大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

魂のささやき

2008-06-03 18:49:11 | Weblog
29 睡入られない

 阿弥陀佛は十劫前に正覚は取られてあるけれども
私に届かなければ安心は出来ない。
多くの僧侶が機を見るな見るな、機を見ると手間が掛ると教えられて、
法の方ばかり眺めて救わるる事と安心しているが、
夫は自分勝手に決めて安心しているのじゃ。
機を見れば手間が掛るが法を見れば早いと教えているが、
そんな馬鹿な本願が有るものか。
法を見れば早いというのは、合点と深信とを同様に心得ているが、情けない事じゃ。
真実の機が知れなくて、真実の法が知れるものか。
法の方ばかりでは、機の方が抜けるから、片手落ちになる。
南無の機が分らなければ、法の阿弥陀佛は知れても首無し念佛になる。
法の手元ばかり聞いた人間は、五十年聞いていても、
薄紙がはっきりせんではないか。この様な人を二十願の善人というのじゃ。
何故か。それは悪い機の方は略して包んで、好い方ばかり見て行こうとする。
他力の中の自力の信というのだ。
第十八願の相手は、唯除五逆誹謗正法と除かれた機が
泣く泣く法を求めて居るのであるから、真実の機様に目醒めて居る。
罪の自覚を得るまでは、一通りの苦悩ではない。
併しこの苦悩のどん底から、叫び出づる救済の呼声に貫かれた一念は、
煩悩菩提無二、佛凡一体、機法一体、願行具足、南無阿弥陀佛、
正念、深信、決定心、金剛心、菩提心、無上信心、度衆生心、
名前は何でもよいが、好い親よなあの慶びは、
法体のみで満足出来ず、不実の機に泣いた者に与えらるる特権である。
今!新地にも枝光にも、官舎にも中央区にも、尾倉前田黒崎にも、
熱心に求めている同行があるのを、静かに床の中で思い浮べて、
宿善開発の時を考えてみれば睡入る事が出来ない。
一時は苦しくても底抜けのお慈悲にあえば十方世界の主になれる。
火の車か白蓮華か、聞く一念で解決がつく。
これを思えば求道者よりも指導者の方に力瘤が入る。
助けて下さいよりも助かりて呉れよの念力が強い。
一時も早く求道者の苦が抜ける様に念せずにはいられない。
(『魂のささやき』p.64-66)