宇宙おじさん探査記録

世界は平和かい?今日も宇宙は見ているよ。

「シンゴジラ」は、「ただの映画」ではない。きっと「シンゴジラ」以前と以後に分かれるだろう。(その2)

2016-09-08 23:49:43 | 日記
「シンゴジラ」が提示したものは、
単なる「怪獣映画」の新しい形や
「新しいゴジラ映画」などではない、
と思っている。

別の場所に書いた内容をかいつまんで書くと、
私は庵野氏は「ゴジラ」もしくは
「ゴジラという記号」を、
明確な形で「終わらせた」と思っている。

勿論これには異論があろうと思うのは、
当然これが「新しいゴジラの始まり」と
解釈する人が多いだろうからだが、

昭和ゴジラにしても、結局のところ
「円谷・本多・伊福部」トリオにしか
その「魂」を、「表現」として成就させ得ることはなく
(「ゴジラ対へドラ」は例外)、

その後に「復活」したゴジラ、
平成に至るゴジラは様々な監督が模索したが、
結局「ゴジラ」という記号の呪縛から明確に脱し、
折り合いを付けることなど到底誰もできなかったのだ。

観客とファンの持つノスタルジーと
無責任で根拠の無い期待、
東宝の持つ商業・商品としての側面との折り合い、

庵野氏の偉業は、それほどまでに肥大した
「ゴジラという記号」を、
見事な形で「自分の作家性」で「消化」し、
吸収してきたエッセンスを
見事に「表現」として昇華、甦らせたことにある。

そしてその呪縛を、
巨神兵のような放射能によって
見事に破壊して消し去ってみせたのである。

その確信犯的計算は、ゴジラに限らず、
「映画にとって絶対不可欠なダイナミズム」だと考えるから、
この映画がもたらす映画界への影響は、
まさにリアルな放射能のように、
「見えない場所」に次第に浸潤して行くのではないか、
そういう「革命的な期待」まで持ってしまうのだ。

勿論これは一般の「観客」や「ファン」には
どうでもいい話かも知れない。個人的なことかも知れない。

何故なら、この映画を誰かが
「壮大な自主映画」と評しているように、
まさにそう思って私は観ていたからだ。

複数監督として名を連ねる3人は、
少なくとも全員、庵野氏を筆頭に
特撮自主映画界で知らぬ者はモグリという程の人物たちであり、
これまでの作品はともかく(笑)、
今回この3人が一堂に会し、共闘して
「東宝の看板」を背負って勝負を賭けたことには
並々ならぬものがあったに違いない、

まさに「その気概どおりの作品」が降臨したのである。

つまり、庵野氏は、東宝の看板を背負いながら
まるで命を削るようにして「自主映画魂」を入魂した
トンデモナイ作品をアウトプットしたのである。

莫大なカネを掛けたハリウッドゴジラの数段、
いや足元にも及ばないほどの圧倒的な作品力を持ち得た理由こそ、
この「魂」であることを
彼は見事に証明して見せたのだ。

ここ十年以上、日本映画は「製作委員会方式」という
「企業に都合のいい」システムによって、
良く言えば「映画を盛り上げ」て
収益性、回収力に貢献し、
悪く言えば「映画の質を落とす」ことにも貢献してきた。

いや、これがなければ邦画はいまだに
70、80年代の低迷を続けていたかも知れない。
シネコンに邦画が掛かることも無かったかも知れない。

いくら表現のクオリティが高く、
アート性が高い映画が多くても、
映画は大衆が支えているのだ、(と私は考えている)
それでは映画界は終息する。

現に長い長い斜陽の時代がそうで、
その時代に映画各社は助監督を取らなくなり、
映画は産業として終息寸前であった。

その頃に自らの力で「成り上がった」
(つまり自主映画)監督が
今も残る中堅以上のベテラン監督たちであり、

その後の世代(自分もその世代だが)は
さらに映画界に進む道が閉ざされる中、
映画学校、製作会社、TV等に進み、
CMやTVドラマなどから頭角を現して
「本編」(映画)に進んで勝ち残ったのが、
今活躍する大半の監督たちである。

しかし「そこ」で「仕事」として、
つまり「職業監督」として生き残るには、
当然「スポンサー」という「壁」があり、
如何にその「壁」と折り合いを付けるか、
うまく自分の実力とスポンサーの意向とを「軟着陸」させるか、
が「手腕」でありワザでもある、
という時代が長く、今も続いているのである。

そんな中で生まれる作品は
自ずと「安定路線」であり
「安全策」を取るから、

「無難に製作費が回収」出来、
またそれが「確実に見込めるもの」という前提で
企業はカネを出すから、
当然「原作もの」(原作に固定ファンが居る)、
「アイドルで出演者を固める」、
「企業とのタイアップ」、

そして何より「二次収益」の為には
筆頭出資は「絶対」に「テレビ局」という、
これらの要素は不可欠となっている。

映画館の収益、二次使用のビデオレンタル、
そしてTV放映、そこに製作ハード自体の
低コスト化の波は一気に映画製作のハードルを低くした。

今や自主映画で製作する者が使う
同じカメラで一般劇場映画が撮れる時代になった。
このことの功罪はいつかに回すとして、

これにより映画は量産され、
いまや似たようなタレントが似たような映画に出ていて
しかも映画個々の持つ「トーン」まで「似ている」という時代になった。

当然監督自体も「業界人」的な性格が重用され、
まるで「ビジネスマン」のような折衝スタイルが主流になって、
かつてのような「猛者」も
スケールの大きな変人も居なくなり、
映画界が「ビジネスの場」になった(と私は思う)。
監督が「ウインウイン」とか言いそうで気色悪い(笑)。

少なくとも映画会社も出資企業も、
損を出さぬ至上命令の下、
到底冒険などありえず、

監督の方も「作家性」を振り回すタイプは
出資企業からも敬遠されるし、
特にTVのD出身の監督が増えて
ますます「作家性」など必要なく、

むしろ「平均的に可もなく不可もない」物を作れるタイプが重宝されるわけで、
このような状況の中にあっては「傑作」などが生まれる筈もなく、
逆にとてつもない駄作というのもなかなか生まれにくい
(そういう意味では三池崇史は凄いかも知れない笑)、

本来映画というのは「当たるも八卦」の世界、
博打の世界である。
作家はカネを出す側を如何に取り込んで
「冒険」に「参加」させるか、に心血を注ぐ、

だからこそ躍動があり
破綻がありダイナミズムが生まれる、
そしてそれは画面に焼き付けられるのである。

クロサワが「七人の侍」の未完成ラッシュを
東宝の役員に見せたのは
「これから愈々戦い」という見せ場まで、
とうに製作費が超えてしまっていたので
「そこまでしか出来てない」と言うと、
役員たちは「先を早く作れ」と言って製作費が増額された、
というのは有名な逸話である。

そういう丁々発止が映画を面白くし、
映画界を面白くするのである。
時代が違う、技術が違う、
それでも私は根幹は同じだと信じている。

そのことを今回、庵野秀明は
「ゴジラ」でやってのけた。

東宝側に「絶対口出ししない」という条件を付け、
(さすがに3時間を超えた尺への要望には折れて、
2時間見事ジャストに抑えて職人性も見せている)
自主映画さながら、音にも宣伝にもこだわる
「好き放題」をやって見せた。

自主映画の魂を持つ者が、
最高の技術とプロ意識に裏付けされた「仕事」を、
本気で掛かればこれだけの物が作れるという「事実」を、
興行収入が証明している。

後に続くように「君の名は」もヒットしている。
やはり作家性を持った監督への待望が
観客に「在る」。

クロサワは、「カメラが演技するな」と言った、
周りの若い自主作家やTV出身のプロ達も、
そんなことお構いなしに

クレーンが使えれば使う、
何の必然性もなくのべつまくなしドリーで移動する、
その癖芝居の下半身はほったらかし、
素人の芝居を堂々と公共の電波に乗せて
「プロ」と称してドラマが作られる。

この時代、全てがクロサワの言った考えが通じるとも思わない、
しかしやはり、その「基本」は必ず生きて来る。
フィルムがHDになろうが魂は「映り込む」。

少なくとも現在の日本映画の方向は違う、と思っている。

それは、映画製作のコストが下がったなら
「内容がブローアップ」すべきであって、
逆にこれまでと同等、
もしくはそれ以下の作りに「落とす」など
断じてあってはいけない筈なのだが、

実際には若年層をターゲットに
人気タレントの投入に「のみ」価値を置いた
「低予算」映画が量産され、
安易に儲けようとする映画に群がる
企業の思惑が見え見えである。

自主映画を作っている身から見れば、
今の大半の邦画は
自主映画と何ら変わらないのである。

如何に製作費(原価)を抑えて収益率を上げるか、
そんなことに血道を上げているようにしか思えない。
映画は本来博打だから、
出来るだけ小さいコストで作って当たれば
「大化け」する。

それが今、技術革新によって
製作のハードルがぐんと下がって、
数撃って当たればラッキーというような

「映画レイプ」が横行しているのではないか。
製作費もさることながら、
安易なカメラワーク、お決まりの演出、
画作りもポスプロで同じトーンになり、
酷い作品になるともう「映画」ではなく
「テレビそのまま」というのも当たり前になっている。

だから海外でも作家として評価される監督は、
相変わらず是枝監督と河瀬監督だったりするが、
二人とも「ゴジラ」を撮るような監督ではない。

つまり、映画が本来の「見世物」に回帰するために必要な作品は、
「天空のハチ公」を
「きちんとそのバジェット感で描くことの出来る監督」が、
作家性をもって闘うことでしか生まれない。

「野火」に出資もせず、
自主映画のバジェットでしか描くことが出来なかったのを
放置するようなことでは、
日本映画は駄目なのである。

映画界はこの庵野氏の偉業の爪の垢を煎じて飲んで、
作家性にこそ宝の山があることに気付くべきだ。

今回、彼は遂に、
この「両方」を見事に成就させてみせた。

それも「現代ならでは」の方法論を駆使して、
である。

だから「シンゴジラ」のヒットを見て、
映画界が変わることに期待する。
それが日本のコンテンツが本当に世界に通用する時だ。

劇場映画が自主映画と化するのならば、
自主映画の魂は「ゴジラ」と化したわけである。
どうだ、分かったか。

そして要するに、
「オレにも撮らせろ」。
てへぺろ。

ということである。(爆)