37 機を見るのが間違いなら
法ばかり見ているのも間違いである。
法は尊くても機が満足しなければ価値はない。
夜が明けたのか日が暮れたのか判らないようななまぬるい信仰を
他力の様に考えて、法のお手元の大丈夫な事ばかり言っているが、
私の機も大決定、大安堵心に住せねば聞き開いたとは言えない。
法を聞きよれば自然に、何時とはなしに大丈夫になるというのも一理あるが、
又聖人様の如く立処に他力摂生の大安心を受得することも出来る。
法の方ばかり見て機の方のお留守になっている人なれば自分に自覚が無い。
併も法の理屈は判っているが、自分の心の奥底に何やら気持ちの悪い者が居て
返事をして呉れないと我機に泣いたものなら、明かなお慈悲を明かに頂く。
信巻に
信の一念とは信楽開発の時剋の極促を顕はし広大難思の慶心を彰す也。
と仰せられたのは、地獄は一定すみかぞかしの機の全部と、
五劫思惟の本願の法の全部が一体に融合した一刹那、
久遠劫からの無明の闇が晴れ亘り、佛凡一体の境地、
親子の名乗が挙った処じゃに、その妙味を知らなくてどうする。
御伝鈔の
たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を
決定しましましけり。
とは空師即ち善知識の言葉の下帰命の一念おこる時、決定往生の大自覚を
得られたのではないか。又口伝鈔に、
皆無常の根機を本とする故に、一念をもて往生治定の時剋とさだめて
命のぶれば自然と多念におよぶ道理をあかせり、
されば平生の時、一念往生治定のうへの仏恩報謝の多念の称名とならふところ
文証道理顕然なり、もし多念を以て本願としたまはば、
多念のきはまりいづれのときとさだむべきぞや。
いのちをはるときなるべくんば、凡夫に死の縁まちまちなり等
とある如く何時とはなしでは決定がつくまい。
法の話ばかりでは算用は合うが金がたりまい。
机上の空論では自己の苦悩は除けまい。
法を聞き初めの間は、機を見るのを恐れて、法に眼を付けているけれども、
そればかりでは本願ぼこり、法体募りになるぞ。
機がぬけたら宗教は死ぬる用意ばかりで活動力を失う、去勢した宗教になる。
調塾の光明に照されて漸次に煩悶を起して機を眺むる様になる。
其の時、信機秘事、地獄秘事、に入り易い。
法の方にも機の方にも、偏すればどちらも異安心になる。
又片寄ってはならない、片寄ってはならないとあやぶめば、切れ味が判らない。
法に偏すれば機の深信を欠き、機に傾けば法の深信を忘る。
二種一具の文句は知って居るけれども光明無量に照されて
実地に唯除逆謗と切堕された時でなければ自力の心は捨たって居ない。
寿命無量の若不生者の腕前に摂取された時でなければ他力に乗托して居ない。
真剣に真面目に求めさして頂かなければ不思議の佛智は味えない。
(『魂のささやき』p.74-77)
法ばかり見ているのも間違いである。
法は尊くても機が満足しなければ価値はない。
夜が明けたのか日が暮れたのか判らないようななまぬるい信仰を
他力の様に考えて、法のお手元の大丈夫な事ばかり言っているが、
私の機も大決定、大安堵心に住せねば聞き開いたとは言えない。
法を聞きよれば自然に、何時とはなしに大丈夫になるというのも一理あるが、
又聖人様の如く立処に他力摂生の大安心を受得することも出来る。
法の方ばかり見て機の方のお留守になっている人なれば自分に自覚が無い。
併も法の理屈は判っているが、自分の心の奥底に何やら気持ちの悪い者が居て
返事をして呉れないと我機に泣いたものなら、明かなお慈悲を明かに頂く。
信巻に
信の一念とは信楽開発の時剋の極促を顕はし広大難思の慶心を彰す也。
と仰せられたのは、地獄は一定すみかぞかしの機の全部と、
五劫思惟の本願の法の全部が一体に融合した一刹那、
久遠劫からの無明の闇が晴れ亘り、佛凡一体の境地、
親子の名乗が挙った処じゃに、その妙味を知らなくてどうする。
御伝鈔の
たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を
決定しましましけり。
とは空師即ち善知識の言葉の下帰命の一念おこる時、決定往生の大自覚を
得られたのではないか。又口伝鈔に、
皆無常の根機を本とする故に、一念をもて往生治定の時剋とさだめて
命のぶれば自然と多念におよぶ道理をあかせり、
されば平生の時、一念往生治定のうへの仏恩報謝の多念の称名とならふところ
文証道理顕然なり、もし多念を以て本願としたまはば、
多念のきはまりいづれのときとさだむべきぞや。
いのちをはるときなるべくんば、凡夫に死の縁まちまちなり等
とある如く何時とはなしでは決定がつくまい。
法の話ばかりでは算用は合うが金がたりまい。
机上の空論では自己の苦悩は除けまい。
法を聞き初めの間は、機を見るのを恐れて、法に眼を付けているけれども、
そればかりでは本願ぼこり、法体募りになるぞ。
機がぬけたら宗教は死ぬる用意ばかりで活動力を失う、去勢した宗教になる。
調塾の光明に照されて漸次に煩悶を起して機を眺むる様になる。
其の時、信機秘事、地獄秘事、に入り易い。
法の方にも機の方にも、偏すればどちらも異安心になる。
又片寄ってはならない、片寄ってはならないとあやぶめば、切れ味が判らない。
法に偏すれば機の深信を欠き、機に傾けば法の深信を忘る。
二種一具の文句は知って居るけれども光明無量に照されて
実地に唯除逆謗と切堕された時でなければ自力の心は捨たって居ない。
寿命無量の若不生者の腕前に摂取された時でなければ他力に乗托して居ない。
真剣に真面目に求めさして頂かなければ不思議の佛智は味えない。
(『魂のささやき』p.74-77)