「願興寺」悠久の1200年

最澄縁の願興寺ブログ。2015年には開基1200年祭を予定。本堂、24体の仏像が国指定の重要文化財。

最澄の5つの願文

2010-08-02 17:36:21 | 最澄
最澄上人は比叡山での修行の前に5つの願文を立てられた。その第1が「自分の眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が仏陀の如く清浄にならないうちは、世間に出て活躍しない」というものであった。最澄上人は実際に世間に出て活躍されている。最澄上人が世間に出て活躍されていなければ、わが願興寺も存在しなかったことになる。

では、最澄上人は「ご自身で仏陀の如く清浄になった」とお考えになったのであろうか。という疑問も沸いてくるし、そこを私たちはどう解決したらいいのだろうか。上人がこの疑問をどう解決しているのかは、知るすべもないところだが、これは上人のお心が、変わったのだという判断が適当であろう。

願興寺でも布施屋を建立し、自刻の薬師如来を奉納安置されて、民衆の安寧を祈願されている。上人のことであるから、ご自分の立てられた願文をお忘れになったということは考えられない。民衆の困苦を見るに見かねたとき、上人は自分ができるようになったことをなった分だけ、人に伝え教えることによって、救えるものは救わなくてはならないと方針転換されたのではなかろうか。それが「伝教大師」という贈り名になったんではないだろうか。

これが意味するところは、上人の願文は云わば願いである。願いには執着してはならない。と考えになったんではないか。この願文に執着しすぎると、自らが清浄化することが目的化してしまうことを恐れられたと考えられる。それに執着することにより、自分だけの利益で終わってしまうことを恐れられたと考えるのが妥当ではないだろうか。

願興寺公式サイト

最澄という人

2010-08-02 06:27:56 | 最澄
奈良東大寺において、20歳そこそこの青年が二百五十戒を受戒した。これは正式な比丘(お坊さん)として認定され、将来を嘱望されたことを意味していた。しかし、その青年はその奈良の都に留まらず、故郷の比叡山にこもり山中で5つの誓願(願文)を書き始める。その人こそ、後の世に「伝教大師」として慕われた最澄である。

受戒した最澄がそのまま都奈良に留まれば、大きな出世が約束されていたことは間違いないであったろう。しかしながら、最澄はそうした自らの栄耀・栄華に飽きたらず、都を捨て比叡山の山中の草庵に身を置き、5つの願文をまず書き始めた。仏教には誓願と呼ばれるものがあり、「衆生無辺誓願度」「煩悩無尽誓願度」「法門無量誓願度」「仏道無上誓願度」の4つを合わせて「四弘(しぐ)誓願」という。この誓願は自分自身が修行を始める前に立てる願いと思えばいいのであろう。謂わば「衆生を悟りに渡したい」「無尽の煩悩を滅したい」「無量の仏教の教えを学ぼう」「無上の悟りを成就しよう」というものであろう。

この四弘誓願をもとに記した最澄の願文1つには「1人の悟りを目指すのではなく、すべての人々と仏道を歩む」と宣言されていた。東大寺で二百五十戒の受戒を受けるということは、現在の国家公務員試験などとは比較にならないような、エリートコースが約束されていたといって、差し支えないだろう。そこには本人の思いも周りの人々の期待も、大きなものがあったのは当然であった。

20歳そこそこの青年が、苦難の末に掴んだ栄耀・栄華の道よりも、この四弘誓願にこそ、自分の進むべき道が示されていると最澄は、感じ取っていたのではないだろうか。この青年最澄が比叡山の草庵で修行を始めたときが、日本仏教の大きな転機に繋がっていくのであろう。

願興寺公式サイト



平安時代に生まれた2人の天才

2010-07-29 20:19:28 | 最澄
平安時代には、日本文化に貢献した人物は多い。学問文学部門では菅原道真、在原業平、紫式部、清少納言等枚挙不可能なほどである。この人たちの日本文化に貢献した業績は、私たち凡人が語るべくもない。また、日本の精神文化に貢献した最澄、空海もこれらの人々との列席を決して拒まれるものではない。

さて、この最澄と空海の名は、それぞれの特徴を如実に現しているといえよう。最澄の方は「最も澄んだ」と読める。また、空海の方は「空と海」。これは空海のスケールの大きさといえるであろう。表題に2人の天才と記したが、2人とも稀代稀なる天才であるが、空海が生まれながらの天才であったのに対し、最澄は日々の鍛錬によって天才に上りつめたのではないだろうか。

後の鎌倉時代に「法然」を筆頭に数知れない鎌倉新仏教の祖が誕生し、それが今もなお、私たちの精神に息づいている。この鎌倉新仏教の宗祖たちは最澄を開祖とする「比叡山」で修行しているから、最澄の門下ともいえる。最澄は自分の修行の道程の結果として、人の学ぶべき道を学問の体系として残し得た。これが、多くの仏教僧を比叡山に招き得たことであろう。一方、空海は讃岐の国で、誰が数年はかかるであろうと考えた潅漑工事を1ヶ月で完結したという天才であった。

この2人は、どちらが優れているなどという比較対照できるような人物ではない。最澄を由来とする比叡山で学び、修行した人物たちが鎌倉新仏教を創始した。「これは、最澄が比叡山を創始したのが起源である」という人がいる。確かにそうともいえそうだが、そうだと軽々に判断してはいけない。学問の素地(素地などという容易いものでは決してなかったろう)は確かに比叡山で培ったであろう。比叡山での学業を達成し得た人物のうち、空海の天才的思考ゆえに顕現できた理論を理解した人物が、2人の仏教哲学を取り入れることのできたのではなかろうか。

願興寺公式サイト