少し 幼い頃の父との思い出を書いてみます。ですので ご興味ない方は
読み飛ばしてください。
私は(兄妹はかも?)幼き頃 あまり父に遊んでもらった記憶がございません。
ただ覚えているのが 数少ない思い出になるのですが 数回父と二人で出かけた記憶は
ございます。当時 幼稚園児ぐらいだったと思うので 「パパ」とまだ呼んでいたような。。
そしてそのパパとのお出かけはめちゃくちゃ嬉しかった。確か大阪の弁天町にあった
交通博物館に連れて行ってもらい 当時国鉄だった切符の買い方や 料金表の見方など
教えてもらいました。あと 京阪電車に乗ってどこか連れて行ってもらったかな?
その程度です。それから私は父に何か物を買ってもらったり「買ってくれ」と
いった事もありません。と書くと 長年の父のファンの方からは 昔の本に
「息子がバイクを買ってくれと言って来て 取っ組み合いのケンカとなり 心臓が・・・」
なんてあったよね?と思われるかもしれませんが 父が生きている時に
「あれちゃうやん!そもそも一度も なんか買ってくれなんていったこともないし
そういう物を買ってくれそうもない人にいうわけないだろ?あれは バイクを自分で
買うけど良いか?って反対され 諦めた事は確かにあって
あの心臓バクバクは ・・・・・の理由やん」 って 文句いった時の
父の 気まずそうな顔は忘れられません。
ちなみに 気になるかもしれませんが・・・・の理由は
めちゃめちゃつまらなく 恥ずかしい理由でございますので
そこは父の名誉のため書きませんが。。(笑) 改竄か?とも思いましたが
あの父の性格からすると そういう事はないと思うので 記憶違いかな?
(それもあり得ませんけどね)ちなみに死んだら
私の名誉挽回のためいつか書いてやろうと思ってました。(笑)
買ってもらっていたもので そういえば唯一 雑誌の「小学x年生」という雑誌を
毎月 我々兄妹に買って来てくれてました。それが毎月楽しみで その時は
父を玄関で待っていたものです。
しかしながら 巻末の懸賞の期間が終わっていたり あるはずの付録が無かったりと
大きくなるにつれ「何か変だぞ?」と思い母に聞いたら どうやら毎月1月遅れの
売れ残りの雑誌を知り合いの本屋さんで 安く譲ってもらっていたようです。
これも父らしいなぁーと思う話です。
父の父(私の祖父)の話は 遺言シリーズで書いてましたが 父も祖父から父らしい事を
してもらっていない(目が悪くてできなかった)のではないかと思います。
なので我々兄妹の扱いにどうしたらいいのかわからなかったのと、母方の祖父母と
同居してまして、私はおばあちゃん子だったので祖母に私との時間を取られていく内に、
それが当たり前になってしまったのかと思います。
今考えると 少し可哀相だなとも思います。
そんな父が目指す父親像だったのかはわかりませんが あの漫画など読まないような父が
唯一読んでいたのが 「巨人の星」でした。なのであのスパルタな 星一徹を
目指していたのでは?なんて思う話を書いてみます。
父の趣味ってほとんどありません。後半は皆さまに このような会を通し 自分の考えを
お伝えすることが趣味みたいな感じでしたし 若い頃はクイズ番組に出まくり
あらゆるところでチャンピオンになり 実はそういう功績から
「第一回アメリカ横断ウルトラクイズ」にも招待され出てます。ただ正統派のクイズ王で
あった父は あの罰ゲームなどを交えた構成が好きではなく途中問題が間違っていたとかで
抗議して わざと負けて シャチにキスをされるところで帰ってきてますけどね。
その他の趣味は 昔住んでた 家の斜め前の荒れた土地を借りて80坪ほどあった雑草だらけの
土地を ツルハシやシャベルなどを使って一人で 耕し 畑にし 家族に自家製の野菜を
作る事ぐらいです。
さて前置きが長くなりましたが ここからなのですが 我が家の小さい頃からの
ルールなんですが 食事に出された物は 一旦 箸をつけた物は 死んでも食って飲み込め!と
いうのが父のルールでして さすが貧乏な時代を乗り越えてきた人だと思われるでしょうが
ある日 母が作ってくれた ちらし寿司を食べておりましたら 奥歯で突然ガリっという
音とともに 強烈なにおいが口中でしたのです。それはいわゆる カメムシとか クサ虫とか
を触った時の臭い匂いです。もちろん人間 そういった場合 咄嗟に吐き出しますよね?
でも その時 間髪入れずに言った 父のスパルタと思える一言
「吐くなぁーーーー」 です。
もう私は 泣きじゃくりながら だって無理やぁーって(笑)
原因は 父が畑で取ってきた野菜に クサ虫(テントウムシみたいな茶色の物)がちらし寿司に
乗り移ったのは間違いございません。。。
さて 何故 我が家のルールに 「箸を付けた物は死んでも食って飲み込め!」なのか
普通 躾なら「出された物は食え」ですよね。
これは 父の食べ物の好き嫌いが・・・嫌いな物は 逆に言えば 箸を付けなければ・・
なのです。 死人に口無し なので 父は反論できませんが 本当の話です。(笑)
これぐらいかな?父との 小さい頃の思い出は。。。
私は 端から見ると 医者にならなかったバカ息子です。ただ父も 医者になれとは
一言もいいませんでしたし 何かしら贅沢をさせてもらうとか 医者の息子らしく
小遣いを一杯もらっていたとかはありません。むしろ今 サラリーマンの私の息子の
方が 高校生から 私立に行かせてますし 大学も私立 まぁ父の頭を引き継いでいるのか
優秀な高校と大学行って ちゃんと勉強はしているので そこはバカ息子の私とは違いますけど
私なんか 高校受験で 滑り止めの私立を受ける事すらダメ 高校は公立1校のみ受験
落ちたら 中学出のお前が役にたつであろう自衛隊に入隊しろ!ですからね。
私は 高校1年生の時から 夕刊ですが新聞配達してまして 今みたいにバイトが当たり前の
時代ではない 当時の高校生にしたら お金を持っており 母との折り合いが悪く
父の許しを得て 高校3年生から 自宅を出て一人暮らしをしております。
(家賃1万少しの 共同便所 風呂という感じのところです。)
と 17年間しか 父と住んでないのです。なので これ以上 小さな頃の思い出って
ないのです。
最後にこの話は 父の部屋に大量にありました 原稿用紙をもらって
きてまして 下書きとして それに万年筆で書いてます。
しかしながら 父の部屋の残った遺品整理をしてると 思うのが ほんと贅沢とは
無縁の人だなぁーと思います。ちなみに 形見の万年筆で。。。なんて 感動的な話ですが
父の部屋には そんな高価な物もなく 100円ぐらいのボールペンが山のようにあり
メーカー物の文房具なんぞ 皆無でした。
なので残念ながら 万年筆は 形見ではなく 私が自分で買った物です。
IT屋の私は 普段紙に書く事があまりなく 結構面白いなと思います。
今回 父の死を皆様にお伝えしようと お葬式の当日の夜に 父と心の中で
会話し書いた話も 我ながらというか 家族には好評なので ちょっと今回も調子に
乗って今回もつまらない物を長々と書かせていただきました。
と 長文のお付き合いありがとうございました。