今日読んでた本で、作家の高橋源一郎さんが
「方丈記」を「Mobile House Diaries」
と翻訳しておられた。
おおっ!!!!!
ついでに、冒頭の
「ゆく川の流れは絶えずして~」は、
「River runs through it」だそーな。
斬新! おもしろすぎる~~(^^)。
そーだよね。
鴨長明は、方丈=3m四方の小さな小屋、
しかも、トレーラーハウスばりに移動できる「庵」に住んで、
あれこれ考えつつ晩年を過ごしたんだった。
あれが1000年残ってるってことは、
ミニマリストって日本特有の美意識じゃん!
いや~、前からなんか
懐かしく感じるのが不思議だったのよ、
ミニマリストの方々の価値観。
極力モノを持たずに身軽に暮らす、とか。
妙に自分の感性にフィットしたから。
茶室とかさ。
モノじゃなくて、静謐な精神に満たされた空間。
そういえば、
「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」の
高村光太郎の花巻の家も、
たった一間しかない、隙間だらけの小屋だった。
煮炊きするかまども、水回りも、外にあるの。
20年以上前、
仕事ついでにふらりと高村山荘に立ち寄った時、
そこにおられたおばあさんと立ち話をしていたら、
実際に光太郎を知っているそうでビックリ!!
子どもの頃、冬の朝に小屋を見に行くと、
隙間だらけの家で寝ている光太郎の顔に、
雪が降り積もっている事もあったそうだ。
戦争を越え、智恵子を無くし、
あえて自分を痛めていたのではないだろうか。
やさしいおじいちゃんだったそうだ。
ものがない、精神に満たされた空間と言えば、
昔の家のトイレもすごくきれいだった。
板敷で、床も便器もピカピカに磨き上げられていて、
床にも窓の桟にも、ちりひとつ落ちてない。
清潔そのものの、清浄な空間。
神社もお寺も茶室も床の間も
農家も商家もご不浄でさえ、
日本の家屋は余計なものを置かなかった。
それが、精神的豊かさに向かう装置だった。
そういう豊かな余白のある空間の、
厳しさだけを上手に抜いて、
身軽さや、精神的充実を大切にする価値観を現代に引き継いだのが、
ミニマリスト、というスタイルなのかな。
そう思うと、日本の昔からの価値観は、
一貫して精神的充足を大切にしていた気がする。
モノにばっかり目が行くようになったのは、
明治以降、特に敗戦後かな。
片手にハンバーガー、片手にハンドル、隣に恋人、
大量消費はイイコトだ、真面目にやってたらバカを見る、
もっと頭使え、騙される方が悪い、みたいな価値観。
全然自由じゃない。洗脳されてる。
宗教なら、洗脳洗脳って騒ぐのに、
価値観の変化はあんまり洗脳って言わないね。
民族総洗脳だったから、大がかりすぎて気づかないのかも。
自分を失って相手のインストールしたままに動く、
という点では変わりないんだけど。
外からの刺激の少ない、モノのない空間は、
「ホントに私、そうしたいんだっけ?」
と立ち止まって考えるのに、とても適している。
ミニマリストの方の発信に、
わりと素直に共感できる事が多いのは、
社会の価値観からあらかじめ距離をおき、
しかも、批判するでも攻撃するでもなく、
自分がおもしろいと思うことを素直にやっているから、
だろうな。
私の中には、彼らほど
持ち物を極端に制限したいというニーズはないけど、
彼らが身を持って生きてくれてる価値観は、
とても風通しが良いし、軽やかだ。
これは、日本文化が時代の中で変窯した、
ひとつの新しい形かもしれないな。