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布施

2013年08月02日 21時41分00秒 | 葬式はそうそう(葬送)あるもんじゃない




布施とは何か

● 布施は布を施す事
布施は字のごとく布を施すということ、
その布(反物)で僧侶が身につける袈裟を作っていた、ということからきており、
昔は布が高価なもので、お金の代わりに流通していたのです。
自分の持っているものを他人に与えること、行動でも財産でも、それを布施とよびます。
在家で仏教を信じるすなわち在家信者は、自分の財産を施すことにより、仏教的な功徳を積みます。

● 布施とは修行
布施というのは、インドの昔の言葉でダーナと言って、
仏教徒としてなすべき実践行、悟りを得るための仏道修行の一つとされます。

● 布施とは思いやりの実践行
布施は、自分のことしか考えない我執の心を離れて、
みんなが共に幸せになるよう、思いやりを実践する行として行われるものです。
金銭だけでなく、やさしい言葉をかけたり、笑顔で人に接したり、挨拶をしたり、
食べ物をあげたり、困っている人を助けたり、苦しむ人々に手をさしのべる、など
全てが布施です。

● 布施とは執着を断つ事
布施は、施すこと、与えることを示し、
自分がこだわり、とらわれていることから離れ、
自分のことや物に対する執着を断ち、
それを捨て去ることを仏道の修行として実践するものです。
執着のもとを手離す具体的な行いを通して、いかに自分の執着が強いものであり、
それから解き放たれることはいかに難しいかを身をもって知り、
仏様の慈悲の心を表す実践として行われるものです。

● 法施とは僧侶の布施行
仏教の教えや慈悲のこころを人々に伝える布施行を「法施」といい、
おもに僧侶がその役割をになってきました。

● 財施とは信者の布施行
教えを受ける側の人々は、仏教を生活のよりどころとするために、
「財施」といって、お金や物、人的支援など、できる範囲の物理的な奉仕を行い、
仏教教団を護持してきました。

● 布施は読経や戒名への代価ではない
多くの人々の法施、財施の実践によって、仏様の教えは受け伝えられて来ました。
布施は、何分の読経でいくらの料金だとか、何文字の戒名でいくらの値段とかの、
代価として支払う性質のものではなく、あくまでも、
私たち自身が仏教の教えやおこころを聞き、また一人でも多くの人に伝わるよう、
仏法護持のためと仏法興隆の願いをもって、実行するこころざしが、布施なのです。
住職に金額を言ってもらい納めるものでなく、自身の判断で決め、
すすんで誠意をこめてお寺に納めるものです。
ですから、読経料、戒名料という言葉も布施の考え方からは誤りで、
布施は、お経の料金、戒名の料金ではありません。
故人を弔う自分の気持ちを包むのがお布施です。

● 布施とは供養つまり喜捨のこと
「布」は精神的に広く行き渡ること、「施」は物質的に恵みを授けることです。
布施とは、金銭や財産を施すことだけを言うのではなく、
自分のできることで相手の利益になることを相手を選ばずにしてあげることなのです。
お布施とは「取られるもの」ではなく、供養つまり喜捨のことなのです。
感謝の気持ちを持って仏に差し出すものですから、
その時に自分の心のなかに少しでも「惜しむ」気持ちがあったりすると、
仏教の基本である「自我への執着、お金や財産など物質への執着を断ち切る」
という教えに反することになります。
お布施は、喜んで仏に対して差し出すものですから、何かの行為に対する対価などではなく、
また僧侶はそれを預かる媒介役を務めるものです。

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