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近江湖西会家族会へようこそ!

精神障がい者の家族と支援者の集まりです。

希望の集い7月の案内

2018-07-01 09:29:37 | いろんな想い

7月の集いの案内をいただきました。

いつものように日時と場所と内容が(7月はトランプ大会!)

記されている以外には

A4用紙1枚のほとんどを代表の方の思いが綴られています。

原稿用紙にすれば2枚余りになります。



この頃思うのですがこの案内文に書かれている内容が

ずいぶん肯定的で積極的になってきているのです。

長い期間闘病せねばならない病気であるために

調子の波はいろいろあるでしょう。

いま、ここ数か月、よい方の波が来ているのでしょうか。



題名には「私たちと世の中の両想いが叶うことを証明したいです

とあります。

どうすれば証明できるようになるのでしょうか。

どんなに心が病んでも、現代社会は容赦ありません。」

という文章から始まっているのを読めば「両想いが叶う」のは

とても難しいのではないかと思ってしまいます。

次の文では「私達をメンタル的に圧倒する、社会人達が恐竜で、

私たちがアリ、といったような隔たりを覚えます。」
とあります。

ほら、やっぱり難しいのではないでしょうか。



次の三つの段落では、必死になって頑張れば限度が来ること、

回復に向けて休息していると怠けていると誤解されること、

元気に活動していると完治しているだとか思い違いをしてほしくないこと、

そして、心の病はまずは遊びから始めるしかない、

という事柄を述べておられます。

また、「当事者が遊び怠けているところを見かけたら、どうか安心を恵む心で、

心の病と真っ向勝負されている最中だろうと、

暗黙の了解のように受け止めてあげて頂きたいです
。」

とも書いておられます。

この、「受け止めてあげて頂きたい」という言葉にじんと来ます。

自分がそうしてほしいというよりも、心を病んでいるみんなのことを思って

書いておられることが分かりますから。



最後の段落では「そして環境や居場所を、極端にえり好みしてしまう私達ですが、」

とあります。けれども環境や居場所をえり好みするのは「私達病人」だけでしょうか。

通院したり服薬していなくても、環境や居場所についてつらい思いをする人はいます。

現代人は多くの人がひそかに病んでいます。

むしろ、心の病だと認定された人の方が、より多くそのことを自覚し、

一般の社会人とどのように折り合いをつけるか考えています。

病を得たのはそういうことに敏感で他人を思いやる心が多すぎたからではないのでしょうか。



この文章は次のように続きます。

そして環境や居場所を、極端にえり好みしてしまう私達ですが、

豊かな心身を引き起こしあう、ときめきを皆さんと分かち合いたいです
。」

最後に長い一文で結んでおられます。

私たちが耽ることによって、この社会の思いやりを提供し合える両思いが、

叶うことを証明する為に、今、何かが光り実現しだすと確信して、私たちは活動しています
。」



こうして病と社会との間の橋渡しの為に

病気である本人たちが真摯に活動していることを

どれだけの福祉専門家や政治家が知っているのでしょうか。

小さな街の小さな集まりです。たった十数人か数十人かもしれません。

けれどもこういう思いが社会に浸透して

「私たちと世の中との両想い」が叶うときが

いつか必ずやってくることを信じています。













希望の集い6月集会

2018-06-30 14:00:50 | 集会の報告

「希望の集い」は特別の意味で毎回楽しみにしている集会です。

今月は「学ぼう会」というテーマでした。

支援センターが作ってくださったDVDをそのセンターで鑑賞しました。

会場がいつもと違ったせいか、ちょっと集まりにくかったようですが

それでも7人が出席しました。

精神に障害を持っている人たちがどのようにして

一人暮らしをしているか、住居の問題、お金の問題

そして人とのかかわりの問題をうまくまとめてありました。

音声がもう少し鮮明だったらもっと聞きやすかったかもしれません。



その中に不動産屋さんのお話が出てくるのですがそれが印象的でした。

精神障がい当事者の方が数名とそれにかかわる

専門家の方々の登場される中で不動産屋さんは一般市民です。

よく聞き取れなかったのですが精神の人にも理解を持ち

部屋をあっせんしてくださっているようでした。

こういう人々が一般に当たり前に存在する世の中はいつごろ来るのでしょうか。



例によってこの会には段取りを仕切る雰囲気はありません。

なんとなく始まりなんとなく終わる、そんな感じがとても良いのです。

今日は午後から同じセンターで別の集まりがあり

それに出席する人がほとんどだったので

じゃあどこかでご飯でも食べてこようか、ということで

なんとなく集会が終わり、ゆったりとした落ち着いた

いつも通りの静かな集会は終わりました。






6月の家族会

2018-06-30 13:36:55 | 集会の報告

ちょっと前のことになりますが

6月も家族会の集会はありました。

やはり少しだけでも記録しておくことは大事なことでしょう。

最近家族会の雰囲気がとても変化しています。

以前、福祉関係の専門家の方が家族会を取り仕切ってくださっていました。

不明なことを解決し、必要な手続きをして

何でも頼れる状態でした。

今はそういうことはありません。

分からないことは公的機関に出向いて聞かねばなりませんし

個人的に解決してもらうこともありません。



けれども家族会だよといってみんなが集まれば

話がものすごく弾むのです。

家族である当事者のこと、自分のこと、知り合いの事

誰ひとり黙っている者がなく、

次から次へと話題が出てきます。

6月の家族会では寮のお祭りに出た人からの感想を聞き

また出られなかった人がそれを熱心に聞きました。


「へえ~、楽しかったんやね~」

「大成功やったのね」

「来年はこれをこうすればいいわ」

などと意見も出ました。

「今日来たら聞いてもらおうと思ってたんだけど」

と話題提供する人もいて2時間余りはあっという間に過ぎました。



公共の部屋を借りているので終わる時間が過ぎないよう

皆であわてて片付けて

事務所にカギを返した時間が秒単位でぴったりという離れ業でした。

受付のお姉さんが笑っておられました。



ずっとこんな調子で言いたいことが

何でも言える集会だといいですね。












いろりの会研修会

2018-06-17 12:53:18 | 行事の報告

6月16日(土)梅雨の合間にいいお天気に恵まれて

いろりの会研修会がありました。

今回3回目だということですがだんだん充実してくるように思われます。

今度一番感じたのは当事者の方が主体になってやっていらっしゃることです。

前回もいろりの会の代表である当事者の方が挨拶をされたり

体験発表では2名の当事者がお話しされましたが

それは今年も同じでした。

また、去年も今年も当事者の方が作詞作曲されたご自分の歌を歌ってくださったのです。

ではなぜ今年とくに当事者主体だと感じたのでしょうか。

それは午前中の司会をある当事者の方がしてくださったことにあると思います。

司会というのは難しい作業です。

段取りはしょっちゅう狂ってしまうし、このような型に嵌まらない会合では

なおさらうろうろしてしまいます。

ですがどんなふうになっても、なんていうことなく穏やかに

あわてず騒がず温かいまなざしで進めてくださったことで

そこにいる全員がやはり温かい気持ちにならせてもらったのです。

そのことを司会者は気付いておられたでしょうか。

たぶん気付いておられなかったでしょう。

そういう雰囲気というのは演出して出せるものではないからです。

司会者の醸し出す雰囲気のおかげで

講演者も講演口調ではなくお話してくださったし

そのあとも二人の当事者の体験発表では

原稿を読むということなく、世間話のような感じでお話してくださいました。

ある当事者のお手紙というのを代読してくださった

その方のお友達である当事者の方も心温まる読み方で

何かしら全体に温かいものが溢れていました。

もちろん当事者でなくてもそういう人はいるかもしれません。

でも司会を引き受けようとする人はたいてい

しゃきしゃきしててきぱきしていて、なんとなく引きずられるような雰囲気になるか、

または時間通り原稿に沿って次々読み上げて進めていくかです。

そして当事者だからといってすべての人がそういう雰囲気で進められるかというと

そんなことはありません。

当事者であるなしにかかわらず、その人の持っている特性がそうさせるのです。

そういう意味で今年の研修会は特に雰囲気のいい、

ホンワカとしたものになりました。













ふじみ寮祭り2018

2018-06-03 08:01:40 | 行事の報告
ふじみ寮祭りでバザーをしました。昨日6月2日(土)のことです。

去年は急に決まって小さなテントと机を出してもらったのですが、

今年は準備委員会にも2度出席し、切符作りのボランティアにも行って

正式に参加者の一員として大きな顔で参加できました。

お天気も飛び切り上々で、ちょっと暑すぎましたが、

気分が浮き立ちました。



今年の参加者は7人、去年よりも1人少なかったです。

けれどももう2年目で要領もわかっているので

てきぱきと準備をして、品物を並べるために必要な小物なども

それぞれ持参したり、ある人は大きなお茶のボトルと紙コップ

それにおやつまで持ってきたり、みんなの協力体制は万全でした。

売り上げも去年の倍はありました。



今年は家族会の仲間ではない当事者の人が1人、臨時参加しました。

その人はイラストやなんかを上手に書く人です。

2,3のグループに属していますが、バザーの仲間に入れてもらえないというので

じゃあうちの場所を少し貸してあげようと置かしてあげて

その人もたくさん売れたと喜んでいました。

家族会のメンバーが別に文句を言うでもなくさりげなく

仲間として遇していたことは素晴らしいことだと思います。



この藤美寮のお祭りは1000人余りの人出がありますが

障がい者や障害のない人や町の有力者や市会議員も

集ってきてみんなでワイワイするのが、よそにはない雰囲気です。

この寮が北の方にあって、緑に囲まれ広々しているのも

人々の心を和ませるでしょうし、

藤美寮という施設がつねづねそういうことをモットーにしている

ということでもあるでしょう。


私たちのお店にも老若男女の方々が来てくれました。

古いブローチやネックレスを7,8歳の女の子が欲しがって

動かなくなり、今日の特別チケットで買えるような値段にしてあげたり、

この町出身の県会議員には押し売りをしたり、

市の障害福祉課課長も買い物をしてくれたり、

他には市会議員さんたちも数名来てくれました。

どんな人もみな同等、そういう思いを実感できる一日でした。
























吾子に寄り添いて-9

2018-05-24 20:42:11 | いろんな想い

久しぶりで短歌を紹介していただきました。

「新日本歌人」5月号に載った8首です。

今回の題名には「病の」という文言が省かれていますので

ここでも省いた題名にしましたが通し番号は続けました。



以前いただいた短歌がほとんどですが

新しいものがあるのでそれをここに書きとめます。



 われと子が 駁せし日々の ひさしけれど 穏やかなれる 今日の語らい


 ゆめなるや 確かな将来 見定めて われに語れる 吾子となるとは



始めの歌に「駁する」という言葉が出てきますが

これは「批判・攻撃する。反駁する」という意味で、

言い争うほどのことはなくても意見や考えが合わないことを指しているのでしょう。

父親と息子というのはよくそういうことがあります。

病気を抱えて長く同居している親子にはそれも当然のことでしょう。

(年に2,3回しか会わないうちの親子なども、会うたびに「駁して」います)

けれども息子さんが職業を持たれてから、前回書きとめたように


 本採用 決まりて吾子が 吐露をせり 「父さんのように 勤め上げたい」


とおっしゃるようになられたことは本当にすばらしいことです。

そのことを父親である作者は「ゆめなるや」と詠んでおられます。



こうして「ゆめなるや」と詠めるようになるまでの長い年月を思う時

この一首の中に忍んで耐えて、努力されてきたことが感じ取れます。

短歌というのはたった一言の中に思いを込められるものなのだと思いました。



このような短歌を読んだ人々はどんな気持ちを持たれるのでしょう。

ほーっと癒さるのではないでしょうか。

それとも同じような子供を持つ親御さんの中には

「うまいこと行ってよかったけどうちの子供は…」と思われる方があるでしょうか。

そうだとしてもこれからもこのような短歌を

ここに書きとめていきたいと願っています。




蛇足ですが、総会に提出する経理についてごたごたしているこの数日の気分が

霧が晴れるようになってしまいました。感謝。







希望の集い6月の案内書

2018-05-23 09:34:01 | いろんな想い

来月の案内書をいただきました。

いつものように原稿用紙2枚余り、

自分たちの生き方について反省と希望を述べてあります。

今回は精神疾患者という言葉が出てきません。

けれども誰がどのようなことを訴えているのか分かります。

書いた方の了解を得ているのでここに全文を書き写します。



 人とは誰しも大人になるに連れ、対立する社会との多々の争いや欲望や誰かとの、
確執に巻き込まれることからは、避けて通れないものです。こんな時代の中で
たくさんの当事者が圧倒され弾かれてしまうご時世です。

 病んだ心の治療や支援では、症状を抑えるというより、リタイアした心身を、
ただ単に健常者を演じて装える馬力や術を、無理にたたき起こすことを手助けする薬を
処方されたり学習訓練するだけであり、見た目や上辺だけが、まともな人に見えれば
OKサインを出してもらえるといったケースが大半を占めています。

 それより内面のことを解かってほしいだけなのに…そして私たちは常に癒える事のない
消えない悲痛を抱え込んだままで、過ごしているのが当たり前のままです。

 そんな現代社会から何の打撃も受けることもなく、リタイアしない人の方が
「無神経でおかしい」と論じられる当事者もおられます。

 私達はどうしても心が病んでから、楽になりたい一心に、ロスした人生や、
周りから遅れた時間を焦って、名誉挽回しようと健常者には考えられない次元の、
どの過ぎる見栄を張り、何のゆとりすら窺えない背伸びをし、
一般社会と対等以上に張り合おうとしてしまう悪いクセが、うまく抑制できず、
しっぺ返しを食らって派手に転んではの繰り返しで、著しく世渡りが
際立って不得意としています。そんな生き方、ただ辛いだけだと知りながら…

 だけども周りと心の質が違うからといって決して諦めないでいたい。
どんなに離れていても決して諦めないでいたい。
ただ素直に幅広く深く生きていくために、自分らしさを見失わないように…
何だかんだ言っても、私たちは決して人生を楽しむ事は忘れたりはしていません。

 ふと冷静に振り返れば…今、そんな気持ちが芽生えることや、世の中や人生にも
必ず光と影があると気付かせてもらった事。その何もかもを心に刻み、
私たちが自然と、闇の殻を破るための起爆剤に変えていきたいものです。



これが全文です。

障がいを負っている方たちが一般社会の中でどのような立場に置かれているか、

そのことを的確に書いておられます。



一般の人でも大人になり社会に出ればさまざまな確執に巻き込まれます。

障がいを持っているとなおさらです。

心を病んだ人に対する治療や支援は、上辺がまともに見えるような薬や訓練が

なされていて、そうなれば医者や支援者から「OK」と言ってもらえるのですが

本当は心を病んでいる人はそんなことを望んでいないのです。

悲痛な心の内面を解かってほしいだけなのです。

でもそれもかなえられないまま過ごしていかねばなりません。

こういう現在の社会の中で何も打撃を受けないで生きていく人は

その方がおかしいのではないかという当事者もあるくらいです。

心を病んでしまったものは健常者には想像できないくらいに

必死に努力します。ロスした人生を取り戻そうと見栄を張ったり背伸びをして

一般社会と張り合います。その結果しっぺ返しを食らうのです。

そんな生き方をただ辛いと知りながら繰り返してしまいます。



こういうことを格調高い文体でお書きになっています。

そして最後の二つの段落では、けれども決して諦めていない、と

これから先の人生への望みを書いておられます。

ただ単に自分が、自分の人生がよくなるだけではなく

心を病んだ人全体が社会の中で生きやすくなることを願い

自分たちが社会を変えていくような生き方をしたいと

力強く結んでおられます。



心の病人、精神疾患を持っている人たちの100人に一人でも

このような考えを持てるとすれば、それはどれほどすばらしいことでしょう。

これを書いた方も、何度も挫折されたでしょう。

これからだってそういう時があるかもしれません。

けれどもそれを乗り越えて、このような考えや実践を社会に対して

発信していってくださるなら、この社会もちょっとづつでも

いい方に向かうのではないでしょうか。

これを読ませていただいて、明るさを感じた今日でした。















 

B型作業所のこと

2018-05-22 08:42:32 | いろんな想い

B型作業所は障害を持つ人の為に作られています。

働ける体調のときに可能な範囲で作業所に通い、仕事をして、

社会復帰の手助けになるように考えられています。

ですから作業所は、そこを利用する人が辛くならないように考えねばなりません。

けれどもなかなかそうはいかないようです。

工賃の貰える仕事を工場などからもらってくる契約も大変です。

契約した仕事をこなして納品するのも大変です。

作業する利用者がたまたま大勢で一度に体調が悪くなり休む人が重なると

作業成績が悪くなりますから職員がその仕事をすることになります。

作業所を運営している方たちは焦ったりいらいらしたりします。

その結果どうしても弱い者(作業所で仕事をしている人)にとばっちりがいきます。


あるB型作業所に数か月通っている人がいます。

その人は一般就労で働いていましたがうまくいかず退職しました。

その人は考えました。B型作業所なら、仕事ができるはずだ。

一般の会社でしんどい思いをするよりも作業所でいい仕事をする方がいいのではないか、と。

確かに作業所ではその人はいい成績を上げることが出来ました。

しかし最近、いろいろな疑問がわいてきました。

障がい者に対する差別的発言や態度が出てきたのです。

他にも作業時間のごまかしや工賃の不払いなどにも気が付きましたが

そういうことよりも、差別には我慢しがたい気持ちになりました。


その人はそれでも作業所に行く、と言っておられます。

そこを辞めて別のところを探すのも大変ですが

辞めるのはもっと残念なことだから、と言っておられます。

自分で自分を納得させるように訥々と話される言葉を聞いていると

胸の締め付けられる思いがします。


病気の症状や発作など、それが出るときだけでもどんなにか苦しい思いを

しなければならないのに、社会復帰を望んで出かける作業所でまで

差別待遇を受けなければならないのか。

親戚やご近所や知人などからもいろんな目で見られているのに

福祉の現場でまでそんな目に合わねばならないのは

この社会が間違っているのではありませんか。

これは決してその作業所だけの問題ではないでしょう。


こういう問題が少しでも良くなるように祈るしかありません。







希望の集い

2018-05-21 10:26:59 | 集会の報告

5月の希望の集いは昨日いつものところで催されました。

8人の参加で、新しい参加者が一人ありました。

60代の方です。奥様を亡くされた後、うつを発症したとのこと。

現在おひとりで暮しておられるそうですが、ずいぶんつらいこともおありでしょう。

それでもこうしていろいろな会合に出て話をすることで癒されるととのことです。

これからはこの方からいろんなお話を聞いて私たちも癒されるだろうと思います。


昨日もこのように大きな実りがありました。

少しずつ実っていって少しでも生きやすい状態になればいいですね。

でも急ぎすぎてある日また辛さのぶり返しになることもあります。

明るさや暗さの繰り返しで一生懸命生きていかねばならないのは

精神疾患がないと言われている人でも多くの人が課せられています。

もちろん中には精神疾患なんて他人事で、自分はそんなこととはかかわりがない

と思っている人もいるでしょう。

それはそれで仕方がないのです。


けれども精神疾患だという人たちの中でも

常に人のことを気遣い、人の為に一生懸命何かをしている人がいます。

そういう人だから病気になったと言えるのかもしれません。

どうしてそういう生き方が病気になってもできるのでしょうか。

その方はひょっとしたら何か生きとし生けるもののために

偉業をなされる運命にあった方かもしれません。


もちろんその一歩手前でとどまっている方も多くいられます。

教養もあり、音楽や絵画などの才能もおありだけれども

人と関わりになるのは気が進まない、そういう人の方が多いでしょう。

何人かの方はこういう希望の集いのような会合に出てくるのさえも

億劫だと言っておられます。

それが普通なのかもしれません。



そうだとすると、病気になっている仲間の為にいろいろ動くという

病気の人は、それは本当に病気なのでしょうか。

時々不思議に思う時があります。貴重な存在です。



今日は新しい方の参加もあり、その方のお話や

それを聞いてあげる皆さんのお顔色や、

いいことがいっぱいありました。

そうそう、久しぶりでトランプをしたいということで

ババ抜きをして遊びました。

それもとても楽しいことの一つでした。







いろりの会5月定例会

2018-05-19 14:54:53 | 集会の報告

昨日に引き続き今日も実り多い会合でした。

来月開催の「研修会」の打ち合わせ、12月ごろに可能かもしれない「映画会」の事

そんなことを10人ほどの出席者で話し合った後

いつものようにおいしいお昼ごはんをいただきました。



2月に家族会主催の「お楽しみサロン」をしたときに

ある一人の当事者の方が手作りの楊枝入れみたいなものを持ってこられて

赤十字奉仕団に方たちにプレゼントしていました。

家族会がちょっとしたものをバザーとして並べたのですが

そこに余った楊枝入れを置かせてと言うので並べました。

あまり売れなかったのですが家族会のみんなが一緒になって売ってくれたので

彼女はとても喜んで、次もバザーをするときには一緒にやってほしいと言ってました。

そのバザーをする日がもう近づいてきて、

6月2日の藤美寮のお祭りではまた家族会と一緒に並べてあげることになりました。



今日はその作品を持って行って「いろり」のみんなにも見てもらうと言っておられたのです。

(そういえば今日は昨日より10度も低い気温でした。

お寺ではいろりが焚いてあり、体も心も温まりました。)

その彼女が持ってきた手作り作品はいろいろな種類があり色彩もきれいで

とてもいい出来でした。お寺の奥さんも並べて見学する場所を作って一緒に眺めたり

買ってあげるとお金を払ったり、別の参加者も買ってあげたりしていました。

その当事者の彼女は割合不機嫌さが目立つ人で、強引なところもある人らしいです。

ですが今日はふんわりと和やかで穏やかな表情で過ごしていました。

その人のバザー作品といろりの会の会合とは別の事柄ですが

みんなが温かく接していたことで彼女の気持ちもほぐれたのでしょう。



会の代表者も当事者ですが、きちんと進行を滞りなくされて

この人も実によくされます。映画のこともあるし、やる気も上々で

これからのいろりの会はますます発展することでしょう。



会員の一人で当事者の方が、現在仕事に行っている

B型作業所に対する疑問を提示されたことも大きな今日のテーマでした。

このことについては明日か明後日、書きたいと思っています。

当事者がどんなことを望んでいるのか、どんなことを望んでいないのか

一番大事なことです。

その話題が出たときに、「希望の集い」の代表者の方が

(この方は「いろりの会」の会員でもあるのですが)

来月の「希望の集い」のチラシを今日、配ってくださって

「ここにも書いたのですが…」と

この大事なことについて話されました。

そのことも含めて改めて書かせていただきます。