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熊本地震に「空飛ぶNICU」 赤ちゃんの命つなぐ

2018-05-03 14:11:51 | 公共航空

<ストーリー:熊本地震に「空飛ぶNICU」 赤ちゃんの命つなぐ>

毎日新聞2018年4月22日 東京朝刊


 熊本城の南東約4キロ。緑多く水の豊かな上江津湖のそばに、立ち入りを許されない2棟のビルがある。窓がすすけ、入り口に警備員が立っている以外は、人の気配が全くなかった。熊本市民病院(熊本市東区)の入院病棟だ。

 2016年4月16日未明に最大震度7を記録した熊本地震本震が襲うまで、300人を超える患者が入っていた。だが地震で倒壊の恐れが生じ、全患者が避難を余儀なくされた。

 その中には新生児集中治療室(NICU)の赤ちゃん18人もいた。施設がダメージを受け、自発呼吸や体温維持が難しい重篤な新生児たちを十分に治療できない。生命の危機にさらされた新生児を救ったのは、ドクターヘリだった。

 本震から8時間後の午前9時半過ぎ。病院近くの水前寺江津湖公園に1機のヘリコプターが着陸した。約140キロ離れた鹿児島市立病院から飛んできた「鹿児島県ドクターヘリ」。先に到着した救急車の中では人工呼吸器を付けた女児が待機していた。生後40日目、体重は951グラム--。

 「よろしくお願いします」「わかりました」。熊本市民病院の医師から容体の説明を受けると、鹿児島市立病院新生児内科の平川英司医師(38)はヘリ搬送専用に開発された「クベース」(新生児保育器)に女児を移し、鹿児島に向け離陸した。その日と翌日の2日間で、「空飛ぶNICU」とも呼ばれるヘリは8人の赤ちゃんと1人の妊婦を救出することになる。

 後に「短期間に多くの新生児を避難させた国内初の事例」(災害医療関係者)と評される空輸作戦はいかに展開され、守られた命はどう育まれているのか。熊本地震から2年の節目に、記録にとどめたい。 <取材・文 黒川将光>

◆熊本から鹿児島・福岡ヘリ空輸作戦 迷いなく「飛ばそう」

 赤ちゃんの体温を保つためにタオルでくるみ、手動の呼吸器でひたすら空気を送り込む。生きようとする小さな命をつなごうと、誰もが焦っていた--。

 2016年4月16日午前1時25分、熊本地震の本震が発生。熊本市民病院(同市東区)新生児内科の川瀬昭彦医師(49)が到着した時には、北館3階の総合周産期母子医療センター新生児集中治療室(NICU)の赤ちゃん18人は、既に1階のリハビリ室に移されていた。

 14日夜の前震ではパソコンが机から落ちる程度で済んだが、今回は建物本体が倒壊しかねなくなったため、避難せざるを得なかった。院内は非常電源に切り替わっていたものの、リハビリ室に人工呼吸器や保育器はない。NICUには1000グラム未満の超低出生体重児や、先天性疾患のある新生児などが入る。呼吸や体温、そして栄養の厳重な管理が命の綱だ。当直だけでなく非番の医師や看護師も駆け付け、応急処置に当たったが、長く許されるはずもない。

 「重篤な赤ちゃんをこんな場所に置き続けるわけにはいかない」。川瀬さんは決断し、NICUを持つ九州一円の病院に助けを求めた。同センターは熊本県内の周産期医療の中核を担う。地域の拠点が「撤退」を強いられるのは、前例のない事態だった。

 「熊本市民病院のNICUが大変なことになっている」。鹿児島市立病院新生児内科の平川英司医師(38)が、熊本市民病院の状況を同僚から知らされたのは16日午前4時16分。川瀬さんとは新生児医の勉強会で顔見知りだ。すぐに電話を入れた。「とにかく重篤な赤ちゃんを鹿児島でお願いしたい」。受話器の向こうの声は切迫していた。

 その川瀬さんには真っ先に避難させたい赤ちゃんがいた。NICUに収容された18人の中で最も危険な状態にあった平口美咲ちゃん(仮名)。体重951グラム、生後40日目の女の子だ。NICUの新生児は少しの環境変化でも危険な状態に陥りかねない。細心の観察に加え、緊急時の救命には経験が必要で、救急専門医でも難しい分野だ。川瀬さんは、経験豊富な平川さんや鹿児島市立病院のドクターヘリのスタッフに期待したのだった。

 「ヘリを飛ばそう」。要請を受けた平川さんに迷いはなかった。

 岡山市の和菓子屋の3人きょうだいの末っ子。小学5年生になっても身長は130センチで、背の順はクラスで一番前。医師だった叔父の勧めで岡山大学病院で診察を受けると、成長ホルモンの分泌異常によるものと診断された。

 中学3年まで治療薬を毎日飲み、頻繁に通院した。いつしか担当医たちが「憧れ」の対象になった。「子供たちの病気を治してくれる小児科医は頼もしい存在でした」と平川さんは振り返る。

 治療のかいあって、高校生では身長170センチを超え、バドミントン部で活躍するまでになった。夢をかなえようと大学受験で医学部を目指したが失敗し、岡山大工学部に入学。しかし夢を捨てきれず、2年後、再チャレンジして鹿児島大医学部に合格した。07年に卒業し、初めて勤務したのが鹿児島市立病院だった。救急科と産婦人科で経験を積み、11年に念願の新生児内科医になった。

 ちょうどそのころ、同病院にドクターヘリが配備された。事故などで救急救命が必要な患者のもとに医師ら医療スタッフを送り込み、現場で応急処置し、医療機関まで搬送するのが基本的な役割だ。ただし、鹿児島県ではもう一つの任務がある。重篤な状態の妊産婦や新生児のもとに専門医を運び、高度な医療を施せる病院に搬送することだ。これには鹿児島特有の地理的要因が関係している。

 鹿児島県は大隅半島、薩摩半島という大きな半島を抱える。その先端から鹿児島市までは60キロ以上離れており、救急車でも交通状況によっては片道2時間以上かかる。その一方でNICUのある三つの病院は同市内に集中している。ヘリなら15分程度なのに、到着する前に亡くなった母子もいた。

 こうした悲劇を教訓に、ドクターヘリとして民間機最速の時速300キロを出せるイタリア製「AW109SPグランドニュー」が導入された。14年には鹿児島市立病院新生児内科部長の茨聡(いばらさとし)医師(62)らの尽力で、機内で新生児の体温や呼吸の管理ができる、専用の「クベース」(新生児保育器)も開発した。

 「ドクターヘリに乗せてください」。新生児医になったばかりの平川さんは自ら手を挙げた。以来、飛行回数は7年間で150回を超える。

 隣県を襲った大災害に経験を生かさないわけにはいかない。熊本市民病院からのSOSに即応することは必然だった。

 「行く」とは決めたが、越えるべきハードルがあった。ドクターヘリの運営主体は鹿児島県で、病院ではない。出動するには、熊本県からの要請が必要だった。また、ドクターヘリは大規模災害時、原則として厚生労働省が管轄する災害派遣医療チーム(DMAT)本部の指揮下で活動しなければならない。

 平川さんは上司の茨さんに、熊本に飛ぶ考えを明かした。この時点で熊本県からの要請はない。ルールを逸脱する恐れがあった。茨さんは少し間を置いて、不安げな顔の部下に告げた。「最後の責任は私が取る。行きなさい」。結局はその後、出動要請も入り、ヘリは4月16日午前9時11分に飛び立った。同10時34分には美咲ちゃんを乗せ、鹿児島市立病院の屋上ヘリポートに舞い降りた。DMATとの関係は今後の課題として残った。

 しかし、平川さんは「これでは終わらない。2次搬送の要請が必ず来る」と感じていた。熊本県内のNICUの病床数は48床(当時)しかない。熊本市民病院の18床を除くと30床あるが、他の医療機関も日ごろから満床状態で、入院させる余裕はないと知っていたからだ。

 同日正午すぎ、予想通り熊本県から再度の要請があった。熊本市民病院から熊本大病院に搬送した新生児2人を、福岡市の九州大病院に運ぶミッションだ。熊大病院は熊本市民病院から、NICU外の新生児を含む10人を引き受けたものの、パンク状態に陥っていた。

 ドクターヘリは同日午後0時38分に離陸。同1時9分に、体温を自力で保てない体重1・8キロの女児を熊大病院から収容し、福岡に向かった。平川さんは女児の心拍に変化がないか心電図モニターなどを注意深く見守り続けた。22分後には約94キロ離れた九大病院に着陸、女児はNICUに運び込まれた。熊本空港で給油後、再び熊大病院に向かい、腹膜炎で人工肛門を付けた体重1・6キロの男児を九大病院に搬送した。

 その日の午後5時半ごろ。鹿児島に帰還し「今日の出動はもうないな」と一息ついていた平川さんのPHSが鳴った。熊本県宇城(うき)市の病院に破水した妊婦がいて、鹿児島市立病院に収容してほしいとの要請だった。普段なら熊本市内の専門病院に搬送するが、地震で混乱していて受け入れてもらえそうにないという。

 迷った。ヘリの飛行は安全のため、日没1時間前まで、と決まっている。距離約120キロ。時間的にギリギリだ。でも、飛ばなければ母子を救えない--。

 「行きましょう」。平川さんらヘリのスタッフは宇城市から妊婦を搬送。妊婦は翌日未明、無事に女児を出産した。

 翌17日も「空飛ぶNICU」による空輸作戦が続く。

 熊本市民病院から11人を受け入れた同市内の福田病院から、5人の赤ちゃんを鹿児島まで運ぶフライト。この日の機長はヘリを運航する鹿児島国際航空の榎田和也さん(57)、飛行8000時間を超えるベテランパイロットだ。

 「今日は高度を取る。いいか?」。飛行前、榎田さんは平川さんに確認した。 ヘリは通常、600~800メートルの高度を飛ぶ。しかし、この日はその付近に厚い雲があった。熊本と鹿児島の間には九州山地があり、そこから吹く強風も心配だった。できるだけ揺れがない高度を飛びたい。一方、高度を高く取れば気圧が変化し、呼吸が弱い赤ちゃんに影響が出るかもしれない。

 「僕が空気も調整しますから大丈夫です」。即答した平川さんに、榎田さんは「なら、オントップ(雲の上の飛行)で行きますよ」。長らくペアを組んできた2人ならではのあうんの呼吸だった。

 最初の搬送は前日に生まれたばかりの男児。熊本城近くにある熊本医療センターのヘリ発着場に運ばれ、「クベース」に入れられた。ヘリは午前11時23分に離陸。気管挿管した男児を乗せ、高度約2000メートルまで駆け上がり、鹿児島市立病院までの約140キロを34分で飛んだ。22分後には再び離陸。続いて鼻から管を入れられた女児を運んだ。

 3、4回目の飛行で搬送されたのは熊本県芦北町に住む介護士、渡辺晴香さん(33)の三つ子の男児、健琉(たける)ちゃん、翔琉(かける)ちゃん、煌琉(ひかる)ちゃん。12日に熊本市民病院で生まれたが、体重はそれぞれ1・7キロ前後でNICUに入っていた。翔琉ちゃん、煌琉ちゃんを2人一緒に運び終えたのは、もう日没に近い時刻だった。


◆2年経て、すくすく成長

 2年が過ぎた。ドクターヘリで運ばれた新生児たちは今、どうしているのか。

 最初に運ばれた美咲ちゃんは体重が8キロを超えた。同年代の子供に比べ小柄で心臓に不安を抱えるものの、元気な女の子に成長。外で犬を見かけると、「ワン、ワン」と言って追いかけそうになる。母親(37)は「両手に収まるほど小さかったのに。震災にも遭いましたが、育っていく姿を見るにつれ、意外に運の強い子かなと思うようになりました」と目を細める。

 渡辺家の三つ子たち。後遺症もなく順調に育っていた。皆、体重は10キロを超えた。言葉も覚え始め、車を指さしては「(くる)ま!」と声を上げる。帝王切開で出産した晴香さんも震災時、熊本市民病院に入院しており、一時は子供たちと離ればなれに。再会できたのは18日午前だった。「無事を確認できた時は、本当にうれしかった。子供たちを支えてくれた多くの人に感謝です」

 「熱い心を持った医者」。上司の茨さんやヘリのスタッフの平川さん評だ。ドクターヘリの運用責任者で、鹿児島市立病院救命救急センター長の吉原秀明医師(55)は「要請があれば、どこへでも飛びたがる」と苦笑いするが、「彼のような医者がいたから、熊本地震では多くの赤ちゃんを無事に搬送できた」とも。

 NICUの撤退--。熊本地震を教訓に国も動いた。大規模災害時に新生児や妊産婦を迅速かつ安全に運ぶため、他機関との調整にあたる「災害時小児周産期リエゾン」、いわば橋渡し役の養成を始めた。今年2月、東京都立川市の国立病院機構・災害医療センターで若手医師らを集め開かれた研修に平川さんの姿があった。「どうすればヘリをうまく使いこなせるのでしょうか」。熊本地震での経験を講師として語る平川さんに質問の手が次々と挙がった。答えは簡潔だった。「患者さんの状態を的確に把握すること。そして、同じ病院の救急医や地域のドクター、ヘリを動かしている人たちと常にコミュニケーションを取っておくことです」

 平川さんはこの4月、長らく勤務した鹿児島市立病院を離れ、長崎市が運営する「長崎みなとメディカルセンター」に主任医長として赴任した。新生児医療を強化したいと請われての異動だ。ヘリの基地病院ではないため、しばらく飛ぶこともなさそうだ。それでも医師を志した頃の思いは変わらない。「長崎で何ができるかわからない。でも、どんな状況でも小さな命を救える医者でありたい」


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