が違う。
体いっぱいにその幸福を味わって眠っていた。そのまましばらくは眠るつもりだったのだが。
枕元でカチッという爆弾処理班も真っ青な音が小さく鳴ったほんの数瞬後、
「おはよー! 朝だよー! 起きてー! 起きてー!」
けたたましい叫び声によって目を覚まされた。最悪だ。
その日は少し頭がいつもよりすっきりしていて、普段なら三、四回はループするその声を一回で止めてみせた。
七時。
どうして休みの日にこんな早く起きなければいけないとか、二度寝でもしようかとか、少し前まではそんなことを考えて後三時間は寝ていたものだが、朋香が来てからはそれも出来なくなった。
母親の命により朋香が起こしに来るからだ。
さすがに寝起きでグッタリな顔を見せたくはない。恥ずかしいし。
そんなわけで平日だろうが土日だろうがお構いなく、僕の起床時間は七時にセットされていた。
それにしてもこの目覚ましは改めよう。毎日こんなのに起こされて不快な朝を迎えるのは嫌だ。
時計を買いなおすことを決心した僕だった。
クローゼットを開けて服を取り出し、着ていたパジャマを脱ぎ散らかして着替える。
昔ならそのパジャマもそのままにしていたところだが、例によって朋香の存在により片付けることが日課となった。今思えば当たり前のことだけれども、前はそれが出来てなかったんだよな。心の中で少し自嘲気味に笑っておく。声に出して笑っていたらそれはどう見てもただの変態だ。
着替え終えて二階のリビングに向かう途中、階段あたりで卵を焼いている匂いがした。卵焼きを作っているらしい。
既に暖房のきいた暖かいリビングに降り立つと、その匂いは濃さを増し、発生場所と思われるキッチンに母と朋香の姿が見えた。
「あ、おはよう」
僕に気づいた朋香が嬉しそうな声をあげた。手にはお玉を持って鍋の中の味噌汁を書き混ぜている。多分僕が朝にちゃんと起きてきたことが嬉しいのだろう。
「おはよ」
「よく起きてこれたね。今日も起こしにいかないとって思ってたのに」
どうやら当たりらしい。
「昨日もちゃんと起きてきただろ」
「あ、そういえばそうだね」
楽しそうに笑う朋香の隣で使い終わったらしいフライパンを洗っていた母もふふふと口に手を添えて笑っていた。
「ほら、早く顔洗って、髪の毛すごいよ?」
すごいと言われても自分で髪は見えないわけで、促されるままに洗面台のほうへ向かった。
髪を梳かす前に鏡を見てみると、そこには中々こじゃれてイカしたボンバーな男が立っていてつい見つめてしまった。その、あまりにボンバーすぎて。
風呂の後に髪が乾ききらないまま寝てしまったからだろうかと思い、次からはちゃんと乾かそうと自分に誓った。記念にもう数秒見つめておくことにする。
それからすぐに水と櫛で髪を梳かし、顔を洗ってリビングに戻るとテーブルの上には朝食が並べられていた。
玉子焼きに始まり、焼き魚、味噌汁、漬物、ご飯とお好みで納豆。
ざっと品数は数週間前の三倍。まぁ前は前夜の残り物とご飯くらいだったしな。それを朝食と呼ぶのも悲しくなってくるくらいしっかりとした朝食が置かれていた。
しかし並んでいるのは三人分で、他の兄弟と父の分が無い。
弟は冬休みでも朝から部活で学校のほうへ行っているらしく、朝食は適当に済ませていることが多い。聞けば朝六時にはもう出ているらしい。
父も朝早くから釣り仲間とどこかへ出かけていったようで、外のガレージにいつもはあるはずの車が無くなっていた。
兄は昨日夜遅くまでバイトをしていたらしく、寝かせておいてあげようという母の気遣いで睡眠中。
僕ももう少し寝ていたかったのだけども、以前話したところ朋香に「なんで?」と一蹴されて以来は反論もしていない。
そういうわけで三人で並んだ朝食の前に座って「いただきます」という号令と共に食べ始める。
「毎日朋香ちゃんが手伝ってくれて嬉しいわ」
にこやかな顔でそういう母は本当に嬉しそうだ。玉子焼きがうめぇ。
「いえいえ、お世話になっているわけですし、こちらこそ泊めていただいてありがとうございます」
座ったまま深々と頭を下げる朋香。味噌汁と魚も結構いけるぞ。
「和哉もこうして朝に起きてくれるようになったのも朋香ちゃんのおかげかしらね」
「あはは、そうだと嬉しいですけどね」
納豆も貰うか。
「ありがとうね」
「いえ、こちらこそ」
納豆うめぇ。
そんな感じに朝が過ぎていった。
朝食を終えた後、僕と朋香に食器を洗を任せて、母は洗濯物を干しに行った。
こんな時に人の化学が偉大だと関心する。
単に蛇口からのお湯が出ているだけなのだけど、もしこれが水だったりなんかしたら手が凍ってしまうのではないだろうかとか、そんなことを考えていた。
「ねえ和哉」
慣れた手つきで食器にスポンジを滑らせていく朋香が尋ねてくる。
「ん?」
「あんたもう少し喋りなさいよ」
「なんだ? ほら三文字になったぞ」
「今じゃなくてご飯のとき、一言も話してなかったでしょ」
どうやら僕があの時黙々と箸を運んでいたのが気に入らなかったらしい。でもそれは仕方がない気がする。だって、
「お前、母さんとずっと話してただろ。どのタイミングで入るんだよ」
朝食が始まって物を噛む時以外ずっと動いているような二人だ。僕が入る余地なんて見当たらない。
「それは、考えればいろいろあったでしょ」
「例えば?」
「えーと…………とにかく、いろいろよ!」
どうやら見つからなかったらしい。言い出した朋香ですら見つけられなかったのを僕に要求してくるのは酷ではないだろうか。
「別に俺が話さなくても問題無くないか? 二人でも賑やかなわけだし」
「そうじゃなくて、ほら、やっぱり親子なんだし、ね?」
そんな困った顔で、ね? と言われても。
しかし朋香の言わんとすることは理解できる。親子なのだから親子らしく仲良く話せと、そういう事だろう。
「でも母さんかなり喜んでるんだぞ」
「え、あ、そうなんだ」
「だから気にすんなって」
そう言ったが、朋香はどこか納得がいかないような顔をしたまま手を動かし続けた。
別にいいんじゃないか、朋香が気にするほど今の僕と母の関係は悪くは無いはずなのだから。
食器も洗い終え、特にやることも無くなった僕はリビングのソファでゆったりとくつろいでいた。
テレビの中では背の高いメガネと背の低い帽子の漫才コンビが左右に首を振りながらマシンガントークで観客を笑わせているのだが、面白いかこれ?
年末ともなるとバラエティの特番などが増え始め、こういった時間帯にはそういう番組でいっぱいだった。まだクリスマスにもなってないのに気が早いんじゃなかと突っ込みたくなる。
そういえばクリスマスって明後日だよな。ということはイブは明日か。だからどうと言うことはないが、暇な僕は色々考えてしまうわけだ。
誰も突っ込まないけどサンタクロースってどう考えても不法侵入だよな。親が警察官の子の家とかに入って掴まったりとかしないのかな。いや正式に親に雇われて入ってるのだろうか。それにサンタは本当は居ないって言う奴がいるけど世界にはサンタクロースっていう職業がちゃんとあるんだぞ? だからサンタは居ないというのは間違いで、サンタ(正式職員)は来た事がない、が正しいはずだ。
……何考えてんだろ。
随分くだらないことを考えていた気がするが、まあいいや。
それにしても暇だ。朝早くに起きるのは良いがやることが無ければ起き損な気もしてくる。早起きは三文の得って言った奴は何を考えてるんだ。
朋香は洗い物が終わったらすぐに部屋に行ってしまったし、だから僕はこうして一人でテレビを見ているわけだけど、暇だ。ゲームでもするか。
のっそりとソファから降りて四つんばいの状態でテレビの元まで歩く。ゲーム機まであと数センチ。
そこで朋香がリビングに戻ってきた。もこもこした姿で。
「どこか行くのか?」
テレビ下にあるゲーム機に手を伸ばした格好で尋ねると、朋香はあんたなにやってんの? って感じの顔をしながら、
「早く、出かけるよ」
とか言い放った。唐突だなおい。
しかしゲームをするくらいしかやることのなかった暇で暇で仕方がない僕としてはありがたく、すぐにマフラーとコートを羽織って準備をする。カイロも忘れない。
一応優も誘ってみたのだけど、本当に荷物整理で忙しいらしく断られた。昨日は一日遊んでたからな、一昨日帰った後にあの量を整理できるわけない。
というわけで今日は朋香と二人で出かけることになり、どこに行くのかと尋ねると「本屋」と短い返答が帰ってきた。
「この間大量に買った本をもう読んだのか?」
「気になってるシリーズの新刊が出たからそれだけ買いに行く」
自転車にまたがって家から数分のところにある本屋へ走る。この前に行った大型書店は朋香が「少しでも本種類が多いほうがいい」と言って自転車でいけるがやや遠めの本屋に行ったけれど(もっとも朋香は並んでいた本の種類に満足してなかったが)、今日は最新のものということで比較的近いデパートの中にある本屋に行くようだ。
休日だがそれほど派手でもなんでもない町なので人や車通りはまばら。少なくもないが多くもない。自転車で並んで走ろうが全然余裕なくらいだ。
朋香はやはり二列走行はいけないんだよと注意をしてきたが、いいじゃないかと笑ってごまかした。
空はここ数日と同じような灰色の天気で、母が「洗濯物が乾きにくくてね」と困っていたことを思い出した。
風呂場に干して乾燥させれば? と言うと朋香に「外で乾かすのと中で乾かすのは全然違うの」と怒られた。よく分からないがそういうものらしい。
そんなことを思っているうちにこの町ではそれなりな大きさのデパートに着いて、駐輪場に自転車を置いて中に入る。
暖房の暖かさと、色々な食品が混ざり合ったなんとも表現しがたい匂いが鼻を突付いてきた。
一階は食品売り場で、入り口付近には小さなケーキ屋やたこ焼き屋とか喫茶店が並んでいたりする。
目的の本屋は三階にあるのでエスカレーターで上がりあっという間に本屋に到着した。
その本屋というのは三階の洋服売り場の角に可哀想なくらい小さく存在していて、始めてきた人は見つけられないのではないだろうかと思うほど存在感が無かった。
「買う本ってどんなやつなんだ?」
特に話題があるわけでもなかったので適当なことを聞いてみる。
「現代物のシリアスな恋愛小説」
「へぇ」
「女の子とその子のわがままに付き合わされる男の子の話」
その男子にどこかひどく僕と通じるところがあるような気がしたが、多分気のせいだろう。
レジには年齢もそこそこなお婆さんがちょこんと座っていて新聞を広げていた。見渡せば防犯カメラも見当たらず、無用心すぎますよと言ってあげたかった。
その同情するほど小さな本屋には僕達以外に金髪で同世代くらいの女の子が一人居るくらい。やけに大きなヘッドフォンをつけていて古い物なのか音漏れが酷かった。
シャカシャカ音を耳の端に聞きながら朋香は目当ての本を探し出す。
探すといっても所詮はその程度の広さの店なのでほしかった本はあっという間に見つかった。可愛らしい女の子がこっちを見て微笑んでいる絵の本。
棚に並んだ本をずっと眺めているポニテの彼女の後ろを通り過ぎてレジへ持っていく。
分厚いメガネのお婆さんは新聞を置いて本を確認すると、かなりスローな動きでレジの機械のボタンを指で押して、ガチャンともパタンともいえないような機械の悲鳴と一緒に「五三〇円だよ」としわくちゃな声で言った。
朋香がサイフから五三〇円ぴったりを出しレシートをもらって「じゃあ行こうか」と本を鞄に入れて歩き出した。
「次はどこ行くんだよ」
「そういえばどこに行こうか」
「考えてなかったのかよ……」
「うん、まぁ適当に行こうよ」
そして適当に歩き出す。どこを目指すわけでもなく、とりあえずアパートの中をうろうろと。
まずは同じ階の用事もない洋服売り場を見て周り、二階に移動して興味も無い家具売り場を見て周り、その同じ階の買うつもりも無いゲーム売り場を回った。
ゲーム売り場では最新ゲームの体験コーナーが設けられていて、小さな子供達が変わりばんこにそれを楽しんでいた。
…………一人だけ大きいのが混じってるんですけど。
別に呼んでもいないのにその大きいのはこっちに気づいたようで、ゲーム機のコントローラーを子供に託してこっちへやってきた。来るな。
「よう一河さん、それと菊池」
片手を上げて挨拶をしてくる大きいの。
「いよう、大きいの」
俺も片手を上げて返してやる。すごく哀れみと蔑みを含んだ目で。
「なんだよその可哀想な奴を見る目は。そんな目で俺を見るなよ。あと大きいのってなんだよ」
小学校低学年くらいの子供達に混じって一人ゲームをする高校二年生。恥じらいとかはないのだろうか。
「こんにちは、馬場君」
朋香が微笑んでそう言うと、僕に何かを喚いていた馬場が少しだけ大人しくなった。
「お前何やってんだ?」
相変わらず冷えた目を向けると耐えかねたように視線をそらして、
「暇、だったからよ。遊びにな」
「それで友達の居ないお前は子供達に混じってゲームと。結構可哀想な奴だったんだなお前」
「ちげえよ! 友達ぐらい居るって! たまたま他の奴と都合が会わなかっただけだ!」
「あんまりからかっちゃ駄目だよ」
朋香は僕に止めるように促した。確かに馬場にはこの上ないほどの恩があるし、朋香にとっても、ひいては僕にとっても恩人そのものだ。
しかしまぁ、なんというか、この世界には友情という素晴らしい言葉があるのだよ。うん、いいな、友情って。
その僕と馬場の友情というのがこういう形なわけである。と、僕“は”思っている。
「ほら、一河さんもそう言ってるだろ。そんな目で見るなって!」
「…………」
「マジで友達は居るからな! 本当だからな!」
「ふーん」
数少ない友達にも見捨てられた可哀想な奴。僕の中でそういうレッテルが貼られてしまった馬場。哀れだ。
「それで、お前らは――」
馬場は僕達を交互に見た後に、
「あれか、デートか」
と言い放った。さも当然のように。
「なっ――」
馬鹿な発言に驚いて一瞬言葉を失ってしまったが、ふと隣を見ると顔を伏せて頬を朱に染めていた。
「くぅ、そうか! そうなんだな! やっぱデートか! くそぅ、見せつけやがって!」
「ち、違うっつうの。単なる付き添いだ」
「同じことだろうが! くそう、何で菊池ばっかり! よこせ! 俺にもそのデートってやつをよこせ!」
完全に何かのスイッチが入ってしまったらしい馬場はわんわんと言いたいことをぶちまけている。
隣では気の毒なほど顔を伏せて赤くなっているし、さすがに止めなければと思った。何より迷惑だ。
「俺だってな! その気になれば彼女の一人や二人くらいすぐがっ」
ひとまず華麗にコブラツイストを素早く決めて黙らせる。
目を瞑って必死に宙に手を広げて叫んでいた無防備な馬場は気持ち良いくらいあっさりと技にかかって締め上げられる。
「い……い……あ……が……」
油の切れた機械のように馬場の口から空気が漏れるが、離すとまた叫びだしかねないのでまだ離さない。
「いち……か……さ……たす……け……」
懸命に動かない手を朋香に伸ばしているようだが、相変わらず朋香はそのままだった。
それにしても流石はかの有名なコブラツイストである。放課後のなんちゃってプロレス組の採用率が高いのもうなずける。
猪木が愛用したコブラツイストによって絞められる馬場。猪木のライバルがジャイアント馬場であった辺り、何か運命的なものを感じられる。
あほか。
そもそも何で僕はやり方を知っているのかと疑ってしまいたくなるが、それ以上考えると悲しいことになりそうだったのでやめておくことにした。
気がつけば向こうでゲームをしていたはずの子供達が興味津々といった感じに少し離れたところで見ていた。
「なになに?」
「すごーい」
「かっこいー」
「もっとやってー」
そんな声援が飛び交う。馬場、お前って奴は本当にあれだな。
純粋無垢な期待に答えるべく腕や足に力を込める。ほら、小さな子供の期待を裏切るなんてできないだろう?
「が……あ……あああ!」
店の迷惑にならない程度に一層大きくなる馬場の悲鳴。ん? いまミシッて聞こえたか? まぁいいか。
子供達のきらきらした眼差し。きっとその目には正義のヒーローと悪の刺客のように映っているのだろう。大体当たりだ。
「きく……ち……まじで……や……ば……ああああああ!!」
何を喋ったのかよく聞き取れなかったがろくでもない気がしたので力を込める。願わくはその不愉快な心が壊れて綺麗な心になりますように。
僕はその幸せを感じつつ眠るという器用なことをしていた。
冬の朝の布団ってどうしてこんなに幸せなんだろう。しかも土曜日。冬休みだから毎日が休日なのだけれどやはり土日は平日とは何か雰囲気が違う。
体いっぱいにその幸福を味わって眠っていた。そのまましばらくは眠るつもりだったのだが。
枕元でカチッという爆弾処理班も真っ青な音が小さく鳴ったほんの数瞬後、
「おはよー! 朝だよー! 起きてー! 起きてー!」
けたたましい叫び声によって目を覚まされた。最悪だ。
その日は少し頭がいつもよりすっきりしていて、普段なら三、四回はループするその声を一回で止めてみせた。
七時。
どうして休みの日にこんな早く起きなければいけないとか、二度寝でもしようかとか、少し前まではそんなことを考えて後三時間は寝ていたものだが、朋香が来てからはそれも出来なくなった。
母親の命により朋香が起こしに来るからだ。
さすがに寝起きでグッタリな顔を見せたくはない。恥ずかしいし。
そんなわけで平日だろうが土日だろうがお構いなく、僕の起床時間は七時にセットされていた。
それにしてもこの目覚ましは改めよう。毎日こんなのに起こされて不快な朝を迎えるのは嫌だ。
時計を買いなおすことを決心した僕だった。
クローゼットを開けて服を取り出し、着ていたパジャマを脱ぎ散らかして着替える。
昔ならそのパジャマもそのままにしていたところだが、例によって朋香の存在により片付けることが日課となった。今思えば当たり前のことだけれども、前はそれが出来てなかったんだよな。心の中で少し自嘲気味に笑っておく。声に出して笑っていたらそれはどう見てもただの変態だ。
着替え終えて二階のリビングに向かう途中、階段あたりで卵を焼いている匂いがした。卵焼きを作っているらしい。
既に暖房のきいた暖かいリビングに降り立つと、その匂いは濃さを増し、発生場所と思われるキッチンに母と朋香の姿が見えた。
「あ、おはよう」
僕に気づいた朋香が嬉しそうな声をあげた。手にはお玉を持って鍋の中の味噌汁を書き混ぜている。多分僕が朝にちゃんと起きてきたことが嬉しいのだろう。
「おはよ」
「よく起きてこれたね。今日も起こしにいかないとって思ってたのに」
どうやら当たりらしい。
「昨日もちゃんと起きてきただろ」
「あ、そういえばそうだね」
楽しそうに笑う朋香の隣で使い終わったらしいフライパンを洗っていた母もふふふと口に手を添えて笑っていた。
「ほら、早く顔洗って、髪の毛すごいよ?」
すごいと言われても自分で髪は見えないわけで、促されるままに洗面台のほうへ向かった。
髪を梳かす前に鏡を見てみると、そこには中々こじゃれてイカしたボンバーな男が立っていてつい見つめてしまった。その、あまりにボンバーすぎて。
風呂の後に髪が乾ききらないまま寝てしまったからだろうかと思い、次からはちゃんと乾かそうと自分に誓った。記念にもう数秒見つめておくことにする。
それからすぐに水と櫛で髪を梳かし、顔を洗ってリビングに戻るとテーブルの上には朝食が並べられていた。
玉子焼きに始まり、焼き魚、味噌汁、漬物、ご飯とお好みで納豆。
ざっと品数は数週間前の三倍。まぁ前は前夜の残り物とご飯くらいだったしな。それを朝食と呼ぶのも悲しくなってくるくらいしっかりとした朝食が置かれていた。
しかし並んでいるのは三人分で、他の兄弟と父の分が無い。
弟は冬休みでも朝から部活で学校のほうへ行っているらしく、朝食は適当に済ませていることが多い。聞けば朝六時にはもう出ているらしい。
父も朝早くから釣り仲間とどこかへ出かけていったようで、外のガレージにいつもはあるはずの車が無くなっていた。
兄は昨日夜遅くまでバイトをしていたらしく、寝かせておいてあげようという母の気遣いで睡眠中。
僕ももう少し寝ていたかったのだけども、以前話したところ朋香に「なんで?」と一蹴されて以来は反論もしていない。
そういうわけで三人で並んだ朝食の前に座って「いただきます」という号令と共に食べ始める。
「毎日朋香ちゃんが手伝ってくれて嬉しいわ」
にこやかな顔でそういう母は本当に嬉しそうだ。玉子焼きがうめぇ。
「いえいえ、お世話になっているわけですし、こちらこそ泊めていただいてありがとうございます」
座ったまま深々と頭を下げる朋香。味噌汁と魚も結構いけるぞ。
「和哉もこうして朝に起きてくれるようになったのも朋香ちゃんのおかげかしらね」
「あはは、そうだと嬉しいですけどね」
納豆も貰うか。
「ありがとうね」
「いえ、こちらこそ」
納豆うめぇ。
そんな感じに朝が過ぎていった。
朝食を終えた後、僕と朋香に食器を洗を任せて、母は洗濯物を干しに行った。
こんな時に人の化学が偉大だと関心する。
単に蛇口からのお湯が出ているだけなのだけど、もしこれが水だったりなんかしたら手が凍ってしまうのではないだろうかとか、そんなことを考えていた。
「ねえ和哉」
慣れた手つきで食器にスポンジを滑らせていく朋香が尋ねてくる。
「ん?」
「あんたもう少し喋りなさいよ」
「なんだ? ほら三文字になったぞ」
「今じゃなくてご飯のとき、一言も話してなかったでしょ」
どうやら僕があの時黙々と箸を運んでいたのが気に入らなかったらしい。でもそれは仕方がない気がする。だって、
「お前、母さんとずっと話してただろ。どのタイミングで入るんだよ」
朝食が始まって物を噛む時以外ずっと動いているような二人だ。僕が入る余地なんて見当たらない。
「それは、考えればいろいろあったでしょ」
「例えば?」
「えーと…………とにかく、いろいろよ!」
どうやら見つからなかったらしい。言い出した朋香ですら見つけられなかったのを僕に要求してくるのは酷ではないだろうか。
「別に俺が話さなくても問題無くないか? 二人でも賑やかなわけだし」
「そうじゃなくて、ほら、やっぱり親子なんだし、ね?」
そんな困った顔で、ね? と言われても。
しかし朋香の言わんとすることは理解できる。親子なのだから親子らしく仲良く話せと、そういう事だろう。
「でも母さんかなり喜んでるんだぞ」
「え、あ、そうなんだ」
「だから気にすんなって」
そう言ったが、朋香はどこか納得がいかないような顔をしたまま手を動かし続けた。
別にいいんじゃないか、朋香が気にするほど今の僕と母の関係は悪くは無いはずなのだから。
食器も洗い終え、特にやることも無くなった僕はリビングのソファでゆったりとくつろいでいた。
テレビの中では背の高いメガネと背の低い帽子の漫才コンビが左右に首を振りながらマシンガントークで観客を笑わせているのだが、面白いかこれ?
年末ともなるとバラエティの特番などが増え始め、こういった時間帯にはそういう番組でいっぱいだった。まだクリスマスにもなってないのに気が早いんじゃなかと突っ込みたくなる。
そういえばクリスマスって明後日だよな。ということはイブは明日か。だからどうと言うことはないが、暇な僕は色々考えてしまうわけだ。
誰も突っ込まないけどサンタクロースってどう考えても不法侵入だよな。親が警察官の子の家とかに入って掴まったりとかしないのかな。いや正式に親に雇われて入ってるのだろうか。それにサンタは本当は居ないって言う奴がいるけど世界にはサンタクロースっていう職業がちゃんとあるんだぞ? だからサンタは居ないというのは間違いで、サンタ(正式職員)は来た事がない、が正しいはずだ。
……何考えてんだろ。
随分くだらないことを考えていた気がするが、まあいいや。
それにしても暇だ。朝早くに起きるのは良いがやることが無ければ起き損な気もしてくる。早起きは三文の得って言った奴は何を考えてるんだ。
朋香は洗い物が終わったらすぐに部屋に行ってしまったし、だから僕はこうして一人でテレビを見ているわけだけど、暇だ。ゲームでもするか。
のっそりとソファから降りて四つんばいの状態でテレビの元まで歩く。ゲーム機まであと数センチ。
そこで朋香がリビングに戻ってきた。もこもこした姿で。
「どこか行くのか?」
テレビ下にあるゲーム機に手を伸ばした格好で尋ねると、朋香はあんたなにやってんの? って感じの顔をしながら、
「早く、出かけるよ」
とか言い放った。唐突だなおい。
しかしゲームをするくらいしかやることのなかった暇で暇で仕方がない僕としてはありがたく、すぐにマフラーとコートを羽織って準備をする。カイロも忘れない。
一応優も誘ってみたのだけど、本当に荷物整理で忙しいらしく断られた。昨日は一日遊んでたからな、一昨日帰った後にあの量を整理できるわけない。
というわけで今日は朋香と二人で出かけることになり、どこに行くのかと尋ねると「本屋」と短い返答が帰ってきた。
「この間大量に買った本をもう読んだのか?」
「気になってるシリーズの新刊が出たからそれだけ買いに行く」
自転車にまたがって家から数分のところにある本屋へ走る。この前に行った大型書店は朋香が「少しでも本種類が多いほうがいい」と言って自転車でいけるがやや遠めの本屋に行ったけれど(もっとも朋香は並んでいた本の種類に満足してなかったが)、今日は最新のものということで比較的近いデパートの中にある本屋に行くようだ。
休日だがそれほど派手でもなんでもない町なので人や車通りはまばら。少なくもないが多くもない。自転車で並んで走ろうが全然余裕なくらいだ。
朋香はやはり二列走行はいけないんだよと注意をしてきたが、いいじゃないかと笑ってごまかした。
空はここ数日と同じような灰色の天気で、母が「洗濯物が乾きにくくてね」と困っていたことを思い出した。
風呂場に干して乾燥させれば? と言うと朋香に「外で乾かすのと中で乾かすのは全然違うの」と怒られた。よく分からないがそういうものらしい。
そんなことを思っているうちにこの町ではそれなりな大きさのデパートに着いて、駐輪場に自転車を置いて中に入る。
暖房の暖かさと、色々な食品が混ざり合ったなんとも表現しがたい匂いが鼻を突付いてきた。
一階は食品売り場で、入り口付近には小さなケーキ屋やたこ焼き屋とか喫茶店が並んでいたりする。
目的の本屋は三階にあるのでエスカレーターで上がりあっという間に本屋に到着した。
その本屋というのは三階の洋服売り場の角に可哀想なくらい小さく存在していて、始めてきた人は見つけられないのではないだろうかと思うほど存在感が無かった。
「買う本ってどんなやつなんだ?」
特に話題があるわけでもなかったので適当なことを聞いてみる。
「現代物のシリアスな恋愛小説」
「へぇ」
「女の子とその子のわがままに付き合わされる男の子の話」
その男子にどこかひどく僕と通じるところがあるような気がしたが、多分気のせいだろう。
レジには年齢もそこそこなお婆さんがちょこんと座っていて新聞を広げていた。見渡せば防犯カメラも見当たらず、無用心すぎますよと言ってあげたかった。
その同情するほど小さな本屋には僕達以外に金髪で同世代くらいの女の子が一人居るくらい。やけに大きなヘッドフォンをつけていて古い物なのか音漏れが酷かった。
シャカシャカ音を耳の端に聞きながら朋香は目当ての本を探し出す。
探すといっても所詮はその程度の広さの店なのでほしかった本はあっという間に見つかった。可愛らしい女の子がこっちを見て微笑んでいる絵の本。
棚に並んだ本をずっと眺めているポニテの彼女の後ろを通り過ぎてレジへ持っていく。
分厚いメガネのお婆さんは新聞を置いて本を確認すると、かなりスローな動きでレジの機械のボタンを指で押して、ガチャンともパタンともいえないような機械の悲鳴と一緒に「五三〇円だよ」としわくちゃな声で言った。
朋香がサイフから五三〇円ぴったりを出しレシートをもらって「じゃあ行こうか」と本を鞄に入れて歩き出した。
「次はどこ行くんだよ」
「そういえばどこに行こうか」
「考えてなかったのかよ……」
「うん、まぁ適当に行こうよ」
そして適当に歩き出す。どこを目指すわけでもなく、とりあえずアパートの中をうろうろと。
まずは同じ階の用事もない洋服売り場を見て周り、二階に移動して興味も無い家具売り場を見て周り、その同じ階の買うつもりも無いゲーム売り場を回った。
ゲーム売り場では最新ゲームの体験コーナーが設けられていて、小さな子供達が変わりばんこにそれを楽しんでいた。
…………一人だけ大きいのが混じってるんですけど。
別に呼んでもいないのにその大きいのはこっちに気づいたようで、ゲーム機のコントローラーを子供に託してこっちへやってきた。来るな。
「よう一河さん、それと菊池」
片手を上げて挨拶をしてくる大きいの。
「いよう、大きいの」
俺も片手を上げて返してやる。すごく哀れみと蔑みを含んだ目で。
「なんだよその可哀想な奴を見る目は。そんな目で俺を見るなよ。あと大きいのってなんだよ」
小学校低学年くらいの子供達に混じって一人ゲームをする高校二年生。恥じらいとかはないのだろうか。
「こんにちは、馬場君」
朋香が微笑んでそう言うと、僕に何かを喚いていた馬場が少しだけ大人しくなった。
「お前何やってんだ?」
相変わらず冷えた目を向けると耐えかねたように視線をそらして、
「暇、だったからよ。遊びにな」
「それで友達の居ないお前は子供達に混じってゲームと。結構可哀想な奴だったんだなお前」
「ちげえよ! 友達ぐらい居るって! たまたま他の奴と都合が会わなかっただけだ!」
「あんまりからかっちゃ駄目だよ」
朋香は僕に止めるように促した。確かに馬場にはこの上ないほどの恩があるし、朋香にとっても、ひいては僕にとっても恩人そのものだ。
しかしまぁ、なんというか、この世界には友情という素晴らしい言葉があるのだよ。うん、いいな、友情って。
その僕と馬場の友情というのがこういう形なわけである。と、僕“は”思っている。
「ほら、一河さんもそう言ってるだろ。そんな目で見るなって!」
「…………」
「マジで友達は居るからな! 本当だからな!」
「ふーん」
数少ない友達にも見捨てられた可哀想な奴。僕の中でそういうレッテルが貼られてしまった馬場。哀れだ。
「それで、お前らは――」
馬場は僕達を交互に見た後に、
「あれか、デートか」
と言い放った。さも当然のように。
「なっ――」
馬鹿な発言に驚いて一瞬言葉を失ってしまったが、ふと隣を見ると顔を伏せて頬を朱に染めていた。
「くぅ、そうか! そうなんだな! やっぱデートか! くそぅ、見せつけやがって!」
「ち、違うっつうの。単なる付き添いだ」
「同じことだろうが! くそう、何で菊池ばっかり! よこせ! 俺にもそのデートってやつをよこせ!」
完全に何かのスイッチが入ってしまったらしい馬場はわんわんと言いたいことをぶちまけている。
隣では気の毒なほど顔を伏せて赤くなっているし、さすがに止めなければと思った。何より迷惑だ。
「俺だってな! その気になれば彼女の一人や二人くらいすぐがっ」
ひとまず華麗にコブラツイストを素早く決めて黙らせる。
目を瞑って必死に宙に手を広げて叫んでいた無防備な馬場は気持ち良いくらいあっさりと技にかかって締め上げられる。
「い……い……あ……が……」
油の切れた機械のように馬場の口から空気が漏れるが、離すとまた叫びだしかねないのでまだ離さない。
「いち……か……さ……たす……け……」
懸命に動かない手を朋香に伸ばしているようだが、相変わらず朋香はそのままだった。
それにしても流石はかの有名なコブラツイストである。放課後のなんちゃってプロレス組の採用率が高いのもうなずける。
猪木が愛用したコブラツイストによって絞められる馬場。猪木のライバルがジャイアント馬場であった辺り、何か運命的なものを感じられる。
あほか。
そもそも何で僕はやり方を知っているのかと疑ってしまいたくなるが、それ以上考えると悲しいことになりそうだったのでやめておくことにした。
気がつけば向こうでゲームをしていたはずの子供達が興味津々といった感じに少し離れたところで見ていた。
「なになに?」
「すごーい」
「かっこいー」
「もっとやってー」
そんな声援が飛び交う。馬場、お前って奴は本当にあれだな。
純粋無垢な期待に答えるべく腕や足に力を込める。ほら、小さな子供の期待を裏切るなんてできないだろう?
「が……あ……あああ!」
店の迷惑にならない程度に一層大きくなる馬場の悲鳴。ん? いまミシッて聞こえたか? まぁいいか。
子供達のきらきらした眼差し。きっとその目には正義のヒーローと悪の刺客のように映っているのだろう。大体当たりだ。
「きく……ち……まじで……や……ば……ああああああ!!」
何を喋ったのかよく聞き取れなかったがろくでもない気がしたので力を込める。願わくはその不愉快な心が壊れて綺麗な心になりますように。