ひらつか日記

1999年に漫画家おかざき真里ホームページの連載コーナーとしてスタートした身辺雑記×音楽紹介日記です。

ポロック/ケージ

2009年01月28日 | クラシック
42歳の誕生日

Google_090128

あれ、Googleのロゴ画像が壊れてら…と思ったら、違いました。へえ、1月28日はジャクソン・ポロックの誕生日なんだって。壊れた画像、と思ったのは、ポロックのいわゆるアクション・ペインティングだったのでした。たぶん、これを見てメールをくださったんじゃないかな、お前はポロックと同じ誕生日なんだな、おめでとう、というお祝いメッセージをいただいた。そうです、42歳になりました。以前の日記でも、同じ誕生日の有名人、というテーマで書いた(2001.1.28)ことがあった。ここにポロックも加わったことになるわけだが、えーと、わたしは美術には全く疎いので、感想が難しいな(笑)。アクション・ペインティングって、出た目(結果として出力されたもの)はわりとどうでもよくて、やりかた(どう描くか)に作品性がある、というものだと思うんだけど乱暴かしら。音楽でいえば、ジョン・ケージ とか。こちらは「チャンス・オペレーション」といって、クジで作曲した人。「絵具ぶちまけ」に「クジで作曲」、どちらも最初にやったということに意味がある。それを、最初にやったことにしか意味はない、と書き換えていいのかどうか、ここがポロックやケージの難しいところ。真贋の見極めは後世の仕事と言ってしまえば、50年、100年先の評価を待たないと今のところは何ともいえない。

Daughters of the Lonesome Isle

Cage: Daughters of the Lonesome Isle / Margaret Leng Tan 。ジョン・ケージの作品をそんなにたくさん聴いたわけではないけれど、この盤は気に入っている。世界でもたぶんただ一人のトイ・ピアノ(おもちゃのピアノ)のプロ奏者、シンガポール出身のマーガレット・レン・タンのケージ作品集。いろんなタイプの小品が収録されていて楽しい。ベストトラックは2曲目の「In a Landscape」。ゆらゆらと揺れる水面のようなとりとめのない曲想のところどころでひらめく繊細な美に、ケージ固有の資質(つまり伝統的な意味での作家性/作品性)を聴くことができる。





All Right Now

2009年01月23日 | ロック・ポップス(欧米)
Fire and Water

昨日、暮れの日記(2008.12.21)で紹介した、博報堂生活総合研究所の生活トレンド予報レポート「第三の安心」の対外発表会が恵比寿ガーデンプレイスで開催された。プレゼンターは、正月の日記(2009.1.2)にも登場した吉川くん。わたしは客席で見てただけなので気楽なもんだが、800名からの業界関係者を相手にして70分以上も一人で喋るのは相当な荒行である。わたしはこんなに大勢を相手にした講演はしたことがないので、どのくらいのプレッシャーか見当がつかないが、いやいやお見事、素晴らしいプレゼンテーションでした。全てが終わったあとに会場に流れた音楽は、Fire and Water / Free の収録曲「All Right Now」。大いに不安な時代だけれど、みんなでがんばれば大丈夫(All Right)、というココロ、プレゼンテーションのコンセプトを表象した、吉川くん本人の選曲である。このアルバムの最新エディション(デラックス・エディション)にボーナストラックとして収録されたファーストテイクのバージョンを流したい、というのが彼の希望。「このファーストテイクは、トラックの前後にスタジオでのメンバーの会話音声がはいっているので、そこをカットしたCDを今回の発表イベント用に焼いてほしい」という依頼が彼から事前にやってきて、それでわたしはそのバージョンを初めて耳にした。正式に発売された有名なバージョンよりも、アレンジがシンプルで力強い。あれこれ考えてオーバーダビングしてないせいだろう。わたしはこっちのほうが好みだ。断然いいと思う。この曲が好きで好きで…という人があったら、ボーナストラック目当てでデラックス・エディションを買っても損はない。この曲がかかる中、会場前方のスクリーンは、今回のプレゼンテーションにかかわった人たちのクレジットが映画のエンディングロールのように流れた。わたしの名前も加えてもらっていて…まあこういうのは退場にいそがしい観客のみなさんはご覧になっていないんだけどね(笑)…感激でした。何はともあれ、プレゼンターの吉川くん、おつかれさまでした。


Change Is Gonna Come

2009年01月22日 | ブラック
イエロー・ムーン

アレサ・フランクリンの「Change Is Gonna Come」を推した、昨日の日記(2009.01.21)の追記。アレサ・フランクリンは、この曲をかなり崩して歌っている。昨日勝手に訳したサム・クックのオリジナルの歌詞、これもところどころ変えている。女性が、男を待つ、という意味を重ねていて、曲頭にヴァース(語り)をつけたり、人称を変えたり・・・等々。そんなこんなで、推薦してはみたものの、いきなりアレサ盤を聴くと、この曲の真価がうまく伝わらないかもなぁ…と、全く余計な老婆心が頭をもたげ、急に心配になったので、同じ曲でもう一枚、レコードを推薦しておくことにした。本来なら、サム・クックの原曲( Ain't That Good News / Sam Cooke )を推したいところだが、今の若い人の耳だと、ちょっとアレンジがクサイと感じられるかも。ストリングスが壮大になり響き、ティンパニがドドーンときて、やや演歌っぽいかな…。心配しすぎ?(笑)。で、ハタと膝を打ったのがこれです、これ。Yellow Moon / The Neville Brothers 。ニューオリンズのR&Bグループ、ネヴィル・ブラザーズの1989年作品。この盤に収録されたバージョン、ほんとにほんとに素晴らしいのだ。絶品。アーロン・ネヴィル( 2000.11.5 の日記参照)の歌唱の美しいこと。そして、プロデューサーをつとめたダニエル・ラノワ( 2006.7.5 日記参照)の音空間づくりのセンスが抜群にいい。いつもただただ陶然と聞き惚れてしまう。「Change Is Gonna Come」は、できればまずこれから聴いてみてほしい。ヘッドホンで神経を集中して。曲がわかったら、よし、もう大丈夫。サム・クックのオリジナル、そしてアレサ・フランクリン盤へと駒を進めよう。というわけで、昨日の日記の追記は以上で。




Change

2009年01月21日 | ブラック
I Never Loved a Man the Way I Love You

オバマ大統領就任式をテレビで観ていたら、アレサ・フランクリンが突然出てきて歌ったのに驚いた(事前予告されていたらしいが)。曲は、「America (My Country, 'Tis of Thee)」。1939年のマリアン・アンダーソンの伝説的コンサートを踏まえた選曲(仔細はこちらのページの「出来事」項を参照。動画はこちら)と思われる。マリアン・アンダーソンの「America」から70年、マーティン・ルーサー・キングの「I Have a Dream」( 2001.4.13 日記参照)からはまだ50年も経ってないことを考えると、黒人大統領の実現は驚くべきことだ。自分が生きているうちはとても無理だと思っていた、と多くの米国人も語っている。それにしても大変なタイミングでの就任になった。米国の崩落はまだ始まったばかり、本格的に泥に突っ込んでいくのはこれからである。おそらくかなりエグイ役回りになるのではないか。今日の推薦は、I Never Loved a Man the Way I Love You / Aretha Franklin 。アレサ・フランクリンの代表盤といえばコレ。オーティス・レディングのカバー、冒頭の「Respect」が何と言っても有名だけれど、最終曲「Change Is Gonna Come」がこの記事にはよりふさわしいかもしれない。こちらはサム・クックのカバー。「オレは川べりの小さなテントで産まれた。川の水が絶えず流れ続けるように、それからずっと走り続けてきたよ。長い、とても長い間ね。しかし、いずれ変化がやってくる、そう、変化は起こるんだ」という歌詞(勝手訳。原文は、I was born by the river in a little tent. Oh and just like the river I've been running ever since. It's been a long, a long time coming. But I know a change gonna come, oh yes it will.)がいい。昨年11月の大統領選勝利宣言の際に、オバマは「It's been a long time coming, but tonight・・・」ときて、「change has come to America」とこの歌詞を下敷きにした演説を行っている。「change gonna come」から「change has come」と時制が変わったインパクトが持続するのはよくて数ヶ月、変革の内実をつくっていくのは(わたしなんぞが言うまでもなく)ここから先だ。この泥沼をどう抜けていくのか。最大の景気浮揚策は、20世紀の定石からいえば戦争、ということになるが、そのカードを切らずにうまく舵取りできるだろうか。


i文庫で、坊ちゃん

2009年01月14日 | ジャズ
サキソフォン・コロッサス


「i文庫で、山月記」(2009.1.5 日記)に続いて、i文庫で今度は「坊ちゃん」を読んでみた。文学部の学生だったくせに、恥ずかしながら白状するが、読んだのは今回が初めて。だいたい途中でかったるくなって放り出す。漱石は大好きなはずなんだけど、どういうわけか「坊ちゃん」は最後まで読み通せたことがなかった。何冊買ったか覚えてないけど、そのたび放り出し、初期作品は「」だけあればいいんじゃね?漱石の作品群中では二軍ですよこれは…と勝手に結論して済ませてきた感じ。で、今回読んでみてどうだったか。どうだったんだよ、41歳。結論からいえば、大幅に評価が上がったわけではない。やっぱり二軍。でもすっごくうまいな、小説。何だかピカソ展に行って「ピカソって絵が上手ねぇ」と感心してるオバチャンみたいだけど。うまい。明治が見えました。知らないはずの明治が。たぶん、筋書きなんかどうでもよかったんじゃないか、勝手に人物が動いちゃう、それを文字で活写する技術の快感。おれ、こんなに書けちゃうもんね、ありありと書けちゃうもんね、いくらでもいけちゃうよ、という漱石の技術に舌を巻く、これがこの作品の楽しみ方なんだな、と勘付いた次第。ズバズバとド真ん中に決まる漱石の技術を楽しむ。筋書きを追っちゃうとかったるくて放り出したくなるんだな。ここで、あ、もしかして…と思って、CD棚から取り出したのが、Saxophone Colossus / Sonny Rollins 。通称「サキコロ」、ソニー・ロリンズのサキソフォン・コロッサスである。ジャズの名盤、というとほぼ100%筆頭にあげられる超ド定番。しかし、聴くたびに途中でかったるくなって放り出す。ロリンズは大好きなはずなんだけど、どういうわけか「サキコロ」は最後までじっと聴きとおせたことがなかった。ロリンズなら「WAY OUT WEST」(2000.5.6 日記参照)と「Night at the Village Vanguard」があればいいんじゃね?みたいな。つまりは「坊ちゃん」と同じような評価をしていた作品、ひょっとして若い時分のわたしの聴き方に青さがあったんじゃないか…という気がして棚から久々に引っ張り出してみた、というわけ。聴いてみると、それほど大幅に評価があがったわけではないが、でも、すっごくうまいな、サックス。うまい。能天気な曲にわかりやすいアドリブ、こりゃ入門者向けのお気楽盤だねえ、と思っていたが、これは実はロリンズの技術に舌を巻く、という楽しみ方をする作品だったんだ。おれ、こんなに吹けちゃうもんね、いくらでもいけちゃうよ、とばかりに滾々と湧き出るフレーズ、それがこれ以上なくど真ん中にズバズバ決まる。それがあまりにうまくて、能天気でわかりやすい…と聴こえちゃうのだ。ド真ん中ばっかじゃん、こんなベタなのつまんねぇ…とバカにするのか、うへぇ全部ド真ん中かよ!と舌を巻くのか。やっぱり代表作とか名盤とか言われるものを舐めてはいけないものだなあ。漱石、ロリンズ、やっぱりすげえわ。


オリジナリティ

2009年01月12日 | ロック・ポップス(欧米)
Philosophy of The World/Shaggs


最近、楽しみにしているテレビ番組といえば、TBSの「あらびき団」。番組MCの東野幸治によれば、「タイトル通り荒挽き!まだまだ粒は荒いけれど、原石を見つけます。第2の小島よしお君養成番組」を目指す、というのがコンセプト。売れてない芸人、あるいはほとんどシロウトが登場して、芸を披露する。わたしが見たところ、大きく3つのタイプに分かれる。一つ目は、おもしろくて笑ってしまうもの。非常に数が少ないが、ごくたまにある。もちろん芸は未熟で一発モノみたいなのが多いわけで、プロの芸人として長持ちするかどうかは全く不明。でもおもしろい、というもの。わたしがこの番組を見るのは、そういうのが見たいからである。二つ目は、全くおもしろくないもの。毒にも薬にもならない。これが一番数が多く、ほとんどはこのタイプ。これらはそれを肴にした東野幸治・藤井隆のMCトークを楽しむ、ということになる。で、三つ目。表現が難しいが、正視に耐えない…としか言いようのないもの。おもしろくないどころか、これは何かヤバイもの見ちゃったなあ…テレビに映していいのかなあ…ちょっとオカしい人なんじゃないかなあ…と心配になる人が出てくる。東野・藤井のMCトークはこの場合は「これオーディション通したスタッフ、あかんよ、ホンマに…」になる。どうもこのタイプを支持する声があるようで、一定の割合で登場してくるのだが、わたしはこのタイプは苦手…。ゲテモノなんだよなあ。年末のスペシャル拡大版で、間寛平が登場、この番組に出てくる素人並にデタラメな芸をやってやろう(≒三つ目のタイプをやってやろう)ということで、パンツに紐でボールをふたつブラブラさせながら奇声をあげる…という、ちょっと他の番組ではNGな芸を披露したが、うーん、全然ゲテものに見えなかった。やっぱりプロなんだよな。どんな芸をやってもプロの技術があるから、計算された破綻であって、ゲテモノの狂気にはならないんである。Philosophy of The World / Shaggs というレコードがある。これ、音楽の世界のゲテモノである。なので、いつものように“推薦”盤ということではない。どうゲテモノか、というとなんとも説明しようがない。ジャケット写真からはそこはかとなくホンモノの狂気が感じられる。いわゆるガールズロックバンドなんだが、音がものすごくヘン。下手とか笑えるとかいうレベルではない。音楽のベーシックな知識や技術が根本から欠落した人にしか出せないもの。知識や技術が足りなくても、音楽について多少なりとも耳ができていれば、こういう音には絶対ならない。どんな素性かというと、音楽のズブの素人であった父親が、娘の三姉妹に結成させたバンド。父親は、他人と交わると芸術的オリジナリティが損なわれるという理由で、姉妹を一切学校に通わせず、通信教育だけで育てた、という。音楽教育としても、幼少期に一切生演奏は体験させなかったようで、大きくなってからいきなりドラムやギターを買い与えて、スタジオでレコーディングにのぞんだらしい。当人たちはいたってシリアスであって、コミックバンドや、インテリが発想しそうなパフォーマンスアート(2007.10.15 の日記に書いた“ポーツマス・シンフォニア”のような)等では断じてない。滅茶苦茶なのが笑いにいかずにヤバさにいくのはそういうことで、なるほど、そうだよな、そうじゃなきゃこんな音楽にはならないもんな…というホンキのゲテモノなんである。1969年に、アメリカのニューハンプシャー州の片田舎でわずか200枚が自費プレスされただけで何の話題にもならなかったこの盤、なんでCDになってんの、というと、物好きのプロがどこかで拾ってきてそれを過剰に褒めたから。すごいオリジナリティだ!とプロが褒めるから、じわじわと話題になって、今ではこのシャッグス、「20世紀における一番すごいガレージバンド」「最も影響を与えたオルタナ・レコード100選」「最も重要なインディーズ50選」(いずれもローリングストーン誌)なんだそうで、かくいうわたしもそういう評判に釣られて買ったクチ。でもさ、これ、ほんとにゲテモノなんだけど…。聴いてて怖い…。あらびき団もそうだけど、こういうのをあんまり無責任に称揚しないほうがいいんじゃないかなあ、と思う。これはオリジナリティではない。オリジナリティというのは、歴史や伝統のないところには生じないものである。ゆとり教育がいう「自分らしさ」の解釈の狂い方も似たところがあるように思うんだが。


「あらびき団」推薦動画:ガリガリガリクソン「ニート漫談」夙川アトム「業界紙芝居」モンスターエンジン西森「鉄工所ラップ」どぶろっく「オリジナルソング」あたりが最近笑ったもの。上述のタイプとしてはこれが一つ目に分類されるもの。これが三つ目のタイプなのではありません(笑)。


日本語が亡びるとき

2009年01月09日 | クラシック
マーラー:交響曲第10番(D.クック復元による全曲版)


書店の平積みを渉猟していたら、「水村美苗」という著者名が目に入った。書名は「日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で」。どこかで見た名前だな…と本を手にとって著者略歴を見たら、ああ、思い出した。「続明暗」を書いた人だ。タイトルを見ればわかるとおり、夏目漱石の未完の絶筆、「明暗」の続きを書く、というもので、文学に縁遠い人でも、これがいかに大それた構想かは容易に見当がつくんじゃないだろうか。たしか20年くらい前の本、その後、そのスジでどういう評価に落ち着いているのかは寡聞にして知らないが、当時に読んで大変に感心した覚えがある。スゲエ人がいるもんだ…と感じ入ったものの、それ以上この作家について調べるでもなく、追いかけるでもなく、そのまま忘れていたのだけれど、今回、平積みで足がとまったということは、その名前が意識下で強く印象に残っていたということだろう。で、この新刊、買ってみたら大変に面白くて一気に読了。方々で賛否を巻き起こしているみたいだけれど、わたしがみる限りでは、批判する側にピント外れが多いように思う。それは批判する側の問題というよりは、水村の書き方の問題。本の主張は極めてシンプル。「ハンパな英語なんか役に立たぬ」ということに尽きる。“一億総バイリンガル”の理想は大いに結構だが、そんなの無理に決まってる。その理想を軽々しく掲げて子供の英語教育を分厚くするような行政は愚の骨頂。限られた時間数であれば、英語を無駄に増やすより日本語をもっとやっとけ。全くもってその通り。正論だ。水村は、これを最終章で言うために、一章から六章までの250ページを費やして言語論や文学論っぽい理屈を延々と積み上げる。その書き方、ここがいわばおいしい“ツッコミどころ”になってしまってるんだな。最初から最後まで徹底して独善的に書けばよかったのに。客観的に立論しようとしているように見えてしまうせいで、その客観の妥当性についてあれこれ批判をひきおこしてしまっているのだ。せっかくの主張が、余計なペダントリーとそれに対する揚げ足取りに埋もれてしまっている感じで、ちょっともったいないように思う。しかし圧倒的に面白い本なので、強く万人におすすめしたい。できれば「ことばと国家/田中 克彦」(岩波新書)を併せて読むといい。水村の展開する理屈についての読解が深まる。で、今日の推薦盤。Mahler:Symphony No.10 (Prepared by D. Cooke) / Eliahu Inbal, Frankfurt Radio Symphony Orchestra 。つい数日前にもとりあげたグスタフ・マーラー、その未完の絶筆として知られる交響曲第10番。マーラー自身はこの楽譜を死後焼却するように妻のアルマに遺言していたらしいが、形見として保存され、後に様々な作曲家・学者が補筆に挑戦した。このCDで使用されているのは、英の音楽学者であるデリック・クックが補筆して完成させたバージョン。そんなもの認めない、という人はもちろんいる(マーラー自身が浄書まで終わらせた第一楽章のみを演奏対象とする指揮者が多い)が、この補筆版の出来は大変に素晴らしい。マーラー交響曲中のベストワン、と言う人もいるくらい。マーラーのデリック・クック、夏目漱石の水村美苗、どちらも客観を装った強烈な独善の仕事だと思う。客観の妥当性についての批判はいくらでも可能だが、そんな批判を気に病むような人はそもそもこんな仕事に手を出さないだろう。

推薦blog:クラシックCD好きのホルン吹きニョッキ


ワン・マン・スペースシップ

2009年01月08日 | 電子/音響/ハウス
One Man Spaceship


株式会社といっても実態はわたし一人のまさにワンマン会社(笑)なので、何でも自分でやらなくてはならない。毎年、年末年始の休みは、溜まりに溜まった帳面つけ、つまり経理事務が恒例になっている。延々と領収書を糊で貼っていく…等々、ものすごく地道で忍耐のいる作業を長時間。今回も、仕事をやってて煮詰まると経理事務をやり、飽きてくると仕事に戻り…といった調子でシュクシュクと作業を続けること10日あまり、ようやく帳面の日付が1月に追いついた。整理がついた分を小包便で税理士さんにまとめてドーンと送って、やれやれスッキリ。しかしまとめて送られる税理士さんにとっては良い客とは言えないな。ホントにすみません。来年こそはコツコツちゃんと整理して、まとめて送らなくていいようにします…と毎年この時期は天に誓うのだった(笑)。One Man Spaceship / Jeff Mills 。デトロイトのクラブDJ、ジェフ・ミルズのアルバム。ワン・マン・スペースシップというタイトル、そしてこのジャケットで、一体どんな音がするのかと思うと、これがほんとに宇宙をひとりで漂泊している気分になってくる容赦なく孤独な音響。極低温の寂しい宇宙空間の闇が眼前にまざまざと浮かぶ。肉体性は皆無、脳に電極刺して、耳を経由せずに直接神経に音を送り込まれているような…。音だけきいたら、これが黒人DJの作品だと当てられる人はまずいないだろう。まあ黒人が紅白で演歌…という時代なので、黒人音楽といえば肉体性、という考え方自体が古い偏見なのかもしれないけど。今年の経理事務のBGMは、これをかけることが多かった。耳栓以上に外界の雑音を遮断してくれる何とも不思議なCDで、忍耐のいる作業に集中するにはもってこい。ずっと聴いているとものすごく心細くなって、人恋しくなってくるくらい(笑)。

参考)ジェフ・ミルズのブログ。彼のエントリーが逐次日本語に翻訳されている。


尻が裂けた

2009年01月07日 | ロック・ポップス(欧米)
イタリアン・グラフィティ


昨年末、しゃがんだらバリっとスーツの尻が裂けた。ちょっと太ったのか、それとも股引なんか穿いてたせいか。スーツの尻が裂ける、というのは、笑いとしては古典だが、やっぱり可笑しい、思わず笑ってしまった。いや、もう話はそれだけである。くだらなくて申し訳ない。Italian Graffiti / Nick DeCaro 。このアルバム、好きな人がいたらごめんなさい。わたしももちろん大好きなんですが、このジャケットね、これがなんか笑っちゃう。知らない人のために書いておくと、これ、いわゆるAORと呼ばれるジャンルで知らない人はモグリといわれる大名盤、中身はすごく洒落た音楽です。でもこのジャケット、じわじわと可笑しいでしょ。わたしだけ?(笑) 尻や顔でつい笑っちゃうってのは、ドリフ世代だからかしら…。最後にもう一度謝っておこう。ニック・デカロのファンの方、ホントにごめんなさい。


1980年のポンジャン

2009年01月06日 | ロック・ポップス(国内)
Solid State Survivor / Yellow Magic Orchestra


このブログを見た…と、中学校時代の友人がメールをくれた。メールにあった電話番号にかけたら、中学卒業以来の声、いやあ、懐かしい。四半世紀以上前の記憶を呼び起こしてみると、彼は覚えているかどうか知らないが、彼の家で年越しをしたことがあったのを思い出した。田舎の中学校で、彼はいわば親分肌で腕っぷしも強くて目立つ存在、わたしは第二次性徴が遅くて小学生のようなナリの優等生、今の感覚で考えれば、そんな小学生のようなのと遊んだって面白くなかろうと思うんだが(笑)、田舎で人も少なかったせいもあって退屈しのぎに相手をしてくれたんだろうな。俺ん家で年越ししようぜ、というわけで、1980年の暮れに集まったのが総勢4名。こたつでポンジャンを延々やってたように記憶している。麻雀の子供向けだわね。その時に、こたつの横のラジカセで、彼のカセットテープだったか、あるいはそこに参加した誰かのだったかはよく覚えていないが、その年に大ヒットした Solid State Survivor / Yellow Magic Orchestra がずっとかかっていた。確かマクセルの赤色ラベル、UL じゃなかったかな(笑)。また、その年末、わたしの家では、新しいもの好きの祖父が、当時まだ出始めだったビデオデッキというものを買ってきていた。ソニーのSL-J9 。彼の家に出かける直前に電気屋の配線が完了、わたしはそれをイジりたくて仕方がなかったんだが、時間もないので、とりあえず人生初のタイマー録画をセットして家を出た。番組は何でもよかったんだけど、たまたまセットしたのが、フジテレビが特番を組んでいた「YMO武道館ライブ」だった[※]。しかし、この時点ではまだ、わたしは別段YMO に、というか音楽というものに積極的な興味を持っていたわけではなかった。ほんと、たまたまなのである。ポンジャンやりながら、YMOをはじめて(それまではTVから流れるのを何となく耳にしていた程度だった)ちゃんと聴いてその斬新な音響にワクワクし、年明け家に帰って録画したビデオではじめて目にしたYMOのビジュアルにシビれ、そうしてわたしの音楽への興味が本格的に覚醒しはじめたんであった。1980年の年末年始に彼がポンジャン年越し大会を企画しなかったら、このブログはおそらく存在していなかったのではないか。そして彼に今日、あらためて電話することもなかっただろう。そう考えると人生ってのは不思議なもの。

[※]このことは2006.7.18の日記にも書いていた。この日の日記には録画した特番の動画あり。