
先般、何気なくNHKの「にっぽんの芸能」という番組を眺めていたら、急にこの言葉が耳に飛び込んできた。「ひょっとこ」と「おかめ」の面をかぶった男女が軽快な三味線の音に合わせて踊っていた。「ちんちんかも」とか「ちんちんかもかも」とかいう言葉がちょっと「面白い」と思ったので、ちょいと調べてみた。もひとつ略して「ちんかも」という場合もあるそうである。この言葉は、江戸時代の書き物の中には、頻繁に出てくる言葉のようで、言葉の響きからすればあんまり嬢雨品な言葉であることは期待できないが、極めて大衆受けする言葉なのではないかと推察するわけである。この極めて大衆ウケしそうな言葉は、「ちんちん」+「かもかも」で、これは「ちんちん」+「噛もう、噛もう」から来ているのかと思いきや、そのへんは「語源不詳」ということになっていて、はっきりしたことは言えないけれど、この言葉の意味するところは「男と女が手に手を取って駆け落ちし、人目もはばからす深い仲になること」ということなのである。
そもそも、「ちんちん」とは何か。これは「男性のアレ」だけではなく、たとえば、浄瑠璃や歌舞伎などではよく「三味線の音色に合わせて「男女の仲睦まじき様」を表現することが多いようで、その「三味線の音色」を「ちんちん」という「擬音語」で表現していたようである。また、江戸時代の文学作品である滝沢馬琴の「東海道中膝栗毛」の中では、鉄瓶でお湯の煮え立つ音を「ちんちん」という「擬音語」で表現している。「辞書的」にみると、この「ちんちん」は「やきもち」とか「嫉妬」とかを意味するようであるが、これは、お湯が沸く意味の「ちんちん」から派生して、「気持ちが熱くなる」ことより「やきもち」や「嫉妬」という意味が出てきたのではないだろうか。そして、更に浄瑠璃や歌舞伎の中で、「男女の仲睦まじき様」を三味線に乗せて演じられたことから、「三味線の音」も「ちんちん」という「擬音語」で表現されるようになったのかもしれない。
ところで、後半の「かもかも」については、ほとんど手がかり的なことはないのだけれど、例えば、昔の食生活の中で「鴨」という鳥が好まれていたことを考えれば、そういういった「愛着心」含みで「かもかも」としたのかもしれない。「カモネギ」すなわち「鴨が葱背負ってやってきた」的な感覚で考えると、 鴨鍋に葱はつきもので、鴨が自分で葱まで背負ってやって来てくれれば、 すぐに食べられて好都合であることから。 多くは、お人好しが、こちらの利益になる材料 を持ってくること、という意味から、その「かも」が、その例えの通り、鴨鍋の具材であれば、「ちんちん」は湯を沸く様を表すものと考えられ、それは「鴨鍋」のための湯を沸かしている様であるといえる。しかし、それは「やきもち」ヤ「嫉妬」とは無縁のように思われる。
詩人、北原白秋の作品に「ちんちん千鳥の歌」というのはあるけれど、この「ちんちん」は「湯を沸かす様」でもなく、また「やきもち」や「嫉妬」とも無縁であり、単に「千鳥」という言葉に繋ぐためにの「リズム感を整える」ための「ちんちん」であるようだけれど、それと「かもかも」の関係を考えると、「千鳥」と同じ「鳥」類ということで、「かもかも」=「鴨々」かもしれないと類推したりもする。また、「類推」の「かも」を重ねた「かもかも」の可能性もあるし、また「カモン・カモン」='Come on, come on' が「かもかも」となったのかもしれない。
というわけで、結局のところ、「ちんちん」については「湯沸し」→「熱くなる」→「やきもち」や「嫉妬」ではないかという、なんとなく「もっともらしい」説明がついたけれど、「かもかも」については、おとんど手がかりも、決め手もなく、「正解」にも「正解らしきもの」にもたどり着かなかったけれど、個人的には「ちんちん」=「ヤキモチ」や「嫉妬」に「類推」の「かも」×2 をくっつけることで、言葉としての「口調」を整えるとともに、「やきもち」とか「嫉妬」とかの「感情」に対する「衒い」とか「気恥ずかしさ」をオブラートで包もうとしたのではないかと思うのである。オブラートで包んだ「ヤキモチ」や「嫉妬」を「ちんちんかもかも」と表現し、そうしつつも「男と女が手に手を取って駆け落ちし、人目もはばからす深い仲」を一種の「疑念」とか「類推」を滲ませて表現する、ある意味で「日本語の奥深さ」がそこにはあるように思える。
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