スタージョンの短編タイトルのごとく、ある日、地球の空は、巨大な宇宙船でいっぱいになります。
世界中の人々が恐れおののく一方で、白髪白髭で白服をまとった老人たちが各地に出没します。
彼らは、みな同じセリフを口にします。
「わしらは神じゃ。この世界を創造した労に報いると思って、食べものを少し分けてくれんかのう―」
いったい何が始まるのだろうと読み進めると、人類の起源に関わる大変な秘密がわかってくるのですが、そんな厳しい状況にもかかわらず、何ともいえない「脱力感」があるのが、この短編の魅力ですね。
20億にも上る「神々」が宇宙船から、単身、耐熱スーツで飛び降りてきて、着陸時には、減速、衝撃調整されて、よっこらしょと着地します。超高度な科学力のおかげとはいえど、この緩さには笑ってしまいます。
似た設定の、コードウェイナー・スミスの「人びとが降った日」も相当にいかれた話ですが、その無慈悲さとは違って、この作品の始まりの牧歌的な雰囲気には思わず引き込まれます。
光速航行を実現し、宇宙を股にかけ、栄光ある時代を築いた偉大な「神々」は、永い年月を完璧な生態系を維持する宇宙船で過ごしてきましたが、その環境に安住しきった結果、いまや宇宙船のメンテもままならぬ体たらく、かつて種付けをした惑星で進化した子孫たちに、老後の面倒を見てもらおうという、トホホな始末です。
二次方程式の解を求めることも困難な知的レベルになったというのは、いくら何でもとは思いますが。
この「神々」は、偉大な学術・技術資料をすべて納めた大容量・高密度ストレージを手土産に、地球での余生を希望し、世界の各家庭に「神々」が割り当てられ、扶養することとなります。
物語は、中国の西岑村という農村の秋生の家に引き取られた神の日常が描かれます。
最初は歓迎された神々でしたが、神の科学が高度過ぎて、今の人類では到底使えず、理解するのでさえも相当の年月がかかることが判明し、当面、「扶養」に対する見返りが得られないことがわかって、神々は、たちまち、厄介な居候的存在となってしまいます。
どこにでもいそうな、勝手者の爺さん、かかあ天下の奥さんに牛耳られ、秋生家の神は、家事仕事、爺さんの碁の相手と、肩身の狭い生活をしています。神を親しく敬っている秋生も、爺さん、嫁さんに頭が上がらず頼りになりません。
このアジア的農村風景は、私たちの世代にはなじみやすく、崇められてきた「神仙」の故事とのギャップの面白さもあいまって、物語世界に入り込みやすいですね。
もちろん、このような、田舎の生活感ある「家庭内」エピソードで物語が終わるはずもなく、人類を脅かす驚きの事実とその危機が迫りつつあることが明かされるという展開となります。タイトルからも、読める展開といえば、まあそうなのですが。
卑近な視点から巨視的なビジョンへと剛腕で反転させていく物語構造は、「郷村教師」とも似ています。
郷村教師~劉慈欣① - わしには,センス・オブ・ワンダーがないのか?
一年後に、神が、一斉に地球を去るに当たり、人類に関わる秘密を明かして、人類に神の後継者となるように言い残していくのですが、ここらへんは、やけに「覇権主義」的思想が前面に肯定的に出ているなあと感じましたね。
ラストは、神を見送った爺さんのセリフで締められます。
物語のテーマを見事に押さえ、壮大な「宇宙観」とユーモラスな諦観さえも漂わせる、見事な終わり方と思います。無学な爺さんにこれを言わせるのが効いています。
それにしても、「宇宙播種計画」にこんなバージョンが出てくるとはね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます