柴田淳とは何か ~しばじゅん日記blog version

「一太郎による柴田淳の研究」内「一太郎のしばじゅん日記」ver3.01。ブログ・ヴァージョン。

来年は、今年以上の良い年になりますよう

2007年12月31日 | Weblog
アルバム用の曲作り難産だったようですけど、
期限を守るのが大事なわけじゃなくて、良い曲
作るのが大事ですからね。1stの時はレコーディ
ング当日まで歌詞が完成してない曲があったそ
うだし・・・。最終的に良い作品に仕上がれば
すべてよし。
とにかくいろんな心配事を来年に持ち越さない
で済んだようで何よりです。


大晦日から正月にかけて、東京でも雪だそうですが
風邪引かないように良いお正月をお過ごしください。

とある2ちゃんねら (3)

2007年12月30日 | Weblog
前3回分のこのブログのエントリを読めば、君たちがてこずって
きた相手は、実は柴田淳についてろくに知らないということが
分かったと思います。
彼の知識は、自分で白状している通り、所詮2004年以降に
2ちゃんねるで仕入れたものに過ぎません。

彼の言動は柴田淳への人々の関心を下げるだけです。自分の様
子が人の目に一体どのように映っているのか、そういった部分
が自覚出来ていないようでは、どうして人がその言を信じてく
れるでしょう?人は言葉ではなく、相手を信じるのですから。
彼はまず、人から信用してもらえるような自分になってから言
葉を発するべきです。身の程を知るべきだと言うことです。

正しい理解と知ったかぶりの区別が付かない人たちは、無理に
柴田淳について公然の場で語らないほうが良いというものです。
そんな言動は自分の無知を晒すだけなのが、お分かりいただけ
たと思います。あなたが語らなくても誰がもっと適任の人たち
がきっといることでしょう。

ドリーミュージック時代のCD売上に関する一考察

2007年12月29日 | Weblog
柴田淳の売上が下がっていない、人気
が落ちたとはいえない、というぼくの
意見に対する反論と、その根拠として

『2003年発売のCDアルバム「ため息」
シングル「あなたとの日々」が売上曲
線のピークとなり、以後落ちている』

つまりその時期が柴田淳の人気のピー
クである、という意見が提示されまし
たが、実際にはそう簡単に言いきれる
ものではないことを説明したいと思い
ます。
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数字の変化は誰でも分かりますが、重
要な点は“盛り上がりかけたものが、
なぜ萎んだか”ということで、これは
前後の事情を理解しないと、少しも知
ったことにはなりません。
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キーワードは「変更」。これです。急
な変更が立て続けに起こりました。そ
のため、柴田淳の置かれた状況は2002
年末~2004年年初の1年余りの間に一
変することになりました。
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レコード会社とファンの間の不信も高
まりました。不信を招いたのはレコー
ド会社のやり方ゆえのやむをえない成
り行きだったと思います。
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ドリーミュージックは2001年に営業活
動を開始した新興レコード会社で、最
初のリリース曲が柴田淳の「ぼくの味
方」ほか2枚でした。特別売上の高い大
物ミュージシャンと共にスタートした
会社ではないため、当面大きなヒット
が期待できず、基本的に自前で新人を
育てていくのがこの会社の姿勢といっ
てよかったでしょう。
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2003年までは、柴田淳はこの会社の主
力であり、最も大きな期待をかけられ
ていたミュージシャンでした。約2年間
です。
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まず2002年度一杯までとそれ以降では
ドリーミュージックの中での柴田淳の
育成・活動方針が一変しました。
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2002年11月の時点でとあるラジオ局の
イベントの最中、ドリーの社員が明言
したのは「柴田淳は大切に育てる方針
である」ということでした。
(この時、柴田淳さんは一時退席してい
ました。)
タイアップや番組の出演依頼の話は実
際にはたくさんあるが、十分選んで慎
重に進めているということでした。
要するにすぐに結果を求めるようなこ
とはしない、とこういうことです。
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しかし2003年春以降、こうした方針は
“破棄された”という印象があります。
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2ndアルバム発売以後、それまでの
「育成期間」の活動は影を潜めます。
ライブやイベント出演など、表立った
活動の数は大きく減少しました。
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過去のリリース時と比べプロモーショ
ンがひときわ大規模だったことで、
レコード店の店頭で柴田淳を見かける
ことも非常に多くなりこのアルバムが
過去最も売上枚数が多いことは周知の
事実です。
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リカット・シングルの「ため息/夢」は
しかし、さほど売れませんでした。
アルバム収録音源であったことと“タ
イアップ効果”がそれほどではなかっ
たことによると思われますが、“タイ
アップ効果”はアルバム売上に吸収さ
れた、と考えるのが、より自然でしょ
う。2ndアルバム「ため息」は、発売
時点ではこれといったタイアップ曲、
ヒット曲が収録されていないアルバム
でした。にもかかわらずよく売れたと
いうのは間違いないと思います。
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過去、柴田淳のタイアップというのは
あるにはありましたが、2002年6月度
の“oricon power next”「月光浴」の
時ほどの際立った効果を上げたものは、
以後一つもありません。2002年1stアル
バム発売時点では一部「応援店」を除
きCDが置いていない、というのは普通
のことでした。「月光浴」リリースは
そのすぐ後のことです。
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ちなみにタイアップというのも実際には
様々で、明らかに“タイアップ効果”の
見込める「それ」は実は限られています。
タイアップとはいうものの、「お守り」
のような気休めに終わってしまうことも
よくあります。
YUIはデビュー曲がフジテレビ「月9」ド
ラマの主題歌になる、という大きなタイ
アップがありました。これは十分な宣伝
効果があり、いきなり10万枚を超えるシ
ングル売上を記録しました。これは確か
にYUIの知名度を大きく上げることにつな
がりました。
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この頃(~2002年)柴田淳さんの活動の主
体はイベント・ライブやラジオ・パーソ
ナリティで、デビュー以後1年ほどの間に
関東で2つ、北海道で1つ、関西で1つ、
計4つのラジオ・レギュラーを経験してい
ます。

首都圏のラジオはデビュー以来bayfmの
レギュラー出演が続いており、これが
ある意味「生命線」でした。しばじゅん
人気を東京で育んでいたのが「スコー
ピオンA」という番組です。
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これは、今の「月と太陽」とは全くと
言ってよいほど性格の違う番組で、公式
ページの「Diaryそのもの」でした。つ
まり柴田淳の“素顔”に近い番組だった
のです。本人は否定するかもしれません
が。
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ドリーミュージックによる2003年度の
活動方針の転換はここにも影を落とし
ます。これは3~4月の時点では予定さ
れていなかったことだと思いますが、
6月の改変でこの番組が終了します。
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これによって2ndアルバムプロモーショ
ン直後の関心の高まっている時、bayfm
(公称可聴人口首都圏3000万)とJFN系17
局ネットという媒体が持っていた告知
効果が一時的(3ヶ月)なものとなります。
「月と太陽」が冠スポンサー番組であ
ったのがbayfmレギュラー降板の理由だ
ったと見られますが、以後首都圏放送の
レギュラー番組は「月と太陽」全国放送
化まで「4年間」失われてしまいます。
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それではテレビ出演などに活動が切り替
わったかというと、そうではありません。
当時、ドリーミュージックがどのような
青写真を画いていたかは不明です。
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そして肝心な点ですが、過去の売上の中
で「2003年度のみ」に売上が高い「一時
期」があるのは、レコード会社がその時
期に持てる力をフルに傾注したプロモー
ションを行ったということが挙げられま
す。それだけではありませんが、これは
大きな要因です。
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ではなぜその売上向上が「2003年度」の
「一時期」に限定されてしまうのかとい
うと、ひとつには上記の通り、「東京で
の活動が無くなってしまい、それが長期
に及んだこと。」ひとつには「柴田淳の
知名度は、テレビのレギュラーのような
“お茶の間的な”ものではなく、あくま
でこの時点でも音楽(J-POP)ファンの間で
のものだったこと。しかもそれはこの年
(2003年)になってようやく得た、といっ
て良い程度の知名度だったこと。」(急な
変化がもたらした、マイナス要素といえ
ます)ひとつには「ライブ活動をしなくな
ったこと。」
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しかし一番大きな原因はドリーミュージ
ックの都合ともいうべきものでした。
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2003年12月に発売した平原綾香のデビュ
ー曲「Jupiter」が(話によれば)有線のリ
クエスト・チャートから火がついて、文
字通り“予想外の”大ヒットを記録しま
す。これは普通なら何も問題なさそうな
ものですが、ドリーミュージックの場合
は話が違います。規模の大きくない会社
で予想外のヒット、となれば、他の所属
ミュージシャンに手が回らなくなります
。他の所属ミュージシャンも「地道な活
動を主としている場合」変更などの「あ
おり」も少なくなるものですが、柴田淳
の場合、レコード会社一押しのミュージ
シャンとして念入りなプロモーション計
画のもとにリリース&活動を行う方針が、
決定されたばかりでした。
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こうした数々の巡りあわせにより、柴田
淳の活動計画は事実上宙に浮きました。
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これは、偶然の為せる業ではありますが、
2003年の決定が徒になったのに違いあり
ません。2002年までの活動方針を継続し
ながら好機を待つ方針を続けていれば、
「Jupiter」ヒットの影響を受けることも
無くて済んだというものです。
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2004年早々ドリーミュージック内で、全社
的バックアップ体制がなくなった柴田淳は
前述の活動方針の転換も徒になり、2003年
度のCD売上を上回る「キッカケ」が得られ
ないでいるのです。
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「OL」「親子」など、従来のファン層を否
定するかのようなメディア戦略も裏目に出
ました。古いファンを取り除くのに懸命だ
ったとしか思えないドリーミュージックは
一体何を目指していたのでしょう。
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ぼくが見るところによれば、柴田淳のファ
ンにも当然女性はいます。しかし、デビュ
ー以来、同世代よりはむしろ年長、年少に
偏った年齢構成でした。男性ファンも、同
世代よりは年長者が多かった。事実に立脚
せず、足元を見ず、「16~25才の女性が好
ましい」という、どこから持って来たかわ
からない理由で、従来いるファンを否定し
たのがこのレコード会社の「戦略」という
ものでした。最大の失策です。
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ビクター移籍は、少なくともドリーミュー
ジックの方針が一度頓挫し、以前の体勢を
再現できず、その上活動方針の見直しも図
られないのであるならば、柴田淳の今後の
活動にとって現状維持は可能性を狭めるだ
けであり、あの時点で環境を刷新したのは
間違いのない決断だったと考えています。
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「2003年度のCD売上」は、柴田淳の活動全
体を俯瞰する視点がなければわからない。
その数字だけを見て、しかもぼくのような
デビューからのファンを前にして簡単に
「人気がなくなった」などと判断する人間
は「ニワカファン」と呼ぶしかありません。

しかも、これらの知識は、バラバラに知っ
ているだけでは無意味です。有機的に組み
合わさっていなければ、事実の本当の意味
が分からないのです。

その程度の知識で売上がどうの、を口にす
る連中は、柴田淳に対してネガティブ・キ
ャンペーンを仕掛けているのと同じです。
埒も開かないやり取りの中で、浅はかな考
えが再生産されていくだけですから。

とある2ちゃんねら (2)

2007年12月22日 | Weblog
まず、ぼくは彼の言動が、2ちゃんねるで発言を繰り返すうちに
エスカレートしていった様子を把握しています。
要するに、「ミイラ取りがミイラになる」というやつです。
初めは現在ほど重篤な症状ではなく、表向き、柴田淳を擁護
するかのような発言をしていました。

しかし、柴田淳の名をHNに使用し、相手を攻撃するうちに
『自分の敵は柴田淳にとって敵』というような価値判断の錯乱が
生じたようです。それが昂じて誰を攻撃しても、自分には「柴田
淳」という“大義名分がある”ので許される、と思い込むように
なったようです。攻撃の「度合い」は、時期によって様々で彼が
2ちゃんねる内で優位な時には一見場が穏やかに見えることもあり
ます。彼が対立する人間を粗方追い出したことが理由といえます。

彼が固定HN(ハンドルネーム)で発言を始めたのは2005年9月の
「柴田淳を応援しよう!Part29」からです。ちなみにこのスレッ
ドも彼が立てています。発言自体はそれをしばらく遡って確認す
ることが出来ます。彼の登場以後スレッドの重複が顕著になりま
す。アンチスレ、噂スレ、などが乱立するようになりました。
理由は様々挙げられますが、1000レスのうち、ひとりで100まで
埋めているような場合が少なくないなど、常軌を逸した数の、し
かもほとんど無意味な悪口雑言、これに耐えられない人が多かっ
たのが理由だと考えられます。

現在の彼は、自分の行為をコントロールすることも、自分ではろ
くに出来なくなっているのは、お分かりの通りです。放っておい
て事態が改善する見込みがあまりないと見て、今回彼の言動を取
り上げました。最初は遊びのつもりだったかもしれませんが、も
はやそれでは済みません。関わり合いになることはおすすめでき
ませんが、知っておく必要はあると思います。その方が身のため
です。

とある2ちゃんねら

2007年12月09日 | Weblog
なんか、「年がら年中」「朝から晩まで」2ちゃんねるに
張り付いている有名な変人が、柴田淳に感謝されて
喜んでいるそうです。


ぼくはねぇ。。。さすがにあの人はやりすぎだと思います。
ちょっとねぇ、・・・見苦しい。意見がどうこうでなしに。