「願興寺」悠久の1200年

最澄縁の願興寺ブログ。2015年には開基1200年祭を予定。本堂、24体の仏像が国指定の重要文化財。

廻り舞台で楽しい落語を…

2010-07-30 07:00:47 | 御嵩町

 2010年8月1日 午後6:30より(開場6:00)
  「雀々地獄巡り落語会」

郷土に残る廻り舞台を利用して、本格落語会が開催されます。
整理券を上之郷、御嵩、中、伏見の各公民館に用意しておりますが、飛び入り参加も大歓迎です。

少々蚊の多いところが開場ですので、香取対策は十分にお願いします。それも一興と笑い飛ばせる方などには、絶好の機会ですね。楽しい落語会にしようと地元の人々が、お招きにおもてなしにと懸命にアイディア絞っています。是非多くの方々にご参加いただきたいですね。地図の上之郷小学校が駐車場、神明神社が会場です。

願興寺公式サイトもよろしく

平安時代に生まれた2人の天才

2010-07-29 20:19:28 | 最澄
平安時代には、日本文化に貢献した人物は多い。学問文学部門では菅原道真、在原業平、紫式部、清少納言等枚挙不可能なほどである。この人たちの日本文化に貢献した業績は、私たち凡人が語るべくもない。また、日本の精神文化に貢献した最澄、空海もこれらの人々との列席を決して拒まれるものではない。

さて、この最澄と空海の名は、それぞれの特徴を如実に現しているといえよう。最澄の方は「最も澄んだ」と読める。また、空海の方は「空と海」。これは空海のスケールの大きさといえるであろう。表題に2人の天才と記したが、2人とも稀代稀なる天才であるが、空海が生まれながらの天才であったのに対し、最澄は日々の鍛錬によって天才に上りつめたのではないだろうか。

後の鎌倉時代に「法然」を筆頭に数知れない鎌倉新仏教の祖が誕生し、それが今もなお、私たちの精神に息づいている。この鎌倉新仏教の宗祖たちは最澄を開祖とする「比叡山」で修行しているから、最澄の門下ともいえる。最澄は自分の修行の道程の結果として、人の学ぶべき道を学問の体系として残し得た。これが、多くの仏教僧を比叡山に招き得たことであろう。一方、空海は讃岐の国で、誰が数年はかかるであろうと考えた潅漑工事を1ヶ月で完結したという天才であった。

この2人は、どちらが優れているなどという比較対照できるような人物ではない。最澄を由来とする比叡山で学び、修行した人物たちが鎌倉新仏教を創始した。「これは、最澄が比叡山を創始したのが起源である」という人がいる。確かにそうともいえそうだが、そうだと軽々に判断してはいけない。学問の素地(素地などという容易いものでは決してなかったろう)は確かに比叡山で培ったであろう。比叡山での学業を達成し得た人物のうち、空海の天才的思考ゆえに顕現できた理論を理解した人物が、2人の仏教哲学を取り入れることのできたのではなかろうか。

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廻り舞台で落語会

2010-07-28 21:13:29 | 御嵩町
先日、御嵩町の廻り舞台のお話しをさせていただきました。その廻り舞台で、桂雀々さんから落語をしたいという、とっても、とっても、有り難いお話しを頂き、8月1日(日)の午後6時30分より行うことが実現しました。少々、蚊の多いところですが、それもまた、一興という心ある方たちに参加していただけたら、と切に思う次第です。

場所は御嵩町の上之郷小学校が駐車場になり、そこから歩いて5分程度の美佐野というの神明神社にある廻り舞台です。本格的な落語家からお申し出頂き、地元の美佐野地区の人々が精魂込めて、開催できる運びになりました。趣きある場所での講演。きっと、皆さま方の思い出に残る落語が楽しめると思います。整理券は御嵩の上之郷、御嵩、中、伏見の各公民館に置いてありますが、飛び入りも大いに歓迎いたします。

近代的なホールでの講演もいいでしょうが、昔ながらの廻り舞台での落語は皆さまにご不便を掛ける面もなきにしも非ずかと思いますが、田舎の人々が皆さま方を一生懸命のおもてなしをしようと張り切っています。そんな思いを汲んでくださる方々、ご多用かとも思いますが、是非、是非、足を運んでいただけないでしょうか。

でも、蚊の苦手な方(得意の方はいらっしゃらないでしょうが)は、念のため蚊取り線香があるとよいかと思います。


今日の夕刊第一面

2010-07-27 19:13:04 | 願興寺
今日の夕刊第1面は政府の「ブロッキング導入決定」だった。この記事を目にして、御嵩町のお隣でおきた中学生による寂しい事件を思い出された人も多かろうと思った。あの事件が引き金になったのかは分からないが、天台宗の願興寺に関わった身として、少しは天台宗、つまり大乗仏教の観点からお話しをさせていただきたい。

ご存知のように天台宗は、宗祖最澄上人由来の日本の大乗仏教の創始といえるものである。最澄上人の大乗仏教は、「菩薩の道」とも解されている。最澄上人は比叡山に上り、修行を始める前に願文を書いている。その願文は仏教の四弘誓願がもとになっていると思われるが、四弘誓願の一つに「衆生無辺誓願度」というものがある。「私はすべてを救いたい」というような意味であろうが、「悟りのを自分だけのものとせず、一切の衆生とともに悟りを開き、衆生とともに悟ったことの素晴しさを味わいたい」ということではないかと思う。

菩薩とは仏になる前の境地で、悟りを開く前の境地であろう。誰もが仏になる素地を持っているというのが、最澄上人の云う菩薩ではないか。さて、事件の被害者となった少女には、早く傷を癒してもらいたいのはもちろんである。また、残念ながら加害者となってしまった少女には、しっかりと反省し、こうした間違いを繰り返さないでもらいたい。両者の周りにいる大人たちには、しっかりと支えてやっていただきたい。

誰でも間違いはするものである。ただ、同じ間違いは繰り返させてはならない。誰でも仏になれるという最澄上人の深い教えである菩薩の穏やかな精神を早く取り戻させていただきたい。被害者、加害者両者ともに、仏になれるを忘れないでいただきたい。ましてや、関係ない人間が話すことに事欠き面白半分に話題にしたりしないでいただきたい。

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8月7日(土)は夏祭り「よってりゃみたけ」開催

2010-07-25 15:47:07 | 願興寺
願興寺の目の前が旧中山道御嶽宿で、毎年8月の第一土曜日に夏祭り「よってりゃみたけ」が開催されています。もちろん、今年も開催されます。このまつりは願興寺の目の前、つまり名鉄御嵩駅の目の前で行われるまつりのため、まつりで一杯という方には、もってこいのまつりである。

そのために毎年、どこからこんなに人が集まってくるのだろうかと思えるほどの盛況振りである。ただ、惜しむらくは夕立に晒されることであるが、それも夏祭りならではのご愛嬌ともいえるのではないだろうか。名鉄沿線の方なら、夕方にちょっと御嵩までというのも一興である。願興寺でも灯り展が行われ、幽玄な雰囲気に包まれる。

願興寺公式サイト


御嵩町の和泉式部廟所

2010-07-24 07:11:46 | 御嵩町
願興寺から旧中山道を東へ20分から30分歩くと井尻地区に「和泉式部廟所」がある。ここの和泉式部廟所は、全国に数ある廟所の中でもウキペディアでは、最初に取り上げられている。「だからどうした!」とも言われそうだだし、これから言わんとすることも「こじつけも甚だしい!」とも言われそうだが、あえて言わせていただくことにしよう。

この廟所は東山道を旅していた和泉式部が病魔に侵され、近くの鬼岩温泉で湯治中に亡くなったとされている所である。石碑は江戸時代に和泉式部を偲んだ地元民が建造したそうだが、和泉式部がこの地を訪れた理由も無きにしも非ずというか、十分にあり得ると思う。

というのも、この地には既に一条天皇の皇女とされる「行智尼」が願興寺の薬師如来に大いに帰依していた。和泉式部は一条天皇の中宮「彰子」に女房として出仕していたこともあった。そうなると和泉式部は一条天皇、行智尼、行智尼が帰依していた願興寺と繋がってくる。しかも願興寺は一条天皇の勅願寺であり、和泉式部は行智尼とも面識があったか、少なくとも話しは聞いていたと思われる。

文学の才能は広く認められながら、数々の浮名を流した和泉式部もこの地を訪れた頃には、仏の力、特に病苦に功徳ある薬師如来に縋ろうとしたのではないか?そうした中で、数ある薬師如来の中でも、中宮彰子の父親の一条天皇の勅願寺であり、行智尼の貢献大で薬師如来を本尊とする願興寺の近くを、老後の衰えた身体の静養場所としたことは多いに考えられる話である。

江戸時代まで人々の間で、和泉式部の話が伝えられていたのは事実であり、当時の井尻地区の人々が和泉式部を慕っていたのは、現存する石碑が伝えている。

願興寺公式サイト

ウキペディア「和泉式部」


願興寺の紋章「蟹牡丹」がお寿司に…

2010-07-23 22:17:26 | 願興寺
願興寺の紋章が蟹牡丹であることは、既にお知らせしたとおりです.この蟹牡丹の紋章が巻きずしになって再来しました.この巻きずしは「御嵩華ずしの会」(堀田照子会長:0574(67)4580)が精力的に開発・普及活動をしている。

巻きずしといっても、願興寺の蟹牡丹を起源をしていますから、低カロリー高栄養の健康食品に仕上がっています.地元の講習会はもちろん、要請があれば出かけていって講習するという、積極的な活動をしています.

見栄え良く、低予算で、健康的でお子さんにも喜ばれる華ずしです。お隣りの半フェスタのバラをモチーフにした巻きずしや地元の言い伝えを題材にした押し寿司等、バリエーションも豊富になりました。ささゆりの時期には、押し寿司「ササユリの調べ」も好評です.

お問い合わせは会長:堀田宅まで

想像ですが…

2010-07-23 07:07:34 | 願興寺
日本で寺院が建造され始めた頃には、柱等に用いられる木材は、その木が自然に生えていた状態を保つようにしていたと聞く。また、それが寺社の建築の正しい方法だという説をとっている人がいるそうである。

ここでご紹介する写真は、以前に願興寺を訪問してくださった人が、撮られたものだ。願興寺は正面から見ると形態が整えられているが、裏に廻ると正にこのような様相を呈している。桃山期の民衆たちが、精魂を込めて建造した願興寺であるが、正面を一生懸命に飾り(民衆としては精一杯)、裏の建造に至ったときには、資金的にも相当窮乏を極めたのではないかと思われる。

製材して柱に使えるような大木を購入する資金力を失った民衆たちが、山に入って「この木でええわ。昔は木切ってきて、そのまんま使ったげなやで」「ほうや、ほうや。このまんま使やあーええは」(御嵩地方の方言表示)… てな会話がなされたかどうかは、私の想像ですが、案外そんなところではなかったかと考える次第です。

願興寺公式サイト

写真の入手元

自然災害の恐ろしさ

2010-07-19 14:12:47 | 願興寺
先週の木曜日、お隣の可児市、八百津町では水害による人的被害が発生するという、悲しい出来事が起きました。私たちの住む御嵩町では、人的被害はなかったのですが、少しずつ被害の状況がはっきりしてきました。

私たちにとって、大きな自然災害は伊勢湾台風以来、記憶に残っていません。今回の被害についても他地域の方々の被害が報告されるたびに、申し訳ないように思っていたくらいでした。火山の被害も、地震の被害も、台風の被害も、もちろん今回のような水害についても、遠いところの話のように、所謂、自然災害に対する安全ボケのような状態でした。

近隣の多治見市は暑さで一躍、全国に名を馳せました。しかし、多治見というところは、函館、長崎と並んで、日本で最初の修道院ができた場所なんです。当時、自然災害の少ない3ヶ所を選んで、建てたといわれています。わが町「御嵩町」は小中学校を通して、岐阜県で一番降水量の少ない地方と習いました。雨も雪も少ないんです。

そうしたところに住んでいて、やはり油断は大きかったと思います。可児川なんて小さな川です。奥行きもありません。それがあんな災害をもたらすんです。亡くなられた方々には、心より追悼の意を捧げます。それとともに、以後、こうした被害をなくすべく、心を引き締めてかかりましょう。

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願興寺の守り本尊

2010-07-19 07:36:21 | 願興寺
九星守り本尊は、その名のとおり9つある。詳細は願興寺の守り本尊を説明した「守り本尊」のPDFをご覧いただくとして、願興寺には九星守り本尊のうち、7体を所蔵しており、また、12の時刻を警護することから、干支の守り本尊的な信仰を受ける十二神将は一体として欠けることなく所蔵している。つまり、ほとんどの人の九星守り本尊を所蔵し、干支の守り本尊はすべて現存しているという、数少ない寺院である。

日本では、古来よりお盆に先祖供養を行うことも多い。夏休みには願興寺を訪れて、先祖供養とともに九星守り本尊と干支の守り本尊に祈願することをお勧めしたい。写真は四緑木星の守り本尊である薬師如来である。願興寺公式サイトでは、トップページ→願興寺所蔵重文→守り本尊PDFの順で閲覧することができる。

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願興寺守り本尊PDF