goo blog サービス終了のお知らせ 

横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

非英雄論・別巻●理解の方程式

2008-08-09 12:13:13 | Weblog

7417 6j
理解の方程式

 理解には、方程式というものがあるのではないか、と考えて、その方程式を編み出した男がいる。国語学ではつとに有名な、時枝誠記博士である。

 上の画像にある図式がそれで、時枝は「言語の過程」と称している。名称こそ難しいが、なんていうことはない。たとえば、帝国大の教室で教授が黒板に書いた「花」という言葉を東大の生徒が「花」とノートに書き写すことをもって、「理解」といっているだけのことだ。

 私の眼に限らず、誰が見てもチンケと思われることが今でも主流となっているから、呆れる。時代錯誤もはなはだしい。何が国語学の伝統か。笑わかすな。

 考えてみるに、私たち日本人は「学ぶ」ことは「真似る」こととして、その精神を叩き込まれてきたわけです。
 言い換えると、俺が口にした「花」という言葉は、勝手に他の言葉に置き換えるな。そのままを聞き取れ、と学校は教室で生徒に強要してきたわけです。
 そのことに対して、異議申し立てが行われず、当たり前のように今日まで引き継がれてきているわけです。

 学習方法が「真似る」の一念しかないから、お隣の韓国をはじめ、アジア諸国、そして欧米からも、猿真似しかできない民族と笑われているわけです。
 そういう伝統のあつたところに、時枝が「理解の方程式」で理論固めしてしまったから、国語学の袋小路化がはじまったといっても、決して過言ではない。

 これは徹底して叩き壊してはじめて、初めて日本人は目覚めるのであろうか。
 ならば、お見せしましょう。

 たとえば、この記事に目を通されている方のそばで家から煙が出ていて、第一発見者が「火事だっ」と叫んだとします。そのとき、あなたはどうします。教室にいる生徒さながらに、「ぼくは《火事だつ》という言葉を聞いたから、理解者」と思いますか。

 誰だっておかしいと思うはずです。人はその言葉を単なる言葉として聞くのではなく、感動し、行動を起こさせるから、火消しに走ったりするわけでしよう。

 では、「火事だっ」と叫び、その言葉を聞いた現場を抽象化し、図式化すると、時枝の作ったような《理解の方程式》に辿り着くのではないか、という疑義が提出されてもおかしくない。

 今、検討してみて、図式そのものは間違っていないことに気付いた。何が狂っているのか。
 時枝の思想を活性化すれば、すごい国語学説が誕生できたであろうに、不活性化したまま今日まで来たことが、弊害を生んでいるのである。

 時枝の提示した理解とは、遂行過程の俗性を受容過程の聖性が包み込むことを言う。これは時枝の思想を研究してみると、やがては誰しもが到達する結論だと思っている。

 今日本を蔽っている、知の状況とはAをAと理解すればいい、という一種要領のいい人間で埋め尽くされているということだ。

 言い換えると、遂行過程の俗性を受容過程の俗性として引き継いできたということだ。


7420 5j

理解という、トリプルスタンダードの問題

前の記事を整理すると、次のような三種になる。

1 伝えたい情報Aを機械的にAと受け取る理解法。 俗なる受容過程
2 伝えたい情報Aを包み込むように、A+アルファとする理解法。 聖なる受容過程
3 伝えたい情報AをジャンプしてBと受け取る理解法。 逸脱的な受容過程

註)通常は「理解」ということを、時枝の専門用語を使えば、「受容過程」と表される。

註)「聖なる受容過程」とは、詞辞説にあるような、客体的な表現を主体的な表現が包み込む関係を言う。つまり、遂行過程の客体的な表現を受容過程において主体的な表現が包み込むことをいう。
 この関係をわかりやすくするために、俗なる遂行過程を聖なる受容家庭が包み込んでいると、書き換えている。詞辞説も俗なる言葉を聖なる言葉によって包み込まれていると、同じように書き換えることができる。

 つまりも三通りの理解の方法があるということだが、その特徴をそれぞれに挙げてみる。

1 棒暗記や棒書きを要する学習に適した理解法である。命令系統。翻訳。能吏。
2 学校の関係者等に求められる理解法。やさしい教師や上司。
3 創造的な仕事に従事する者に求められる理解法。詩人や画家など。

 このように書いてみると、学校という現場では、三通りの理解法があることを前提に授業を行っている。

1は、どの教科にも求められるもので、暗記的な理解法。
2は、倫理の時間などで求められる、やさしい理解法。
3は、作文や図画工作の時間に求められるが、リアルさを求める学校もある。 

 最後に何が問題なのか。

 この点をふたつに絞って書く。

一つ この授業は、いかなる理解法が有効かについて論議のないまま、国からの指示でカリキュラムの消化が優先されているのではないかという問題。
二つ この問題を特に強調しておく。国の定める理解法とは、時枝の示した俗なる遂行過程を下敷きにしている。ということは、詩人をはじめ、やさしい教師や上司は、みな、国の基準によると、アウトサイダーとして位置づけられているということです。

理解とは、何か?

 私にとって理解とは、至難の業です。神業に等しい、椿事と考えているわけですが、不思議なことに、マジョリティの日本人は、理解はたやすいことと認識している。
 この彼我の違いを明白にしておかないと、この議論は始まりません。

 私が言いたいのは、こういうことだ。

A 何もわかっていないのに、わかっていると思い込んでいる。
B  そして、わからないことに対しては、口を閉ざす傾向にある。

 そもそも日本人は、何をもってわかったといっているのか?

 たとえば、誰かが「花」と言った。その花という言葉をそばにいた誰かが聞きとめれば、それが「理解した」ということになるのか。

 私の眼から見ると、なんとプリミティブな「理解」の方法と思っちゃうのですが、マジョリティの日本人はこれを「理解」と読んでいるようですね。

 で、私はどうかというと、マジョリティの日本人の「理解」が障害になって、「変人扱い」にされ、締め出されてきた、ということが見えてきたわけです。
 どこに身を置いても、そうだった。

 では、私のいう「理解」とは、どういうものなのか?

 AをAとして理解するのではなく、AをBと置き換えることによって、理解の鳥羽口に立てると考えています。

 たとえば、誰かが「花」と言えば、おおっ、彼は感動しているのだなと思って、恋人といるなどして彼は幸福の境遇にあるんだなと思って、その「花(A)」という言葉は、「感動を表した言葉(B)」と受け取ります。

 つまり、AがBと転換することによって、私ははじめて「理解」と呼んでいるのです。
 言い換えると、「花」という言葉に対して、越えることを相手に対して要求しているわけです。
 私は確かに「花」という言葉を口にしたが、お前はその言葉を二度と口にしてはいけない。別の言葉に置き換えることができたとき、真の理解には達していないかもしれないが、物分りのいい人間になったと褒めてやります。

 


さいたま・カンニング高3男子自殺裁判●カンニングのどこが悪いのか?

2008-08-08 09:45:13 | Weblog

緊急提言●テストは、オールカンニングを許可せよ

文化とは、大脳への記憶の負荷を解くことにより発達しています。

 文字のない時代は、神話や長篇叙事詩などを世代から世代へと語り継ぐために、大脳にデータを”保存”していたわけですが、文字の発明ならびに紙の発明、それらの相次ぐ利用で、わが国では初の古文書「記紀」が誕生しました。

 文字のない時代では、到底考えられないことが起きたのです。大脳に蓄えていた大切なデータを紙の上に”保存”できたのですから。

 この効果は、大事なデータを大脳から削除して、別のことに使う道を切り開いたことです。
 そして、データが必要になったときは、想起ではなく、ペーパーの上の文字を目で追い、必要な箇所を抜き出せばいいのです。

 これは何かというと、わが国で起きた最初の”カンニング”です。
 カンニングが可能になったからこそ、大脳は忘れるコツを習得したのです。

 印刷機やコピー機やパソコンの発明や利用の意味するところは、大脳はデータの保存場所ではなく、”忘れよ”であり、”空にせよ”ということではないでしょうか。

 少なくとも、時代の流れは、天才的な記憶術を必要としなくなったことです。
 
 では、学生の大脳を棒暗記という記憶の負荷から解放して、”空”と化した場所に何を詰め込むべきか、と心配する方が多いと思われますが、そういう機能を大脳に求めることがすでに時代錯誤ということです。

今求められている教育は、保存されたデータを活用して、一歩先を行く知性を養うことだと思っています。

ですから、今の時代に必要な教育理念とは、”忘れよ”と”カンニングせよ”の二つではないでしょうか?

 確か、八幡大学(現九州国際大学)付属高校の改築工事で働いていたとき、校門の横に置かれた石碑に、”学”べという言葉がないのに驚いたことがあります。
 万葉仮名で刻まれているため、読めない文字がありましたが、私は”遊べ、・・・忘れよ”と読みました。

 無論、いい学校だと思いました。


 そういうことです。

 この見方に立てば、たかがカンニングぐらいで、生徒を追い詰め、自殺に追いやることはなくなるのではないでしょうか。


 近い将来、カンニングの才を競う時代が到来するとみています。

■高3男子自殺裁判、請求棄却で母親は

 「二男が自殺したのは、教師にカンニングを疑われ執拗に追及されたからだ」。4年前の高校3年の男子生徒の自殺を巡って母親が損害賠償を求めていた裁判に判決です。さいたま地裁が下した結論に、母親は怒りを露わにしました。

 井田紀子さん。4年前、最愛の息子を亡くしました。

 「『どういう結果になるか分からないけれど見守っていてね』っていうことで報告しましたけれども」(井田紀子さん)

 井田さんは今も、将紀君から届いた最後のメールを大事にとっています。

 「『ごめんね』なんて謝ることでも何でもないのに、(メールを)消すことはありませんが、なかなか見られないです」(井田紀子さん)

 正紀君は4年前の5月、県立所沢高校の中間テストでカンニングを疑われました。物理の試験中に消しゴムに巻いた日本史のメモを見ていたためでした。

 「カンニングはしていない」。そう主張しましたが、教師5人からおよそ2時間にわたって事情を聞かれました。そして、夕方、母・紀子さんにメールを送信後、飛び降り自殺しました。

 紀子さんは、将紀君の死が教師の執拗な追及で精神的に追い詰められたためとして、県を相手に8000万円の損害賠償を求める裁判を起こしました。

 「追い詰めたものがあったんですよね。やはりそれが何だかってことがちゃんとはっきりさせたいな、と思っています」(井田紀子さん)

 裁判所の判決は、「原告の訴えを棄却する」でした。理由としてさいたま地裁は、「教師による事実確認は、適切・慎重に行われたもので、違法だと言うことはできない」と指摘しました。

 「やっぱり子供が結果、死んだ指導っていうのは、正しいとは言えないと思っております」(井田紀子さん〔判決後の会見〕)
 (30日18:10)

[080730日19時16分更新]TBSnews


非英雄論13-7■続・秋田連続児童殺人事件■彩香ちゃん殺害以後

2008-08-08 07:35:51 | Weblog
豪憲君殺害■「恐怖の意識」と三通りの殺害説


下は、彩香ちゃん殺害後の事件経過と鈴香被告の足取り。

事件当日の4月9日 畠山鈴香容疑者が能代署に彩香ちゃんの捜索願を出す。
4月10日 藤琴川で彩香ちゃんの遺体が発見される。
4月11日 能代署「彩香ちゃんの死因は水死。事故の可能性が高い」と発表。
4月13日 彩香ちゃんを火葬。このとき、父親と目線が合うのを嫌う。(恐怖の回避?)
このころ、精神科に入院。
4月19日 朝日テレビの局の人と会う。(がっかり)
下旬ころから鈴香容疑者が彩香ちゃんの情報提供を求めるビラを配りはじめる。(淡い期待)
5月3日 警察の対応を不満に思い、署内で暴れる。帰り際に署の壁を蹴る。(怒り)
5月8日 テレビ局の人と会い、放映できないと告げられる。(決定的な落胆)
5月10日ごろ、子供の誘拐について考えを巡らす。魔力は、防犯スプレー?よその子供の子捨て願望に取り付かれる?(甘美な物思いに耽る?)
5月14日 雨天のため、開発センターで開かれた藤里小学校の運動会に出席。(哀しみで胸を撃たれる)
このころ、子供を誘拐しょうとして、車で探す。
5月17日 米山豪憲君を殺害。
5月18日 豪憲君が絞殺体で発見される。
このころからメディア各社が鈴香容疑者宅に押し寄せる。
6月4日 鈴香容疑者が豪憲君死体遺棄容疑で逮捕される。
(上の足取りは、『MEPHIST』秋田・裁判6・A を参考。
http://shadow99.blog116.fc2.com/blog-entry-194.html)
他に、『真実の臨界点』
http://web.chokugen.jp/kuroki/2006/07/post_1d49.html)

()内に、そのときの感情を書き込みましたが、なぜか恐怖体験がありません。これは豪憲君殺害にいたる前駆症状としての恐怖に対する感受性のマヒ症状かなと思っています。
 裏を返せば、被告は豪憲君を殺害するまで恐怖と一体化していたことになります。

 次の引用にありますように、その一体感が豪憲君の死体遺棄の直前に、突然、崩れます。

鈴香被告 「豪憲君が息を吹き返して、『どうしてこんなことをするの』と問い詰めてくると思って、とても怖かった」
弁護側 「遺棄の現場では?」
鈴香被告 「早くしなきゃ。早くこの場から立ち去りたい、という気持ちでいっぱいだった」
(『MEPHIST』「秋田裁判6・A・8/18P 」
http://shadow99.blog116.fc2.com/blog-entry-194.html)

 こういうことから、鈴香被告がその間異常な心理状態にあるとすれば、恐怖意識の抑圧が強く関係しているということがいえると思います。
 宮崎勤はホラーテープを車の中で聞いても全然平気だったという、友人の証言もあり、両者のこの暗合は、何らかの繋がりがあるとみていいのではないでしょうか。
 そして、豪憲君殺害直前の心理状態の鈴香被告の証言(感情の爆発)は、宮崎(今田勇子)のそれとよく似ています。

鈴香被告 「彩香はいないのに、なんで豪憲君はこんなに元気なんだろうと」
弁護側「 それからどう思った?」
鈴香被告 「切なくて…うらやましいというのと…」

《ここで鈴香被告は約30秒間、絶句した》

鈴香被告 「…憎たらしいという気持ち。うらやましい、ねたましい、そういう気持ちの張り裂けそうな気持ちになった」(同上)

■すると、誰も来そウにないという気が集中して、異様な程に、胸が高まってくると、なぜかモヤモヤしてきました。そして、子供を産むことが出来ないくせに、こうして目の前に自由な子ガイルといウ、自分にとっての不自然さが突如としてぶり返し、「このまま真理ちゃんを家に帰しては……」といウ思いのよぎりと、「今なら誰も見ていない」といウ思いのよぎりガ交差し合い、モヤモヤした、とめどもない高なりガ一気に爆発し、目の前の水を武器に、私は、真理ちゃんの髪の毛をつかみ、顔を川へ沈め、決して自分ガ、いいといウまで、頭を水面から上げさせませんでした。……
(『犯罪文章学』の「犯行声明」)
http://www.asahi-net.or.jp/~gr4t-yhr/imada.htm

 見られますように、似ています。このことから、人はあやめる直前の異常な心理状態とは、「感情の爆発」を意味し、これに「恐怖意識の抑圧」が関係していると考えています。
 言い換えますと、精神科医の土居健郎の言葉にある、「オモテがウラを守らずに、却ってウラがオモテに侵入する」(オモテとウラの精神病理)という説を裏付けるものとなっています。
 この場合、オモテを「恐怖の意識」、ウラを「甘え(ないしは、感情)」と置き換えてもなんら支障がないと思っています。

註:土居の「オモテとウラの精神病理」について、もっと知りたい思った方は、『ポルソナーレの「日常マナーとコミュニケーション」』へ。用語について丁寧な解説があるなど、好感度抜群のHPです。
http://www.melma.com/backnumber_134803_3184356/

次は、考えられる三通りの殺害説●

Ⅰスランプ型殺害説(2次元的)
Ⅱアイデンテイテイ型殺害(3次元的)
Ⅲ宮崎勤型殺害説(4次元的)

Ⅰ説は、いくら努力(ビラを貼る行為)しても手応えがないことから、反動でスランプに陥り、本来ならば、鬱症を発症するところ、ぐれてやるぐれてやるの一念で、反社会的な人格者を造成して、路上デビューする通り魔型の殺害説。一般に、検察側の用意する2次元的殺害論です。

Ⅱ説は、自己と似て非なる他者というように、アイデンテイテイの取り違えや身代わりから起きる殺害事件です。この事件では、彩香ちゃんと似て非なる豪憲君というように、わが子の身代わりとして故意(無意識的誘導的)に引き起こされた事件と見ています。
 (わが子を失ったという)PTSDを回復する手段としてアイデンテイテイ殺人事件が引き起こされたという見方が成立することから、一般的に弁護側が採用する三次元的な(治癒目的の人間の人間による)殺害説と捉えています。

Ⅲ説は、願望がかなえられる世界と信じていた社会がそうでないと知ったとき、それまで逃げていた恐怖に満ちた彩香ちゃんのいる世界へ逃げ込むことが考えられます。そこで恐怖と一体化して、魔力を身につけ、挫折した社会へ報復を考えます。その際、不合理な幽明界を股にかけたような空間移動が前提になります。一般的に、精神異常者や少年犯罪者を刑法適用から保護する際の論理として利用されています。

 以上のように書いてみて、どの説が正しいかということは、言えないと思います。しかし、他の2説を粗略に扱ってのこれまでの検事側のやり方は、事件の真相を闇に葬るものといえ、好ましからざる重篤の結果を今日に招いていたと考えています。
 一方で、背景に精神医学の不信といいますか、そういう精神科学的な問題が横たわっていると思います。
 フロイトなどの精神分析が導入する以前は、誰が精神の病を治していたかというと、いわゆる魔女であり、巫女です。
 現代は、当の魔女ですら、人間が見えなくなくなっている異常事態が起きているといえるのではないでしょうか。


 こういう今日的な問題に対してどこから手を付けるべきか、というと、一つは認識の問題が挙げられると思います。
 私たちの目に見えているものは、真実を反映しているかどうか、という問題です。

 この点に関しては、私は非常に懐疑的な立場に身を置いていますが、もし認識のメカニズムなるものがあれば、真っ先にそれを明らかにするのが科学者というものではないでしょうか。



発信と受信のメカニズム■努力などの人間や神に向けられた発信行為について、最初にメカニズムに着目して、《理解の数式》なるものを考え出した人物がおります。国語学者の時枝誠記です。・・・

(書きかけ)

非英雄論13-6■続・秋田連続児童殺人事件■宮崎事件の真犯人は、「キ奴の手」?

2008-08-07 07:06:51 | Weblog
「母親物語」、違いは、虚実であるか?●今田勇子似の畠山鈴香被告


 いま少し、宮崎について書くことのお許しを!

 独身にして男、さらに、女性とのあの経験が皆無の宮崎勤にわが子などいるはずがありません。そんな関係から手紙に盛り込まれた、わが子を失った母親物語は、まるで作り話という見方が定着してしまいました。
 仮に、そうだとしても宮崎の創作した母親物語を踏襲したような殺人事件が20年位の歳月を経て、秋田の僻地で現実に起きたわけです。
 通常は、こういうことが起きると、ドストエフスキーの『貧しい人々』のように、当時の時代を反映した出色の文学作品とかの理由を付けるなどして、「母親物語」に対して惜しみない称賛を送ってもおかしくないケースです。
 こういう点に関しては、日本人は徹頭徹尾ケチな民族ですから誰も言い出しませんが、アメリカのメデイアがこの件を知れば、即大ニュースでしょう。
(獄中の身とはいえ、宮崎は時の人として一躍クローズアップされたはず。アメリカにいれば・・・)


 いずれにしろ私たちに残された課題とは、なぜ現実に起きたかと問題化することであり、その徹底分析ではないでしょうか?
 この地道な努力を欠いて、防犯をと叫んだところで、何の意味がありましょうか?

 そのための拙考の試みと目的を限らずに、私自身の興味ごころを満たすためにも書いています。

 実を言うと、この問題に関しては、20年も前に「手が照らすMの暗域」と題した小論文(雑文)で、答えを出しています。コアは「手」は「所有欲」を表わすといったもので、文章の書き方は今でも下手ですが、この関係からか、黙殺されちゃいました。
 私は私で、これがきっかけで自分の場合は格段の環境整備が求められているのかなと反省しまして、拙論の基盤整備といいますか、一にも二にも「道」が大事だと思って、村の和尚のように竹箒を両手にもってですね、きれいに掃き清めながらのろのろの筆を運んでいます。
 これさえやっておけば、後は何とかなると思っています。ですが、読まれてのとおり、力不足は否めません。

 で、ここで書きたいと思っていることは、当時、思いついた「手」の意味と、後から思いついた「子母関係」をワンセットにした新・宮崎論です。

 まず絵画表現における「手」の持つ象徴的な意味は、前記のとおり、「所有欲」だと考えています。中には、オウム真理教の信者の子の描く「手」が八手みたいだから、それは「自由への渇望」と言った評論家がおりましたが、バカも休み休みに言えといいたくなりました。「自由」は長い足によって表現されます。
 今、名前が思い出せずにおりますが、ひとりの裸婦を中心においてその下に無数の手を描いている作品がありました(ゴッホ?)。ですから、その絵が発信しているメッセは、「お前の美しいその体がオレは欲しい。なんとしてでもオレは欲しい・・・」であり、(ゴッホならではの)地響きを伴った・なんとも浅ましいまでの・明々白々の男の欲望表現は難なく伝わってきます。

 こういうことから、ある識者から「年寄りくさい」と悪く書かれた宮崎のビデオのマニアックなコレクトは、実は、宮崎の「手」に関係するのではないかと見当を付けました。
 宮崎の手は、もうご存知のように、茶碗を持つのに糸切りに掌が回せないという障害を持っています。
 物をもらうのに、両の掌をそろえることができませんから、所有欲を満たそうと思えば、勢いしっかりと握り締める必要があるわけです。
 ですから、ここからは異常に《握り締める》欲望構造が見えてきたとしてもおかしくはありません。

 もうお気づきかと思われますが、私たちは宮崎はビデオを集めるのが趣味だから、セレブのお坊ちゃまゆえの財力に物を言わせて、6000本もの数のビデオを集めたと受け取ってしまいがちですが、そうではなく、障害のある手が「欲しい」というから、宮崎本人が買い与えたという解釈も成立するはずです。

 この関係が宮崎において成立するならば、それは宮崎の中における共依存の関係です。

 この共依存の関係こそ、子が母親をリードする子母関係ではないかと思っています。

■共依存(きょういそん、きょういぞん)とは、相手との関係性に過剰に依存し、その人間関係に囚われている状態を指す。一般的に、共依存者は自己愛・自尊心が低いため、相手から依存されることに対し、無意識に存在価値を見出し共依存関係を形成することが多い。(wikipedeia「共依存」)

概要■共依存という言葉は、学術的用語でなく、明確な定義はない。当初の定義としては、アルコール依存症患者を世話する家族が、結果として、依存症の回復を遅らせている現象を指した。この状況では、アルコール依存症患者が家族に依存するため、自立する機会を失い、家族もまたアルコール依存症患者の世話をすることに自らの生きがいを見出し、悪循環を生み出していると説明される。
現在では、単にアルコール依存症患者との関係だけでなく、「ある人間関係に囚われ、逃れられない状態にある者」としての定義が受け入れられている。例えば、暴力を振るう夫とそれに耐える妻の関係、支配的な親と愛情を受けたい子供の関係、相手から愛されることが目的となっている恋愛関係などがある。(同上)
 上にあるような、あいまいな定義にたいして、「アルコール依存症患者」を「病的主体」とし、患者を世話をする「妻や母親」などを「病的準体」(一般的には、「受動的従体」)と呼びたいと思っています。
 というのは、そのように定義を行うと、たとえば、解離性人格の疑いのある犯人を分析して、「犯行主体」と「犯行準体」という概念で、共依存関係にある複数の別人格の診断に役立つと考えられるからです。

 たとえば、宮崎の犯した幼女誘拐並びに殺害、さらに、遺体損壊は、宮崎本人の欲望を満たすためというよりは、わが子なる「手」の三重の欲望を満たすための犯行と考えられるわけです。
 三重の欲望、言い換えますと、底なしの欲望を貫く、非人間的な・快楽的なものこそ「手」ではないかと。

 一方で、公判における宮崎の何を話しかけても魚の面に水式の受信性の不在を捉えて、「主体性の欠如」といったのは、確か、芹沢俊介だったと思っていますが、その責を帰すべき犯行主体でないことからくる、ある種の自信の裏付けから生じていたのでは?


(宮崎勤の起こした事件は、どれもこれも解読記号《子(ネ)に始まる》犯罪です) 

非英雄論13-5■続・秋田連続児童殺人事件■彩香ちゃん殺害以後

2008-08-06 08:41:39 | Weblog
今田勇子似の畠山鈴香被告●わが子を失った「不幸な母親」役


「今田勇子」とは、連続幼女殺人鬼の宮崎勤が逮捕されるまでの間に朝日新聞本社などに「犯行声明」と「告白文」なる手紙を立て続けに送り付けた際の差出人の名前です。
 下に引用を行いましたが、不幸な母親を演じる点で、今田勇子と畠山鈴香被告は似ていると思いました。

「では、どうして真理ちゃんをあやめたかについて告白をいたします。
 私は、私の不注意からなる不慮の事故で、5才になる、たったひとりの子供を亡くしてしまいました。高齢と切開の事情で、今まで目の前にいたその子供を見ると、むしょうに、手が届かなくなる圧迫感にかられました。無念の一語で、子供をふとんに寝かせたままその日が過ぎ、頭の中もぼやけてきました。何を思ってか、砂糖湯だとか、湯たんぽを買いに行くは(ママ)、なぜか、看病のことしか頭になく、それでも、いつの間にか、防腐剤まで買ってきてしまいました。どうしても可哀そうだという思いしかなく,誰に知らせることもなく二日がたってしまいました。もう人に言えない」(「告白文」)

 見られますように、「不慮の事故で、たったひとりの子供を亡くし」た「不幸の母親」とは、初動捜査で手抜きをした警察の用意してくれた、おあつらえ向きの母親役だったのですが、なぜか鈴香被告はこれを書き換え、事件でわが子を失った「不幸な母親」役を演じます。
 犯人探しのポスターまで作り、多分、電信柱に貼り付けたことでしょう。

(ここで突然、電信柱男が乱入。ポスターをべたべた貼られてさぞや気持ちがわるかったろうって?ンなもん平気。なぜって、超人的な忍耐力がおいらの取り柄なんだもん。フン)

 このように両者は酷似しているわけですが、「犯人探し」を試しにテーマとして絞り込みますと、両者の違いがくっきりと浮かび上がります。つまり、宮崎は「犯人は、オレオレ」と自己顕示欲をむき出しにしているのに対し、鈴香被告の方は、「犯人は自分ではなく、別にいる」と、誰が見ても胡散臭いメッセを発信していたことになります。

 そういう違いがあげられる一方で、共通点は、わが子のいる死後の世界とつながった自分と、社会的な関係といいますか、社会に対して関係を築こうとしている自分というように、この点で非常に似ているといえるのではないでしょうか。

 「死後の世界」とは、誰にとっても恐怖に満ちた世界であります。これに対し、社会の方は、社会的弱者にとっては現実法則に縛られる厳しい世界ですが、多くの中産階級にとっては消費社会を生きているような、いろんな願望に満ち溢れ、同時に、実現可能な別世界であります。

 ここで難しい言い方をしますと、根源的な両価感情と言われている「恐怖」と「願望(甘え)」の二つの世界に股をかけたようなあり方が見えてくると思います。
 つまり、鈴香被告は、死後の世界を恐れて、社会の方に甘えだしているわけです。他方の宮崎は、もはや社会は甘えられる世界ではなく、怖い場所と化していて、「怖くないぞ」と虚勢を張っているわけです。
 ここで疑問が生じます。

 宮崎の甘えられる場所とは、どこか?

 それは、書くまでもなく、死後の世界です。宮崎にとってそこが甘美な世界なのです。
 一般論として言えば、快楽殺人とは、週末というご褒美の「余暇」との関連で語られます。殺すことが直ちに「快楽」を意味するのではありません。
 これは、従来の論とは別に、私が導き出したオリジナルの答えということで、誠に勝手ながら切り上げます。

註:「今から墓石をどかして骨を出すわけにはゆかないのです。私の子の骨が混じっているにせよ、真理ちゃんの骨も混じっている。誰も警察を非難しません。真理ちゃんの骨が本当に入っているからです。誰もとがめません。墓に眠っている子供には、誰一人、手を出しません。眠りをさます権利は誰にもないからです。
 ・・・眠っている霊をいじくらないで下さい。子供は、すぐにおきてしまいます。ですので、お願いです」(同上)
(見られますように、意味不明の言葉が続くわけですが、それでもお墓をスイート・ホームとしている感じは伝わってきます)

 ここで付け加えたいことは、彩香ちゃん殺害以後、それまでの父親との依存関係が切れていることです。
 言い換えますと、父親との関係が、「社会」と書き換えられていることです。

 ですから、それが非英雄の基本路線を生きらざるを得なかった者の、哀しい自己確立法なのかな思えてなりません。ア~メン。

非英雄論13-4■続・秋田連続児童殺人事件■犯行主体は、巫女?

2008-08-05 08:52:30 | Weblog
4次元的殺人論●子が母親をリードして、事件現場の橋へ


私は検察側の用意した「明白な殺意を持って、殺害に及んだ」とする2次元論的な殺害説を否定します。

 この理由は、女性犯罪の特徴は、目的の遂行に当たって、男性のように能動的主体的な関与を忌避し、受動的従体にとどまろうとするからです。

「受動的従体」に留まったまま、目的を完遂するひとつ方法は、祈祷を行って「奇跡」や「願望」を実現させることです。
 ですから、この意味では、鈴香被告における犯行主体は、「巫女」ではないかと推測しています。

事件当日の4月9日、彩香ちゃんが「サクラマスを見たい」と言い出したので、その願いを聞き入れて、藤琴川の橋の上まできます。
 被告はその際、受動的従体に留まろうとしますから、彩香ちゃんのリードに任せていたと思います。
 言い換えますと、子が母親をリードして事件現場まで来ているわけです。
 このリードは、車から下車し、橋の欄干の上に登るまで続いたと考えられます。

 この後は、欄干の上にいる彩香ちゃんを支えている手を緩めるだけでいいのですが、このときハンパではない内的な不可抗力の力が妨害したため、超人的な出力を引き出す必要から全身に力が入り、その反動で、尻餅を付いたことが考えられます。

(■弁護側 「振り払った後あなたは?」
鈴香被告 「尻もちを付いていた」
弁護側 「立っていたことはない?」
鈴香被告 「…わからない」
弁護側 「落ちていくところは見たの?」
鈴香被告 「いいえ」
弁護側 「尻もちをついたのはなぜ?」
鈴香被告 「振り払ったときの反動と、自分でしてしまったことの…ことに対してビックリしたというような感じで…。腰が抜けたようになってしまった」
弁護側 「同時に2つ(の要因)が来た?」
(『MEPHIST』「裁判5・C」)
http://shadow99.blog116.fc2.com/blog-entry-189.html

 こうして「遺棄」願望に取り付かれていた鈴香被告は、何の「殺意」も抱かずに願望を満たしたことができたのですが、そこには、ひとつの誤算がありました。
 それは被告をリードしていた、中心的な分身「巫女」まで遺棄してしまったことです。
 というのは、欄干の上に登らせるまでのリード役として、彩香ちゃんと「巫女」をだぶらせていたからです。

 この直後に始まる、記憶障害は「記憶主体は誰か」という問題に置き換えられると思います。
 シンプルな言い方をすれば(元来が複雑な思考法が苦手なもんで、ハイ)、それが棄てられた「巫女」だったということです。

 ここで、検察側の追求によって想起できたのはなぜか、ということになりますが、そのときの共犯者「受動的従体(記憶準体)」がまだ記憶の片隅に生き残っていたからということになります。

以上が、鈴香被告が何の殺意も抱かずに--「受動的従体」」と想定した彩香ちゃん殺害のシュミレーションです。


下に用意したものは、「主犯は、巫女」とする覚書です。

秘密にする●検察側とのやり取りで、「イタコ」の話題を避けています。
検察側「警察のことも怖がっていた。恐山のイタコのことを話されたということだが?」
鈴香被告「『どんな手を使っても、拘期を長くしてやるとぞ』といわれた」(裁判8・A・5/18P)
 とありますように、被告は別の話題に切り替えています。

 そのあと、検察側は再び「イタコ」を話題にするわけですが、このときはなぜか、黙秘権を行使しています。

註:単純に「怖い」から「避けた」という事情も考えられます。

俗事に自らの手を使うことを嫌う●

非英雄論13-3■続・秋田児童連続殺人事件■芹沢俊介の遺棄論を援用すると

2008-08-04 05:54:15 | Weblog
「記憶喪失」と4次元的殺人論■むずかしい?

4番目の矛盾は、次の引用にあるように、鈴香被告の彩香ちゃん殺害後の「記憶喪失」に対して、「心因性健忘」と「解離性健忘」の2説に対して、鑑定人が寛容な態度を持している点に認められます。

■弁護側の質問は、鑑定書に書かれている彩香ちゃんが橋から転落したときに起きたとされる鑑定書のポイントの一つ、「健忘」のメカニズムに移っていく。

弁護側 「被告人を心因性健忘というが、これは解離性健忘と同じことか?」
鑑定人 「解離という言葉が朝青龍のときも使われ、最近流行になっているが、私は使ったことがない。大ざっばに言えば、そう考えてもらっていい」
弁護側 「心因性健忘のメカニズムは?」
鑑定人 「心因性は心のストレスで起こる。記憶は記銘(記憶の第1段階)されて保持され、想起される。記銘されたが、想起されないのが健忘といっていい」
弁護側 「なぜ発生するのか? 心的外傷、葛藤などで自己防衛が働いて発生するのか」
鑑定人 「そういうこともあるし、さまざまだ。覚えていても思いだしたくない。記憶を抑圧して思いだせないこともある」『MEPHIST』の裁判資料(12・A ・4/17P)

http://shadow99.blog116.fc2.com/blog-entry-311.html

 見られますように、専門家がオジャな態度に終始するのであれば、取って置きの持説はパソコンのなかのゴミ箱行きが始める前から見えています。
 でありますから、殺人論の基盤整備を行い、コンセンサスがもらえれば言うことはないわけですが、まずは無理。かといって、われはわれの道を行く、ということと混同しないでくださいね。
 まあ、この手続きを欠いたばかりに、何をバカなことを言ってんだ、とゴミ処理されないための方法です。

 仮に、自然死や事故死を自然的な因果関係に基づく一個の死としてこれを除くと、不自然な因果関係を持つ人間の死として、次の3タイプが考えられます。

 殺人が劇画の中のゴルゴ55なる人物もどきが”テッパン”のごとき「殺意」をもって行われる場合。これは検察側が一般的に用意する殺人論で、もともとあった不自然な因果関係がなぜか揺るぎないものに書き換えられています。(2次元的殺人論)

 殺人には、恐怖が伴うものですが、たとえば、交通事故で血まみれの礫死体を見て、犯人が逃げ出す場合。これは怖いから逃走するわけですが、犯人が人として道を踏み外した場合の殺人論です。このケースでは、ベトナム帰還兵のように、後にPTSDを患います。(3次元的殺人論)

 仮に、フツーの人が恐怖を伴わずにやれる殺人事件があるとすれば、それは彼ではなく、別人格の非彼の存在が疑われる殺人論です。このケースでは、彼の記憶は途切れます。(4次元的殺人論)

 このように区分けをして、「心因性」と「解離性」とでは、まるで次元の異なる殺人論になるのではないかということです。

註:殺害後に、容疑者が犯行時の記憶傷害に見舞われているのであれば、両者の間(容疑者と犯行主体)で、アイデンテイテイの連続性がキープできる場合、責を彼個人に帰すべき「心因性」の問題として捉えることができますが、2個の間のアイデンテイテイが不連続の場合、責を別人格者に帰すべき「解離性」の問題が浮上するとかんがえています。

 ここで、次のような殺人事件について考えることにします。

 それまでフツーの生徒と思われていた中学生のA君が授業中に「お腹が痛い」といって、女性教員から許可をもらって、教室を出て、保健所に駆け込み、それから教室に戻った時、無言のまま着席しょうとしたため、教員がA君の横着な態度をとがめたところ、彼は突然怒りをむき出しにし、女性教員を殴る蹴るの暴行を加えて殺害した場合、この事件はどの次元の殺人論として語るべきものとなりましょうか。
 その間のA君の記憶は、「鮮明」とします。


 このような事件では、一見したところ、フツーのA君の仕業でないことから、別人格の犯行が疑われ、4次元の殺人論としての取り扱いができそうですが、その間の犯行時の記憶が鮮明であることから、4次元的な殺人事件ではないという見方が成立すると思います。
 次に、殺害後、PTSDによって彼が苦しむようでしたら、3次元的な事件の可能性が出てきますが、それもないとすれば、残る2次元的な(反社会的な人格者による確信犯的な)殺人論としての取り扱い送りです。

 この2次元的な殺人事件という見方に立って、強引な解釈を行いますと、A君は保健所へ駆け込むと、すぐさま胃の中のものを吐き出しましたがその際に、嫌悪すべきそれまでの自分まで吐き出したのです。
 それまでのいい子ぶっていた、古い良心を脱ぎ捨てたとでもいいましょうか。
 とにかく、新しい良心の衣を着て、彼の人格を一変させたのです。

 こうして中学生デビューしたA君は、教室に戻りましたが、その間の事情を知らない女性教員は不用意な注意を行なったことから、トラにでも化けた風のニューA 君の怒りを買い、結果的に、惨殺されたというわけです。

 この場合の問題は、話を縮めますと、新・彼は非・彼とみなせるかどうかに絞れると思います。
 私自身は新彼による少年犯罪は、2次元的な殺人論として議論すべきと考えています。

 ここで注意されたいのは、少年犯罪の現状は、4次元的殺人事件としての取り扱いで刑法の適用を免れていることです。

非英雄論13-2■続・秋田連続児童殺人事件■父親の「壁」

2008-08-03 00:37:03 | Weblog
遺棄の世代間連鎖●父親の「壁」

産経新聞が母体と見ていますが、『MEPHIST』の豊富な裁判資料を活用したいと思いまして、できるかぎりプリントし、そして、目を通してみることにしました(情報収集において非力である私にとっては、まことにありがたいのです)。
 印刷は、ドライアイを患い、目が痛い関係で、液晶画面を見る時間を減らすためです。
 一方で、夏ですから、室内温度の上昇とともに、パソコンの本体が熱くなって、部品の溶熱の可能性があり、しばしの中断を余儀なくされています。

 このパソコンは立ち上げのとき、応援団風の三三七七拍子が聞こえてきます。ピッピッピッ、チャチャってな音が10回ぐらい繰り返して、立ち上がってきます。
 本体ではなくデイスクドライブのCDの回転する音のようですので、パンク寸前の音ではないと半ば安心し、且つ、パソコンのくれる応援歌と思って妙に癒されています。


 資料に目を通して、アンビバレンスに関係する箇所に注目しました。
 ネジレを記号として読み解くといいますか、これを利用して、一気に彩香ちゃん殺害時の被告の異常心理に迫りたいと考えています。

 たとえば、公判で「(検察官が)怖かったから信頼していたというか・・・逆らえなかった」(裁判8・A・11/18)と鈴香被告は答えていますが、これは「怖い男だから安心して甘えることが出来る」という被告の幼児的なアンビバレンスな態度(一般的な女性心理?)と見ることが出来ます。
 父親が家庭内では暴力を振るっていたから、被告を保護してくれる父親を外に求める結果になったと思っています。

 次に、弁護側と鑑定人の間のやり取りで、彩香ちゃん事件の起きる4、5日前の出来事として、「彩香ちゃんが『学校へ行きたくない』と予想外のことが起き」(裁判13・A・7/17)たことを話題にして、「怖い」とか意味不明のやり取りがあるのですが、私の読みは「学校にいる間に、母親が自分を置いてどこかに行くかもしれないと不安に思っての甘え行動」というものです。
 母親の鈴香被告は子捨て願望を取り付かれており、一方の子どもは空気を察知(以心伝心?)して「遺棄の恐怖」に取り付かれているわけです。
 これに対して、「自分の子に対して何をするか分からず怖い」と被告が思うのは、「子殺し願望」の可能性を示唆するも、「子捨て願望」を満たそうとする自己への恐怖心を語るものいえないでしょうか。


(■続いて弁護側は、大沢橋の上で、鈴香被告が彩香ちゃんを「怖い」と感じていた理由を問う。鑑定人は当時の彩香ちゃんの行動から、「推測」を語る。

弁護側 「鈴香被告は彩香ちゃんを怖いと。『自分の自由や希望を奪うので怖かった』と供述している。そう思うか?」
鑑定人 「思わない。『怖い』には深い意味があると思う」
弁護側 「彩香ちゃんの『普通の母親になってほしい』という自己変革への(恐れという)見解か?」
鑑定人 「(彩香ちゃん)事件の4、5日前、彩香ちゃんが『学校に行きたくない』と予想外のことが起きる。そのころ、彩香ちゃんが友達の家に行っている。自分の母と友達の母の違いが分かり、彩香ちゃんの心に矛盾、葛藤が生まれる」
弁護側 「彩香ちゃんが鈴香被告に自己変革を要求したと?」
鑑定人 「推測です」
弁護側 「『怖い』に関連して。(鈴香被告の)『自分の子に対して何をするか分からず怖い』という調書をどう思うか?」
鑑定人 「強く感じない。彩香ちゃんへそういう気持ちが生じても、それは一般的なこと」
『MEPHIST』「裁判12・A =7/17P

http://shadow99.blog116.fc2.com/blog-entry-311.html)

註:子捨て願望について●それまでに自殺未遂事件を起こしていれば、鈴香被告の心の中に秘めた「自殺願望」の存在を裏付けますが、仮に、それが「母子心中未遂事件」という場合は、同じような理由で「未遂事件」を起こしているはずで、「母子心中願望」の存在が裏付けられるはずです。しかし、それがない以上、「母子心中未遂事件」という見方は成立しないと思います。
 では、「子捨て願望」とどうか、となると、私の調べた範囲では、「子捨て未遂事件」を被告はそれまでに一度も引き起こしてはいません。
 しかし、ネグレクトの母親というのは、一般的に「子捨て願望」をもつといえるのではないんでしょうか。


 三番目のアンビバレンスな態度は、入院した父親を看護する被告の態度にあります。
 公判の証人台には父親は立たなかったんですかねえ、裁判資料に目を通してみても、見当たりません。
 私は鈴香被告が父親に対して、甘えと恐怖という幼児的なアンビバレンスの感情を持っていたと見ています。
 下のasahicomの記事(所収は、『DANGER』(←『MEPHIST』の前身?)にありますように、被告はホームヘルパーの資格を取り、父親が脳梗塞で倒れて入院すると介護の手伝いをやります。

畠山被告 介護疲れも要因か
父入院し生活も困窮 秋田(2006/10/01)
秋田県藤里町の連続児童殺害事件で、畠山鈴香被告(33)=殺人罪などで起訴=が長女彩香さん(当時9)を殺害したとされる4月9日の直前、入院中だった畠山被告の父親が、他の患者との間でトラブルとなり、ハサミを持ち出す騒ぎを起こしていたことがわかった。
捜査当局は、子育てや経済的な困窮などでストレスを抱えていた畠山被告が、父親のトラブルでフラストレーションを一気に高めたとみている。
 彩香さん殺害の直接の動機について、畠山被告は捜査段階で、彩香さんに求められて近くの川に魚を見に行ったが、見えないことに彩香さんが「だだをこねた」ことから衝動的に殺害したと供述。しかし、殺害理由としては弱く、捜査当局は何らかの背景事情があったとみて調べていた。
 畠山被告の父親は、脳梗塞(こうそく)のために05年に倒れて県北部の病院でリハビリを続けていた。
 関係者によると、父親は4月7日、病院内で、ほかの患者との間でトラブルとなり、相手に向けてハサミを振り回そうとしたという。
 翌8日、畠山被告が病院を訪れた際、病院側から「(畠山被告の父親の)面倒を見切れない」という趣旨のことを言われたという。
 畠山被告は03年に自己破産し、生活保護の受給に加え、実家からも金銭的な支援を受けていた。しかし、父親が倒れたため、援助を受けられなくなり、経済的に追いつめられていた。また、地元住民の話では、畠山被告は、父親の介護の手伝いもしていて、介護疲れも見られたという。
 捜査当局は、畠山被告が彩香さんをネグレクト(育児放棄)するなど、もともと子どもに対して激しい嫌悪感を抱いていた点も重視している。畠山被告は母親らの手助けを受けて子育てをしていたが、父親の入院のために、彩香さんの子育ての負担が被告1人にかかるようになったという。
(asahi.com 一部抜粋)

DANGER http://shadow9.blog54.fc2.com/blog-entry-149.html

 上の引用にありますように、被告の「介護手伝い」は、二つの意味が隠されていると思います。
 一つは、育ててくれた親への「恩返し」という意味です。
 もう一つは、父親に対して被告は甘えと怖いという、幼児さながらのアンビバレンスな態度を持していることです。この意味は、「危険」と読めるわけです。

 最初の意味については、被告が自己確立者であるならば、さしたる問題は起きないと思われるわけですが、非英雄の基本路線を生ききらざるをえなかった被告の場合は、その意味が屈折するのが当たり前です。
 つまり、鈴香被告の「恩返し」は「親越え→恐怖越え」と連絡(ジャンプ)する可能性を秘めているわけです。

 次の意味については、父親が恐怖の対象であるならば、娘被告は彼から逃れて他の男に父親代わりを求め、娘時代に満たされなかった甘えを満たすことが出来ます。
 ですから、被告の介護手伝いは、怖い父親に対して甘えるという、一種危険な賭けに打って出たとしか考えられないわけです。

註1:父親は「すずゆう興業」なる会社を経営しているとか。この名の由来は、二人の子どもの名前から取ったから子煩悩な父親のごとき人物像として描かれていますが、下の「興業」は、ヤバイ系という認識で私たち建設作業員の間では一致しています。

註2:暴力とは、国際紛争にしろ、夫婦喧嘩にしろ、それまでの古い関係を解体して、新しい上下関係を構築する狙いが隠されています。一言で言えば、関係のリセットです。連日連夜、暴力が振るわれるとすれば、もはやリセットの意味が失われ、ただ人間(あるいは、国)が壊されていきます。

註3:仮に闘犬の血筋を引き継いだ子犬が幼少期に「咬ませ犬」のごとき処遇を受けていたならば、彼は「闘犬の死」に等しい、負け犬根性を身につけるはずです。
 ウウウと闘う前から唸るようでは、闘犬を廃業する必要があります。人間だって、同じでしょう。

 父親の入院に伴う生活援助金の打ち切りは、細々と生活保護を受けて暮らす母子家庭の生活不安につながりますが、それ以上に、それの持つ象徴的な意味は、甘えたいという願望の挫折でしょう。
 そこに突然、父親が院内暴力を働くことは、それまで忘れていたトラウマを思い出させた可能性があります。
 私はそれを「遺棄の恐怖」と読みました
 願望を満たす道はとざされ、突如として「遺棄の恐怖」に襲われた可能性は否定できません。
 ですが、この場合は、被告には3つの選択肢があったはずです。

pは、父親から逃れて、県外へ脱出する方法。
qは、愛人との性生活におぼれて、嫌なことを忘れる方法。
rは、親越えを意味する、象徴的な恐怖越えを行って、自己回復を遂げる方法。

 pとqは、いずれも一時しのぎに過ぎず、原点回帰が目に見えています。
 というのは、父親の「壁」が立ちはだかるからです。何をやってもこの壁にぶち当たり、挫折感に打ちひしがれてしまうのです。

 ですから、鈴香被告にとっては「もう逃げないぞ」と覚悟を決めて臨んだ「介護手伝い」ではなかったかと見ています。

参考資料■

弁護側 「父親の暴力はどのように影響しているのか?」
鑑定人 「父親に対しては、愛情を感じる要素、感じたくない要素という矛盾した気持ちを持っていた。お父さんの介護をイヤイヤながらして血のつながりを感じていたが、父親がイヤであるという葛藤(かっとう)は大きかった」 『MEPHIST』の裁判資料(12・A ・4/17P)

http://shadow99.blog116.fc2.com/blog-entry-311.html


■非英雄論13■続・秋田児童連続殺人事件■総括=児童虐待の世代間連鎖の好例

2008-08-02 06:57:52 | Weblog
総括●秋田児童連続殺人事件は、PTSD患者による犯行

●次の引用(「弁護側冒頭陳述」)は、『MEPHIST』から引っ張ってきましたが、父親の暴力をうけてのPTSDによる人格障害という説が本当に思えてきますね。
 被告の小学時代は、心無い教師の言葉がヒントになって、「心霊写真」なんてあだ名がつけられていたとのことですが、授業中に、意識が飛ぶことが頻繁だったということでしょう。

■父親は機嫌が悪いと、小学生の鈴香に平手打ちをしていた。理不尽な振る舞いは中学からエスカレートし、殴る蹴るの虐待を高校卒業まで受けたが、鈴香はずっと耐えていた。この心理的肉体的虐待は、解離性障害の素地となった。(『MEPHIST』「畠山鈴香」)
URA:http://shadow99.blog116.fc2.com/blog-entry-85.html●(拙記事より抜粋)


 ここで浮かび上がってくるのが、「遺棄」の恐怖。
 たとえば、娘の鈴香が親のいうことを聞かないと、「棄てるぞ」と脅したのではないでしょうか(あるいは、「出て行け」という言葉に代表される「追放」の恐怖)。
 この場合、棄て場所が「川」だったのではないでしょうか。

 いま、この論拠を示すのは困難な状態にありますが、親と折り重なった「川」への恐怖のイメージを幼いころに植えつけられたのではないかと、拝察。
 仮に、親子が強い依存関係にあるとすれば、子がかかる恐怖で縛られていたとしてもおかしくはありません。
 一方で、「あたしを棄てたいのなら、・・・」と反抗した形跡も認められます。

 ですから、この父子に関する限り、依存しあっているのか、反対に、背きあっているのか、わからないところがあるわけです。

 ここで仮に、鈴香被告がPTSD患者であり、「遺棄の恐怖」が外傷として残っていれば、彼被告の人生最大の目標は、「自己確立(女子→母親)」ではなく、「遺棄の恐怖越え」と取り違えられたことは十分に考えられます。

 この場合の優先順位は、やはり、心の病の克服が先で、「自己確立」は後回しですよね。
 ところが、ずるずると克服も「自己確立」もできないまま、できちゃった婚なんかで親になるわけですが、どうしたって未熟な母親にとどまっている問題がそこにはっきりと現れています。

鈴香被告の人間性を大肯定●私はたとえ子殺しの罪を犯した鬼母のごとき女性として宣告を受けたとしても、鈴香被告の人間性まで否定する気にはなれずにいます。
 換言すると、被告は紛れもない「人の子」であったということです。

 このためには、被告がPTSD患者であることの証明と、この事件がPTSDの克服のために引き起こされたことの証明等が弁護側には求められると思います。

 特に求められるのが、心的外傷という場合の「損傷」部位の特定。

 いわゆる「児童虐待の世代間連鎖」の好例として、徹底分析の必要性をアピール。

 この場合、前記のとおり、「児童虐待」というPTSDなる傷の「特定」が求められていると考えています。

 で、いかなる傷かといいますと、「遺棄の恐怖」です。

「遺棄の恐怖」の世代間連鎖による遺棄事件が他ならぬ、秋田の彩香ちゃん殺害事件ではないかということです。

●「どういうことかといいますと、鈴香被告は実父と強い依存関係(D=Dependency)にあり、この関係のコピーが鈴香被告と愛児彩香ちゃん(C=Copy)なわけですよ。ですから、鈴香被告は実父との依存関係にひびが入ると、愛児彩香ちゃんへのネグレクトが加速するというように、一種の時限爆弾を取り付けた、危険な母子生活を送っているわけですよ。
 そうして実父との依存関係が破綻(これは、父親の院内暴力が関係するかも。あるいは、生活援助の打ち切り)してしまうと、あらかじめ用意していた時限爆弾の安全装置を取り外し、時間をセット。・・・・・
 無論、爆発の瞬間は、わが身を危険にさらしますから、遠くにいます。

《これを可能にするのが、解離性同一性障害者》」●(拙記事より抜粋)

 再度、自分の記事を上に引用しましたが、ここからはじめます。

 父子の関係を依存的とし、その関係を(D)関係とし、鈴香被告と彩香ちゃんの母子関係を(C)関係と置きます。

 (D)関係にひびが入ると、(C)関係にはネグレクトが加速すると書きました。
 こういう問題は、母親が自律的な自己を確立していれば、起こらないと思いますが、母親が他律的な自己の持ち主であれば、父親から受けた娘の暴力は、母親の娘に対してお返しされるのではないでしょうか(児童虐待の《同時的》な世代間連鎖)。
 万事がこういう調子ですから、父親が娘を見棄てるようなことがあると、母親はわが娘を見棄てることがあったとしてもなんら不思議ではありません。
 ここで問題なのは、本来は、子捨てにとどまるべきところを何ゆえに子殺しとジャンプしたかということです。

 単なる「遺棄」であるならば、母親自らの手で殺す必要はありません。どうしても貧しくて育てきれないというのであれば、福祉施設に預ければいいことです。
 仮に、母親の私がいなくなると、この子の人生は不幸が待っているというのであれば、母子心中の道を選択するのではないでしょうか。
 こうして、結局は、「この子さえいなければ、私は幸福になれる」という検察側の用意した「今田勇子」似の鬼母像が判決に採用されるのは、ある意味必然といえるかもしれません。

 しかし、冒頭にも書いたように、私はたとえ子殺しの罪を犯した鬼母のごとき女性として宣告を受けたとしても、被告の人間性まで否定する気にはなれずにいます。

 被告の人間性を大肯定するからこそ、仮に人間性が壊れての子殺しというのであれば、壊れた人間性について科学的な解明が可能になるのではないでしょうか。


PTSDとは、何か?●土居健郎の「甘え理論」を援用すると

a 幼児の意識はいつも、甘いイメージで満たされている。
b そこへ「恐怖」のクサビを打ち込む。
c すると、「クサビ」のために、甘いイメージで満たされた意識の流れが悪くなる。

 そういう神経症理論を打ち立てたのが土居健郎と見ています。
 土居理論によると、PTSDが「クサビ」に相当するならば、甘い感情で満たされた潜在意識の存在を仮定していたことになります。
「仮定」というよりは、「大発見」といい直すべきかもしれません。

 この理論の持つ利点は、神経症の心的機制の説明に役立つだけではなく、フロイドの唱えたリピドー説を超えています。フロイド説の弱点であった幼児の性衝動というバカげた仮定を不必要とし、代わりに、無理なく説明できるからです。
 もう一つの利点は、人間が幸福を求めるのはなんでもない・当たり前の行為と見逃してきたことを、理論はそうではなく、心の中の「重力の法則」に従うと、説明していることです。

この幸福の「重力の法則」説に従うと、正常な人間は内発的な幸福の感情に包まれているおかげで、彼は内的に幸福の人生を送ることができます。
 他方の病的な人間のケースでは、内発的な幸福の感情が欠乏している関係から、不足をソトに求めようとして、「底なし」の依存症を呈するのではないかと見ています。
 女性ならば、男性遍歴がやむことなく繰り返されます。
 男性ならば、ヤクザでしょう。欲望に限度というものを知りません。

土居は、「オモテが出来るということは現実に適応するということであり、そこには当然超自我が関与している。またウラが出来るということは本能衝動が防衛されているということであり、そこにはもちろんエスが関与している」と前置きして、次のように、述べています。

「オモテとウラの変容の第三は、オモテとウラの分化は出来ており、精神生活がこの二本立てによって行われるという原則は確立しているが、ウラの形成に不十分な場合である。ウラ付けがうまくいっていない。あるいはウラに無理なところがあるといっても良い。要するに、本能防衛に問題があるのであって、この際本来はウラにしまっておくべきものが、何らかの刺激を受けると、本人の意図に反して、オモテに顔を出すことが考えられる。オモテがウラを守らずに、かえってウラがオモテに侵入する結果となる。そして不安という現象は恐らくこのことと関係があるのではなかろうか。この種のウラとオモテの変容は日常最も頻繁に起こるものということができるのである」(土居健郎「オモテとウラの精神病理」論・所収『現代のエスプリ』127号)

 PTSD患者の例を上の引用にある土居理論を借りて、説明すると、「ウラの形成に不十分な場合」と「本能防衛に問題」があると述べているわけですが、この場合の「ウラ」とは、エス(註:潜在的な原始的な自我)が関与し、且つ、「本能衝動が防衛」するものとは、「(幼児のように)意識はいつも、甘いイメージで満たされている」a状態を指すものと考えています。
 ですから、わかりやすいように、「ウラ=甘え」という理解で支障はないと思っています。

 そこへ、虐待などで「恐怖」のクサビが打ち込まれると、エスの防衛機能が壊される結果、「本人の意図に反して、オモテに顔を出すことが考えられる」としています。
 この場合の「オモテ」とは、超自我(良心)が関与する抑圧的な「明るい自己意識」とでも訳せますか。

 この後、「オモテがウラを守らず、かえってウラがオモテに侵入する結果となる」を言葉どおり受けとると、「ウラ=甘え」が「自己意識」を犯しはじめ、心の中の緊急事態を告げると、それが「不安」なる心的現象と説明しているみたいですが、次のように、理解しました。

 無意識裡に自己意識が甘い感情に満たされており、はっとわれに返ったとき、その間の「記憶」が欠落しているから「不安」に駆られる。

 この症状は、半覚醒の酩酊状態に陥ったときに出現する意識に近く、酒の力で良心の働きが緩んだ時に、現われます。自他の間の距離感がなくなくなり、馴れ親しみやすくなります。

 無意識裡に起こる点では、両者は共通していますが、「記憶」や「不安感」の有無で違いがあげられると思います。
 病的な酩酊状態では、「記憶」のないことをもって、「不安」に襲われることはありません。

無論、鈴香被告の彩香ちゃん殺害時の心理状態も意味すると思っています。

私の世界観●外的な世界とは、恐怖に満ちている

私が思うには、外的な世界とは、死者が遍満するような恐怖に満ちています。まさに、幼児の「場所見知り」のごとき世界が外に出現しているのです。この真実の世界認識を妨げているのが超自我の機能であり、エスがもたらす内発的な甘い意識です。
 この2重のバリアによって、自己はパニックから護られているわけです。

 ところが人為的な介入によって、「本当のパパは怖い」という意識が植え付けられると、長じてからはこの意識に苦しめられます。
 記憶として残る映像によって苦しむ場合もありますが、きっかけは、真実の光景に遭遇した関係からではないでしょうか。

 これを土居の言葉を借りると、「ウラはオモテを守らず、かえってオモテがウラに侵入する」結果、PTSD患者はパニック症状を引き起こすと説明できないでしょうか。

(ソレガ存在ソレ自体ニ触レタトキノ感触ナノダ)。

非英雄論12■秋田児童連続殺人事件■畠山鈴香被告の場合

2008-08-01 13:05:16 | Weblog
2種類のアイデンテイテイ殺人事件●

この事件では、二人の児童が被害に遭われているわけですが、特徴は、「連続」ではなく「不連続」的な児童連続殺人事件ではなかったかと見ています。

 最初の被害者は、過剰防衛と自己の取り違えを利用したアイデンテイテイ殺人の組み合わせからなる事件で、豪憲君の場合は、スランプ殺人とアイデンテイテイ殺人の組み合わせからなる事件ではないかと見ています。

 どういうことかといいますと、鈴香被告は実父と強い依存関係にあり、この関係のコピーが鈴香被告と愛児彩香ちゃんなわけですよ。ですから、鈴香被告は実父との依存関係にひびが入ると、愛児彩香ちゃんへのネグレクトが加速するというように、一種の時限爆弾を取り付けた、危険な母子生活を送っているわけですよ。
 そうして実父との依存関係が破綻(これは、父親の院内暴力が関係するかも。あるいは、生活援助の打ち切り)してしまうと、あらかじめ用意していた時限爆弾の安全装置を取り外し、時間をセット。・・・・・
 無論、爆発の瞬間は、わが身を危険にさらしますから、遠くにいます。

《これを可能にするのが、解離性同一性障害者》

 次の豪憲君の場合は、事件後、豪憲君の父親の好意で差し出した生前の彩香ちゃんと豪憲君の遊ぶシ-ンを撮影したビデオテープが「悪魔のささやき」として利用されたみたいですね。

 次の引用(「弁護側冒頭陳述」)は、『MEPHIST』から引っ張ってきましたが、父親の暴力をうけてのPTSDによる人格障害という説が本当に思えてきますね。
 被告の小学時代は、心無い教師の言葉がヒントになって、「心霊写真」なんてあだ名がつけられていたとのことですが、授業中に、意識が飛ぶことが頻繁だったということでしょう。

■父親は機嫌が悪いと、小学生の鈴香に平手打ちをしていた。理不尽な振る舞いは中学からエスカレートし、殴る蹴るの虐待を高校卒業まで受けたが、鈴香はずっと耐えていた。この心理的肉体的虐待は、解離性障害の素地となった。(『MEPHIST』「畠山鈴香」)
URA:http://shadow99.blog116.fc2.com/blog-entry-85.html


 ここで浮かび上がってくるのが、「遺棄」の恐怖。
 たとえば、娘の鈴香が親のいうことを聞かないと、「棄てるぞ」と脅したのではないでしょうか(あるいは、「出て行け」という言葉に代表される「追放」の恐怖)。
 この場合、棄て場所が「川」だったのではないでしょうか。

 いま、この論拠を示すのは困難な状態にありますが、親と折り重なった「川」への恐怖のイメージを幼いころに植えつけられたのではないかと、拝察。
 仮に、親子が強い依存関係にあるとすれば、子がかかる恐怖で縛られていたとしてもおかしくはありません。
 一方で、「あたしを棄てたいのなら、・・・」と反抗した形跡も認められます。

 ですから、この父子に関する限り、依存しあっているのか、反対に、背きあっているのか、わからないところがあるわけです。

 ここで仮に、鈴香被告がPTSD患者であり、「遺棄の恐怖」が外傷として残っていれば、彼被告の人生最大の目標は、「自己確立(女子→母親)」ではなく、「遺棄の恐怖越え」と取り違えられたことは十分に考えられます。

 この場合の優先順位は、やはり、心の病の克服が先で、「自己確立」は後回しですよね。
 ところが、ずるずると克服も「自己確立」もできないまま、できちゃった婚なんかで親になるわけですが、どうしたって未熟な母親にとどまっている問題がそこにはっきりと現れています。



■(鈴香被告公判検察側冒頭陳述)第4 彩香ちゃん殺害の犯行状況等
(1)このように、被告人はかねてから彩香ちゃんに対し、時にはその死を願うほどの強い疎ましさを募らせていたところ、18年4月9日午後6時すぎごろ、自宅において、彩香ちゃんから川を遡上(そじょう)する魚を見たいと強くせがまれるなどしたことで彩香ちゃんに対するいらだちや嫌悪の念が極限に達した。

そこで、被告人は日没後の午後6時35分ごろ、被告人が日常使用している白色軽自動車(以下「被告人車両」という)に彩香ちゃんを乗せ、自宅から車で約5分の距離にあるフジ琴川に架かる大沢橋に向かった。
被告人は、同日午後6時40分ごろ、大沢橋上の幅員が広くなっている退避所に同車を止め、同車と橋の欄干の間で彩香ちゃんと2人でかがみ込み、欄干のすき間から川をのぞいたが、川の中で泳ぐ魚は全く見えない状態であった。

大沢橋付近の藤琴川は、川幅が約60メートル、欄干上から水面までの高さが8メートル弱であり、被告人と彩香ちゃんがいた直下付近の水深は、最深部で約1・5メートル前後であった。

被告人は、遅くともこのころまでには、日没後で人目もないこの場でならば、彩香ちゃんを大沢橋上から川中に突き落として水死させる方法で人知れず殺害することができると考え、彩香ちゃんの殺害を決意した。

(2)被告人は同日午後6時45分ごろ、魚を見たがる彩香ちゃんに対し、「それなら橋の上に乗れば。乗らないんなら帰るよ」ときつい口調で欄干に上るよう命じた。
そして、被告人は、「お母さん、手を離さないでね」と何度も繰り返し懇願し、おびえながら被告人の命令に従おうとする彩香ちゃんの尻を両手で支えて持ち上げて彩香ちゃんを欄干上に乗せ、その両足を欄干の外側に出した形で座らせた。

そして、被告人は恐ろしさの余りに「お母さん、怖い」と言いながら、上半身を左後方にひねって被告人にしがみつこうとした彩香ちゃんの左肩付近を殺意をもって左手で力いっぱい押して、彩香ちゃんを欄干上から川の中に突き落とした。

彩香ちゃんは、「お母さん」と叫び声を上げながら真っ逆さまに落下し、川底に頭部を強く打ちつけた上、そのまま下流に流されていく中で、溺水により窒息死した。(『MEPHIST』「畠山鈴香」)
URA:http://shadow99.blog116.fc2.com/blog-entry-85.html



■第5彩香ちゃん殺害後の状況および憲君殺害などに至る経緯等
(1)被告人は、彩香ちゃんを川中に突き落として殺害した後、その発覚を恐れ、直ちに被告人車両に乗り込み、人目に付きにくいと考えた道を選んで自宅に逃げ戻り、さらに、自らが、彩香ちゃんを殺害したことを隠蔽(いんぺい)するため、同日午後7時前後ごろから、近隣住民に対し、彩香ちやんが1人で自宅を出てそのまま行方不明になった旨の虚偽の事実を告げて回り、実家、彩香ちゃんの友人方、学校関係者らにもその旨を電話連絡するなど、あたかも彩香ちゃんを探しているように装った上、同日午後7時45分、110番通報し、駆け付けた警察官に対し、「彩香は河原に行って石ころを集めて来るのが好きだ」などと言て、彩香ちゃんが川辺に行って自らおぼれた可能性を示唆するなどした。

その後、警察などによる捜索の結果、翌10日午後1時35分ごろ、大沢橋から約3・8キロメートル離れた藤琴川下流の浅瀬上で、彩香ちゃんの水死体が発見された。

(2)被告人は、自らが彩香ちやんを殺害したことを隠蔽しようと工作し、殺害直後には、警察官に自ら事故の可能性を示唆するなどしていたが、彩香ちゃんを溺愛(できあい)していた母が、彩香ちやんの死体が発見されるや、動揺の余り狂乱して泣き叫んだり、親類らとともに、彩香ちゃんが何らかの事件に巻き込まれて死亡したに違いないと興奮して騒ぎ立てるのを見るなどしているうちに、母らの手前、彩香ちんが何らかの事件に巻き込まれて死亡したに違いないと主張せざるを得くなった。

そこで、被告人は、その後、警察に対し、彩香ちゃんの死の原因究明を強く求め、あるいは、マスコミに彩香ちゃんの死の事件性を訴え、彩香ちゃんについての情報提供を求めるビラを作成して近所に配布するなどの行動を取ることで、自分が彩香ちゃんを殺害していないかのように装った。

そうした中、豪憲君の父は、娘を亡くした被告人の気持ちを慰めようとの好意から、彩香ちゃんが豪憲君らと一緒にシャボン玉遊びをする場面等を撮影したビデオテープをダビングし被告人に渡していた。

(3)被告人は、その後も、自ら彩香ちゃんを殺害していながら、これを真摯(しんし)に悔悟・反省せず、自らが彩香ちゃんを殺害したという現実からあえて目を背け、彩香ちゃんを殺害した犯人がいる旨、警察、マスコミ、近隣住民らに彩香ちやんの死の事件性を訴え続けた。

このように、被告人は、警察、マスコミ、近隣住民らに彩香ちゃんの死の事件性を訴えたが、そうした自己の働き掛けが必ずしも積極的に取り上げられなかったため自分が社会から不当に無視されていると受け取り、そのような社会に対する激しい憎しみの感情を強めていき、同年5月3日には、能代警察署内で激高して壁をけるなどの騒ぎを起こすなどしていた。

そして、さらに、被告人は、同年4月下旬ないし5月上旬ごろからは、子供に対する誘拐事件などを引き起こせば、社会に思い知らせてやることができるなどと漠然と考えるようになっていき、時には催涙スプレーを携えて、被告人車両で誘拐する子供を探し回るなどしていた。

さらに、同年5月14日および15日には、運動会やその代休日に元気な振る舞いを見せる豪憲君ら彩香ちゃんの友達だった地域の子供たちに対しても、社会に対する憎しみと同様な八つ当たり的な恨みの念を抱くようになっていった。(同上)