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出雲国神社めぐり

島根県東部の神社探訪記!
犬もあるけば、神社にあたる!!

佐太神社

2012年01月07日 | 松江市(旧鹿島町)

風土記:佐太御子社
延喜式:佐陀神社
雲陽誌:佐陀大社(正殿:伊弉諾尊・伊弉冊尊・事解男命・速玉男命・秘説)
           (北殿:天照大神・月弓尊)
           (南殿:素戔嗚尊・秘説四座)
様  式:大社造(正中殿・北殿・南殿)
御祭神:佐太大神(猿田毘古大神)・・・天孫降臨に際して、そのお導きをなされし神(正中殿座)
     正中殿・・・伊弉諾尊・伊弉冊尊・事解男命・速玉男命
     北  殿・・・天照大神・月弓尊
     南  殿・・・素戔嗚尊・秘説四座

   
島根県に縁ありながら三十数年訪れることなく、ほんの五年ほど前に初めて参拝することができました。以来この社の静かなこと、三殿井然として並び建つさまには、心惹かれ続けております。昨年、境内前の橋は架かる小川とともに整備され、これを渡り左手に手水社、さらに隋神門をくぐります。之より先は一面玉砂利が敷き詰められ、一歩一歩すすむたび、心清められて本殿に至ることができます。

石階を登り中門(拝殿)の向こうには、主祭神佐太大神が座す正中殿が垣間見られます。翼廊内の三社はいずれも二間以上の間口をもつ正大社造で、同様式の象徴である出雲大社あるいは現存最古の神魂神社(大庭大宮)とは異なる独自の風格を感じさせられます。とくに楽殿を兼ねた拝殿といった大きな建造物がなく、境内全体をとおして極めて風通しのよい造りが成されているというのが特徴ではないでしょうか。

当社の由緒については、出雲風土記の佐太御子社、延喜式の佐陀神社とされ、その祭神である佐太大神は、神魂ノ神の御子である支佐加比姫命(加賀神社の御祭神)の御子で、加賀の神窟にて御産れになり、ご成長の後に神名火山(当社後背の朝日山)の麓に宮造りされ、この地に狭田ノ国を成したとて地域の祖神として崇めらております。また世に云う猿田彦神であり、古事記には天孫降臨にも現れる導きの神であります。

祭神については紆余曲折があり、明治初年の取調帳(新修鹿島町誌)には中殿に佐太御子神を合殿、名分の加都麻社を摂末社にすとある。また伊弉諾尊を垂仁五十四年に合殿、佐太御子社は神名火山の麓に鎮座していたものを社宇破損にともにない合殿と記される。旧町誌にこのころの事象として、秘説とされた主祭神を旧松江藩が猿田彦命を祭神として明示すべしと命じたともあり、これについて祭祀を司る朝山氏との間に意見の衝突を生じ社格昇進の機を失ったとしるされております。

明治三十五年ごろの由緒(新修鹿島町誌)では中殿に佐太御子神、左殿(北殿)に伊弉諾尊・天照大神・月夜見命・速玉男を祀り、右殿(南殿)には伊弉冊尊・素戔嗚尊・蛭子神・事解男命を祀るとあります。旧町誌(昭和37年)のころの祭神は正殿に佐太大神のほか伊弉諾尊・伊弉冊尊・速玉男神・事解男神となり、北殿は天照大神と瓊々杵尊、南殿は蛭児大神・素戔嗚尊・秘説三座となっています。現在の祭神は上記の通りであります。
諸々の祭礼が執り行なわれており、御座(茣蓙)替祭(9月25日)に神殿の茣蓙を清めるにあたり七座神事の「御座」が舞われるほか、明くる日の晩には神能が奉納されます。これら神能は我が国の重要無形文化財であるとともに、2011年11月27日には国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産指定されました。神能は神職とともに氏子各氏によって維持され伝えられたものであり、そのその歴史的価値のみならず、その努力が認められたもの感じられます。出雲国各社の下には佐陀神能以外にも、幾つからの神楽社中が出雲神楽の伝統を伝えておられます。それら各社中・保存会にも視野が広がっていけばと願います。

〈境内社〉
南殿後背の山中に巌を注連縄で囲んだ神域があり、これを母儀人基社といい伊弉冊尊を祭る。比婆山よりその御陵を遷したものとされ、安産の神として信仰をあつめている。

北殿北側に四社合殿の社あり
山王社(大己貴命)、玉御前社(玉屋命)、宇智社(天児屋根命)、竹生島社(竹生島神=稲倉魂命)を祀る。

南殿南側に同じく四社合殿の社あり
戸立社(手力雄命)、振鉾社(天鈿女命)、垂水社(岡象女命)、天神社(菅原道真)を祀る。垂水社は風土記記載、式内の同名社と比定される。

--郷内各社を合祀したもの--
   日田社(日田神稲田姫)・・・風土記記載、式内の比多社に比定される。
   宇多紀社(下照姫命)・・・風土記記載、式内の宇多貴社に比定される。
   御井社(御井神)
   弥山社(大山祇命)
   岡見八幡宮(朝山綱忠)
   橘稲荷神社(稲荷神)
   加都麻社(思金神)
--境外社--
   田中神社(磐長媛命・木花咲耶媛)

〈所在地〉
島根県 松江市 鹿島町 佐陀宮内72

参拝日:平成23年12月11日

日御碕神社(鹿島)

2012年01月05日 | 松江市(旧鹿島町)

風土記:―
延喜式:―
雲陽誌:日御崎大明神(天照大神)
様  式:大社造変態
御祭神:天照大神・素戔嗚尊
合  祀:手力雄命・萬幡姫命

  

佐陀川南岸を港へ向けて走ると、家々が連なり始める手前、山手に鎮座する。境内前に車を止める区域が少なく、表鳥居から50mほどいくと石段の上に歳徳神の庫が見え、さらに一段上がると神楽殿がある。その奥、葛折りに石段をあがるとようやく拝殿と本殿を拝むことが出来た。境内そのものは南北に広いものの、本殿の建つ削平地はさほど広くはなかった。

本殿は小さいながら確とした造りで寛政年間のもの。拝殿南側の由諸書きに依れば、永享年間に里人が大社町の日御碕神社より分霊・勧請し、この地の産土神として祀ったとある。また一説として、本郷村の某が夢にて「日御碕神社に参籠すればさずかりものあらん」と諭を受け、計十四日にわたって参籠し、満願の日に海岸を探すと果たして清石にめぐりあたり、これを持ち帰り社を建てて祀ったとも記される。

〈境内社〉
 
本殿左手前には玉石が転がり、石が祀られるものがあるが、詳細は不明。本殿右手の木造の小祠は今宮神社(素戔嗚尊)。

〈所在地〉
島根県 松江市 鹿島町 佐陀本郷

参拝日:平成23年12月11日

津上神社(手結)

2011年12月26日 | 松江市(旧鹿島町)

風土記:―
延喜式:―
雲陽誌:津神明神(速秋津彦命・速秋津姫命)
様  式:大社造変態
御祭神:速秋津日子神・速秋津比賣神

   

旧鹿島町北西の手結地区にあり、社名の如く漁港の上に鎮座している。地図にある集落中央を車道は、極めて狭く一度入る後に戻ることができない。境内へは東側の丘の道を迂回するのが望ましい。平成の遷宮によって境内全般が整えられ、拝殿向拝下の意匠は細かく、中央には鳳凰と雄獅子、左右から獅子と龍が覗きこみ独特の雰囲気があった。拝殿に続いて大社造りの本殿、左側に五社合殿の小社が建ち、その他神楽殿や大日堂なども見えた。

   

由緒、創建年代は不明。祀られる両神はいずれも海港の守り神で、漁業を生業としてきた同集落に人々により勧請され祀られてきたものと思われる。『神国島根』に拠れば、神社西方に塩穴と呼ばれる穴があり例祭では洞窟で汲んだ塩で潔をし拝礼する風習があったという。

〈境内社〉

本殿右側に五社合殿の社がある。左より鶴島恵美須金比羅社(事代主命・綿津見命・大己貴命・少彦名命)、恵美須神社(事代主命・海幸彦神・住吉神)、照島社(市杵島姫命)、穴恵美須神社(大物主命・事代主命)、今宮神社(須佐之男命・稲田比売命)を祀る。

〈所在地〉
島根県 松江市 鹿島町 手結

参拝日:平成23年11月26日

八幡宮(片句)

2011年12月25日 | 松江市(旧鹿島町)

風土記:―
延喜式:―
雲陽誌:八幡宮(誉田天皇)
様  式:流造
御祭神:應神天皇
合  祀:事代主命(恵比須神社)

  

近年深田運動公園からの新道が開通し、訪ねるのが楽にななった。開通以前は、東西いずれかから峠を越えて回り込まなければならず、不便な思いされていたことと思われる。集落は入江に家々が軒を連ねて並び、その間の小道を下って参拝した。地元の氏神として崇敬篤く、整った境内に流造の見事な本殿、その他に数社の境内社や神楽殿が見えた。とくに本殿右側の境内社のうち恵比須神社は立派で、八幡とは別の拝殿が備えられていた。

なお同地区の片句こいグループでは地元の海の幸を使用した商品を作っており松江市内のイベントで販売している。とくに地元ワカメのメカブを使用したドレッシングは美味で各種料理に重宝する。毎月第二日曜日カラコロ工房前に出店。

  

旧町誌に記載に拠れば、天文年間に人口が大いに増加して村落が形成されると、期を同じくして勧請された。明治初年の社寺取調帳には幡垣社の摂社・末社と記されるが、明治四年には八幡宮が村社に列せられたとのこと。合祀される恵比須神社は永正十四年の勧請で、もとは八幡宮より上位にあったが、明治中期に火災により本殿・神像を消失、明治三十九年に八幡宮に合祀された。

〈境内社〉
   
本殿右側に二社、うち一社は恵美須社の扁額、狛犬一対、並びに立派な本殿を構える。また左に一社。
旧町誌他によれば、八幡宮の境内社は恵美須社(事代主命・大国主命・猿田彦命・手力雄命・天兒屋根命・太玉命・天宇受賣命)の他に、住吉神社(表筒男命・中筒男命・底筒男命・)、武内神社(武内宿禰命)がある。

〈所在地〉
島根県 松江市 鹿島町 片句

参拝日:平成23年11月26日

多久神社

2011年12月23日 | 松江市(旧鹿島町)
   
風土記:多久社
延喜式:―
雲陽誌:熊崎天王(素戔嗚尊)・多久上下明神(大国主命)
様  式:大社造変態
御祭神:天甕津比売命
合  祀:素戔嗚尊(熊崎神社)・武御名方命(諏訪神社)・神火酢芹命(狗飼神社)・市杵島姫命(厳島神社)
     大物主命(日吉神社)・応神天皇(八幡宮)・蛭児命・素戔嗚命(西宮神社)・味耟高彦根命(大森神社)
     大井神・水罔象神(大井神社)

県道264号を東進すると、右手に石造りの鳥居が見え、その向こうに大社造の本殿を抱えた境内を見つけることができます。旧鹿島町も古くは幾つかの小村に別れ、この社の辺りは講武村をなしておりました。江戸時代に佐太川が開削され、近年南北に走る主要県道が整備されるにより、往古の谷筋の姿は掴みにくくなっています。本来の河川は東方の御岳山より出でて恵曇(江角浦)に注ぎ、この神社の辺り多久郷は一大の勢力を成していたのではと思われます。

  

講武村誌に依れば、明治期には村内に十数社があり、小集落に分かれて祀られていたあります。日露戦争後、社会情勢の変化により、各集落は其々の社勢を保持することが困難となり、また村全体の統一感を醸成するにあたって、かえって小社の存在がこれを妨げるのではないかとの解釈があったそうです。こうした流れの中、上記の9社が数年を経て村内神社の大宗であった多久神社に合祀を達成し、大正4年に新社殿の竣工を迎えるにいたったとのことです。

多久神社そのものの由緒を顧みると、多久の郷草創の神である天甕津比売命を祀り、風土記のころより当地の氏神的存在であったとされます。また合祀の熊崎神社の由緒として、ある夜に多久の森に神鏡一面が舞い降り、それを見つけた某が、その地に祠を建てて祀ったことに始まり、その神勢は極めて強く氏神としての信奉は同社に集まったといわれます。実に雲陽誌の講武の頁には初めに熊崎天王が記され、多久上下明神は末尾に記されております。多久神社が再び地域の総社としての地位を得るのは明治4年の官命によるとのことです。この辺り両社伝統に拝殿扁額に象徴されているのではないでしょうか。

〈境内社〉
  
本殿左奥に、社殿一宇、並びに社日碑。右側に磐を祭るものあり。新町誌によれば多久神社の境内社として厳島神社が見える。社殿を持つものが之にあたるのかは確かではない。

〈所在地〉
島根県 松江市 鹿島町 南講武

参拝日:平成23年11月25日