「記憶喪失」と4次元的殺人論■むずかしい?
4番目の矛盾は、次の引用にあるように、鈴香被告の彩香ちゃん殺害後の「記憶喪失」に対して、「心因性健忘」と「解離性健忘」の2説に対して、鑑定人が寛容な態度を持している点に認められます。
■弁護側の質問は、鑑定書に書かれている彩香ちゃんが橋から転落したときに起きたとされる鑑定書のポイントの一つ、「健忘」のメカニズムに移っていく。
弁護側 「被告人を心因性健忘というが、これは解離性健忘と同じことか?」
鑑定人 「解離という言葉が朝青龍のときも使われ、最近流行になっているが、私は使ったことがない。大ざっばに言えば、そう考えてもらっていい」
弁護側 「心因性健忘のメカニズムは?」
鑑定人 「心因性は心のストレスで起こる。記憶は記銘(記憶の第1段階)されて保持され、想起される。記銘されたが、想起されないのが健忘といっていい」
弁護側 「なぜ発生するのか? 心的外傷、葛藤などで自己防衛が働いて発生するのか」
鑑定人 「そういうこともあるし、さまざまだ。覚えていても思いだしたくない。記憶を抑圧して思いだせないこともある」『MEPHIST』の裁判資料(12・A ・4/17P)
http://shadow99.blog116.fc2.com/blog-entry-311.html
見られますように、専門家がオジャな態度に終始するのであれば、取って置きの持説はパソコンのなかのゴミ箱行きが始める前から見えています。
でありますから、殺人論の基盤整備を行い、コンセンサスがもらえれば言うことはないわけですが、まずは無理。かといって、われはわれの道を行く、ということと混同しないでくださいね。
まあ、この手続きを欠いたばかりに、何をバカなことを言ってんだ、とゴミ処理されないための方法です。
仮に、自然死や事故死を自然的な因果関係に基づく一個の死としてこれを除くと、不自然な因果関係を持つ人間の死として、次の3タイプが考えられます。
殺人が劇画の中のゴルゴ55なる人物もどきが”テッパン”のごとき「殺意」をもって行われる場合。これは検察側が一般的に用意する殺人論で、もともとあった不自然な因果関係がなぜか揺るぎないものに書き換えられています。(2次元的殺人論)
殺人には、恐怖が伴うものですが、たとえば、交通事故で血まみれの礫死体を見て、犯人が逃げ出す場合。これは怖いから逃走するわけですが、犯人が人として道を踏み外した場合の殺人論です。このケースでは、ベトナム帰還兵のように、後にPTSDを患います。(3次元的殺人論)
仮に、フツーの人が恐怖を伴わずにやれる殺人事件があるとすれば、それは彼ではなく、別人格の非彼の存在が疑われる殺人論です。このケースでは、彼の記憶は途切れます。(4次元的殺人論)
このように区分けをして、「心因性」と「解離性」とでは、まるで次元の異なる殺人論になるのではないかということです。
註:殺害後に、容疑者が犯行時の記憶傷害に見舞われているのであれば、両者の間(容疑者と犯行主体)で、アイデンテイテイの連続性がキープできる場合、責を彼個人に帰すべき「心因性」の問題として捉えることができますが、2個の間のアイデンテイテイが不連続の場合、責を別人格者に帰すべき「解離性」の問題が浮上するとかんがえています。
ここで、次のような殺人事件について考えることにします。
それまでフツーの生徒と思われていた中学生のA君が授業中に「お腹が痛い」といって、女性教員から許可をもらって、教室を出て、保健所に駆け込み、それから教室に戻った時、無言のまま着席しょうとしたため、教員がA君の横着な態度をとがめたところ、彼は突然怒りをむき出しにし、女性教員を殴る蹴るの暴行を加えて殺害した場合、この事件はどの次元の殺人論として語るべきものとなりましょうか。
その間のA君の記憶は、「鮮明」とします。
このような事件では、一見したところ、フツーのA君の仕業でないことから、別人格の犯行が疑われ、4次元の殺人論としての取り扱いができそうですが、その間の犯行時の記憶が鮮明であることから、4次元的な殺人事件ではないという見方が成立すると思います。
次に、殺害後、PTSDによって彼が苦しむようでしたら、3次元的な事件の可能性が出てきますが、それもないとすれば、残る2次元的な(反社会的な人格者による確信犯的な)殺人論としての取り扱い送りです。
この2次元的な殺人事件という見方に立って、強引な解釈を行いますと、A君は保健所へ駆け込むと、すぐさま胃の中のものを吐き出しましたがその際に、嫌悪すべきそれまでの自分まで吐き出したのです。
それまでのいい子ぶっていた、古い良心を脱ぎ捨てたとでもいいましょうか。
とにかく、新しい良心の衣を着て、彼の人格を一変させたのです。
こうして中学生デビューしたA君は、教室に戻りましたが、その間の事情を知らない女性教員は不用意な注意を行なったことから、トラにでも化けた風のニューA 君の怒りを買い、結果的に、惨殺されたというわけです。
この場合の問題は、話を縮めますと、新・彼は非・彼とみなせるかどうかに絞れると思います。
私自身は新彼による少年犯罪は、2次元的な殺人論として議論すべきと考えています。
ここで注意されたいのは、少年犯罪の現状は、4次元的殺人事件としての取り扱いで刑法の適用を免れていることです。
4番目の矛盾は、次の引用にあるように、鈴香被告の彩香ちゃん殺害後の「記憶喪失」に対して、「心因性健忘」と「解離性健忘」の2説に対して、鑑定人が寛容な態度を持している点に認められます。
■弁護側の質問は、鑑定書に書かれている彩香ちゃんが橋から転落したときに起きたとされる鑑定書のポイントの一つ、「健忘」のメカニズムに移っていく。
弁護側 「被告人を心因性健忘というが、これは解離性健忘と同じことか?」
鑑定人 「解離という言葉が朝青龍のときも使われ、最近流行になっているが、私は使ったことがない。大ざっばに言えば、そう考えてもらっていい」
弁護側 「心因性健忘のメカニズムは?」
鑑定人 「心因性は心のストレスで起こる。記憶は記銘(記憶の第1段階)されて保持され、想起される。記銘されたが、想起されないのが健忘といっていい」
弁護側 「なぜ発生するのか? 心的外傷、葛藤などで自己防衛が働いて発生するのか」
鑑定人 「そういうこともあるし、さまざまだ。覚えていても思いだしたくない。記憶を抑圧して思いだせないこともある」『MEPHIST』の裁判資料(12・A ・4/17P)
http://shadow99.blog116.fc2.com/blog-entry-311.html
見られますように、専門家がオジャな態度に終始するのであれば、取って置きの持説はパソコンのなかのゴミ箱行きが始める前から見えています。
でありますから、殺人論の基盤整備を行い、コンセンサスがもらえれば言うことはないわけですが、まずは無理。かといって、われはわれの道を行く、ということと混同しないでくださいね。
まあ、この手続きを欠いたばかりに、何をバカなことを言ってんだ、とゴミ処理されないための方法です。
仮に、自然死や事故死を自然的な因果関係に基づく一個の死としてこれを除くと、不自然な因果関係を持つ人間の死として、次の3タイプが考えられます。
殺人が劇画の中のゴルゴ55なる人物もどきが”テッパン”のごとき「殺意」をもって行われる場合。これは検察側が一般的に用意する殺人論で、もともとあった不自然な因果関係がなぜか揺るぎないものに書き換えられています。(2次元的殺人論)
殺人には、恐怖が伴うものですが、たとえば、交通事故で血まみれの礫死体を見て、犯人が逃げ出す場合。これは怖いから逃走するわけですが、犯人が人として道を踏み外した場合の殺人論です。このケースでは、ベトナム帰還兵のように、後にPTSDを患います。(3次元的殺人論)
仮に、フツーの人が恐怖を伴わずにやれる殺人事件があるとすれば、それは彼ではなく、別人格の非彼の存在が疑われる殺人論です。このケースでは、彼の記憶は途切れます。(4次元的殺人論)
このように区分けをして、「心因性」と「解離性」とでは、まるで次元の異なる殺人論になるのではないかということです。
註:殺害後に、容疑者が犯行時の記憶傷害に見舞われているのであれば、両者の間(容疑者と犯行主体)で、アイデンテイテイの連続性がキープできる場合、責を彼個人に帰すべき「心因性」の問題として捉えることができますが、2個の間のアイデンテイテイが不連続の場合、責を別人格者に帰すべき「解離性」の問題が浮上するとかんがえています。
ここで、次のような殺人事件について考えることにします。
それまでフツーの生徒と思われていた中学生のA君が授業中に「お腹が痛い」といって、女性教員から許可をもらって、教室を出て、保健所に駆け込み、それから教室に戻った時、無言のまま着席しょうとしたため、教員がA君の横着な態度をとがめたところ、彼は突然怒りをむき出しにし、女性教員を殴る蹴るの暴行を加えて殺害した場合、この事件はどの次元の殺人論として語るべきものとなりましょうか。
その間のA君の記憶は、「鮮明」とします。
このような事件では、一見したところ、フツーのA君の仕業でないことから、別人格の犯行が疑われ、4次元の殺人論としての取り扱いができそうですが、その間の犯行時の記憶が鮮明であることから、4次元的な殺人事件ではないという見方が成立すると思います。
次に、殺害後、PTSDによって彼が苦しむようでしたら、3次元的な事件の可能性が出てきますが、それもないとすれば、残る2次元的な(反社会的な人格者による確信犯的な)殺人論としての取り扱い送りです。
この2次元的な殺人事件という見方に立って、強引な解釈を行いますと、A君は保健所へ駆け込むと、すぐさま胃の中のものを吐き出しましたがその際に、嫌悪すべきそれまでの自分まで吐き出したのです。
それまでのいい子ぶっていた、古い良心を脱ぎ捨てたとでもいいましょうか。
とにかく、新しい良心の衣を着て、彼の人格を一変させたのです。
こうして中学生デビューしたA君は、教室に戻りましたが、その間の事情を知らない女性教員は不用意な注意を行なったことから、トラにでも化けた風のニューA 君の怒りを買い、結果的に、惨殺されたというわけです。
この場合の問題は、話を縮めますと、新・彼は非・彼とみなせるかどうかに絞れると思います。
私自身は新彼による少年犯罪は、2次元的な殺人論として議論すべきと考えています。
ここで注意されたいのは、少年犯罪の現状は、4次元的殺人事件としての取り扱いで刑法の適用を免れていることです。