大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

魂のささやき

2008-06-11 18:40:57 | Weblog
37 機を見るのが間違いなら

 法ばかり見ているのも間違いである。
法は尊くても機が満足しなければ価値はない。
夜が明けたのか日が暮れたのか判らないようななまぬるい信仰を
他力の様に考えて、法のお手元の大丈夫な事ばかり言っているが、
私の機も大決定、大安堵心に住せねば聞き開いたとは言えない。
法を聞きよれば自然に、何時とはなしに大丈夫になるというのも一理あるが、
又聖人様の如く立処に他力摂生の大安心を受得することも出来る。
 法の方ばかり見て機の方のお留守になっている人なれば自分に自覚が無い。
併も法の理屈は判っているが、自分の心の奥底に何やら気持ちの悪い者が居て
返事をして呉れないと我機に泣いたものなら、明かなお慈悲を明かに頂く。
信巻に

 信の一念とは信楽開発の時剋の極促を顕はし広大難思の慶心を彰す也。

と仰せられたのは、地獄は一定すみかぞかしの機の全部と、
五劫思惟の本願の法の全部が一体に融合した一刹那、
久遠劫からの無明の闇が晴れ亘り、佛凡一体の境地、
親子の名乗が挙った処じゃに、その妙味を知らなくてどうする。
御伝鈔の

 たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を
 決定しましましけり。

とは空師即ち善知識の言葉の下帰命の一念おこる時、決定往生の大自覚を
得られたのではないか。又口伝鈔に、

 皆無常の根機を本とする故に、一念をもて往生治定の時剋とさだめて
 命のぶれば自然と多念におよぶ道理をあかせり、
 されば平生の時、一念往生治定のうへの仏恩報謝の多念の称名とならふところ
 文証道理顕然なり、もし多念を以て本願としたまはば、
 多念のきはまりいづれのときとさだむべきぞや。
 いのちをはるときなるべくんば、凡夫に死の縁まちまちなり等

とある如く何時とはなしでは決定がつくまい。
 法の話ばかりでは算用は合うが金がたりまい。
机上の空論では自己の苦悩は除けまい。
法を聞き初めの間は、機を見るのを恐れて、法に眼を付けているけれども、
そればかりでは本願ぼこり、法体募りになるぞ。
機がぬけたら宗教は死ぬる用意ばかりで活動力を失う、去勢した宗教になる。
調塾の光明に照されて漸次に煩悶を起して機を眺むる様になる。
其の時、信機秘事、地獄秘事、に入り易い。
法の方にも機の方にも、偏すればどちらも異安心になる。
又片寄ってはならない、片寄ってはならないとあやぶめば、切れ味が判らない。
法に偏すれば機の深信を欠き、機に傾けば法の深信を忘る。
二種一具の文句は知って居るけれども光明無量に照されて
実地に唯除逆謗と切堕された時でなければ自力の心は捨たって居ない。
寿命無量の若不生者の腕前に摂取された時でなければ他力に乗托して居ない。
真剣に真面目に求めさして頂かなければ不思議の佛智は味えない。
(『魂のささやき』p.74-77)

魂のささやき

2008-06-10 13:32:33 | Weblog
36 八万四千

 頂いたか頂かないか知らない。取ったのか取られたのか知らない。
其の一刹那の不思議の妙味は、入我我入の世界で、思慮分別や言辞にかからぬ、
不可称不可説不可思議の境地である。
この極意の心境に到る迄には、相当に骨は折れる。何故か。
唯を唯と素直に聞き得る様な人間でないから、
他力の言葉だけを丸呑にしていても、心の底の動かぬ心が、
他力に動かされなければつまらない。
 自分の心を見るな。佛様のお手元さえ見れば早く合点できると教えるけれども、
佛の本願は機に移った時でなければ花は咲かない。
 机上の空論の間は有難い感情も動き、法の方ばかり眺めても居られようが、
実際問題になると、感情に誤魔化されない気持ちの悪い心が居る。
佛様は知っておいでなさるから、と思っても安心出来ない心があるぞ。
本当に唯になっているのなら、心の動くままが六字で大威張りするけれども、
都合の悪いものは居ないか。薄紙一重が邪魔になりはせぬか。
あれがひょっとじゃぞ。二の足踏みよるのじゃぞ。疑いじゃぞ。
 この薄紙は一朝一夕ではのかないぞ。のかなければ兎の毛大山、一大事じゃ。
元気な、達者な間に明かなお慈悲を聞き開いて置かねば間に合わないぞ。
真剣に求めた人なら、自分の心じゃに、魂を見ずにいられるものか。
見れば見る程、考えれば考える程散り乱れる心より他にない。
定水を凝せば凝す程乱れる自性、今迄気付かなかった八万四千の煩悩が
躍り出すぞ。元気な間は理屈で煩悩は邪魔にならんが、疑いが邪魔になる。
俺は疑うていないと言って片付けていたが、実地になってこの様に出るようではと、
火の手を挙げて来た時には、始末が付かないぞ。
臨終間際でその解決が間に合わなかったらどうするか。
その臨終の苦しみを平生に出し、火柱かかえた積りで泣く泣く求めて見よ。
打っても叩いても返事しない悪性が返事する時がある。
それを信の一念と名付けるのだ。
其の一刹那を娑婆の終り臨終と思うべし、と教えられたのだ。
乃至一念の立所に、八万四千の煩悩が八万四千の光明と代った時だから、
踊躍歓喜、信心歓喜、広大難思の慶心。味った者のみの知り得る世界、
念佛の無碍の一道には善も欲しからず悪も恐れなし。
生死の苦海の侭が光明の広海、煩悩の有の侭が功徳大宝海、
私の侭が正定聚不退の位と言い得る。
親が三千世界に満ちているから子供も十方世界を一呑みにしている。
地獄一定に泣いた者のみが極楽一定に笑い得る。八万四千の光明じゃ。
(『魂のささやき』p.71-73)

魂のささやき

2008-06-08 13:57:14 | Weblog
35 十六日夜の月

 多くの信者が十五夜の満月を見ずに十六日の月を満月と心得ている。
それは佛凡一体、機法一体の本願や行者、行者や本願の妙味を抜きにしている。
私が弥陀やら弥陀が私やらの名乗を挙げないで(信の一念)
御恩報謝の多念の相続の方に直に移る。
大抵のお説教には戴いた信心が誠なら、何に交る中からも頂き上げては
南無阿弥陀佛で、肝要は御文章に移るが、説く人も、聞く人も、
極難の信の関所を平気で通過している。
そして此も御恩々々と報謝の方に直に眼を付けて、煩悩の曇りが出ると、
此者をお助けと堕ちる機を包んで参る稽古をせねば腹の虫がおさまらぬ人が
十中の八九までいるが、御恩報謝では往生の解決は付かぬぞ。
 本当に腹の底が唯になって居るか。念を押して御覧!!
何かいやな返事をするものがいるぞ。
底の知れない悪性は、臨終でなければ飛び出さないぞ。
平常は十六日夜の月に報謝を加えて過して居るから、すまない事はないが、
報謝の出来ない臨終の一念の場合に、十五夜の月でない事、
唯になっていない機が白状するぞ。
(『魂のささやき』p.70-71)

魂のささやき

2008-06-07 14:21:34 | Weblog
34 唯じゃぞーの一言

 唯になりたいばっかりに、求めて見たが求め切りもせず、はっきりもせず、
勅命通りになる積りでいても疑の煩悩が抜けねば安心は出来ない。
其の侭の声を其の侭に聞けと教えられるけれども、素直に聞き得る様な
善人ならばよいが、久遠劫からの悪性は合点位ではすまされない。
心が満足する迄は進まずにはいられない。
凡夫は何時とはなしに戴かれて、はっきりした事はないと教えられても、
それで撫付けて置く訳には行かない。
親の方が知っているからと言うけれども、親子の名乗りが挙れば、
満足大悲の念力が届くのであるから、明信佛智、佛智満入、
満足せずにはいられない筈であると、求むれば求むる程、
受付けない、動かない魂が居る。
あの箸にも棒にもかからぬ魂、打っても叩いても知らぬ顔している魂が、
無量永劫親に修行さした絶対の悪性である。
この機様を知らす為に、十九の願を建てて自力の修行を励まして見せ、
二十の願で名号を与えて、半自力半他力の桁に入れ、頂ききらない私、
曇りのとれない私と自力無効を教え、唯除五逆の悪性を知らして、
堕ちるまんまが唯じゃぞーの十八願絶対他力まで引きよするのが佛の念力じゃ。
それで唯じゃぞーの一言には法蔵の願心、五兆の願行、釈尊出世の本懐、
七高僧の真髄、聖人より次第相承の善知識の生血が篭っているのじゃぞ。
(『魂のささやき』p.68-70)

魂のささやき

2008-06-06 10:51:19 | Weblog
33 何でもいけない

 頂いた積りでもいけない。はっきりせんままでもいけない。
其侭ごかしでもいけない。知ったのでもいけない。覚えたのでもいけない。
信じた持ちものでもいけない。成ったのでもいけない。
頂かせて貰うたのでもいけない。凡夫の計いはすべていけない。
計うまいとするのもいけない。思うのもいけない。思わないのもいけない。
自力の心の動いている間は総ていけない。
こんな理屈を通り越して、実地を踏んだ者ならうんもすんとも言えない心が
居るのに気が付く。久遠劫から聞いても何ともない。
あの今日今時まで、一寸も変らん魂が昼寝しているぞ。
極楽と聞いても喜ばず、地獄と聞いても何ともない。
あの変らん心に眼を付けて、若不生者の誓いを樹てて下さったのじゃから、
成りきらん地獄真向の侭が「唯じゃ」と聞き開く、
どちらに向いても南無阿弥陀佛。立っても居ても南無阿弥陀佛、
寝ても起きても南無阿弥陀佛。
(『魂のささやき』p.67-68)

魂のささやき

2008-06-05 10:48:01 | Weblog
32 名乗りを挙げよ

 大抵のお方は親子の名乗が挙がらんづくで、満足しておいでになるが
善人じゃからそれで済んだもの。
私は性が悪いから、はっきりするまで進んだ。名乗の挙るまで求めた。
真剣になり切らんから泣いた。暗い心を見れば見る程恐ろしくって、
人事に聞いては居られなんだ。親が知っているからと安心しては居られなかった。
親がはっきりしたお慈悲なら、子がはっきりして何故悪い。
聞けば聞く程渦巻く心に泣いた。
何処が唯じゃ。何処がその侭じゃと、親に不足を何度言ったか知れない。
 あの不足を言うてる姿が一番可愛いと親は言ってるぞ。
(『魂のささやき』p.67)

魂のささやき

2008-06-04 12:11:47 | Weblog
31 教えぶり

 法然上人様は念佛為本、親鸞聖人様は信心為本、蓮如上人様はたのむ一念、
私の手元へ届いた時は「ただじゃぞ」の一言で解決は付く。
(『魂のささやき』p.66-67)

魂のささやき

2008-06-04 12:11:15 | Weblog
30 信の前後に

 信の前後に変る処と変らぬ処が有る。
信前にはひょっとや底気味の悪い人に相談の出来ないものがある。
それを無明の闇という。信の一念で速に無明の暗は晴れ、
往生は一定、万歳万歳と日本晴れがした時は、苦抜けがするから変る処、
貪瞋煩悩は信の前後の区別なく更に変りはない。
摂取されていながらも不実の心がやまぬとは、此では往生は如何と
微塵も思わず済まぬ事だと懺悔に向う。
(『魂のささやき』p.66)

魂のささやき

2008-06-03 18:49:11 | Weblog
29 睡入られない

 阿弥陀佛は十劫前に正覚は取られてあるけれども
私に届かなければ安心は出来ない。
多くの僧侶が機を見るな見るな、機を見ると手間が掛ると教えられて、
法の方ばかり眺めて救わるる事と安心しているが、
夫は自分勝手に決めて安心しているのじゃ。
機を見れば手間が掛るが法を見れば早いと教えているが、
そんな馬鹿な本願が有るものか。
法を見れば早いというのは、合点と深信とを同様に心得ているが、情けない事じゃ。
真実の機が知れなくて、真実の法が知れるものか。
法の方ばかりでは、機の方が抜けるから、片手落ちになる。
南無の機が分らなければ、法の阿弥陀佛は知れても首無し念佛になる。
法の手元ばかり聞いた人間は、五十年聞いていても、
薄紙がはっきりせんではないか。この様な人を二十願の善人というのじゃ。
何故か。それは悪い機の方は略して包んで、好い方ばかり見て行こうとする。
他力の中の自力の信というのだ。
第十八願の相手は、唯除五逆誹謗正法と除かれた機が
泣く泣く法を求めて居るのであるから、真実の機様に目醒めて居る。
罪の自覚を得るまでは、一通りの苦悩ではない。
併しこの苦悩のどん底から、叫び出づる救済の呼声に貫かれた一念は、
煩悩菩提無二、佛凡一体、機法一体、願行具足、南無阿弥陀佛、
正念、深信、決定心、金剛心、菩提心、無上信心、度衆生心、
名前は何でもよいが、好い親よなあの慶びは、
法体のみで満足出来ず、不実の機に泣いた者に与えらるる特権である。
今!新地にも枝光にも、官舎にも中央区にも、尾倉前田黒崎にも、
熱心に求めている同行があるのを、静かに床の中で思い浮べて、
宿善開発の時を考えてみれば睡入る事が出来ない。
一時は苦しくても底抜けのお慈悲にあえば十方世界の主になれる。
火の車か白蓮華か、聞く一念で解決がつく。
これを思えば求道者よりも指導者の方に力瘤が入る。
助けて下さいよりも助かりて呉れよの念力が強い。
一時も早く求道者の苦が抜ける様に念せずにはいられない。
(『魂のささやき』p.64-66)

魂のささやき

2008-06-02 12:15:47 | Weblog
28 御恩報謝

 此れも御恩報謝、あれも御恩報謝と思わして貰って居ると言う同行に
よく会うが御恩報謝に眼が付く間はうぬぼれ心の雑修の位じゃ。
真の御恩報謝は不実一ぱいの底抜け凡夫が救われて上げる事じゃ。
私が絶対不二の法に貫かれる迄は、若不生者不取正覚と立続けて居らるるのだから
何よりも信決定が御恩報謝じゃ。
本当に救済されたものなら御恩知らずに眼が付くから御恩報謝とうぬぼれないわい。
(『魂のささやき』p.63-64)