『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

●「テオゾフィ」シンパシーとアンチパシーに学ぶということ

2011年10月15日 | シュタイナー

テオゾフィの「知ることの細道」の7段落あたりで、
「シンパシーとアンチパシーに振り回されるのではなく、
それら二つの感じ方を自分の感覚器官にすることで、
自分を世界に押しつける方向から、世界が自分に開く方向に変わる」
という意味のことが書いてあった。

なんだか、すごく大事そうだし、
日々学べることなので、意識しておきたい。

どういうことかというと、
快・不快の情(シンパシーとアンチパシー)は、
日々、時事刻々と移り変わる。
それに捕らわれていたのでは、
自分で自分の舵を取ることができず、
いつの間にか「快・不快」に振り回されるままに動いてしまう。

快・不快の思うままに、自分が振り回されないために、
快・不快を、無くすのではなくて(そもそも無くせないし)、
それらを自分がよく味わって、
「なぜ、今シンパシーを感じているのか」、
「なぜ、今、アンチパシーが湧いてきたのか」ということを、
自らに向かって問い、自らの感情を見てみる。

つまり、快・不快の感情を
「自分にあれこれ教えてくれる感覚器官(目や耳など)」に
してしまって、(心に)何が見えたか聞こえたか、
快・不快を通じて感じる道具にしよう、ということ。

快・不快の感情に少し距離を置いて、
「今、この感情は、何を教えてくれているのかな」と、
中立の立場で対象を見つめてみる。
それは、自分を知る手段にもなるし、
先入観から自由になり、世界を知る手段にもなり得る。

それをしないまま、快・不快によって動いていたら、
それは単純に、
世界の中の自分が見たい部分だけを切り取って、
その中を見ているだけ。
そもそも、見たいものしか見えないみたいだから、
「自分が快と感じるものだけじゃなくて、真実を見たい」
と、一生懸命思っておこう。

広い世界の中で、
今まで見えなかったものを見えるようになるためには、
自分を世界に押し付けすぎてはいけない。
快・不快に捕らわれず、その感情から謙虚に学び、
世界と向き合うことが必要だ。


なーんちゃって、これ、まだ頭で理解しただけだな。
私、これ苦手。

たとえば、ここの「おしゃべり」カテゴリみたいに
何かテーマを決めて対話してる時。
自分の思いを伝えようとすればするほど、
自分の思いを押しつけてしまって、
相手の言葉に添えなくなってしまう。

対話が続いている限り、
ピタッと一致するかどうかは瑣末なことで、
相手との感じ方・考え方の違いは、
不快というよりむしろ、
お互いの個性が際立っておもしろいんだけどね。
それに、対話を続けられること自体が嬉しい!

でも、どうしても伝わらない時には、
なんだか、まどろっこしい気持ちになるんだよなぁ。
そして、そういう時には、
相手に対する尊敬も、忘れがちになる。それが困る。
そういう所は、私の周りのOLさんたちは
上手に分けて整理できるからスゴイと、いつも思う。

「こう考えると、そのしんどさ減るんじゃない?」とか、
「こうしたら、スッキリ整理できそうじゃない?」
みたいなところを、伝えたいと思っているのだけれど、
結果的に、自分を相手に押し付けてるだけなんだろうな。

エラソーにアドバイスなんかいらんわ~!
と、言いたい時もあるだろうなぁ。
わかっているんだけど。
何かの考えを、そのまま相手に押し付けることはできない。
できることは、自分が考えた過程を、そっと差し出すこと。

ので、そっと差し出してみよう(^^)。
あ、それはもちろん、
言葉を受け取って下さる誰かがいてこそであり、
それは同時に、自分に対して、はっきりさせることでもあるね。

我ながら、今日はわかりにくいな。
すみません。

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