横断者のぶろぐ

ただの横断者。横断歩道を渡る際、片手を挙げるぼく。横断を試みては、へまばかり。ンで、最近はおウチで大人しい。

非英雄論・別巻●理解の方程式

2008-08-09 12:13:13 | Weblog

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理解の方程式

 理解には、方程式というものがあるのではないか、と考えて、その方程式を編み出した男がいる。国語学ではつとに有名な、時枝誠記博士である。

 上の画像にある図式がそれで、時枝は「言語の過程」と称している。名称こそ難しいが、なんていうことはない。たとえば、帝国大の教室で教授が黒板に書いた「花」という言葉を東大の生徒が「花」とノートに書き写すことをもって、「理解」といっているだけのことだ。

 私の眼に限らず、誰が見てもチンケと思われることが今でも主流となっているから、呆れる。時代錯誤もはなはだしい。何が国語学の伝統か。笑わかすな。

 考えてみるに、私たち日本人は「学ぶ」ことは「真似る」こととして、その精神を叩き込まれてきたわけです。
 言い換えると、俺が口にした「花」という言葉は、勝手に他の言葉に置き換えるな。そのままを聞き取れ、と学校は教室で生徒に強要してきたわけです。
 そのことに対して、異議申し立てが行われず、当たり前のように今日まで引き継がれてきているわけです。

 学習方法が「真似る」の一念しかないから、お隣の韓国をはじめ、アジア諸国、そして欧米からも、猿真似しかできない民族と笑われているわけです。
 そういう伝統のあつたところに、時枝が「理解の方程式」で理論固めしてしまったから、国語学の袋小路化がはじまったといっても、決して過言ではない。

 これは徹底して叩き壊してはじめて、初めて日本人は目覚めるのであろうか。
 ならば、お見せしましょう。

 たとえば、この記事に目を通されている方のそばで家から煙が出ていて、第一発見者が「火事だっ」と叫んだとします。そのとき、あなたはどうします。教室にいる生徒さながらに、「ぼくは《火事だつ》という言葉を聞いたから、理解者」と思いますか。

 誰だっておかしいと思うはずです。人はその言葉を単なる言葉として聞くのではなく、感動し、行動を起こさせるから、火消しに走ったりするわけでしよう。

 では、「火事だっ」と叫び、その言葉を聞いた現場を抽象化し、図式化すると、時枝の作ったような《理解の方程式》に辿り着くのではないか、という疑義が提出されてもおかしくない。

 今、検討してみて、図式そのものは間違っていないことに気付いた。何が狂っているのか。
 時枝の思想を活性化すれば、すごい国語学説が誕生できたであろうに、不活性化したまま今日まで来たことが、弊害を生んでいるのである。

 時枝の提示した理解とは、遂行過程の俗性を受容過程の聖性が包み込むことを言う。これは時枝の思想を研究してみると、やがては誰しもが到達する結論だと思っている。

 今日本を蔽っている、知の状況とはAをAと理解すればいい、という一種要領のいい人間で埋め尽くされているということだ。

 言い換えると、遂行過程の俗性を受容過程の俗性として引き継いできたということだ。


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理解という、トリプルスタンダードの問題

前の記事を整理すると、次のような三種になる。

1 伝えたい情報Aを機械的にAと受け取る理解法。 俗なる受容過程
2 伝えたい情報Aを包み込むように、A+アルファとする理解法。 聖なる受容過程
3 伝えたい情報AをジャンプしてBと受け取る理解法。 逸脱的な受容過程

註)通常は「理解」ということを、時枝の専門用語を使えば、「受容過程」と表される。

註)「聖なる受容過程」とは、詞辞説にあるような、客体的な表現を主体的な表現が包み込む関係を言う。つまり、遂行過程の客体的な表現を受容過程において主体的な表現が包み込むことをいう。
 この関係をわかりやすくするために、俗なる遂行過程を聖なる受容家庭が包み込んでいると、書き換えている。詞辞説も俗なる言葉を聖なる言葉によって包み込まれていると、同じように書き換えることができる。

 つまりも三通りの理解の方法があるということだが、その特徴をそれぞれに挙げてみる。

1 棒暗記や棒書きを要する学習に適した理解法である。命令系統。翻訳。能吏。
2 学校の関係者等に求められる理解法。やさしい教師や上司。
3 創造的な仕事に従事する者に求められる理解法。詩人や画家など。

 このように書いてみると、学校という現場では、三通りの理解法があることを前提に授業を行っている。

1は、どの教科にも求められるもので、暗記的な理解法。
2は、倫理の時間などで求められる、やさしい理解法。
3は、作文や図画工作の時間に求められるが、リアルさを求める学校もある。 

 最後に何が問題なのか。

 この点をふたつに絞って書く。

一つ この授業は、いかなる理解法が有効かについて論議のないまま、国からの指示でカリキュラムの消化が優先されているのではないかという問題。
二つ この問題を特に強調しておく。国の定める理解法とは、時枝の示した俗なる遂行過程を下敷きにしている。ということは、詩人をはじめ、やさしい教師や上司は、みな、国の基準によると、アウトサイダーとして位置づけられているということです。

理解とは、何か?

 私にとって理解とは、至難の業です。神業に等しい、椿事と考えているわけですが、不思議なことに、マジョリティの日本人は、理解はたやすいことと認識している。
 この彼我の違いを明白にしておかないと、この議論は始まりません。

 私が言いたいのは、こういうことだ。

A 何もわかっていないのに、わかっていると思い込んでいる。
B  そして、わからないことに対しては、口を閉ざす傾向にある。

 そもそも日本人は、何をもってわかったといっているのか?

 たとえば、誰かが「花」と言った。その花という言葉をそばにいた誰かが聞きとめれば、それが「理解した」ということになるのか。

 私の眼から見ると、なんとプリミティブな「理解」の方法と思っちゃうのですが、マジョリティの日本人はこれを「理解」と読んでいるようですね。

 で、私はどうかというと、マジョリティの日本人の「理解」が障害になって、「変人扱い」にされ、締め出されてきた、ということが見えてきたわけです。
 どこに身を置いても、そうだった。

 では、私のいう「理解」とは、どういうものなのか?

 AをAとして理解するのではなく、AをBと置き換えることによって、理解の鳥羽口に立てると考えています。

 たとえば、誰かが「花」と言えば、おおっ、彼は感動しているのだなと思って、恋人といるなどして彼は幸福の境遇にあるんだなと思って、その「花(A)」という言葉は、「感動を表した言葉(B)」と受け取ります。

 つまり、AがBと転換することによって、私ははじめて「理解」と呼んでいるのです。
 言い換えると、「花」という言葉に対して、越えることを相手に対して要求しているわけです。
 私は確かに「花」という言葉を口にしたが、お前はその言葉を二度と口にしてはいけない。別の言葉に置き換えることができたとき、真の理解には達していないかもしれないが、物分りのいい人間になったと褒めてやります。

 



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