三国干渉のマンガ
1904年(M38)
朝鮮がロシアにする寄ることで半島でロシアが勢力を強め、日本の安全が脅かされるようになったので、それを防ぐために今度は清国より強力なロシアと戦争を始めた。
これが日露戦争である。
日本は海戦では勝利したが、中国東北部を舞台にした陸戦では国力の限りを尽くしても5分5分の勝負であった。
結局アメリカの仲介でロシアと講和条約を結んだ。
これがポーツマス条約で、半島からロシアの勢力を排除し、朝鮮に対する指導・保護及び監督の権限を手に入れた。
日本の、日清・日露という大きな二つの戦争はいずれも半島に関するものとなった。
日韓合併への流れ(くしくも朝鮮の希望からである。)
日露戦争終結直後から日本は日韓併合へ進むことになったが、ここに日韓併合を熱望し併合の推進に尽力した韓国人の大集団がいた。
一進会と称し会員20数万人を擁し、ロシアの脅威から朝鮮を守るには日本に頼るしかないというくらいの親日のグループである。
1905年11月
第2次日韓協約が締結され、韓国の外交権が日本に摂取され事実上の非保護国となった時、一進会は「外国権を日本政府に委任し、日本の指導保護を受け朝鮮の独立、安定を維持せよ」と宣言した。
1909年2月
一進会幹部の宋は当時の首相桂太郎に「合邦論」を提出し、両国の合併を提言した。
日韓合併を言い出したのはむしろ朝鮮からであった。
1909年10月26日
伊藤博文哈爾濱にて安重根に暗殺される。
この件によって朝鮮のその後の運命は決まったと言えるのだろう。
1910年10月
一進会は「百万会員」の名義において、大韓帝国の皇帝である純宋と首相の李完用に合併の請願書を送り、日本との合併は、韓国の閣議で全閣僚賛成のもと決定された。
今日の韓国人から見れば、一進会の行動は「反民族的」売国行為となろうが、しかし当時の韓国最大の民衆運動を行う代表が、自国が外国によって合併されるよう強く要求した事実は重いものであり これは韓民族の特徴的な行動原理である。
アメリカの朝鮮史家 G・ヘンダーソンは「政治史上、自分の民族に対して行われた反民族的大衆運動として今までになかった唯一の例」と述べている。
朝鮮併合は日本の無理やりの押し付けという輩がいるが、真実はどうなのだろうか。
伊藤博文の暗殺と、一進会の行動がその流れを促進させたと小生は思うのだが、、
以後、日本の敗戦までこの状態は続き、特筆すべきものはない。
日本の敗戦により形ばかりの独立を手に入れた朝鮮はまたもや列強により支配され、南北分裂という、日本の合併時代には無かった苦汁を強いられるのである。
次回はそのいきさつを記すことにしよう。
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