“坂の上の雲”

登っていく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が
輝いていてもいなくても、また坂を登っていきます。

ヒグマのお話し⑮

2022-10-29 | ヒグマのお話し

ヒグマのお話しも、考察から数えて20数話にも及んできました。

(ヒグマのお話し⑭はこちら)

ここにきていよいよこの話題を取り上げることになります。

北海道における登山とヒグマの関係について語る上で、知識としても是非インプットしておきたいヒグマ遭難事故の事例です。

福岡大学ワンダーフォーゲル部遭難報 1970・7・26 

カムイエクウチカウシ山におけるヒグマによる遭難

 

ヒグマに興味のない人にはまったくつまらないものなので「ヒグマのお話し⑮&⑯」はスルーしてください。

今回はすべて書き写しです。ただし、文章として記述されたものは非常に希少なので転写させていただきました。

興味がある人であっても文章は非常に長いので、時間があるときにご一読ください。

字数が多いのでブログの文字制限の関係上、2話(ヒグマのお話し⑯)に渡って書き写しております。

転写にはGoogleレンズを利用しました。

 

それでは、再び紹介させていただく古い古い

昭和46年3月1日発行の季刊『北の山脈』日高特集<特集号>から・・・

 

まずは、当時遭難した福岡大学ワンダーフォーゲル部と時を同じくして入山していた北海学園大学のパーティーの貴重な投稿「ヒグマとの対決」からです。

2話目(ヒグマのお話し⑯)とセットで読むことで、当時カムイエクウチカウシ山で起こったことがよりリアルに掴むことができます。

(誰が悪いわけでもないですが、結果的に彼らがここで記述している“キスリングをヒグマに与えてしまった(取られた)ことが、“その後のヒグマの行動”に大きな影響を及ぼしたことは明らかです)


ヒグマとの対決-----------------------------------------武山正一

 

しゃばの人間は、「よく帰ってきたなあ」「おまえは悪運が強いんだなあ」「貴重な休験をしたなあ」という。しかし、われわれ5人にしてみれば、そう簡単にすまされるものではなかった。とくに今回、岳友である福岡大学ワンダーフォーゲル部員のうち、無惨にも3人もの若い命を奪われてしまったからである。われわれの昨年の夏山合宿は、日高山系「カムイエクウチカウシ山」(1979m)であった。

7月22日 われわれエサオマントッ夕べツ岳班人(渡辺信英、秋田正典、権瓶恵、光武義博、武山)は、ゆうやみせまる札幌をあとにして、一路帯広へと向かった。

7月23日 午前6時起床。すばらしい天気である。山脈がとてもきれいだ。屋根つきの大正駅で一泊したせいか、疲れがいっぺんにふきとんでしまった。タクシーをチャーターし、戸蔦別川に沿ってのぼった。オピリネップ沢、ピリカペタヌ沢、トッタベツ橋を通過した。

 8時50分、徒渉、ひじょうに流れが速いが全員無事にわたり、朝食をとる。いよいよ第一歩を踏みしめた。戸蔦別川は、ひじょうにきれいな水だが、流れがとても速い。10時40分、戸蔦別川上流エサオマントッタベツ沢出合いに到着した。左右の小さな滝から水がいきおいよく流れている。イワナがみえる。300メートルほどの滝をのぼり、5時30分、エサオマン北東カールに到着。カールにて晩めしをつくりながら夜空の星をみるのもまた粋なものであった。思えば、あの真新しいテント、われわれの疲れをいっぺんにおしだしてくれたカレーライス。すべてが、われわれ5人を満足させてくれた夜であった。明日のコースを確認しながら深いねむりにおちいった。(明日は……)

7月24日 6時起床、快晴である。7時35分、北東カールをあとにして、雪渓をのぼり、札内岳分岐点へと急いだ。コールが聞こえた。玉川パーティー(新冠班)である。われわれは、分岐点で彼らと別れ、エサオマントッタベツ岳(1901メートル)へと向かった。彼らはシュンベツ岳(1852m)そして1880へと向かっていった。10時、エサオマントッ夕べツ岳頂上に到着。札内岳(1895メートル)十勝幌尻岳(1846メートル)がみえる。遠くの幌尻岳七ツ沼カールがとてもきれいであった。たんのうするのもつかの間、われわれは今夜のキャンプ地・十の沢カールへと足をむけた。午後1時10分、ナメワッカ分岐点通過。暑さが最高点(30度前後)に達し、われわれも疲労を感じだした。2時20分、シュンベツ岳に到着。「疲れた」ポリタンの水を一気にゴクリと飲んだ。「うまい」「ジュースでもつくろうか」そのときである。

 2時35分。光武「熊のうめき声がきこえる」と、やぶの中から小走りに出てきた。われわれは「どらどら」と、ものほしげに見にいった。

本当である。十勝側のやぶの中から大きな顔をヒョッコリとだして、こちらをみつめている。わずか10m手前。一見たぬきのような顔つきである。すぐ、ザックを背負い、1880へと急いだ。クマはわれわれを追ってくる様子はなかった。うしろをふりむくと、頂上で山犬が、ちょうど遠ぼえでもしているような格好をしていた。「写真をとれ」「だめだ、すぐ行け」登りになると、いままで保ってきた呼吸が、いっぺんに乱れはじめたためか、心臓がバクバクしてきた。うしろをふりむく。クマはいない。「よかった」と思ったとたん、その喜びは一瞬のうちにふきとんだ。いままで頂上にいたクマが、われわれが通ってきた尾根道を、臭いでもかぐようについてきているではないか。ノッシノッシ、まるで足音がきこえるようだ。急ぐ、一団となって、なお急ぐ。呼吸が、いっそう乱れる。うしろをふりむく。クマがみえない。やぶのかげでみえないのだ。

「おい、前の方、少し急げ」と後尾にいた光武の声が聞こえる。急に「止まれ!」ふりむくと10mうしろにクマがみえた。どうやら途中走って追いかけてきたものとみえる。「そこの岩にあがれ」われわれ5人は4mほどの岩にのぼった。クマとのにらみあいがはじまった。10秒…20秒…30秒…1分…3分…「目を離すな」ヒグマである。うすい褐色がかかった体毛をもつクマで鼻、足が真黒だ。体長はだいたい2mはあろう、巨大なクマである。クマは、どちらかの沢へおりようかと、うろうろしている様子であった。われわれは「いまおりる」「気の弱そうなクマだ」と、クマの目をみつめながら、励ましあった-。

 突然、クマの足が動きだした。一瞬、ドキッとした。われわれの眼の下を、ノッシノッシと、通り過ぎていった。時計をみると、ちょうど3時であった。だがその時である。クマは向きをかえ、よだれをたらし、毛を逆立てながら、われわれに襲いかかってきた。われわれは岩をとりまくようにして逃げた。しかし、クマはしつこい。なおもわれわれをおってくる。……突然、前にいた渡辺の足が、ハイマツに足をとられ、くるぶしまで埋まり抜けない。うしろからクマがくる。しまった!と思ったとたん、かれの足がスルリと抜けた。まさに奇跡であった。渡辺「ザックを捨てろ」逃げ回りながらザックをおろし、岩の間におしこんだ。光武、渡辺、武山の三つのザックを放棄し(権瓶、秋田はザックをおろすひまがなかったのである)岩の上にのぼった。だが、うしろからクマが登ってくるではないか。クマとの距離1m50cm弱。私は夢中で岩からとびおりた。この4mの空間が、ひじょうに長く感じられた。かぶっていた白い帽子が、下からの風にあおられてとんでいった。飛び降りた岩の上にピタリととまった。足が岩にすいつけられるようにして、とまったのである。よく4m岩からとびおりて立ったものだと、われながら感心する。われわれは一団となって、1880へとよじのぼっていった。ただ、逃げるのみである。生も死も、考えてはいられなかった。30mほど走って、うしろをふりむいた。クマは追ってきてはいなかった。おそらく、ザックにかぶりついているのであろう。われわれは、ほんの少しでも、クマから遠ざかるために登りに登った。

30分ほどいくと、さっきの玉川パーティーが、のんきに何か食べている「助かった」はじめて助かったと思った。不思議なものでたとえ3人でも安心感がわいてくるものだ。「クマだ」「クマにやられた」しかし、彼らは横目もくれずに、ただ、もくもくと食べていた。だが、われわれ三人が、ザックを背負っていないのだ。彼らもようやく本気にしたのだった。

1880を通り、4時50分九の沢カ-ルにキャンプを張った。藤井パーティー(コイボクシュシビチャリ川班)とも合流し、総勢11名、身を固めるようにして眠りに入ったのである。

テントをやられたため、三人がビバークした。小枝を拾ってきて火をたき、カールの水がチョロチョロ流れるのをききながら…。頭の方でガサガサークマか。しかし、風である。これが何度もくりかえされたのである。本当に、神経が細くなるおもいであった。もしあそこで5人のメンバーのうち、一人でもやられていたら…もし、一人がころんでいたら…もし、とびおりたのが岩でなくて、反対側のハイマツだったら…。つぎつぎと冷えびえと脳裏に浮かんでくるのであった。今日までに一番長い日であり、また、一番長かった35分間であった。

7月25日 3時、目がさめる。まっかな朝やけがとてもきれいだ。まるで、何事もなかったかのように。4時、全員起床。2人のテントキーパーを残し、きのうの現場へ行った。この登りをどうやって逃げてきたかは、いまは記憶すらなかった。5時10分、現場に到着。一瞬、びっくりした。あとかたもない。あの大きなキスリング二つを、どうやって運んだのだろう。ロにくわえてか、それとも首にかけてか。まるで、人間(?)が運んだかのようだ。ただ、渡辺のアタックザックのみが残っていた。ツメでひとかきされ、中のものが全部とりだされて、もう使いものにはならない状態であった。アタックザックからとりだされたものは、岩の上にきれいに並べてあった。まるで人間が並べたかのように。付近をさがしていると、あの白い帽子、ナイフ、地図がみつかった。どうやら、九の沢カールへおりたらしい。「早くいくべ、クマがまだいるかもしれないぞ」すべてのものがよだれでぬれていた。われわれは、即座にここをあとにした。

われわれは、今回の目的地であるカムイエクウチカウシ山を10時45分アタックし、八の沢の水にひたりながら、八の沢出合いまで降りてきた。他の2パーティーとも合流し全メンバー18名で、日高最後の夜を過ごした。ファイヤーがとてもきれいで、煙がどこまでもすきとおって、高い夜空へ立ちのぼっていった。

7月26日 6時起床。テントの中がものすごく暑い。外へとびでる。朝食を済まし下山の準備をした。午前7時「オーイ、オーイ」われわれは全員、荷物をほうり投げ、声の方へ走った。沢の中から二人、登山靴をびしゃびしゃにしながら、助けを求めにきたのであった。

私は、クマにやられたなと思った。案の定そうであった。彼らは、福岡大学ワンダーフォーゲル部員であった。まだ上に3人がいるとのことである。危ない、三人が危ない!どうやらわれわれを襲ったクマと同じクマのようだ。現場、時間などから判断して……。

×××

 あの時の河原君(クマに殺された)の驚ききった真蒼な顔が、いまでもありありと写るのである。もし、あそこで彼が、上にいる3人を助けにいかなかったら……。しかし、彼は岳人である立派な岳人であった。

×××

 われわれは、食糧、ホエーブスなどを、彼らにわたし、7時30分警察署に届けるため、急いであの広い札内川を下ってきたのであった。

 いまは、ただ、よく助かってもどってきたと思う。新聞・テレビなどで、クマが射殺されたことを知った。われわれを襲ったクマに間違いなしと確信している。

 本当によかった。

 私は、今回の夏山合宿において、多くのことを知らされた。

 まず第一に、3人もの若い命を奪ってしまった、北海道のヒグマについて重要視しなかったことで、おおいに反省させられる。

 第二に、冷静な判断である。とくにOBの人達は、経験の深い人である。もし、あそこに彼らが存在しなかったらいまごろは……。

 第三に、岳友のあたたかい心である。本当に涙がでるほどうれしかった。

 今回の夏山合宿は、生涯忘れえぬものになるであろう。しかし悪夢に終わってほしい。

 さあ、今度ほ冬山だ。今回の夏山合宿は、いっさいはきすてて、あたたかい岳友とともに、冬山にいこうではないか。

-昭和45・11・24・記-(北海岳友会)


(ヒグマのお話し⑯はこちら)につづく

 

 

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