日本で最初に「パーソナルコンピュータ」を謳ったのは、NECのPC-8001。1979年9月28日発売なので、明日でちょうど30周年ということになる。但し当時は「マイコン」(micro computerと、my computerをかけたもの)という呼称が一般的で、「パソコン」という語が世に普及したのは実際はもっと後になってから。岐阜の田舎の中学生だったわたしはこの頃に、YMOに出会って、音楽に開眼している(冒頭のジャケットは1979年に日米で発売されたファーストアルバム)。ひとつ上の世代がモーリスのギターに憧れたように(出演するとモーリスのギターが貰えるテレビ番組「TVジョッキー」の“奇人変人”が大変な人気だった)、YMOエイジの子供たちはシンセサイザーとコンピューターに憧れたのだった。とはいえ、どちらもまだまだ高価な代物で、両方を買ってYMOがやってたような自動演奏システムを組むなんて夢のまた夢。今では、数万円のパソコンにDAWソフトをいれれば誰でもカンタンにYMO以上の環境を手に入れることができる…というか、DAWは今やプアマンズ・インストゥルメンツと言ったほうがいいかもしれない、いやはや隔世の感があります。以前の日記(2008.8.25)に書いたように、わたしが最初に触れたコンピューターは近所のお兄ちゃんがもってたポケットコンピューター。それと、高校で入部した「数学研究部」(後に部長…苦笑)の部室にあったレジのお化けのようなFORTRAN機。どちらもディスプレイは数字1行だけ。ちゃんとしたディスプレイがついたコンピューターに触れたのは、ウチの隣に住んでた不良のアニキの部屋だった。ある日、オレの部屋へこい、と呼び出しを受けて、おそるおそる行ってみると、そこに近所の電気屋で買ったと思しきナショナルのマイコン(JR-200)が置いてあった。「マイコン買うとインベーダーゲームが家でできるっていうから買ったんだけどよぉ…」とアニキ。インベーダーゲーム目当てにいちいちカツアゲするのも面倒だ…ということだったんだろう。しかし当時のマイコンを知る人ならわかるだろうが、プログラムは自分で書くしかなかったんである。ちなみにファミコンはまだなかった。つまり、彼の言葉を翻訳すると「お前、マイコンに詳しいらしいじゃねえか、これでインベーダーつくってくんねえか」ということだ。タバコの匂い、壁には松田聖子のポスター…そんな部屋に連日通って、プログラムを書く日々が始まった。その頃にプログラムを書いた経験のある人ならわかるだろうが、インベーダーゲームってのは駆け出しのプログラマーには難度が高い。とてもじゃないが処女作では無理だ。アニキに事情を説明して「パックマンもどき」で勘弁してもらうことにしたのだが、パックマンもどきもそうカンタンにはいかない。どうにかカタチになったところで、アニキがプレイ。ナムコの原作とは比較にならない低クオリティの画面にやや不機嫌。こちらはいつエラーが出て止まるかわからないので後ろで冷や汗。パックマンがドットを全部食べた…が、ステージのクリア判定ロジックがおかしいせいで次の面にいかない…モンスターにやられてゲームオーバー。「なんでクリアじゃねえんだよ、全部食ったじゃねえか」とキーをぶっ叩くアニキ、縮み上がるわたし…と、まあ、話は尽きないのでこの辺にしておくが、わたしが今日あるのは、この不良のアニキのおかげといっていい。黎明期にWEBの仕事に携わる機会(博報堂が1995年に実験的につくった組織「博報堂電脳体」に参画)に恵まれたのも、あの修羅場で身につけたプログラムの知識があったからだ(笑)。その後、アニキはマイコンにいつの間にか飽きて、その機械はわたしが拝借したままになった。たぶんまだ実家にあるんじゃないかな…もう捨てられたか。わたしとコンピューターの出会い、かっこよく語れば「YMO~シンセサイザー~自動演奏」という線だが、もうひとつ「不良~インベーダーゲーム~カツアゲ」との輻輳がそこにはあった、という一席。
日本で最初に「パーソナルコンピュータ」を謳ったのは、NECのPC-8001。1979年9月28日発売なので、明日でちょうど30周年ということになる。但し当時は「マイコン」(micro computerと、my computerをかけたもの)という呼称が一般的で、「パソコン」という語が世に普及したのは実際はもっと後になってから。岐阜の田舎の中学生だったわたしはこの頃に、YMOに出会って、音楽に開眼している(冒頭のジャケットは1979年に日米で発売されたファーストアルバム)。ひとつ上の世代がモーリスのギターに憧れたように(出演するとモーリスのギターが貰えるテレビ番組「TVジョッキー」の“奇人変人”が大変な人気だった)、YMOエイジの子供たちはシンセサイザーとコンピューターに憧れたのだった。とはいえ、どちらもまだまだ高価な代物で、両方を買ってYMOがやってたような自動演奏システムを組むなんて夢のまた夢。今では、数万円のパソコンにDAWソフトをいれれば誰でもカンタンにYMO以上の環境を手に入れることができる…というか、DAWは今やプアマンズ・インストゥルメンツと言ったほうがいいかもしれない、いやはや隔世の感があります。以前の日記(2008.8.25)に書いたように、わたしが最初に触れたコンピューターは近所のお兄ちゃんがもってたポケットコンピューター。それと、高校で入部した「数学研究部」(後に部長…苦笑)の部室にあったレジのお化けのようなFORTRAN機。どちらもディスプレイは数字1行だけ。ちゃんとしたディスプレイがついたコンピューターに触れたのは、ウチの隣に住んでた不良のアニキの部屋だった。ある日、オレの部屋へこい、と呼び出しを受けて、おそるおそる行ってみると、そこに近所の電気屋で買ったと思しきナショナルのマイコン(JR-200)が置いてあった。「マイコン買うとインベーダーゲームが家でできるっていうから買ったんだけどよぉ…」とアニキ。インベーダーゲーム目当てにいちいちカツアゲするのも面倒だ…ということだったんだろう。しかし当時のマイコンを知る人ならわかるだろうが、プログラムは自分で書くしかなかったんである。ちなみにファミコンはまだなかった。つまり、彼の言葉を翻訳すると「お前、マイコンに詳しいらしいじゃねえか、これでインベーダーつくってくんねえか」ということだ。タバコの匂い、壁には松田聖子のポスター…そんな部屋に連日通って、プログラムを書く日々が始まった。その頃にプログラムを書いた経験のある人ならわかるだろうが、インベーダーゲームってのは駆け出しのプログラマーには難度が高い。とてもじゃないが処女作では無理だ。アニキに事情を説明して「パックマンもどき」で勘弁してもらうことにしたのだが、パックマンもどきもそうカンタンにはいかない。どうにかカタチになったところで、アニキがプレイ。ナムコの原作とは比較にならない低クオリティの画面にやや不機嫌。こちらはいつエラーが出て止まるかわからないので後ろで冷や汗。パックマンがドットを全部食べた…が、ステージのクリア判定ロジックがおかしいせいで次の面にいかない…モンスターにやられてゲームオーバー。「なんでクリアじゃねえんだよ、全部食ったじゃねえか」とキーをぶっ叩くアニキ、縮み上がるわたし…と、まあ、話は尽きないのでこの辺にしておくが、わたしが今日あるのは、この不良のアニキのおかげといっていい。黎明期にWEBの仕事に携わる機会(博報堂が1995年に実験的につくった組織「博報堂電脳体」に参画)に恵まれたのも、あの修羅場で身につけたプログラムの知識があったからだ(笑)。その後、アニキはマイコンにいつの間にか飽きて、その機械はわたしが拝借したままになった。たぶんまだ実家にあるんじゃないかな…もう捨てられたか。わたしとコンピューターの出会い、かっこよく語れば「YMO~シンセサイザー~自動演奏」という線だが、もうひとつ「不良~インベーダーゲーム~カツアゲ」との輻輳がそこにはあった、という一席。