映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

晩春 ~映画の読解 (9)

2010年11月16日 |  晩春
     ■『晩春』 (1949年/松竹) 小津安二郎 監督


●【エレクトラ・コンプレックス(Electra Complex)】
 ・女の子供が無意識のうちに父親に愛着をもち、母親に反感を示す傾向。精神分析の用語。⇔エディプス‐コンプレックス。(「広辞苑」より)
 ・娘が父を愛し母を憎む無意識な心的表象。アガメムノンの娘エレクトラにちなむ精神分析の用語。(百科事典「マイペディア」より)
 ・〔心〕精神分析学で、女の子が父親に愛情を感じ母親に反感をもつ傾向。ギリシャ悲劇に登場する、父親思いの娘の名から。(「パーソナルカタカナ語辞典」より)
 ・〔精神医〕娘が父親に抱く無意識の性的思慕。(「ジーニアス和英辞典」より)

 『晩春』が語られる際、エレクトラ・コンプレックスを前提に語られる傾向が間々見られます。その類の解釈に、どうにも違和感を覚えるのは、「母に反感」や「母を憎む」といった心的表象が、作品中に一切描かれていないからです。単純に、父と娘の二人だけの物語と捉えれば、性的なニュアンスに踏み込む解釈も可能なのかも知れません。しかし、能楽堂に於ける三輪秋子(三宅邦子)への紀子(原節子)の表情(※写真:1)や、京都の宿での告白だけでエレクトラ・コンプレックスの解釈を導く事へは、やや抵抗を感じます。紀子の色気も27歳という年齢設定からは必然性があり、それによって結婚適齢期を迎えている事への説得力が生じていました。寧ろ逆に、再婚話が持ち上がった事で、軽蔑の眼差しを父へ送り続ける紀子の表情から、「父に反感」「父を憎む」といった心的表象が窺われます。それに何より、歴として母親の幻影が描き込まれている訳ですから、エレクトラ・コンプレックスを前提とした解釈へは反論を唱えたいところです。

 (※写真:1)       (※写真:2) 
 (※写真:3)       (※写真:4) 

 ただし、父親に似た男性を無意識に恋愛対象として選んでしまう傾向まで否定する事は出来ません。何故なら、父・周吉(笠智衆)と服部(宇佐美淳)の姿に、フォルムの類似が見られるからです。

 (※写真:5)       (※写真:6) 
 (※写真:7)       (※写真:8) 

 戦争を生き延びた父と娘が並々ならぬ絆で結ばれている事へ、ややもすれば近親相姦を見出し兼ねないような解釈では、余にも短絡的で清潔感を欠くように思えます。《亡き母(妻)》が描き込まれている事を見落としているとしか思えない発想ですが、どうやら現代に於ける『晩春』の解釈は、それが主流のようです。『国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年「OZU 2003 」の記録』(蓮實重彦・山根貞男・吉田喜重 編著/朝日選書)では、マノエル・デ・オリヴェイラ監督だけが、一人真っ向から異を唱えていました。シンポジウムの時間的な制約から、その論旨を語るに至らなかったのは大変に残念な事です。案外と「繋がった沢庵」を理解していたのは、外国人監督の方だったような気がしています…。

                          (※写真:9) 
                         (※写真:10) 
                         (※写真:11) 
                         (※写真:12) 

 以下は、三重県立第四中学校時代の同級生・奥山正次郎さんが語る、小津さんとのエピソードです。

 《彼は寝台車に乗るのが非常に好きじゃなかったようです。「夜行列車なんだから寝台にのれよ」といっても「寝台は俺は嫌いだ。俺は秀吉じゃないから茶室趣味はないんだ」とかね、そんな事を言っていましたが……。そうして大てい当時特二という二等車に乗る訳です。夜行でも。そうすると「あれは面白い。なぜ面白いかと言うと、お前、扇風機、あれは速度はみんな同じじゃないけど、それ、知ってるか?」って僕に言う訳なんです。「そりゃ、おんなじ馬力でおんなじ大きさのファンが回るんだから、そう違わんだろう」と言ったら、「いやぁ、みんな違う。それが一つ一つこう、別々に動く訳なんだけども、どうかすると、だんだんこう、一斉になりそうな時がある。あ、今度は一斉にこっちを向くかなと思うとると、また駄目だ。もうちょっとだ。その時どうなるかな、と思うとると、三遍目にパーッと一斉にこっちを向く事がある。そうすると、ハッとする」ちゅうんですな。「それが面白い。そいつを三遍ぐらい見とると東京駅に着く。俺は寝台よりは扇風機見て……東京へ夜行で帰るには扇風機に決めとるんだ」いつもそういう事を言うんです…》(『陽のあたる家』井上和男 編著/フィルムアート社)

 車内で当たり前に扇風機が回っていた頃、同じように「ハッ!」とする瞬間を楽しんでいた者にとっては、懐かしく思えるエピソードです。只の物質に過ぎない扇風機が、一斉にこちらへ首を傾けた瞬間、何かしら人格的なものを感じたものです。物質が人格化して見える一瞬の等方向性と、逆に人物が物質化して見える等方向性とを考えてみるのは面白そうです……つづく


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