
■ RMITを避けるべき理由
こちらでは大変人気の高い大学のひとつがRMITです。
日本でも大学等の不祥事はどうでしょうか・・・
不祥事はどの大学でも起こりえるとはいえ、大体不祥事で名前があがる
大学は一定してるような・・・?
これにはグーグルで 大学&不祥事で検索キーワードをいれてみると
候補がズラリ上がってきます。
こうした大学を避けるか、好むか、というと一般的には避けるのが常識的な
行動ではないでしょうか? たしかに名物教授や特殊な勉強でそこでしか
提供されていないコースでは選択の余地はないですが、他にも選択肢が
あるときにあえて不祥事で有名な大学を選ぶ人はいないと思います。
こちらではRMITへの地元の信頼は大変強固で、国立の大学なので、政府の管理下にあるということで、よほどのおかしな事態は
起こらないと想定されています。
しかし・・・その”お墨付き”もどうでしょうか? 日本で文部省が
公立小学校のいじめ問題にどれだけ効力があるかと同じような問題ではないかと想像していますがどうでしょうか?
■ RMITをめぐる記事
ここにはBROOKESと名乗る学校が、RMITの学位を出す記事で学生を
釣っていたという詐欺事件の言及があります。
http://www.straitstimes.com/Breaking+News/Singapore/Story/STIStory_403332.html
この学校は閉鎖されました。
他にもこのサイトでは現役学生が実情を語っています。(コメントをMelbourne Institute of Technologyで検索)
http://www.theaustralian.com.au/news/opinion/educations-dodgy-operators-must-be-shown-door/comments-e6frg6zo-1225756100743
さらにここには学位がラクに取れるというヘラルドサン紙の記事が・・
http://www.heraldsun.com.au/news/national/foreign-students-cheating-or-receiving-special-treatemt-to-get-degrees/story-e6frf7l6-1225877694343
日本でもそうですが、こうした教育機関というのは評判商売のため、不祥事があっても
不祥事隠しの努力をするはずですから、新聞に載るまでの事態になったというのは
結構な程度まで進んでいたということです。
そして私が気がついたのは、学生手帳といえる配布物内のCheating(詐欺)に対する異様とも言える長い説明と罰則の記述です。
これはそうした事態が起こったゆえに取られた対策ではないかと想像するのが筋だと思います。
さらに現役学生に話を聞いてみるとポジティブな返事が返ってきませんでした。(学生用ホステルなどに短期間住んで情報収集)
これら5つの大きなエビデンス(証拠)を提供しても・・・
友人いわく、これら問題は数年前に一掃されたハズだということです。
しかし・・・一旦このような事態が生まれた土壌というものはそうカンタンに
変わるものではないのではないでしょうか。
■ 自分さえしっかりしていれば大丈夫! No Worries! ?!
逆にひとつの考え方として、きちんと勉強でき、学位され取れたらクラスメートの質は
どうでもいいのではないか?自分さえきちんとしていれば良いのではないか?
という考え方もあります。
特に、こちらの人はこのような”自立礼賛型思考”の信奉者が多く、”It won't affect you!” で
心配しすぎの一言で片付けようとする人が多いです。
しかし、本当にそうでしょうか?
どんな強固な意志の人でも、しっかり勉強して取ったAと勉強しないで取ったAが
同じAで表現されるのには憤りを感じずにはおれないはずです。
この環境で自分はトクをする側なのか、損をする側なのか?
鶏頭となるも牛後となるなかれ、という言葉は使い方が多少違いますが
周囲の環境が低いほうが自分が引き立って良いでないか?という考え方もあります。
なのでそれらを総合すると結局は”自分次第”(up to you)で固め
られてしまいます。
しかし、私にはそれは個人の自分次第で済ませる問題ではなく、
あらかじめ提供されてしかるべき、情報のように思います。
これは例えば事故車は販売するときに事故暦を提示すべきだ、と
同じ程度のモラルの問題だと思われますがどうでしょうか?
■ 批判に弱い
見ざる・聞かざる・言わざる を信奉する風潮は、アメリカにおいてより、オーストラリアの
ほうが顕著だという気がします。
それがたまに”No Worries!”で表現されるとき、
「いや~それは言葉の使い方が違うだろ!」
というツッコミを入れたい気分になります。
このあたりの心情は老いも若きも日本人なら誰でも感じることらしいです(笑)。先日は若者が”いい加減”の英語を知りたいと切望していました(^^;)
No worries! は文字通りの”心配しないで”ではなく、責任逃れのいい加減な言葉となります。
そう直訳すると”見ないで飛び込め!”ですね。
色々深く考えることなく、やってみることが大事だ、とでも言いたげなNoWorries!で
損をするのは誰か? 自分です。
その後に、ええ~?!という事態に陥っても誰も悪いと感じたりはしてくれません。 それが日本との大きな差です。
日本人には自分が言ったことには責任があると感じるはずですが、
責任は取れなくても、悪いな~と、すみませんというはずです。
が、こちらにはありません。No worries!と励ましてあげたのに
なんで悪いと思わなきゃならないの?って訳になります(汗)
■ 寛容さの欠点
つまり相手にも寛容な代わり、自分にも寛容。
人にも甘く、自分にも甘い。
つまり、批判を嫌うということは、self-satisfaction 自己満足。
つまり寛容さの欠点は自己満足で成長がない、ということにつながるわけですね。
常に上を目指して自己研鑽というプロテスタント的な倫理観はあまり信奉されていないようです(^^;) だからこそリラックスした
いい国なのですから、仕方ありません。
オーストラリアは自己批判には脆弱です。
オーストラリアへの批判があるなら帰れ!と短絡思考。
しかし、批判を嫌ういう欠点はおそらく、寛容さの裏返しなのです。
完璧な人はいないよう、完璧な国もありません。
■ オーストラリアにおける交渉術
こうした気質に対して、有効な対策は、”I prefer” です。
基本的に寛容という美徳を持っているため、合理的批判ゆえの拒絶と
いう形ではなく、人の好みの問題に片付けてしまうことです。
I prefer にはかなりの威力があります。 こっちのほうが好き、という単なる嗜好性に
どうしてこうも大きな正当性を与えてしまうのかは、私のような純粋培養とはいえない
日本人にもはてな?ですが、個人の嗜好のほうが、であるべき論よりうんと説得力があるのです。
例えば、I should avoid RMIT より、I prefer mature school のほうが説得力があります。
つまり、合理的判断で避ける、という結論には、批判のエッセンスが含まれています。
例えば、スーパーマーケットを避ける。 これは批判を含む行動です。理由は
スーパーは高いから、とか、混んでるから、とか 色々上げられます。
しかし、日曜のファーマーズマーケットを好む、と言うことは単なる好き嫌いの問題です。
ならそのとおりしたら?とすんなり納得してくれるのが、こちらのいいところ。
日本でやっているやり方をPreferするなら、多分その通りやらせてくれます。
おおらかさをいかにプラスに働かせるか?
そこがオーストラリアでの”事を上手く運ぶ”思考回路であるようです。
こちらでは大変人気の高い大学のひとつがRMITです。
日本でも大学等の不祥事はどうでしょうか・・・
不祥事はどの大学でも起こりえるとはいえ、大体不祥事で名前があがる
大学は一定してるような・・・?
これにはグーグルで 大学&不祥事で検索キーワードをいれてみると
候補がズラリ上がってきます。
こうした大学を避けるか、好むか、というと一般的には避けるのが常識的な
行動ではないでしょうか? たしかに名物教授や特殊な勉強でそこでしか
提供されていないコースでは選択の余地はないですが、他にも選択肢が
あるときにあえて不祥事で有名な大学を選ぶ人はいないと思います。
こちらではRMITへの地元の信頼は大変強固で、国立の大学なので、政府の管理下にあるということで、よほどのおかしな事態は
起こらないと想定されています。
しかし・・・その”お墨付き”もどうでしょうか? 日本で文部省が
公立小学校のいじめ問題にどれだけ効力があるかと同じような問題ではないかと想像していますがどうでしょうか?
■ RMITをめぐる記事
ここにはBROOKESと名乗る学校が、RMITの学位を出す記事で学生を
釣っていたという詐欺事件の言及があります。
http://www.straitstimes.com/Breaking+News/Singapore/Story/STIStory_403332.html
この学校は閉鎖されました。
他にもこのサイトでは現役学生が実情を語っています。(コメントをMelbourne Institute of Technologyで検索)
http://www.theaustralian.com.au/news/opinion/educations-dodgy-operators-must-be-shown-door/comments-e6frg6zo-1225756100743
さらにここには学位がラクに取れるというヘラルドサン紙の記事が・・
http://www.heraldsun.com.au/news/national/foreign-students-cheating-or-receiving-special-treatemt-to-get-degrees/story-e6frf7l6-1225877694343
日本でもそうですが、こうした教育機関というのは評判商売のため、不祥事があっても
不祥事隠しの努力をするはずですから、新聞に載るまでの事態になったというのは
結構な程度まで進んでいたということです。
そして私が気がついたのは、学生手帳といえる配布物内のCheating(詐欺)に対する異様とも言える長い説明と罰則の記述です。
これはそうした事態が起こったゆえに取られた対策ではないかと想像するのが筋だと思います。
さらに現役学生に話を聞いてみるとポジティブな返事が返ってきませんでした。(学生用ホステルなどに短期間住んで情報収集)
これら5つの大きなエビデンス(証拠)を提供しても・・・
友人いわく、これら問題は数年前に一掃されたハズだということです。
しかし・・・一旦このような事態が生まれた土壌というものはそうカンタンに
変わるものではないのではないでしょうか。
■ 自分さえしっかりしていれば大丈夫! No Worries! ?!
逆にひとつの考え方として、きちんと勉強でき、学位され取れたらクラスメートの質は
どうでもいいのではないか?自分さえきちんとしていれば良いのではないか?
という考え方もあります。
特に、こちらの人はこのような”自立礼賛型思考”の信奉者が多く、”It won't affect you!” で
心配しすぎの一言で片付けようとする人が多いです。
しかし、本当にそうでしょうか?
どんな強固な意志の人でも、しっかり勉強して取ったAと勉強しないで取ったAが
同じAで表現されるのには憤りを感じずにはおれないはずです。
この環境で自分はトクをする側なのか、損をする側なのか?
鶏頭となるも牛後となるなかれ、という言葉は使い方が多少違いますが
周囲の環境が低いほうが自分が引き立って良いでないか?という考え方もあります。
なのでそれらを総合すると結局は”自分次第”(up to you)で固め
られてしまいます。
しかし、私にはそれは個人の自分次第で済ませる問題ではなく、
あらかじめ提供されてしかるべき、情報のように思います。
これは例えば事故車は販売するときに事故暦を提示すべきだ、と
同じ程度のモラルの問題だと思われますがどうでしょうか?
■ 批判に弱い
見ざる・聞かざる・言わざる を信奉する風潮は、アメリカにおいてより、オーストラリアの
ほうが顕著だという気がします。
それがたまに”No Worries!”で表現されるとき、
「いや~それは言葉の使い方が違うだろ!」
というツッコミを入れたい気分になります。
このあたりの心情は老いも若きも日本人なら誰でも感じることらしいです(笑)。先日は若者が”いい加減”の英語を知りたいと切望していました(^^;)
No worries! は文字通りの”心配しないで”ではなく、責任逃れのいい加減な言葉となります。
そう直訳すると”見ないで飛び込め!”ですね。
色々深く考えることなく、やってみることが大事だ、とでも言いたげなNoWorries!で
損をするのは誰か? 自分です。
その後に、ええ~?!という事態に陥っても誰も悪いと感じたりはしてくれません。 それが日本との大きな差です。
日本人には自分が言ったことには責任があると感じるはずですが、
責任は取れなくても、悪いな~と、すみませんというはずです。
が、こちらにはありません。No worries!と励ましてあげたのに
なんで悪いと思わなきゃならないの?って訳になります(汗)
■ 寛容さの欠点
つまり相手にも寛容な代わり、自分にも寛容。
人にも甘く、自分にも甘い。
つまり、批判を嫌うということは、self-satisfaction 自己満足。
つまり寛容さの欠点は自己満足で成長がない、ということにつながるわけですね。
常に上を目指して自己研鑽というプロテスタント的な倫理観はあまり信奉されていないようです(^^;) だからこそリラックスした
いい国なのですから、仕方ありません。
オーストラリアは自己批判には脆弱です。
オーストラリアへの批判があるなら帰れ!と短絡思考。
しかし、批判を嫌ういう欠点はおそらく、寛容さの裏返しなのです。
完璧な人はいないよう、完璧な国もありません。
■ オーストラリアにおける交渉術
こうした気質に対して、有効な対策は、”I prefer” です。
基本的に寛容という美徳を持っているため、合理的批判ゆえの拒絶と
いう形ではなく、人の好みの問題に片付けてしまうことです。
I prefer にはかなりの威力があります。 こっちのほうが好き、という単なる嗜好性に
どうしてこうも大きな正当性を与えてしまうのかは、私のような純粋培養とはいえない
日本人にもはてな?ですが、個人の嗜好のほうが、であるべき論よりうんと説得力があるのです。
例えば、I should avoid RMIT より、I prefer mature school のほうが説得力があります。
つまり、合理的判断で避ける、という結論には、批判のエッセンスが含まれています。
例えば、スーパーマーケットを避ける。 これは批判を含む行動です。理由は
スーパーは高いから、とか、混んでるから、とか 色々上げられます。
しかし、日曜のファーマーズマーケットを好む、と言うことは単なる好き嫌いの問題です。
ならそのとおりしたら?とすんなり納得してくれるのが、こちらのいいところ。
日本でやっているやり方をPreferするなら、多分その通りやらせてくれます。
おおらかさをいかにプラスに働かせるか?
そこがオーストラリアでの”事を上手く運ぶ”思考回路であるようです。