願興寺から旧中山道を東へ20分から30分歩くと井尻地区に「和泉式部廟所」がある。ここの和泉式部廟所は、全国に数ある廟所の中でもウキペディアでは、最初に取り上げられている。「だからどうした!」とも言われそうだだし、これから言わんとすることも「こじつけも甚だしい!」とも言われそうだが、あえて言わせていただくことにしよう。
この廟所は東山道を旅していた和泉式部が病魔に侵され、近くの鬼岩温泉で湯治中に亡くなったとされている所である。石碑は江戸時代に和泉式部を偲んだ地元民が建造したそうだが、和泉式部がこの地を訪れた理由も無きにしも非ずというか、十分にあり得ると思う。
というのも、この地には既に一条天皇の皇女とされる「行智尼」が願興寺の薬師如来に大いに帰依していた。和泉式部は一条天皇の中宮「彰子」に女房として出仕していたこともあった。そうなると和泉式部は一条天皇、行智尼、行智尼が帰依していた願興寺と繋がってくる。しかも願興寺は一条天皇の勅願寺であり、和泉式部は行智尼とも面識があったか、少なくとも話しは聞いていたと思われる。
文学の才能は広く認められながら、数々の浮名を流した和泉式部もこの地を訪れた頃には、仏の力、特に病苦に功徳ある薬師如来に縋ろうとしたのではないか?そうした中で、数ある薬師如来の中でも、中宮彰子の父親の一条天皇の勅願寺であり、行智尼の貢献大で薬師如来を本尊とする願興寺の近くを、老後の衰えた身体の静養場所としたことは多いに考えられる話である。
江戸時代まで人々の間で、和泉式部の話が伝えられていたのは事実であり、当時の井尻地区の人々が和泉式部を慕っていたのは、現存する石碑が伝えている。
願興寺公式サイト
ウキペディア「和泉式部」