団塊団子

団塊世代の暇潰し冗談 ぼやき と たわごと

芸術の人々は貧しい

2024年08月11日 23時48分59秒 | 台北第二

藍蔭鼎は
18歳のとき台湾から日本に来た。

余分な小遣いも授業料も持っていなかったので
美術学校の外に座らなければならず、
唯一の 窓の外にいる聴講者 であった。

雪が降ったとき、先生は窓の外に立って全身が凍りついた子供を見つけ、
呼んで暖房の効いた教室の後ろで講義を聞かせた。

20歳の藍蔭鼎が皇室展に入選したことをきっかけに
石川欽一郎から台北第一高等女学校の美術教師に推薦され、
日本の学校で唯一の台湾人教師となった。


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2つの国に生きて

2024年08月11日 22時53分45秒 | 台北第二
姜萃香(S18卒)

中国の台湾省となり、

いささか他の学校を傲慢に見る所も有ったが、
歴史的存在に成ったのは第2高女だけで、
他は今も学校のまま利用されている

台湾人は同期生の僅か0.03%しかいなかった・・

??

ちょっと待ってよ!(我が輩の疑問)

0.03%だって?

ちょっと計算してみても変だよ!

0.03%=1人としても
100%=3,333人は多過ぎ

同窓生総数が4,200人
26年の学校存続期間
∴4,200人÷26年=162人/1学年

5人いたら
5人/162人=0.03=3%

つまり、
0.03=3%が0.03%の正体なのだ・・


昭和20年8月15日
2高女だけが消滅
何故?
台北に生まれ 台北に育ち 今なお台北に住む
私が引き揚げ者よりは 激しい動乱を経て新旧の両世代にまたがり
それはまた ひとしお(一入)
抑えきれない心の顫動を感じます


終戦後、
難しい北京語の基礎発音から習い始めた時、
懐かしい第2高女の授業、口腔剖面図が役に立った!


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DDTを浴びせられ

2024年08月08日 21時58分28秒 | 台北第二

我が母は大正14年生まれ 昭和17年17歳で卒業 18期生

卒業後、陸軍司令部経理部に3年勤務、
かの後藤田正晴少尉の下で働いていた事がとても自慢であった。

我母)どうぞお召し上がりになってください・・
少尉)馬から落馬、か!


「召し上がる」自体が尊敬語なので、
「お」が付くことで二重敬語になっている。

「どうぞ召し上がりください」が正解。


Wikipedia より
1940年3月 陸軍に徴兵 台湾歩兵第二連隊に入営
  陸軍では高等官への例外扱いがないため二等兵からスタート
  甲種幹部候補生に合格し陸軍経理学校で学ぶ
  経理部将校候補生として陸軍軍曹

1941年10月1日 陸軍主計少尉

1943年9月10日 中尉

1945年8月 終戦を迎え台北で悲嘆に暮れる日本人と対照的に
 爆竹を鳴らして喜ぶ台湾人の姿を目の当たりにする。
 同月20日、ポツダム進級により主計大尉となる。入営時からは9階級の進級であった。
 台湾に進駐してきた中国国民政府軍によって武装解除

1946年3月10日 召集解除。同年4月まで捕虜生活を送った。
 捕虜といっても盛り場に酒を飲みに行くこともできたという。
 台湾での日本の統治が割合良好であったこともあり
 現地人による日本人に対する報復行為は殆ど見られなかった。
 基隆港から離台する際、日本人と台湾人の間に差別をつけずに接していた後藤田に餞別を渡そうと、
 元部下の現地人が見送りに来てくれた。
 田辺港(和歌山県)に上陸するなり、兵卒と同じ扱いで、
 アメリカ兵からDDTを浴びせられ、後藤田は戦に負けたことを改めて実感した。



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千人針

2024年08月08日 14時17分11秒 | 台北第二

戦争と共に
山口香(榎本)

私達19期生は昭和14年入学 18年卒業
入学してすぐに開校20周年の記念バザーがあった。

五十銭で慰問袋作り、
陸軍病院の窓ガラス拭き、靴やベルトの油脂塗り、
海軍の肩章の刺繍

19期生は虎年が多いので千人針をよく頼まれた。

毎月一日 興亜奉公日

教護聯盟

蓖麻の油 飛行燃料

国民作法 目上の人が一口食べてから

引揚げの時自分の荷物を犠牲にしてまで学校の資料を持ち帰り
撫子会を創り育ててくれた篠原忠賢先生(校長代理)に感謝

* 篠原忠賢先生から引き継ぎ学校沿革史をまとめたのが19期生 伊勢川静子(道谷)

* なでしこ五徳
  あかき心
  きよき心
  なおき心
  やさしき心
  つよき心



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首狩り族

2024年07月28日 23時17分43秒 | 台北第二

台湾蛮族

日本の台湾領有が1895年

当時、台湾には大きく分けて、4種類の人種がいた。

1. 17世紀頃から大陸から移住した中国系台湾人

2. 原住民、生蕃=文明人と交流をもたず山岳地帯に生活圏をもっていた種族(首狩り)

3. 原住民ながら文明を受け入れた熟蕃

4. 新たな統治者として日本人が住むようになった


台湾領有後、日本は生蕃の居住地を1年に1里ずつ侵奪していった。

日本人は台湾全土を開発しようとして少しずつ奥地に侵入する、
そうはさせじと
生蕃は武器をもって立ち向かう。

1896年(明治29年)
多数の生蕃が武器をもって台北城を襲うという事件が起きた。
日本軍は城から撃って出てこれを敗走させた。



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