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柴田淳とは何か ~しばじゅん日記blog version

「一太郎による柴田淳の研究」内「一太郎のしばじゅん日記」ver3.01。ブログ・ヴァージョン。

ドリーミュージック時代のCD売上に関する一考察

2007年12月29日 | Weblog
柴田淳の売上が下がっていない、人気
が落ちたとはいえない、というぼくの
意見に対する反論と、その根拠として

『2003年発売のCDアルバム「ため息」
シングル「あなたとの日々」が売上曲
線のピークとなり、以後落ちている』

つまりその時期が柴田淳の人気のピー
クである、という意見が提示されまし
たが、実際にはそう簡単に言いきれる
ものではないことを説明したいと思い
ます。
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数字の変化は誰でも分かりますが、重
要な点は“盛り上がりかけたものが、
なぜ萎んだか”ということで、これは
前後の事情を理解しないと、少しも知
ったことにはなりません。
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キーワードは「変更」。これです。急
な変更が立て続けに起こりました。そ
のため、柴田淳の置かれた状況は2002
年末~2004年年初の1年余りの間に一
変することになりました。
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レコード会社とファンの間の不信も高
まりました。不信を招いたのはレコー
ド会社のやり方ゆえのやむをえない成
り行きだったと思います。
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ドリーミュージックは2001年に営業活
動を開始した新興レコード会社で、最
初のリリース曲が柴田淳の「ぼくの味
方」ほか2枚でした。特別売上の高い大
物ミュージシャンと共にスタートした
会社ではないため、当面大きなヒット
が期待できず、基本的に自前で新人を
育てていくのがこの会社の姿勢といっ
てよかったでしょう。
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2003年までは、柴田淳はこの会社の主
力であり、最も大きな期待をかけられ
ていたミュージシャンでした。約2年間
です。
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まず2002年度一杯までとそれ以降では
ドリーミュージックの中での柴田淳の
育成・活動方針が一変しました。
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2002年11月の時点でとあるラジオ局の
イベントの最中、ドリーの社員が明言
したのは「柴田淳は大切に育てる方針
である」ということでした。
(この時、柴田淳さんは一時退席してい
ました。)
タイアップや番組の出演依頼の話は実
際にはたくさんあるが、十分選んで慎
重に進めているということでした。
要するにすぐに結果を求めるようなこ
とはしない、とこういうことです。
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しかし2003年春以降、こうした方針は
“破棄された”という印象があります。
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2ndアルバム発売以後、それまでの
「育成期間」の活動は影を潜めます。
ライブやイベント出演など、表立った
活動の数は大きく減少しました。
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過去のリリース時と比べプロモーショ
ンがひときわ大規模だったことで、
レコード店の店頭で柴田淳を見かける
ことも非常に多くなりこのアルバムが
過去最も売上枚数が多いことは周知の
事実です。
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リカット・シングルの「ため息/夢」は
しかし、さほど売れませんでした。
アルバム収録音源であったことと“タ
イアップ効果”がそれほどではなかっ
たことによると思われますが、“タイ
アップ効果”はアルバム売上に吸収さ
れた、と考えるのが、より自然でしょ
う。2ndアルバム「ため息」は、発売
時点ではこれといったタイアップ曲、
ヒット曲が収録されていないアルバム
でした。にもかかわらずよく売れたと
いうのは間違いないと思います。
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過去、柴田淳のタイアップというのは
あるにはありましたが、2002年6月度
の“oricon power next”「月光浴」の
時ほどの際立った効果を上げたものは、
以後一つもありません。2002年1stアル
バム発売時点では一部「応援店」を除
きCDが置いていない、というのは普通
のことでした。「月光浴」リリースは
そのすぐ後のことです。
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ちなみにタイアップというのも実際には
様々で、明らかに“タイアップ効果”の
見込める「それ」は実は限られています。
タイアップとはいうものの、「お守り」
のような気休めに終わってしまうことも
よくあります。
YUIはデビュー曲がフジテレビ「月9」ド
ラマの主題歌になる、という大きなタイ
アップがありました。これは十分な宣伝
効果があり、いきなり10万枚を超えるシ
ングル売上を記録しました。これは確か
にYUIの知名度を大きく上げることにつな
がりました。
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この頃(~2002年)柴田淳さんの活動の主
体はイベント・ライブやラジオ・パーソ
ナリティで、デビュー以後1年ほどの間に
関東で2つ、北海道で1つ、関西で1つ、
計4つのラジオ・レギュラーを経験してい
ます。

首都圏のラジオはデビュー以来bayfmの
レギュラー出演が続いており、これが
ある意味「生命線」でした。しばじゅん
人気を東京で育んでいたのが「スコー
ピオンA」という番組です。
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これは、今の「月と太陽」とは全くと
言ってよいほど性格の違う番組で、公式
ページの「Diaryそのもの」でした。つ
まり柴田淳の“素顔”に近い番組だった
のです。本人は否定するかもしれません
が。
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ドリーミュージックによる2003年度の
活動方針の転換はここにも影を落とし
ます。これは3~4月の時点では予定さ
れていなかったことだと思いますが、
6月の改変でこの番組が終了します。
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これによって2ndアルバムプロモーショ
ン直後の関心の高まっている時、bayfm
(公称可聴人口首都圏3000万)とJFN系17
局ネットという媒体が持っていた告知
効果が一時的(3ヶ月)なものとなります。
「月と太陽」が冠スポンサー番組であ
ったのがbayfmレギュラー降板の理由だ
ったと見られますが、以後首都圏放送の
レギュラー番組は「月と太陽」全国放送
化まで「4年間」失われてしまいます。
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それではテレビ出演などに活動が切り替
わったかというと、そうではありません。
当時、ドリーミュージックがどのような
青写真を画いていたかは不明です。
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そして肝心な点ですが、過去の売上の中
で「2003年度のみ」に売上が高い「一時
期」があるのは、レコード会社がその時
期に持てる力をフルに傾注したプロモー
ションを行ったということが挙げられま
す。それだけではありませんが、これは
大きな要因です。
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ではなぜその売上向上が「2003年度」の
「一時期」に限定されてしまうのかとい
うと、ひとつには上記の通り、「東京で
の活動が無くなってしまい、それが長期
に及んだこと。」ひとつには「柴田淳の
知名度は、テレビのレギュラーのような
“お茶の間的な”ものではなく、あくま
でこの時点でも音楽(J-POP)ファンの間で
のものだったこと。しかもそれはこの年
(2003年)になってようやく得た、といっ
て良い程度の知名度だったこと。」(急な
変化がもたらした、マイナス要素といえ
ます)ひとつには「ライブ活動をしなくな
ったこと。」
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しかし一番大きな原因はドリーミュージ
ックの都合ともいうべきものでした。
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2003年12月に発売した平原綾香のデビュ
ー曲「Jupiter」が(話によれば)有線のリ
クエスト・チャートから火がついて、文
字通り“予想外の”大ヒットを記録しま
す。これは普通なら何も問題なさそうな
ものですが、ドリーミュージックの場合
は話が違います。規模の大きくない会社
で予想外のヒット、となれば、他の所属
ミュージシャンに手が回らなくなります
。他の所属ミュージシャンも「地道な活
動を主としている場合」変更などの「あ
おり」も少なくなるものですが、柴田淳
の場合、レコード会社一押しのミュージ
シャンとして念入りなプロモーション計
画のもとにリリース&活動を行う方針が、
決定されたばかりでした。
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こうした数々の巡りあわせにより、柴田
淳の活動計画は事実上宙に浮きました。
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これは、偶然の為せる業ではありますが、
2003年の決定が徒になったのに違いあり
ません。2002年までの活動方針を継続し
ながら好機を待つ方針を続けていれば、
「Jupiter」ヒットの影響を受けることも
無くて済んだというものです。
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2004年早々ドリーミュージック内で、全社
的バックアップ体制がなくなった柴田淳は
前述の活動方針の転換も徒になり、2003年
度のCD売上を上回る「キッカケ」が得られ
ないでいるのです。
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「OL」「親子」など、従来のファン層を否
定するかのようなメディア戦略も裏目に出
ました。古いファンを取り除くのに懸命だ
ったとしか思えないドリーミュージックは
一体何を目指していたのでしょう。
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ぼくが見るところによれば、柴田淳のファ
ンにも当然女性はいます。しかし、デビュ
ー以来、同世代よりはむしろ年長、年少に
偏った年齢構成でした。男性ファンも、同
世代よりは年長者が多かった。事実に立脚
せず、足元を見ず、「16~25才の女性が好
ましい」という、どこから持って来たかわ
からない理由で、従来いるファンを否定し
たのがこのレコード会社の「戦略」という
ものでした。最大の失策です。
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ビクター移籍は、少なくともドリーミュー
ジックの方針が一度頓挫し、以前の体勢を
再現できず、その上活動方針の見直しも図
られないのであるならば、柴田淳の今後の
活動にとって現状維持は可能性を狭めるだ
けであり、あの時点で環境を刷新したのは
間違いのない決断だったと考えています。
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「2003年度のCD売上」は、柴田淳の活動全
体を俯瞰する視点がなければわからない。
その数字だけを見て、しかもぼくのような
デビューからのファンを前にして簡単に
「人気がなくなった」などと判断する人間
は「ニワカファン」と呼ぶしかありません。

しかも、これらの知識は、バラバラに知っ
ているだけでは無意味です。有機的に組み
合わさっていなければ、事実の本当の意味
が分からないのです。

その程度の知識で売上がどうの、を口にす
る連中は、柴田淳に対してネガティブ・キ
ャンペーンを仕掛けているのと同じです。
埒も開かないやり取りの中で、浅はかな考
えが再生産されていくだけですから。

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