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横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

非英雄論19■再び、アキバ事件■努力とは、諸悪の根源か?

2008-08-16 10:00:39 | Weblog

加藤智大容疑者のいう「理解者」とは?●携帯サイトの書き込みから浮かび上がる犯人像!

■ [2218]06/04 00:58
A 俺がなにか事件を起こしたら、みんな「まさかあいつが」って言うんだろ

[2219]06/04 00:58
B 「いつかやると思ってた」
そんなコメントする奴がいたら、そいつは理解者だったかもしれない


(『中日本自動車短期大学』「道草」より
http://m1aya.tblog.jp/?eid=187051)

■6月5日06:17 
C 作業場行ったらツナギが無かった/辞めろってか/わかったよ


『asahicom』
http://www2.asahi.com/special2/080609/TKY200806090216.html

 上にあるC「分かったよ」は、前記のとおり、投げやりな自己充足的な理解方法であります。
 無論、こんな公式的なコメントの類で、何かが分かったかというとそれはありません。ですから、掘り下げる必要が出てきます。
 思考の過程を省略しますと、智大容疑者はいつも晴れ晴れとした心を持したいと願っている典型的な日本人のひとりで、ちょっとしたことで躓き、心がいじけそうになると、会社を辞めることで晴れ晴れとした心(この場合は、せいせいとした心?)を取り戻し、以って、自己回復を遂げていたところ、職転々が常習になり、しまいに、いじけた心に乗っ取られたということではないでしょうか。
 つまり、いつも晴れ晴れとした心を持したいと願っているから、自殺を企てたり、路上デビューをはたして、負け犬根性といいますか、いじけた心を回避していたのではないでしょうか。
 (ゴミの吹き溜まりのような)ネクラがダサくて嫌だからネアカに徹するために、路上デビューを果たした?
 このように考えることができれば、デビュー直前の携帯サイトへの書き込みも、ネアカゆえの精神的な露出症といえるのではないでしょうか。

 A文とB文は対句といいますか、非理解者と理解者を対立させています。強いて感情を読み込むと、恐怖と甘えになりますが、犯行前夜の意識状態の常として、恐怖の意識が抑え込まれていると見ています。

 職場に限らず、この広い世界の中で一人としてオレのことを分かってくれようとしない現実認識に基づいた諦め、絶望感が吐露されているかと思うと、一方で、永遠なる理解者の存在(母神)を希求していると思いました。
 いずれにしろ、オモテに対する現実認識は、小学生以下。


 アタマの引用の携帯サイトへの書き込みは、産経新聞記事によると、《秋葉原で忍者姿の痴漢が刀振り回し大惨事!≫とのスレッドタイトルで、≪6/5以降絶対事件起こるだろうから先に立てとくね≫という掲示板のものと思われますから、5日の「作業場行ったらツナギが無かった/辞めろってか/わかったよ」という態度は、予定通りの計画的な面が否定できなくなります。

■いつも携帯片手に掲示板「2ちゃんねる」をチェック。自らのハンドルネームを持ち、頻繁に書き込みを行っていたようだ。
 2ちゃんねるのゲーム機を議論するスレッドに5月27日、≪秋葉原で忍者姿の痴漢が刀振り回し大惨事!≫とのタイトルで、≪6/5以降絶対事件起こるだろうから先に立てとくね≫と、今回の犯行予告を思わせる書き込みがあった。加藤容疑者は急にキレることがあったというが、6月5日は容疑者が激昂して会社を飛び出した日だった。
(「秋葉原通り魔の素顔…ロリコン、スピード狂 携帯片手に2ちゃん書き込み「2Dしか興味ない」
06/09 19:27更新iza


以下、断片的な分析ノート。

自殺未遂者の含蓄のある言葉(タテマエとホンネが代わる代わる)
6月7日19:36 「死ぬ気になればなんでもできるだろ」/死ぬ気にならなくてもなんでもできちゃう人のセリフですね

 似たようなことを書いていると思いきや、違っていました。これも対句形式で、本気で死のうとしている人間は、視野狭窄に陥り、「死ぬ気」云々なんて考える余裕はない、とでもいうような言語外の意味をにじませています。
 文末の「ね」の使い方に、加藤容疑者のべったりとした依存的且つひねくれた性格がよく表われていると思います。

スポーツカー購入に伴う借金の状況(タテマエとホンネが代わる代わる)。
6月7日15:35 大きい車を借りるにはクレジットカードが要るようです/どうせ俺は社会的信用無しですよ

 仮に、車の価格が777万円とすると、600万円は頭金で支払い(当然、頭金は両親が立替え?)、残りの177万円について年率5%の利息計算で3年間の分割払いとしますと、この場合は、月々5万円程度のローンが負担になります。

『ニッサン』のHPより「お支払い精算シュミレーション」を参照。

画像も、ここから借用。
URA:http://www.nissan.co.jp/GT-R/BVC/index.html

 事故さえ起こさなければ、廃車処分でなく売却することもできたわけですが、それでも寮費がただ同然の会社を選べば、派遣労働者でも十分に返済が可能です。
 ですが、家賃は5万円、ローンの支払いが月々5万円、この上に、オタク的なざるのような消費生活を改めずにいると、結局は、家賃とローンの両方が払えなくなって夜逃げ同然に寮を飛び出して、雲隠れ。
 残った債務は、保証人となった親に回るわけですから、単なる親不幸の息子というよりは、容疑者は復讐しているとしか受け取れません。


女性願望と挫折ならびに責任回避の状況(支離滅裂)。
[2438]06/05 05:19
彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊

[2698]06/06 03:09
彼女がいれば、仕事を辞めることも、車を無くすことも、夜逃げすることも、携帯依存になることもなかった
希望がある奴にはわかるまい


 スポーツカーの購入は、女の子を作る手段ではなかったのか?
 出会いスポットで駐車でもしていれば、物好きなギャルが寄ってきて「乗せて」というであろうから、ガールハントなんて楽勝と誰もが思うところ、死ぬつもりで事故を起こしてスポーツカーをフイにしたあと、出会い系サイトに猛アクセスを試みるとは、支離滅裂の極み。
 結局、自殺をするために新車を買い入れ、事故って死ねれば本望と思ったか、生還してみると、重いローンの支払いが残っていて、厭世的気分に陥るところ、お得意の回避行動をとって、遁走。

願望の挫折によって憎悪するのではなく、自己否定感情に囚われやすい性格者
[2251]06/04 05:57
つまり、悪いのは俺なんだね

 この論理は、次のような対句形式に置き換えられますから、「おなかが痛い。だけどぼくが悪いんじゃない。痛いのは、おなかのせいだ」といったも同然です。自己の身体に対して、管理能力がゼロの若者の用いる論理ということです。

[2487]06/05 07:05
また俺が悪いのか

[2489]06/05 07:07
見事にはめられた

 課題に対して、突破力がまるでありません。ただ回避行動があるのみ?
 女性願望の挫折は、携帯サイトの出会い系に猛アクセスを試みての挫折の結果とすれば、サイト管理者の運営方法に疑問を持ったり、憎むなどの態度があってしかるべきだが、そういうのがまるでありません。
 憎しみとは、言い換えれば、行動の原動力や起爆剤となるはずが、抑圧しています。一方で、「悪いのは、オレのせい」と口にするも「見事にはめられた」とガイシャを装っています。ホンネは、こんな俺を作った親が悪いと責任転嫁の論理にしがみついています。

優秀な弟のこと
[2248]06/04 05:53
中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられた
より優秀な弟に全力を注いでた


 高校デビューした同級生の口実が、これでしたね。


ノート総括は、コレ●

社会に対して度し難く甘えたい願望を持っている

ウラの侵攻に対してオモテが守りきれず、ウラが占領してしまう凶悪犯か?
 良心が未熟。この意味では、加藤智大容疑者は発達障害の可能性が出てきます。


 なお、言葉に関しては、自分で言うのもなんですが、得意な分野です。ホントは、この研究に没頭したいのですが、夢も希望も・・・ってな調子だから、志を折りました(T▲T;

 下の引用は、自己紹介の意味を兼ねて(^_^


●表現の心理学とは、a句とb句の間にある<くらい>関係に隠されたダイナミックな心理的メカニズムを明らかにする立場である。
 この場合の関係概念は、次のような三種類の逆接の用法から類推している。

  A 彼は猛勉強したが、大学は落ちた。(「明るい」論理的関係)
  B 彼は猛勉強したが、大学は合格した。(「くらい」心理的関係)
  C 雨がはげしく降っているが、歩いていこう。(「つよい」意志的関係)

 上にあるAとBの文例は、清水幾太郎の著書『論文の書き方』(岩波新書)にて拝見でき、特にBのような順接の働きはガの用法にはないから「ノデ」や「カラ」を使えと述べているが、「ボクハ落チルト思ッテイタノニ」というツブヤキを挟むと前後の意味がつながることから、「心理的用法」として区別し、ほかの用法とあわせて逆接のガの三大用法と称している。
 表現の心理学があるとすれば、表現の論理学があってもおかしくないわけで、この場合はa句とb句の間にある<明るい>論理劇に隠されたダイナミックな論理的メカニズムを解明する立場となる。

 では、両者に共通するものとは何か。それは、一口にいえば、越え出るものを指す。
 だから、心理学では「良心」が暴露の対象とされ、論理学では「超論理」、言い換えると、「論理の逸脱」が暴露の対象とされることになろう。

 「小説」という言語表現は、全体が明るい論理的関係で覆い尽くされていると考えられがちだが、よく調べてみると、その中に、部分の<暗黒>と線の<逸脱>を隠し持っていることに気づかされる。
 で、暗黒部分を調査すると「心理劇」が隠されており、同じように逸脱部分を調査すると「論理劇」、つまり、「超人化」が隠されているというわけ。 ●弊著「逸○論」より抜粋



非英雄論18■再び、アキバ事件■努力とは、諸悪の根源か?

2008-08-15 13:12:49 | Weblog
努力とは?●理解者不在という社会病理

「いつかやると思ってた」
そんなコメントする奴がいたら、そいつは理解者だったかもしれない


たとえば、ご近所で火事があり、「火事だっ!」と誰かが叫びます。この声を聞きとめる聞き手を指して「理解者」と定義を行ったのが、国語学者の時枝誠記です。
 これに対して、消防隊員でない者が、火消しに走るのは、理解を超えた行動になります。

「理解者」という場合、この二種が混同されて使われています。

 現代の状況とは、時枝の言う機械的な理解者による、見殺し事件が後を絶たずに社会問題化しています。
 たとえば、児童虐待の通報があったにもかかわらず、児童相談所の対応が後手に回るのは、一般的に能吏という役人は、命令系統にはない「理解を超えた」行動を取らないからと考えています。
 児童虐待に関わらず、生活困窮者が生活保護を申請しても拒否され、後に餓死や病死が報告されるのは、福祉行政に能吏が携わっていることと無関係ではありません。

 海難事故に遭遇した際の海上自衛隊の隊員も「理解を超えた」ことは絶対といっていいほどやりません。
 たとえば、1988年7月23日に横須賀港沖で起きた海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」の衝突による海難事故(なだしお事件)では、傍観しているだけで救助しようとしない隊員にたいして、被害者の側から非難の声が上がり、マスコミがその声に加担しました。

■当事マスコミなどでは、「潜水艦の船員たちは沈没していく第一富士丸を悠々と眺めていただけ」などと報道され、「艦長はかなづち(だから救助命令を出せなかった)」と都市伝説まで誕生したが、その後の調べでマスコミの報道が誤報であることが示されている。この件については海事審判にてなだしお側が、

そもそも現在の潜水艦にはボートが艦内に格納されているゴムボートしかなく、その搬出に手間取った。
衝突時などの救助訓練が訓練メニューにない(艦長はその点直ちに行動に移れなかった)。
乗員は艦長の許可なく救助活動にあたれない(商船は各自の判断でやってよい)。
などと反論している(艦長の過失についての抗弁)。
(『wikipedia』「なだしお事件」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%A0%E3%81%97%E3%81%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6)

 一方で、理解には、「満足」に関係する部分があって、今日の出来事なんかをテレビニュースで知ると、分かったと満ち足りた気分(貧乳ですくすくと育った情報人間?)に陥ってしまうケース。
 他には、児童虐殺などの悲しい話を聞いて涙を流すケース。機械的な理解に対して、なんとも情感のこもった理解方法といえると思います。
 専門的な理解としては、刑事事件を起こした容疑者の精神科医による精神鑑定がありますが、宮崎勤事件では話題になりましたが、三人の鑑定医による精神鑑定が三人三色でした。これに限らず、判決で精神鑑定が採用されることはまずはありえません。

 このように理解者は不在といえる中で、発信者の側には、理解者の出現を希求している様子が見て取れます。
 たとえば、秋田連続児童殺人事件の畠山鈴香被告は、愛児の彩香ちゃんが事故ではなく事件に巻き込まれたと思って、犯人探しのビラを作って配ったりしているわけですが、この発信行為には2種の意味が隠されていると思います。
 一つが地域の住民に向けられたものとしますと、もう一つは、地域住民の頭上越しに向けられたものです。
 この場合、住民があなたの声は届きましたばかりに、救いの手を差し出すことは危険極まりない行為といえます。といいますのは、発信者の眼中はそこにはなく、飽くまでも頭上越しの相手であることが多く、下手をすれば、理解者が差し出した手は「悪魔の囁き」として、被告の背中を押すことにつながりかねません。
 豪憲君の父親が貸したビデオテープは、「悪魔の囁き」として鈴香被告の背中を押したとみています。

 町内でやるだんじり祭は、同時に、その土地で祭られている神を祝う奉納行事であります。
 大相撲も国家神道で祭られた神を祝う奉納行事であります。
 ですから、殺人事件というお祭りは、マスメデイアも含めた視聴者参加型のお祭りであると同時に、「神不在」の奉納行事ではないかという見方が成立してもおかしくはありません。

非英雄論17■再び、アキバ事件■努力とは、諸悪の根源か?

2008-08-14 09:41:19 | Weblog
努力とは?●芹沢俊介の体罰論を援用すると

 このように通り魔事件を物語化してみると、どの事件も似ていると誰しもが思うのではないのでしょうか。
 強いて挙げるならば、秋田連続児童殺人事件と三件の通り魔事件の違いは、「再努力」の有無ではないかと思いました。

 最初に、努力する人がなぜ「いい子」と重なり合うのかを問題にしてみます。

 この点について、「努力」するいい教師と「体罰」をふるう悪い教師の間にある「心理過程」として、「自己愛」の存在を取り出して見せたのが芹沢俊介です。
 次の引用には、孫引きもあります。


「私が、なぜ体罰していたのか、そのことを考えてみたいと思います。私は、その当時、生徒会の指導をしていたし、毎日、遅くまで仕事に取り組んでいました。そこには、「オレは、これだけ一生懸命に取り組んでいる。オレが、オレが、やっているんだ」という思いがありました。修学旅行中におけるI君への体罰も、「オレがこれだけ熱心にやっているのに、なぜ生徒はわかってくれないのか・・・」という思いでいっぱいでした。」(高久明雄「体罰をのぞむ世代をつくるまい」所収『私たちは、なぜ子どもを殴っていたのか』太郎次郎社・所収『現代<子ども>暴力論』芹沢俊介・大和書房)

「自分は一生懸命やっている。なのに生徒がというイノセンスの論理。そして、オレが、このオレがやっているんだというナルシシズム。ここにイノセンス=ナルシシズムという体罰の仕組みが露出しているのがはっきりと目撃できるであろう。「愛情をもってたたけば、生徒はわかってくれるはずだ」という体罰という暴力をめぐる神話、「愛のムチ」説はイノセンス=ナルシシズムに侵された教師たちの作り上げた虚構の傑作である」(同上)

上の引用に明らかなように、「オレは、これだけ一生懸命に取り組んでいる。オレが、オレが、やっているんだ」という教師の思いは。通り魔殺人事件を起こした犯人たちと共通する心理です。
 芹沢は、これに「被害者意識」が加わるとしています。

「イノセンス=ナルシシズムという構造からもうひとつ浮き彫りにされてくる体罰の論理がある。それは被害者意識である。教師集団は、生徒たちの言動に、暴力を揮われたと感じるのである。イノセンス=ナルシシズムに貫かれていればいるほど教師集団は、ことさら生徒たちの違反的言動に敏感に被害者意識を掻き立てられることになっても不思議ではない。こうして体罰は、「指導」であると同時に、報復でもある」(同上)

 「報復」行動のあるところには、「願望主体」にたどり着きます。といいますのは、「報復」行動は、願望(甘え)の挫折という「心理過程」を経由することによって、顕われる暴力的な行動であるからです。
 体罰教師の行う「報復」が恐怖主体といいうるならば、努力する「願望主体」を立ち上げていたことになりますから、通り魔殺人事件を起こした犯人たちと同じ心理的な「暴力構造」を共有していたことになります。
 願望主体といい子と努力する人は、必然的に重なるのではなく偶然ということであれば、次のような三角構造が仮定されます。

          ・願望主体
         /\
        /   \
      /      \
     /         \
いい子・--------・努力する子

 書くまでもなく、国語学者の時枝誠記の創作した図式をちょっと拝借したもので、深い意味はありません。強いて言うならば、それらの関係は別個取り扱いということです。
 といいますのは、悪い集団だって頑張っているのです。たとえば、「オレオレ詐欺」や「出会い系詐欺」のように、どうすれば金持ちになれるか、について違法な手をまじめに研究している連中もいるわけですから。

 こういう風に考えてみましても、何が問題かといいますと、「なぜ頑張るのか」ということになるとおもいます。

非英雄論16■再び、アキバ事件■努力とは、諸悪の根源か?

2008-08-13 06:37:14 | Weblog
通り魔事件とは何か?●願望主体と恐怖主体の間にある物語過程と心理過程

これまで見てきた秋田連続児童殺人事件と三件の通り魔事件との共通点を見るために、次のような問題について考えてみました。

 わが子を失った母親役を演じた畠山鈴香被告がなぜ豪憲君を殺害したのか?

 この問題を書き換えて、畠山鈴香被告はなぜ「わが子を失った母親物語」の中の主人公として最後まで生きることができず、豪憲君の殺害へと暴走したかとしました。
 つまり、母親物語と実際の行動はちがいは、「心理過程」の有無ではないかと。

 鈴香被告はまず犯人探しのビラを配るなどして、社会に向かって悲劇の主人公(願望主体)を立ち上げます。しかし、情報は一つとして寄せられず、唯一頼みとしていたテレビ局からも断られます。いくら努力しても報われないことから、警察に八つ当たりしたりと、心の中が荒れてきます。
 社会の厚い壁といいますか、壁にぶち当たって「犯人探し」の努力がくじけそうになりますが、ここで秘策を巡らせて、子供の誘拐事件を引き起こせば、警察もテレビ局も動き出すのではないかと思って、適当な子供を物色しますが、集団下校をしたりと、警戒している感じが伝わって、誘拐を断念。そんなところに、我が子彩香ちゃんと仲の良かった豪憲君が窓から見えたので、声をかけて、家に招き、豪憲君の無警戒心に乗じて(突然、恐怖主体を立ち上げて)絞殺。

 努力するいい人が最後には人を殺す悪い人に変じるところが、なんといっても物語の中の主人公であることを打ち消しています。
 このネジレに心理過程が関係しているというのは、自明の理でありますから、次のように、抽象化します。

a 彼は社会に向かっていい子(願望主体)を立ち上げ、努力する人を演じる。
b しかし、障害が立ちはだかり、彼の邪魔をする(協力者がひとりとして現われず、孤独な戦いを強いられる)。
c やがて彼は、敗北を喫する(彼は自らの稚拙な努力を省みることはせず、また敗北を認めようとはせず、怒りに猛り狂う)。
d 社会を困らせようと、奸計を巡らす。
e 再度、努力する人を演じるも、心はネジレているから、(不幸に遭遇した)悪役に徹しょうとする。
f 魔法の助力を手に入れる。(彼は神を味方に引き入れる?)
g 彼はある日突然に、恐怖主体を立ち上げ、人をあやめる。
h 彼はシルシを付けられ、逮捕される。


 今度は、個々の通り魔殺人事件に当てはめてみることにします。

秋葉原の通り魔事件の加藤智大容疑者の場合●


(事件のアウトラインは、後出しの予定)

a 彼は恋人のいない「不幸な」独身男(良い子)を演じるために、携帯サイトの出会い系に猛アクセスを試みる。
b しかし、障害が立ちはだかり、彼の邪魔をする(協力者がひとりとして現われず、孤独な戦いを強いられる)。

註1:加藤智大容疑者の場合は、社会からの「悪意の介入」は、「自分のツナギが隠された」というように、2重性を持つといえます。

c やがて彼は、敗北を喫する(彼は自らの稚拙な努力を省みることはせず、また敗北を認めようとはせず、怒りに猛り狂う)。
d 社会を困らせようと、奸計を巡らす。
e 再度、努力する人を演じるも、心はネジレているから、(不幸に遭遇した)悪役に徹しょうとする。

註2:今度は、出会い系ではなく、携帯サイトの掲示板に猛アクセスを試みる(王国を別の王国へ移動させるも、心はすでにねじれている)。

f 魔法の助力を手に入れる。(彼は神を味方に引き入れる?)

註2:加藤智大容疑者は、魔力の代わりに、6本のナイフと2トントラックを用意する。

g 彼はある日突然に、恐怖主体を立ち上げ、人をあやめる。

註3:加藤智大容疑者は、別の王国との間に密な連絡を取りながら、トラックで事件現場に行き、ホコ天で人をはねた後、ナイフで人を刺したりしている。

h 彼はシルシを付けられ、逮捕される。


下関通り魔事件の上部康明被告の場合●

(事件のアウトラインは、後出しの予定)

a 彼は社会に向かっていい子(願望主体)を立ち上げ、努力する人を演じる。

註4:上部康明被告は、何を思ったか、ニュージーランド(別の王国?)への移住を夢見、その資金作りにと、あの悪名高い「フランチャイズ」の軽貨物輸送のコツコツ仕事を始める。

b しかし、障害が立ちはだかり、彼の邪魔をする(協力者がひとりとして現われず、孤独な戦いを強いられる)。

註5:上部康明被告は、妻から離縁状を突きつけられ、9月の上旬に襲来した台風18号で、冠水した軽トラックが使えなくなるなど不幸に遭遇する。この上に、父親の拒否的態度が畳み掛ける?

c やがて彼は、敗北を喫する(彼は自らの稚拙な努力を省みることはせず、また敗北を認めようとはせず、怒りに猛り狂う)。
d 社会を困らせようと、奸計を巡らす。
e 再度、努力する人を演じるも、心はネジレているから、(不幸に遭遇した)悪役に徹しょうとする。

註5:上部康明被告の場合は、再努力の跡はない代わり、事件現場の下関の下見が挙げられる。

f 魔法の助力を手に入れる。(彼は神を味方に引き入れる?)

註6:上部康明被告の魔力は、文化包丁と「マツダ・ファミリア」と睡眠薬等である。

g 彼はある日突然に、恐怖主体を立ち上げ、人をあやめる。

註7:上部康明被告は下関駅で路上デビューを果たし、15人を死傷させる。

h 彼はシルシを付けられ、逮捕される。


池袋通り魔事件の造田博被告の場合●


(事件のアウトラインは、後出しの予定)

a 彼は悪鬼の棲む恐怖社会に向かっていい子(願望主体)を立ち上げ、苦難に遭遇してもメゲナイ努力する人を演じる。

註8:造田博被告の場合は、これまでの思い出したように努力する時々の努力家と違って、恒常的な努力家といイメージが強いが、努力の内容や目的等が不明。

b しかし、障害が立ちはだかり、彼の邪魔をする(協力者がひとりとして現われず、孤独な戦いを強いられる)。

註8:造田博被告の場合、「障害」とは、人を気違いに陥れる「酒」であり、トイレに行きたいのにそれを妨害する職場の上司や同僚である。「努力しない人」の用いる諸々の卑劣な行為である。

c やがて彼は、敗北を喫する(彼は自らの稚拙な努力を省みることはせず、また敗北を認めようとはせず、怒りに猛り狂う)。
d 社会を困らせようと、奸計を巡らす。
e 再度、努力する人を演じるも、心はネジレているから、(不幸に遭遇した)悪役に徹しょうとする。
f 魔法の助力を手に入れる。(彼は神を味方に引き入れる?)

註8:造田博被告の魔力とは、洋包丁とと金づちである。

g 彼はある日突然に、恐怖主体を立ち上げ、人をあやめる。

註9:造田博被告は、池袋の繁華街で路上デビューを果たし、8人の死傷者を出している。

h 彼はシルシを付けられ、逮捕される。

 造田は後に、「真面目に働いているのに評価されず、腹が立った」と供述しています。


(書きかけ)

続・非英雄論15■下関通り魔大量殺人事件■上部康明(35)被告の場合

2008-08-12 14:26:53 | Weblog

次数制限に引っかかりましたので、続きです。

再び、なぜ群集なのか?●土居の発見した「重力の法則」を援用すると・・・

 これ以上は望めない答え(ベストアンサー?)を出しておいて、さらに答えを要求されるっていうのは、公判で弁護士から重複尋問を受けるようなものですから、普通のケースなら、頭のおかしくなるところです。
(取調室での容疑者への検察官尋問は、こんな甘いもんじゃない?)

 ですから、この上に何の説明を加える必要があるかと思っているわけですが、とはいっても、図式だけでは説明不足は否めず、一方で、自分の力に負えない部分もあります。
 たとえ不完全な説明でも、ないよりはましだろうということで始めますので、ヨロシク。

 実際の対人恐怖症は、幼少期に受けた心的外傷が因となるケースが多く、長い潜伏期間をおいて突如として発症するため、症者は原因不明の症状に苦しめられます。
 これを図に表わそうとすると「PTSD→対人恐怖症」となりますが、この図を採用できないのは、両者がオモテとウラの関係にあるためと考えています。
 PTSDとはウラに所属するために、まさにPTSDであるわけですが、この傷の存在が治療者の協力で症者が自覚したとき、寛解の道が開けるのではないかと見ています。
 この自覚レベルにあることをオモテといえるのではないかと、私は受け取っています。

 図では、PTSDは願望を前提にして起こるウラの事件ですから、2番目の位置を占めます。
 では、初めにある「対人願望」とは何かというと、それが土居の言う「甘え」に相当します。
 この「甘え」の特徴は、いつも甘えたいというウラの感情で満たされていることです。これがPTSDなどで甘えられなくなると、「甘え」と「非・甘え」の関係が生まれ、このアンビバレンスな対処法として、日本人はそれぞれをウラとオモテとして使い分けているというのが、土居理論のコアではないかと見ました。

註:「いつも甘え」云々には、ニュートンの発見に比すべき、「重力の法則」の発見を前提にしては考えられません。リンゴは木から落ちるのが当たり前と思うように、幸せを求めるのは人間としてはあたりまえと処理するところを、土居は「心の中の重力の法則」によると見抜いたのです。

 ソトの流れとして、「対人恐怖症」から「対人嫌悪症」と変化するとしましたが、女性恐怖症の例から類推したもので、「あいつの顔なんか、見るのも嫌だ」というような症例を言います。
 そんな調子ですから「拒否症」に転じて、さらに、独身主義という形で、病的なゆるぎない自己を確立させる流れを言います。

 他の流れについては、説明の必要ないと見ていますが、残る問題はソトからウラへと降下するかどうかの点ですか。
 この点(水路)は、何を仮説するかで、説明内容が異なってきます。
 私が考えているのは、挫折を回避しようとして、ウラからオモテへ逃れる心的機制の存在。
 次に、逆の流れをもつ心的機制の存在。
 三番目に、この往来を可能にする仮説の存在。

 こういうものがあると仮定しての図式です。

 説明が不十分なのは承知の上ですが、この辺で。

 以上、「対人願望」についていうならば、土居の言う「甘え」を指すのではないかと思っています。
 この点は、そういう理解でいいと思っていますが、もう一つの「自己願望」が問題で、潜在的な「変身願望」ではないかと。
 これが、極端になると、「全能の神」を自己の姿と重ね合わせようとして、挫折するのではないでしょうか。
 人間はもともと神ならぬ身ですから、「挫折」というほうがおかしいんですが、幼児的ナルルシシズムに馴れ親しんだ人は、かかる変身願望に固執したことは十分に考えられます。

上部被告に対しては、そういう見方を採用しています。


土居健郎の「オモテとウラの精神病理」のこと●小川捷之のわかりやすい解説全文つき

 昔から精神科医の間で根源的な両価感情(アンビバレンツ)として囁かれていたのが「恐怖」と「願望」の2種の感情です。
 現代のことは、よくわからないのですが、多分、科学的裏づけの取れない「仮説」扱いでしょうか。
 これが「空説」扱いされずにいるのは、やはり、心のことを説明するのに「便利」な仮説だからでしょう。
 心の説明には非常に便利であるけれど、「実説」取り扱いができない理由は、なんといっても検出ができないことと、2元論的な説明に終始する点にあるのではないかと思っています。
 この背景には、1元論的な説明方法を科学的とする考えがあって、2元論的な説明方法を非科学的「魔術」的思考法と受け止められたからだと思っています。


 ところが、この2元論的な問題を方法的にクリアした論文に出会って、仰天しました。
 周知のとおり、土居健郎の「オモテとウラの精神病理」なんですが、「私は、これは日本人がアンビバレンスに対処する仕方であろう」と前置きして、ちょっと長いんではないのと思われるくらいの、丁寧な基盤整備に取り掛かります。

「そこでここではオモテとウラという日常語を、もちろん言葉自体が欧米語に翻訳できないわけではないが、しかし人間特有の意識構造を意味する用法は日本語以外には見当たらないことと、しかもこの言葉が比較的中立的で価値判断の意味合いを持つことが少ないので、そのまま使うことにしたいと思う」(同上)

 と、断りを入れた後の切り込みが素晴らしくて、呆気に取られたというわけです。
 それまでの私は、土居の書き物をかるんじる気持ちがあって遠ざけていたのですが、無論、これには理由があります。
 確か、「甘えの構造」だったでしょうか。冒頭に、外国で暮らしていた子どもが日本に来て急に甘えだして困るという母親の訴えがきっかけになって、甘えを研究対象にしたとはっきりと述べています。
 子どもが甘えだしたのは、場所見知りとでもいいますか、恐怖を覚えてのことですから、「甘え」と「恐怖」という二本立ての研究をスタートさせるべきところを「甘え」に限定したから、片手落ちのやり方だと思って、不満に思ったわけです。
 それだけではなく、片翼の飛行なんてやがて失速して墜落するぞとまで思っていたわけです。

 それが気づいてみると逆転していたといいますか、土居は成功したが私は失敗した、この明暗を分けたものとは何かと、とにかく疑問に思ったわけです(その前に、彼我を同じ土俵の上にのせて比較するなんて、雲泥の差があってはじめから比較の対象にするのが無理な話といった雑音が気になりましたので、勝手に消去いたします)。
 その謎が解けたといいますか、土居はそのとき「甘え」を精神科医として心=ウラの事象であるから考察の対象として選択する一方で、「恐怖」の方を意識のオモテの事象として考察の対象外としたいきさつが読み取れたわけです。
 ということは、三歳ぐらいの幼児にあらわれるアンビバレンスな態度は両価的ではあっても、根源的ではないことを意味します。
 土居に言わせれば、より根源的なのは「甘え」であって、「恐怖」はよりオモテにあらわれやすい感情ということになります。
 正解はどっちとかいうことではなく、そういう認識を持っていた土居は成功したが、私は「恐怖」は「根源的」との思い込みが強すぎて失敗したことに気づかされたのです。
 そういう次第で、軌道修正をおこなうと同時に、土居の方法を採用してみることにしました。

 ここで、土居の論文の読んだあとの自分なりの理解の内容を明らかにしますと、心にはウラがあるのみで、心にウラとオモテの2種があるのではない。それは矛盾する。根源的なものとして「甘え」と「非・甘え」の2者の平行関係を仮定して、「ウラ=甘え」と語規定を行う一方で、「非・甘え」には多義性を温存させている。そして、両者は相補性としたことで、和製構造主義的な手法をとりいれている。
 しかし、土居理論は致命的な欠陥を有しているために、一時的な隆盛を極めることができましたが、それが原因の今日の精神医学の低迷を誘ったと見ています。
 背景に、ヒトゲノムの解析に始まった、発達の著しい遺伝子工学?や大脳生理学?や再生医療学
?に基づく薬理学理論の優位性が存在するのかもしれません。
 一方で、オモテとウラという言葉は使い勝手がいいわけで、ここから語規定を行うと、オモテは「抑圧」に関係し、ウラは「検閲」に関係している可能性があります。
 言い換えますと、フロイドを超える理論が提示された可能性があるということです。
 前に一度引用しましたが、再度行います。

 土居は、「オモテが出来るということは現実に適応するということであり、そこには当然超自我が関与している。またウラが出来るということは本能衝動が防衛されているということであり、そこにはもちろんエスが関与している」と前置きして、次のように、述べています。

「オモテとウラの変容の第三は、オモテとウラの分化は出来ており、精神生活がこの二本立てによって行われるという原則は確立しているが、ウラの形成に不十分な場合である。ウラ付けがうまくいっていない。あるいはウラに無理なところがあるといっても良い。要するに、本能防衛に問題があるのであって、この際本来はウラにしまっておくべきものが、何らかの刺激を受けると、本人の意図に反して、オモテに顔を出すことが考えられる。オモテがウラを守らずに、かえってウラがオモテに侵入する結果となる。そして不安という現象は恐らくこのことと関係があるのではなかろうか。この種のウラとオモテの変容は日常最も頻繁に起こるものということができるのである」(土居健郎「オモテとウラの精神病理」論・所収『現代のエスプリ』127号)

 『現代のエスプリ』所収の土居の論文は理論提示にとどまっている関係で、依然として私もそうですが、理解は難しく、代わりに、添付の小川捷之のわかりやすい解説の全文引用を行います。

「ここで、土居の考察した神経症の箇所を対人恐怖に読みかえて考えてみたい。まず、自--他が病気と認めるか否かという観点であるが、たしかに対人恐怖の者は、自己を問題にする意識が熾烈で、自分自身の否定的な側面を過剰までに気にし、訴えるといえる。しかし、周囲の者にとっては、その個人が自己の問題をそのように深刻なものとして悩んでいるとは受けとってはいない。特に、対人恐怖の場合、彼等は自己の小心さを隠そうとする。そして、中間的な親しさの間柄では、極めて傲慢であったり、大胆に振舞ったりする。そして、治療者などとの親密な収斂した関係では、大いに依存し、甘え、自分のことを雄弁に物語ったりする。
 第三の秘密の有無に関してであるが、症者のほとんどは自己の秘密を秘密として守ることが出来ず、誰かにそれを打ちあけようとするか、もしくは、それが他の人の目に触れるのではないかと恐れる。症者には、自己の秘密を、「秘密」として自己の内に保持し続ける強固な自我は期待できないといえる。つまり、症者にあっては「オモテがウラを守らず、ウラがオモテに進入してしまう」のである。
 土居は、この点に関して日本人は「甘えの感情にいつも生きており、しかも甘えはアンビバレンスの原型と考えられるので、これをさばくために、オモテとウラを使いわけることを身につけた」と述べている。日本人は「甘え」と甘えられないことからくる「恨み」の両価性の中で生きているということができる。そして、症者では、オモテとウラ、タテマエとホンネを「さばく」柔軟な自我機能が十分に機能していない。つまり、これらをさばく核になる「自分」を見失っているといえる。」(小川捷之「解説」同上所収)


:「非・甘え」の語規定が厳密性に欠けるせいか、解説者までが「恨み」と誤解して受けとっています。


非英雄論15■下関通り魔大量殺人事件■上部康明(35)被告の場合

2008-08-12 14:23:27 | Weblog
通り魔殺傷事件●標的は、なぜ群集なのか?

この疑問に対して、「社会に不満があり、誰でもいいから殺してやろうと思った」(事件録)と上部被告は供述しているみたいですが、背景には、「社会=群集」と--観念連合というのですか、そういうのがあって、群集が標的にされたのかと思いましたが、もとより思うだけでは埒が明きません。
 そこで、手ががかりはないかと思って、見つけ出したのが、次の文章。

「それではいかにしてこの社会的自己像の歪曲が生じたのか。対人恐怖症者は周知のように、家族的な集団の中では恐怖を感じない。また非人間的な群集に対するときも苦悩は少ない。・・・彼らがもっとも苦手とするのは両者の中間にある社会的集団、とくに家族的集団に近い級友、同僚などである。この間の事情はつぎのように想像することができる。彼らは家族的集団において享受した愛情、承認、屈託ない気持ちなどを、社会的集団のうちにあっても当然のものとして求めつづける。その要求が挫折するとき、かれらは混乱におちいり、原因をその要求の不当さに帰するよりもまず自己の欠陥に求めて、その矯正、改善のために不毛の努力を重ねるのであると。このような要求を向けえない非人間的な群集に対して、不安を生じる余地の少ないのは当然といえよう。・・・・・自律的自我の持ち主と、他律的で自己の位置づけと安全を周囲の評価にゆだねた個体が、家族的集団より社会的への生活にひろまりにつれて未経験の新しい状況に置かれるさいの心的状況の違いは、日本にとくに対人恐怖症の多い理由をよく説明している。・・・(『現代のエスプリ』NO.127『対人恐怖」・山下格「対人恐怖症の心理機制および治癒転換--とくに小集団精神療法について」)


 見られますように、山下は対人恐怖症者は「非人間的な群集に対するときも苦悩は少ない」としているわけですから、対人恐怖症者は外圧みたいなストレスを群集に対して覚えない以上、「群集憎し」といった結論は導きがたいわけです。

 この点は大いに不満に思ったわけで、自分流儀のやり方で洗い直し、再度この問題に立ち返り、俎上にのせてみたいと思いました。

 ヒントは、「等身大の自己」でしょう。森田正馬の開発した「恐怖突入」なる療法とは、等身大の自己を自分が受け入れることから始まる療法ではないかと見ています。

 言い換えますと、被告は「等身大の自己」を生きることができなかったから、「対人恐怖症」に苦しんだのではないんでしょうか。


名が先か、症状が先か■隠れた鶏卵論争


「対人恐怖症」とは、そもそも「無名」のある恐怖症状があって、それをあとから「対人」云々と名づけたものでしょうか。そうではなく、まず先に、対人なる「名前」があって、そのあとから恐怖症状様の患者が出てきて、しかるべき名札の付いた「檻?」に収容したという感じなのでしょうか。

 簡単に言えば、「名前」が先か、「症状」が先か、という問題なんです。
 通常は、外来患者はわけのわからぬ自覚症状に悩んでいて、先生が「名前」をつけてくれるわけですから、先生にとっては「名前」が先で、患者にとっては「症状」が先といえるのではないかと。

 これに似たものに、鶏卵論争があります。
 ご存知のように、「卵」が先か、「鶏」が先か、という生物学論上の論争で、親の立場にしてみれば、「鶏」なる親鳥がいて次に「卵」を産むなどして存在するのだから、「鶏が先」と答えたくなりますが、これは飽くまでも「親の論理」にすぎず、卵から孵って雛になり親鳥になったのだから、「卵が先」という答え方もあります。

 この鶏卵論争に「卵が先」と答えを出して見せたのが、幼女連続殺人鬼として悪名を全国に轟かせた宮崎勤という男ではないかと見ています。
 といいますのは、「資料」を見られるとわかりますように、あたかも「今野真理」ちゃんが母であるかのように、成人女性「今田勇子」を誕生させているからです。
 手紙の中では、「私は、私の不注意からなる不慮の事故で,5歳になる、たった一人の子供を亡くしてしまいました(告白文)というように、母親役を演じさせています。

 この場合、保育園児の幼い子どもの名前であったしても、ペンネームの「今田勇子」を誕生させる過程では、母親役を務めたのだから、「母親が先」、つまり、「鶏が先」の例ではないかと反論されると、返す言葉がなくなります。

 問題は、「正解」を探り当てることではなく、どちらの答えを支持するかということではないかと。
 ですから、宮崎は「卵が先」と答えると思っていますから、そういう人間は親不孝の論理を身につけるのではないかと。

 話を戻しますと、「名が先」と答えるのは、親の論理であり、管理できるという考えに立っているわけです。
 これに対して、「症状が先」と答えるのは、子の論理で「親不孝」の論理を振りかざしますから、「症状」は暴れまわるといえないでしょうか。

 下関通り魔事件というのは、精神科医が管理できなかったことから、さらに、上部被告自身も管理できなかったことから、「症状」が突出しての凶行ではなかったという見方もできるのではないでしょうか。


「対人恐怖症」という神経症は、寛解はあっても決して治ることはない、不治の病ではないかという感想を持っています。


ある図式の意味するもの●対人憎悪が転じて通り魔変身願望か?

●●管見をここで書きますと、「恐怖」という感情をいつまでも持していると、「嫌悪」の情に転じます。この点は、ホラー映画で恐怖シーンを引っ張りすぎると、気分が悪くなる例と大いに関係があると思っています。
 この流れは、「拒否」症状を呈して、自己回復といいますか、落ち着いてきます。
 これには、もう一つの流れがありまして、「願望」があとに、「憎悪」に転じるものです。
 わかりやすいように、「女性」を頭にかぶせますと、次のようになります。

A 女性恐怖症→女性嫌悪症→女性拒否症

B 女性願望→挫折→女性憎悪

 結論だけを取り出しますと、「対人恐怖症」がねじれて「対人憎悪」に化けて、通り魔事件を起こしていることです。●(拙記事より抜粋)


(ここで提示の図式に科学的合理的な論拠が不十分のため、目を通すわけにはいかんとお考えの方は、拙ページの終わりから入って、納得されましたら、ここに戻ってきてください)


 前の記事では、「ねじれて」いる(=ジャンプ)としましたが、丁寧に追ってみると、次のようになりました。
 青色のG体がそれです。


A 女性恐怖症女性嫌悪症  →女性拒否症→独身主義(ロリコン)?
            ↓
B 女性願望   →挫折(PTSD) 女性憎悪 →女性殺害願望


 上は、うぶ(?)な女性恐怖症者が「女性殺害」を行うまでの、屈折したメンタルな過程を表わしています。具体的に人物をあげるならば、栃木の小平義夫に群馬の大久保清などの連続殺人鬼です。
 式の説明としては、Aの流れは、心のオモテにあらわれる起承転結の流れを表し、Bの流れは、心のウラで起きる起承転結の流れを表しています。
 それを「対人」に置き換えると、次のようになります。


C 対人恐怖症対人嫌悪症  →対人拒否症→独身主義?
            ↓
D 対人願望   → 挫折(PTSD) →対人憎悪  →通り魔変身願望


 書くまでもなく、図式で表われるものは、人体の骨格に相当しますから、肉付けしてモデルの出来上がり。これに命を吹き込んでやれば、モデルは「生命」をもらって、後は勝手に独り歩きをするんじゃないんですか。
 いずれにしろ、通り魔殺人事件において標的が「なぜ群集なのか?」という謎に対して、図示の面では成功したと思っています。

(ここまでは楽勝と思っていたんですが、そのあとが意外や難作業が待っていて泣かされました)


 起承転結の中で、「承」のところで、往来可能な「水路」みたいなものがあって、オモテからウラへと降下したため、本来は、「対人拒否症」を呈して、独身主義者に納まるはずが遮断され、「挫折」を介して、「対人憎悪」と転じ、「通り魔」に変じたことを表しています。

 もう一つの「対人恐怖症」として、「自己恐怖症」を仮定する必要があります。
 たとえば、「赤面恐怖症」なんて、誰が考えても、「自己恐怖症」と判断するんじゃないんですか。

 で、それ用の図式が下。


E 自己恐怖症自己嫌悪症   →自己拒否症→他人依存主義?
            ↓
F 自己願望   →挫折 (PTSD)  →自己憎悪→自殺願望


 見られるとおり、「自殺」にいたるまでの屈折した心の流れを図示したものです。

(見慣れぬ用語のため、戸惑いや混乱する方もおられるかと存じますが、適当に自己イメージを膨らませていますと、やがては慣れてきます。私もはじめは、そうでした)

 仮に、上部被告が凶行前に自殺願望を抱いていたするならば、上の図式を前の図式に組み込んでみる必要があります。


C 対人恐怖症対人嫌悪症  →対人拒否症→独身主義?
            ↓
F 自己願望   →挫折 (PTSD)  →自己憎悪→自殺願望
            ↓
D 対人願望   → 挫折(PTSD) →対人憎悪  →通り魔変身願望





非英雄論・別巻●今田勇子の「犯行声明」に隠されたメッセとは?

2008-08-11 08:11:40 | Weblog

メッセージは「RORI・MIYASAKI」●

 「今田勇子」とは、比喩的に言うならば、最初の被害者「今野真理」ちゃんの名前を母として誕生した子なのです。

 たとえば、

  今野真理
  今田勇子

と並べてみると、二つの名前はよく似ています。「今」の共有をはじめとして、「田」を内に含む漢字がいくつか見られます。「野」や「理」や「勇」です。

 二つの名前には、共通点や類似点が見られることから、もし今野ちゃんの「野」のヘンである里が今田の田と関係するのならば、「野」のツクリである予は勇子の「勇」のカシラであるマと関係するのではないかと仮定してみました。
 すると、真理ちゃんの「理」はヘンもツクりも田に化ける結果、勇子の「勇」の中央部の田と対応します。
 つまり、数学でいう「最大公約数」に似た「最大公略字化」というルールの存在を仮定したのです。

 そうすると、「真」と勇の一部「力」と「子」の三つ言葉がいわば余ることになります。

 下の表を参照。

母型   簡略化   組立て   字余り
   
   
       
(真)   ‐‐ (真)
  (力)
        ‐‐ (子)

 余った三つの言葉が解読の際のキーワードになると、ごく自然に考えることができました。
 たとえば、「子」が<子に始まる>ならば、「力」は「勇」という漢字の位置関係から<下に力>。「真」は、<裏に真あり>と読め、メッセージの存在を暗示するものと解しました。

 次に、「犯行声明」に目を通してみると、

   母親も中に居たよウです。

と、何でもないところにカタカナを用いた例が散見できます。目印に、小石を置いたようなものです。
 目障りな用例を全部ピックアップすると、次のように十八例にのぼります。

①母親も中に居たよウです。
②うまくいったといウより、女同志でしたので、真理ちゃんは怪しまなかったと説明した方が適切でしょう。
③そこで、真理ちゃんを泳かせ、真理ちゃんを見守るのではなく、私達二人を誰かが見ていないかどウカを見守ります。
④⑤すると、誰も来そウにないといウ気が集中して、異様な程に、胸が高まってくると、なぜかモヤモヤしてきました。
⑥⑦⑧⑨⑩⑪そして、子供を産むことが出来ないくせに、こうして目の前に自由な子ガイルといウ、自分にとっての不自然さが突如としてぶり返し、「このまま真理ちゃんを家に帰しては……」といウ思いのよぎりと、「今なら誰も見ていない」といウ思いのよぎりガ交差し合い、モヤモヤした、とめどもない高なりガ一気に爆発し、目の前の水を武器に、私は、真理ちゃんの髪の毛をつかみ、顔を川へ沈め、決して自分が、いいというまで、頭を水面から上げさせませんでした。
⑫私は、つい最近まで、私しカ知らない場所で、真理ちゃんを持ち続け(置き続け)ていたのです。
⑬やガて、正美ちゃん、絵梨香ちゃん事件が起こりました。
⑭ところが、どウでしょう。
⑮てっきり、冷たくかたくなった人間ガそこに居ると思っていたのに、何とそこには、真理ちゃんの骨だけになっているではありませんか。
⑯もウ一つ、歯医者という人は、歯だけを鑑定する人。
⑰・・・もウ、せつなく、真理ちゃんの御葬式を早くしてあげて欲しいからなのです。
⑱・・・このようなことは、もウ決していたしません。

 上の十八例の中から、カタカナの前の一字のみすべて拾い上げると、「よいどそいこいいいりりしやど間ももも」という意味不明の十八字構成のの文ができあがります。
 カタカナの種類は、ウソのウ系と真文字のガ系に二分可能です。

 この点の踏まえると、次のような一覧表が出来上がります。

用例の
順番
カタカナの
前の文字
カタカナ
の種類
真偽の
判定
 




































ウカ


ガイル











×
×

×
×

×
×
×




×

×
×
×
 

上の表では、「どウカ」の判別に迷いますが、キーワードの一つ《子に始まる》を採用すると、⑥の「子ガイル」が暗号文の始まりの文字を指すのではないかと考えました。
 従って、以下順にガ並びにカをマークすると、「子りりしや間」という六字構成の意味不明の文が取り出せることになります。
 最後の仕上げは、「子りりしや間」を使ってのアナグラム(つづり換え)です。
 たとえば、恋人同士の太郎と花子が自分たちの名前をローマ字に書き換えて、「UTO NAKA
RHO」とし、これを「歌えば、二人の仲は、良好に」と読む位のことは朝飯前でしょう。
 他には、LoveをVoleと書き換えると、神聖な「愛」が卑小な「ハタネズミ」に化けるように、その間の落差感が楽しめることになります。

 そうやって「子りりしや間」をローマ字に変換すると、「KORIRISIYAMA」。宮崎は、自分の名前を充てたと推理を働かせましたから、犯人の名前「MIYASAKI」を省くと、「RORI」という言葉が後に残ります。

 「ロリ」とは、「ロリーターコンプレックス=幼児性愛者」の略語と思いましたから、犯行声明に隠されたメッセージは「ロリ・ミヤサキ」となるのではないでしょうか。



追記■あとに「犯行声明」の原文に触れることができまして、2個ある「り」の内、1個は平仮名と判断しましたから、より正確にいえば、「子りしや間」。従いまして、メッセは、「ロ・ミヤサキ」と改めます。


非英雄論14■下関通り魔大量殺人事件■上部康明(35)被告の場合

2008-08-10 15:51:18 | Weblog
 画像のネタは、ポールデルヴォー『街の入り口』(『現代のエスプリ』NO.63「エロス」の口絵より)
 「この男性不能と去勢化の様相は、理性の完全な支配ではなく、むしろ弧絶した現代人の性的疎外と愛の不毛を物語るのだろうか。女性讃美の絵と見えながら、男の自己愛と女性恐怖の病根を深く分有している。デルヴォー的な少年期退行は、明らかに現実の女をではなく、年齢も恥部の有無もこえた憧憬的女性の原型(母性)を希求しているのだ。・・・(「口絵解説」末永照和)

下関通り魔殺人事件は、対人恐怖症の裏返しの急性発症■対人憎悪の爆発例?

上部被告は、上辺だけの「自己確立」の道を生きた人だったのかという驚き、あるいは、一流の大学を出て、1級建築士の資格を持ちながら「なぜ?」とかいった素朴な疑問は、誰しも持たれるのが普通だと思います。

 その点に関しては、畠山鈴香被告のように、「自己確立」よりも「心の問題」を抱えていて、この克服を人生最大の目標に置いていたから、上部被告は「大人になりきれなかった」ひとりであろうと私は見ています。

 で、どんな「心の問題」を抱えていたかといいますと、次の引用にありますように、「対人恐怖症」とされています。

【上部について】

 上部康明は下関市の北隣に位置する豊浦町に1964年に生まれた。(豊浦町は05年に下関市などと合併している)
 両親はともに教師。妹が1人いた。上部は地元の高校を出て、一浪したのち九州大学工学部建築学科に進んだ。ここまで熱心に努力を続けてきた上部は「大学では思いきって遊ぼう」と考えていたという。だが入学してみると、「みんなが自分のことを嫌っているのではないか」と思い始める。対人恐怖症(※)だった。
 大学卒業後も上部は「人間関係が嫌だ」となかなか就職しなかった。このため87年には心配になった両親が東京の病院に入院させ、「森田療法」(※)の治療を受けさせた。88年5月には福岡市内の精神病院に入院している。
 その後はいくつかの職場を経た後、福岡市内の設計事務所に勤めた。この事務所は所長と2人だけの職場で、上部も人間関係に悩まされることも少なくなった。症状も落ち着いていったという。だが一級建築士の資格を取得したのを機に、92年に退社して、父親の援助などもあり自身の設計事務所「康明設計」を開き、93年10月には結婚相談所で出会った女性と結婚し、福岡市内で生活していた。保母をしていた妻は二級建築士の資格をとり上部をサポートしていた。ここまでは多少のつまづきこそあったがまあ順調だった。(『事件録』「下関通り魔事件」)URA:http://yabusaka.moo.jp/simonoseki.htm


 念のため、『現代のエスプリ』NO.127『対人恐怖」に目を通してみたら、「性的羞恥心」みたいな自然な感情の発露を「ふがいない自分」とみるところから対人恐怖症を発症するというようなことを書いています。
 この点は、冒頭の末永氏の言葉「女性讃美の絵と見えながら、男の自己愛と女性恐怖の病根を深く分有している。デルヴォー的な少年期退行・・・」とは、若干の食い違いがありますが、イメージ的には、「デルヴォー的な少年期退行」のまま、上辺だけのオトナを生きていた上部被告と重なり合う部分があると思います。

 管見をここで書きますと、「恐怖」という感情をいつまでも持していると、「嫌悪」の情に転じます。この点は、ホラー映画で恐怖シーンを引っ張りすぎると、気分が悪くなる例と大いに関係があると思っています。
 この流れは、「拒否」症状を呈して、自己回復といいますか、落ち着いてきます。
 これには、もう一つの流れがありまして、「願望」があとに、「憎悪」に転じるものです。
 わかりやすいように、「女性」を頭にかぶせますと、次のようになります。

A 女性恐怖症→女性嫌悪症→女性拒否症

B 女性願望→挫折→女性憎悪

 結論だけを取り出しますと、「対人恐怖症」がねじれて「対人憎悪」に化けて、通り魔事件を起こしていることです。


 これで何かがわかったかというと、そういうものはまるでありません。

 この下に何かが隠されており、それが何か、ということを掘り下げてみる必要を痛感しています。

ポール・デルヴォーの暗号解読●メッセは「世界の終わり」?

末永は、ポール・デルヴォーの絵を解釈して、「母性の希求」としたわけですが、とんでもありません。

『街の入り口』では、一人おいて右側にいる金髪の女性がまずエールを送ります。「あたしの裸を見れば、男なんてイチコロよ」と内心では思っているとみて、ほぼ間違いありません。
 中央で立ちすくむ女性は「豊かな母性」の象徴です。この裸の意味が謎です。
 続いて、右端の女性は、強力なライバルの出現に対して怖くなるぐらいの黒々とした背中を見せて、けん制しています。
 画家の分身と思われる上半身裸の男(セレブのお坊ちゃま?)の上にいる女性は、以前は取り巻きの一人だったんですが、男の「無関心」に負けて立ち去りはしても、未練が捨て切れず、少し離れたところで男の出方を見守っています。
 このように絵の中に登場する女性は、すべて意味があります。

 独りの男の持つ求心力を失うと、女性たちは「惑星」のように宇宙の漂流を始めます。
 まず手始めに通りすがりの謹厳な中年男に媚を売りますが、男のほうはすでに女心を見透かしていますから、無視します。
 で、やむなく、女たちは集ってレズに耽るというわけです。

 というように、絵に登場する人物は、重力の法則に縛られています。
 この「重力の法則」を手掛かりにして、読み直しを行いましたら、次のようなギリシア神話の存在を発見しました

 地図を読んでいる少年は、木星を意味して全能の神ゼウス。隣の美しい女性は金星で、愛と美の女神ビーナス。そのお隣のこれまた美しい(眺めているだけで、涎の垂れてくる)女性は火星で、好戦的な軍神のマルス。そして、怖いぐらいの黒々とした背中を見せているのが土星で、農業の神のサターン。占星術では、禍の星?
 少年の真上にいて、遠くで見守っているのが水星で、守護神のマーキュリー。

 背中を見せて歩いている男は、海王星で、海神のポセイドン。ゼウスの兄弟なんですが、「常に、三叉の鉾を持ち、青銅のひづめと黄金のたてがみをもつ馬が引く戦車に乗り、海の怪物を従えて海原を走る」(広辞苑)勇ましい面影はありません。
 レズビアンに耽る二人の女性は、大地の女神ガイアと月の女神ルナでしょう。

 ガイアの夫である天王星を意味する天津神ウラノスは、不在。
 不在だから、ガイアはさみしくてさみしくてたまらず、お月様とエッチせざるをえなくなったわけでしょう。
 この意味を裏付けるキーパーソンが、冥王星を意味する黄泉津国津神プルートーです。

 どういうことかといいますと、その絵の世界が地上的現世的であるのならば、天津神ウラノスは、どこかに潜んでいるはずです。
 しかし、彼の妻ガイアが月の女神ルナとレズに耽るということは、夫の不在(仮に、死亡のケースだと、かかる未亡人は再婚相手を探すのでは・・・)を告げていることになりますから、絵の持つ地上的現世的な意味が剥奪されます。

 次に、冥王星を意味する黄泉の国津神プルートーなんですが、それらしき人物が絵からは見つかりません。
 ですから、全能の神ゼウスが黄泉の国の神プルートーを兼任しているのかなと仮定しました。
 この点について調べてみますと、次の引用にもありますように、二つの神はあきれるほど仲のいいことがわかりました。

「クロノスを王位から退けてしまうと、ゼウスは兄のポセイドーンやプルートーンといっしょに、クロノスの領土を分割しました。ゼウスの取り分は蒼穹(おおぞら)で、ポセイドーンは大洋、プルートーンは死者の国でした。そして地上とオリュムポスとは三人の共有の領土になりました。こうしてゼウスは神々と人間との王になったのです。(大久保博訳『ギリシア・ローマ神話』角川文庫・定価580円!)

「兼任」だけでは、解釈としてはクソ物足りないので、思い切って「ヤーヌス」にしてみました。

「ヤーヌスは門の守護神ですから、そのため普通、二つの顔を持った姿で表わされています。というのは、門はどの門でもみな二つの方向に面しているからです。(同上)

 上の引用の解説にもありますように、絵の中の少年は単に二役を兼任しているのではなく、門番ヤーヌスとして、世界の片っ端(絵の中では、一隅)に身をおいて監視活動の拠点にしているのです。

(註:あれで「監視?」と、いぶかるのではなく、ああやって監視業務に専念していると解するほうが無難です。傍から見ると、腰掛けて楽そうですが、実際は、しんどいと思いますよ。大体が、ガードマンの仕事というのは、フリーな身動きができないんですからね)

 もし仮に、拠点が「特異点」であるならば、宇宙の始まりを支配しているのが全能の神ゼウスであり、宇宙の終わりを支配しているのは、黄泉の国の神プルートーということになります。

 私が思いますには、ポール・デルヴォーというベルギーの画家は、「宇宙の終わり(=究極?の地獄)」を表現したかったのではないでしょうか。
 それが絵に託した現代にまで伝わるメッセージ(タイムカプセル)であり、多分、世界で最初に受信(発掘)に成功したのが・・・、と、まあ、こんなことはどうでもいい事柄なんです。
(転載の依頼があり、お金をくれるというのであれば、話は変わりますけど・・・夢のまた夢の話?)

 言いたいことは、ポール・デルヴォーの絵の持つ意味が凶悪な事件を引き起こした犯人の心の世界を照らし出しているのではないかということです。
 つまり、全能の神ゼウスと、黄泉の国津神プルートーという二つの顔を持った絵の中の少年像(良い子?)が外の世界へと飛び出したのが、ほかならぬ彼ら殺人鬼ではないかと・・・。


締めくくり●形式的なこととはいえ、これを書くと、中にはくどいと思われる方もおられるかもしれませんが、私と末永の解釈上の相違点は、「世界の終わり」と「母性の希求」とした点にあります。
 これも、厳密に言うと、さしたる違いはないのかな、なんて思ったりもしています。


再び、締めくくり●絵の解釈としては、三通りありまして、全能の神ゼウスが門番を勤める人間界(世界の始まり?)とギリシア神話の世界と黄泉の国津神プルートが門番を勤める「世界の終わり」。
 それぞれの世界のもつ特徴は、ゼウスの支配する俗界では、個々の登場人物が「重力に法則」に縛られて意味付与が行われ、有機的な関係を保っていることです。
(ヒントは、黒い背中の女性で、ここから誰が見てもわかる、俗流の解釈が成立する《朝》の場所)。

 神話の世界では、神々は意味ありげな場所に立たせられ、神の役割を演じますが、他との関係付けが断たれ、(生死不明のまま)バラバラの状態で投げ出されています
(ヒントは、「重力の法則」で、ここから絵解きがはじめられるが、読解には神話的な知識が不可欠の《昼》の場所)。

 地獄の世界では、黄泉の国津神プルートが支配する限り、神々は明らかに死した物(マテリアル)として投げ出され、マネキン人形化されています。
(ヒントは、レズに耽る大地の女神ガイアと月の女神ルナ。自然と、天津神ウラノスの不在が読み込まれ、隠された絵の意味「黄泉の国」が浮上してくる。ここからはもはや読解の困難な、死後・死前《世界の終わり=夕?》の場所)。

 気の弱い新入生は、早々に教室の片隅を占拠します。これも彼特有の監視業務です。というのは、怖い世界に対して番をしているわけですから。


犯行予定日の1999年10月3日は「父さん・倒産・通さん」

■【凶行】

 予定していた日(註:10月3日)の4日前の9月29日、親から「冠水した車の廃車手続きは自分でするように」と言われて「この期に及んで面倒な廃車手続きをするなんてたまらない」と腹をたて、急遽計画を変更、自宅を軽自動車で出ると、下関市内で文化包丁を購入、午後1時過ぎに駅近くのレンタカー会社に車を預け、白の「マツダ ファミリア」を借りた。そして睡眠薬を飲んだ上部は車を発進させた。

 午後4時20分頃、下関駅改札口付近は旅行代理店や売店、食堂が並び、下校途中の生徒やサラリーマンらで混雑していた。そこへ猛スピードで乗用車が駅のガラスを破り突っ込んできたのである。暴走した車は通行人7名を次々と跳ね飛ばした。改札口あたりで車を停めると、上部は文化包丁を振り回しホームに向かった。途中で1人、ホームで7人切りつけている。午後4時30分頃、そこで上部は現行犯逮捕された。結局この事件で5人が死亡、10人に重軽傷を負った。(『事件録』「下関通り魔事件」)URA:http://yabusaka.moo.jp/simonoseki.htm

中島虎彦の死を悼む

2008-08-10 13:30:18 | Weblog
画像は、数少ない友人のひとり、中島虎彦氏
障害者の文学『虎の巻』より借用。

http://apiarance.web5.jp/torahiko/

盟友ともいうべき中島虎彦が亡くなった。なんていうことだ。
私は中島から「マゾチックな書き方」と自由を奪われてもなおかつ生きてあることが幸福であるような「絶対的な幸福」を学んだ。
クソッタレメ!
心より冥福を祈る。

「2007年3月、脳出血にて急逝された。53歳、早すぎる船出だった

■中島虎彦 追悼

佐賀の詩人中島虎彦氏の死を知る。学生時代に体操部での練習中に脊髄を損傷し生涯にわたって車椅子による生活を余儀なくされた。「障害者の文学」と呼ぶカテゴリーを立て、そこであらゆるジャンルにわたる作品を書き続けた。小説や詩、短歌といった文学的なジャンルよりも上位に、健常者と障害者という社会的なカテゴリーを置くこと、そこに中島氏の思想的な核心がある。芸術への過剰な思い入れは、その背後に挫折者の絶望的な自己救済を隠し持っているとしても、普通なら練達した芸術的表現は社会的な差別や劣等意識からの逃避を完成してしまう。ところが中島氏はけっして逃避しない(プロ化しない)という決意によって文学に登場した。それは、文学にスポーツマンシップを書き加えたのである。

彼岸花にはアゲハ蝶がよく似合う私に車いすが似合うように

歌(詩?)としては二流の作品だが、その自嘲、自嘲をさらす傲慢、弱者の強さ、そして思想的強靭さの中の弱さを表現してそれは評価に値する。中島氏は社会への抵抗を、芸術的抵抗に仮託したのだと思う。なぜか文学は挫折者の天下り先なのだ。そして挫折の昇華を賭けられた文学は、悲劇的にも停滞の文学となる。真の挫折は、芸術的抵抗の先にこそあるのかもしれないのに、そこに行き着くことはなかった。

直接面識はなかったが共通の知人は何人もいた。ぼくの詩の引用や評も書いてくれた。障害者の文学「虎の巻」

なお、私はこの五月から新築の嬉野市営住宅で自立生活に踏み切りました。もう十年ぐらい前から市に要望していたのが、ようやく実ったものです。やはり何事も諦めてはいけませんね。五二歳からの遅い船出ですが、まだまだ人生はこれからです。
第二歌集『とろうのおの』あとがき

追悼文は、『坂のある非風景』より全文引用

http://freezing.blog62.fc2.com/blog-entry-280.html


非英雄論13-8■続・秋田連続児童殺人事件■芹沢俊介の遺棄論を援用すると

2008-08-10 09:15:08 | Weblog
「遺棄願望」の無限連鎖構造●オモテとウラは?

 これまでに書いたことと矛盾するかもしれませんが、凶悪的な犯罪行動を分析してみると、最初に露呈するものは、犯人の恐怖との一体化であります。次に、魔力を身につけ、復讐じみた願望を実現すると凶悪な事件としてあらわれるということです。
 なぜこのような記述になるのかといいますと、恐怖と一体化する以前の彼犯人は、非・反社会的人物だからではないかと考えました。

 たとえば、1988年7月16日の報道「母親に置き去りにされた十四歳の少年とその妹たち三人が、置き去りにした母親からの送金を頼りにマンションの一室で暮らしていたが、そのうちに少年がその友だち二人とともに、三歳にもならないひとりを妹をなぶり殺しにしてしまった」を受けて、芦沢俊介は、次のように書いています。

「・・・遺棄という暴力がここで、三重の同心円的構造を作っていたことが大切な点である。第一にまったく触れられなかったことだが、男による女と子どもの遺棄というということが起こっている。四人の子どもを置き去りにした母親はそれまで、五人の子どもを生んでいる。五人はひとりの男性とのあいだの子どもではなく、別々の三人の男性の子どもである。三人の男たちはみな、子どもと女を置いて去っている。ここに男たちによって最初の遺棄という暴力がふるわれたとみなすことができる。次に母親が子どもたちを捨てた。新しくできた愛人との生活に、五人の子どもは足手まといであった。報道は、母親の無責任な行動を厳しく非難している。けれど、これは、遺棄という暴力の二番目のものだった。母親は、男たちが自分たちを置き去りにしたように、子どもを置き去りにしただけであったのである。三番目の遺棄という暴力は、兄(大きな子ども)が妹(小さな子ども)を足手まといに感じだしたことによって、なぶり殺しにするという形をとって起きた」(芦沢俊介著『現代<子ども>暴力論』大和書房)

 見られますように、今でいう「虐待の連鎖」を「同心円的構造」と見抜いて、「男たちによって最初の遺棄という暴力がふるわ」れ、「次に母親が子どもたちを捨て」て、「三番目の遺棄という暴力は、兄(大きな子ども)が妹(小さな子ども)を足手まといに感じだしたことによって、なぶり殺しに」したとして、「三重」の虐待構造を明らかにしています。
 三重の同心的構造としてみる場合は、こういう問題は生じませんが、「連鎖構造」としてみる場合は、最初に暴力を振るった男の説明に困ります。
 ですから、唐突な書き出しといいますか、「最初に露呈するものは、犯人(この場合は、DV男?)の恐怖との一体化」という記述を採用せざるをえなくなります。
 次の暴力の担い手である母親は、送金している限り、子捨てとするには未遂の状況にあります。
 三番目の暴力の担い手である兄は、末っ子を「なぶり殺し」となって、要領を得ない説明に終始しますので、書き直しを迫られる結果、次のように書き換えました。

最初に露呈するものは、子棄て願望と一体化した非・暴力的な《浅ましい》男であり、次の母親も子棄て願望と一体化した非・暴力的な《浅ましい》女であり、三番目の長男も幼い妹たちの子棄て願望に取り付かれた《浅ましい》ひとりという見方が成立するならば、その同心円的な遺棄構造は、遺棄願望の連鎖と説明できると思います。
 土居の言葉を借りると、ウラで繋がった世代間連鎖といえると思います。

 それが「暴力」でないのは、その前提にあるはずの関係性への固執がないからです。関係性への個室があれば、ヘゲモニーの確立を目的とした男の暴力だという主張も成立しますが、ない以上は、「暴力」といえないのではないかと思います。

 ここで疑問が生じます。

 長男が友だちとグルになって,末っ子を「なぶり殺し」にしたのは、「暴力」ではないのか?

 その点に関しては、次の引用。

「事件は4月21日
 まず、昼すぎに、友人たちのカップめんをN子ちゃんが食べてしまったとして、長男Hと友人O、PがN子ちゃんを含む妹たち3人を殴ったり蹴ったりした。妹たちがあやまり一段落、H、O、Pの三人はテレビを見始めた。ところが、夕方、N子ちゃんがそそうをしたため、友人Oが6畳の押入れ上段のふとんの上に押し込み、そこから落ちるのを見て楽しみ始めた。・・・三女N子ちゃんがぐったりしてしまった・・・」。(『タッチ』1988年8月23、30日号 所収は、前掲書)

 見られますように、前記のような「暴力」の意義を満たすのは、N子ちゃんが「カップめん」を食べたことを機に振るわれた暴力をいい、次の殺人では、見事なまでに希薄化されています。
 といいますのは、その責を帰すべき犯行主体(=恐怖主体)が不在だからです。

 想定外の「そそう」というものに対して、少年たちはリセットボタンを押す意味を失ったといえるかもしれません。
 鉄の秩序を保つために、いくら禁制を体で覚えさせたとしても、この種の女の子の生理現象にはお手上げだとでも思ったのかもしれません。
 次の瞬間、「そんなN子ちゃんなんかこの世からいなくなってくれればいい」と願望が過ぎったかもしれません。
 この願望には、「生理現象」なるものへの薄気味悪さ、怖いという意識が働いて彼ら自身を恐怖の一体化へと高めるかわりに、道化の道を選んだことがN子ちゃんのピエロ化に繋がったのではないでしょうか。
 言い換えますと、「殺意不在」のまま、N子ちゃんは人間的な願望主体グループによって殺害されたということです。


 このように見てきて、畠山鈴香被告の行った二つの殺人事件は、彩香ちゃん殺害事件では願望主体が執り行い、次の豪憲君殺害事件では恐怖主体が執り行ったということがいえるのではないでしょうか。

 で、その間(ヤーヌスの二つの顔)にある、いわば恐怖の始めの始めにあるもの(特異点)とは、願望と挫折に満たされた揺籃期の胎児のごときものではなかったでしょうか。