宇宙おじさん探査記録

世界は平和かい?今日も宇宙は見ているよ。

希望の話・・・絶望の話。今日はどっちだ。・・・。

2008-07-28 21:17:00 | 日記
昨夜書いた日記、ちょっっとヒドイですな。
読み返してみると、なんつー「オチ」の付け方・・。

あれでは何を言いたかったのか、全く意味不明。
すんません、すんごく眠くて、多分10行分くらいすっ飛ばして結論に行ってます。

要するに、アメリカで乱射事件が又起こったそうだけど、場所は子供の演劇をやってた教会、亡くなった人は、子供たちを守るために、猟銃の前に立ちはだかって撃たれたらしい。

そういうことです。
そんなこと、なかなかできるもんじゃない。
つまり、武士道というか、

本当に「命」を「大切に」思う人、というのは、結局自分の「命」を犠牲にできる。

美談だの何だのといろいろ言ったって、結局そういう「勇気」を教えるのが一番先で、いくら「観念」で

「命は大事」といったところで意味はない。
ましてや大分みたいに、教師があんな「俗物」として跋扈するこの国では、

「教育として」その文言自体に説得力がない。

あのアキバ事件の犯人も、
(甘えているとか身勝手とか、そういうありきたりな捉え方は取り敢えず無視して)
「寂しかった」し「孤独」で、結局の所

他人に自分の存在を「認知」してほしかったのだ。

つまり、子供が、母親に甘えようとしてわざと目立つように悪さをする、

まったく同じである。
「母親」が「世間」「社会」、そして「他人」、いや、肉親を含む「人間」に置換されているだけだ。

「愛情がほしい」「優しさがほしい」「甘えたい」「安らぎがほしい」。

彼ら「犯人」の行き着く所は、大まかにみて「そこ」である。

あの宅間ですら、そうだったと思う。
そこに余りにも独善的な、突出したキャラクターが加わって、怪物になる。
ちょうどフランケンシュタインのように。

彼らは「自分がこの世界から拒絶されている」ことを知ってしまって、その絶望を、「母」たる「一般社会」に向ける。

そうみると、家庭内で頻発する「親殺し」も、バスジャックも、無差別殺人も、すべて一本の線で繋がる。

要は「母殺し」、そして「神殺し」なのだ。

・・・って、いやいや、もういいのだ、この話題は。

昨夜ある番組を見てると、アキバ事件を受けて、この事件は「特殊な個人が犯したもの」か「背景に社会がある」か、という二元論で議論しようとしていて、

そういう短絡的なことして何とか「帰結」を取り繕い、「落しどころ」を作らないと気がすまない、マスコミや大衆の悪癖に「イヤな感じ」がしたので、書いたまでのことだ。

どちらか一方、なんかである筈はなく、両方であるし、そこで考えるべくは

「一個人のパーソナリティー」なんか「神のみぞ知る」わけで、そんなこと議論の意味はない。

最低限できることは、
我々の社会を、こういった事件を通して「映し鏡」にして「修正」して行く
しかない、ということだ。

そのことに向けて、いかに人間として「素直」に「真摯」に、「誠実」に社会が「進化」していけるか、
ということが問われているということだ。

そして、それは「絶望的」だ、ということだ・・。

・・・だからぁ、そんなことを書きたかったんじゃないんだ、今日は。
昨夜の続きになっちゃった・・・。

今日は「希望」を書きたかったんだ、私は。
この日本の希望を。

あーあ。
せっかく「ポニョ」の感動が冷めやらないというのに。

愚かな宇宙オヤジである。