科学が脳を物理的に解明を試み、医学もその仕組みの把握から脳を解析していっても、とどのつまりスマナサーラ長老がおっしゃるような提言の総括力の無さが気になります。
科学・医学が部分部分が正鵠を射ていても、そうした教えを必要とし、飢餓状態にある人へ届かせるセンスと言いますか適材適所な配分を意識的に行動できるのが道徳か宗教か政治しかないのかなあ。
医療でいうなら「担当医」さんが、患者さんに大まかな説明をしてくれますよね?
患者さんは大きな総合病院内なんかでは部分部分の患部の傷み、状態の諸悪を専門部署ごとの先生が判別をしてくださいますけれど、その専門部署の誰もが総括として見やる位置になく、またそれを伝える手段も時間も持ち得ない。
カルテや診断書などを介して患者さんの担当医が、集約されてきた情報たちから「判断」を伝える。逐一正しい。けれど感じるのは正確さであって、適切さにはいまいち及んでない「肩透かし感」が残るんです。
総合してみやっても原因不明のときは「原因がわかりませんね」までの愚直なほどの説明がインフォームドコンセントの観点から発揮されます。
患者自身は正確さよりも、自身の痛みへの対処療法、気休め、安堵を先生に求めるも、人情味のある先生ならば正確さを横において、感情を均(なら)しにかかってくれるでしょうが、正確さを採用するエビデンス一色の性格の先生なら、気休めは曖昧さを含ませるだけ良くないと判断されるかも知れません。そうしたムラっけは、運用の観点からは有益でも、先生次第でたどり着く結論が違っているのがいささか難点になるはずです。
ことさら「死」という、この世の生き物で一切この呪縛から逃れられぬ変遷を、死期が近づくほどに先生には患者に説明しておく必要に迫られることがあります。
医療の立場からでは状態の説明、今後起こる経緯は説明されても、聞き手は得心がいかないズレが生じます。その刹那に要るのは正確さではなく、適切さです。
こういった際に、スマナサーラ長老が講じてくれてる言葉のように、「脳だって臓器なんで生きたがるばかりに脳を司ってる当人にすらたばかる」とちゃんと言っといてもらえることが、100人1000人の名医よりも「適切さ」が勝って見えるのはなぜなんでしょうか。しかもこの説明なら人によって大きく解説・運用の誤差はほとんど生じない基盤に足ります。
そして長老以外の宗派の仏教からこうした視座からの法話が発信される機会がほぼないのは、どうしたことでしょう。スマナサーラ長老だけの長考から出た言葉とも正直思えないんです。
行くべきところ、たどり着くべきところに行きさえすれば、生きて過ごす際の曖昧に苦しむ時間を省け、迷いに身を晒すことも省けるんですね。テーラワーダ仏教がすべてを包括するかどうかは個々人の解釈に委ねられればいいのですが、この生命に関わる「知っておいて死期に備えたい」心情に応える存在は、あまり多くはないことを肝には命じておきたいものです。
一回きりしか迎えない死ですから、そんなにあくせく困っとくことないよ、って人もいるかもしんないですが、私は心構えがあったほうが生きてるあいだ中のクオリティを上げる気がしてます。知ってるんで安心、というのは侮りがたい誘惑でもあるのです。