大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

魂のささやき

2008-05-24 09:15:07 | Weblog
15 聞かん侭と聞く侭

 宇島町へ行った時、八屋の女同行が、聞かん侭と教えらるる方と、
聞く侭と教えらるる方と有りますが、何れがよいでしょうかと
問うたから次の様に答えた。
「理屈から行けば聞く侭じゃが、この問題は難中の難の関所を通った者でなければ
味わえない。聞かん侭とは、信仰が一度崩れた後は御教化のお言葉持って来ても、
学問持って来ても、間にも合わないが修繕も出来ぬ。
取りなおしも出来ないが、つづめも付かない。只々暗い心が働いているだけだ。
すわ大事と周章てる心が出て来て真剣に求めるけれども
腹の底は承知して呉れない。泣き泣き求めても知らぬ顔して居る煩悶の極に達すれば
何にも間に合うものは無い。善知識にそのままと教えられても
御言葉は合点しても腹が承知せんと受付けぬ。
受付けぬとすれば不実一杯は聞かぬ昔も変りはない。
学んだ学問も、聞いた御教化も、覚えた話も信の一念の場合には、
更に役に立たぬから聞かぬ侭で堕ちつつあるではないか。
其の必堕無間の有りたけが真実の御親に救済されるのだから、
聞かん侭と聞き開くのじゃ」。
(『魂のささやき』p.48-49)