映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

レニ・リーフェンシュタール 語録

2023年09月19日 | 映画の覚書
●私はどのようにして映画を作るか
― 映画は芸術か?  私はこの問い掛けに「はい」と答える。映画は他の芸術と同様に芸術であるが、未だ揺籃の段階にある。映画は、ロダンやベートーヴェンやダ・ヴィンチやシェークスピアの作品が伝達するような芸術体験と成り得るあらゆる条件を備えている。しかしそれは今日私達が知っている映画ではなく、将来出現する映画である。私達がこれ迄に鑑賞して来た映画は全て、優れた作品も含めて、映画が芸術作品と成り得る可能性を予想させるだけである。
 この新しい芸術は他の芸術から独立している。映画芸術は特に絵画や音楽や文学と結びついているというのは正しくない。確かにこれらの芸術との接点はあるが、映画芸術を性格付ける言葉は《映画性》である。この《映画性》とは特に動きのある映像の事で、これは他の芸術が提供する事はない。映画だけが動く映像である。それは独自の法則を持っている。芸術的な映画では全てこの法則に従って創造されなければならない。テーマも、監督も演技も撮影も構成も音も編集もである。全体としての確かな様式感覚こそが、映画監督の持つべき一番重要な事である。
 もう一つ映画監督に大切な条件は、彼が力学と構成とリズムに対する感性を有している事である。映画の中でクライマックスを配置する事は重要な意味を持っている。緊張と緩和とを正しく交替させなくてはならない。一連の映像は編集次第で百通りにも変更出来る。映画監督は本来常に自分の映画の編集者であるべきであるが、彼が音楽の才能に恵まれた人間であるなら、音楽家が対位法の法則に従うように、彼は映像と音とで作曲する。
 編集者は映像を激しいリズムで躍らせる事も、夢見心地のスローテンポで流す事も出来る。彼は映像から意味の無い偶然の秘儀を生み出す事も、同じ映像を使って論理的に明確なストーリーを組み立てる事も出来る。
 監督は、即ち全体の構成者は、理想的には全てをこなさなければならない。一枚の絵はたくさんの手で描かれる事は無いし、一つの交響曲は異なった音楽家達によって作曲される事も無い。あらゆる手段をマスターしている事が芸術作品を創り上げる第一条件であるが、生き生きとしたヴィジョンは理性よりも、寧ろ衝動によって生まれるものだ――理性と衝動、その両者のバランスが取れている事が望ましいのだ。創造的なプロセスに於いては、誕生は混沌としていていいが、実際の製作に当たって意識的であるべきである。
 以上の条件が整っていれば、この、全ての芸術の中で最も若い映画によって、建築や音楽や絵画と同様に偉大な芸術作品を創造する事は可能であろう。

― では何を以って映画を他の芸術と区別するか?  第一義にそれは動く映像である。つまり基本的な要素は映像と動きであって、両者は互いに分かち難く結び付いている。映画はこの二つの要素で成り立っている場合にのみ芸術たり得る。色も音も不可欠ではない。だからといってトーキーやカラー映画が芸術作品に成り得ないと言っているのではない。しかし無声白黒映画が二つの要素から成り立っているとすると、トーキーは三つの要素から成る。その結果として、芸術的な無声映画を作るよりも芸術的なトーキーを作る方が難しい。優れた無声映画の監督は二つの才能を持っていなければならない。一つには自分の目で捉えたものを全て視覚的なものに変換出来なければならない。二つ目にはリズムと動きに対して天性のセンスを持っている事である。その他に音楽性があるとしたら、それはどこかある分野に専門的なものではなく、映画的な音楽性でなくてはならない。これは一般に言われる音楽性とは趣を異にする。
 例を示そう。大変音楽の才能はあるが、その音楽が映像にマッチしない事が分からない人がいる。あるクラシックか現代音楽がある映像シーンのバックに使用されたとしよう。彼はその曲が映像にマッチしていなくても気にならない。しかし才能のある映像作家にとっては胃が引っ繰り返ってしまうところだ。その作家は彼自身が音楽をたしなまないにしても、自分の映画の構成の際にはどんな音楽が映像に適するかを感じ取っている。無意識の中で一緒に作曲しているのだ。そのシーンには音楽が全くそぐわない事を感じる。映像効果を台無しにしてしまうだろうと。ここには現実の音がぴったりだ。ここでは音楽はただこのリズムのみ。この表現で、この楽器で、このボリュームのみを持つべきだ。音が大き過ぎても、小さ過ぎても我慢が出来ない。故に、優れたトーキーの方が優れた無声映画よりずっと数は少ないだろう。この三つの天分を備えて、それぞれの要素をお互いに調和的に結び合わせる事が出来る人間はほんの一握りしかいない。これもまた決定的な事である。これらの要素の内どれか一つでも強調され過ぎてはいけない。この力の配分の不調和があっただけでも、完成された芸術作品は生れない。
 カラー映画となると遥かに難しい。ここでは更に四番目の天分が必要となるからだ。多くの人が思っているような、色のセンスや絵の才能だけでは充分ではない。芸術的なカラー映画を作ろうとする監督は、前述した才能に加えて、色を映画的に取り扱う才能を持たなくてはならない。彼はそれによって劇的効果を随分高める事が出来る。色は異なる感情を呼び起こすからだ。例えば、「青」は女性的な、ロマンチックな色で、それとは正反対に「赤」は生命の喜び、活気や情熱を表現する色である。しかし色が多過ぎたり、余りにけばけばしいと、映像効果を破壊する可能性がある事も注意しておかなければならない。色は調和的に組み込まれ、映画の他の要素を芸術的な相互作用で補うべきである。映像、動き、音、色というこの四つのコンビネーションでカラー・トーキー映画も芸術と成り得る。
 更に立体映画の発明がこれに加われば、芸術的な映画を製作する事は至難の業となろう。この五つの要素は相容れず、芸術作品としての映画の生命を消し去ってしまうだろう。余りに現実的になり過ぎて芸術から遠ざかるのではないだろうか。 (パリ市内のマルスラン・ベルトロ・センターにて講演/『回想―20世紀最大のメモワール』椛島則子=訳/文春文庫より)


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