片道きゃっちぼーる

平凡な生活ですけど。

石神井公園。

2013-02-01 22:07:41 | Weblog
前回更新分なんですけど。
写真がちゃんと表示されないというコメントが何件かあったので
ちょっこす写真をいじくりました。
すいません。


今回は石神井公園に行ってきました。

実はワタシの棲家は石神井公園からほど近いところにあるんですけど、
行ってみたいなあと思いつつなかなか足を運ばずにいました。

石神井公園はこんなカンジの作りになっています。

↑写真クリックで拡大っ。
東(写真では右手)にあるのが人工の石神井池。
西(同じく左手)にあるのが古くからある三宝寺池(さんぽうじいけ)。
石神井公園は、これらふたつの池を中心に構成されています。
池の周辺はキレイに整備されており、
犬の散歩やマラソンをする人も結構見られます。

誰も写ってないじゃん。
園内には鳥が好む木が多く植えられており、
資料によると1年間で80種類近くの野鳥が見られるそうです。

池には、パッと見ただけでも
カモやカワセミ、カルガモ、カイツブリなどの姿が。

何にも写ってないじゃん。

こんな

こんな

こんなカンジであちこちに鳥の姿が見られます。
園内には大きなカメラを持った人も多かったです。
そんなカメラスキーな人たちがたくさん集まってレンズを向けていた場面に出くわしたので
とりあえずワタシもシャッターを切ってみたのですが

ただの雑木林にしか見えな…
いや、たぶんこの中にカメラスキーを魅了する鳥の姿があるはず。
誰か探して。

この池は古くからこの地にあるため、
園内には寺社や石碑がたくさん設置されています。

池に浮かぶ白い壁の建物は、厳島神社。

三宝寺池の周囲の遊歩道。

厳島神社の拝殿を正面から。

拝殿の近くにある、厳島神社水神社。

どちらも三宝寺池に突き出すように建てられています。
厳島神社穴弁天社。

この厳島神社の創建年代は不明ですが、
江戸時代には「弁天社」「水天宮」として
既に史料に残されているそうです。
明治、大正にかけて近隣の稲荷神社、愛宕神社、御嶽神社を合祀し
昭和58年に現在の社殿が竣工しました。

少し奥まった所に見えるのが

石神井城跡の石碑。
かつてこの地には、石神井城というお城が建っていました。
築城年代は定かではありませんが、
石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が
鎌倉時代後期に居城のひとつとして築城したものとされています。
城は、石神井川と三宝寺池に挟まれた台地に築かれていて
城の範囲を示す東限と西限の空堀の跡と
内郭の位置を示す空堀と土塁が判明しており、
内郭区域には建物と地下式坑の跡があり、
陶磁器のカケラを含む中近世遺物が多数発見されているそうです。

この小高い部分が内郭の部分らしいすよ。
石神井城は文明9年(1477)に太田道灌に攻められて落城したと言われています。

太田道灌に攻め込まれた当時の城主・豊島泰経(やすつね)は
代々伝わる家宝の黄金の鞍を乗せた白馬とともに三宝寺池に入水し果て、
その後を追って、息女の照姫も金銀財宝とともに入水した…と伝えられています。

石神井城跡と、三宝寺池を挟んだ向かい側の小高い丘の上に残されている姫塚。

大きなシラカシの根元にあるこの姫塚は、
縁者が照姫の供養のために築いたといわれています。
姫塚から少し離れた所にある、殿塚。

この塚も、縁者が徳を偲んで築いたとされています。
豊島泰経とともに三宝寺池に沈んだ黄金の鞍、
そして照姫とともに沈んだ財宝。
これらは今でも三宝寺池の底に沈んでおり、
遠目に湖面がキラキラと輝いて見えるが取り出すことはできない…
といった落城伝説が言い伝えられています。

この伝説が、実はワタシがこの石神井公園を訪れた大きな理由なのですが
その話はもう少し後の更新で。

三宝寺池付近は、将軍家光が鷹狩の際に訪れるなど
江戸時代から名勝地として知られていました。
明治から大正初期にかけて、この落城伝説にちなむ黄金の鞍を探して
池さらいを行うなど、今で言う町おこしが始められたそうです。
昭和5年に風致地区に指定され、公園化の動きが加速し
人工の石神井池が造られました。
その後、昭和34年に都立石神井公園として開園したそうです。

正直、めちゃめちゃ大きな公園というわけではないのですが
練馬区という住宅街の中にあるため
お天気の良い日にふらっと散歩するには最適かも。
実は、西武池袋線の石神井公園駅の周辺には
古くから個人で経営している美味しいパン屋さんが結構あるので
パンを買って公園で食べるのもなかなか気持ち良い。

やっちゃったのね。


つづく。


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