映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

黒沢清 語録

2009年05月26日 | 映画の覚書
●ワンカットと小道具について
― 小道具についてはそこに何かの記号性がある訳では無く、たくさん撮るとどうしてもアイディアがダブってしまうだけの事です。映画を撮る者としては当然の事ですが、昔から、あるシーンがワンカットで撮られているかどうかが、とても気になっていました。監督の仕事は、突き詰めればカットの始まりと終わりを決める事でしょう。僕はそのカットを不用意に割るべきでは無いと思っています。それがワンカットである事が重要なのです。
 半透明なカーテンは、一つの情景があって、カーテンの向こう側にまた何かがあるという状態を作る事が出来る小道具です。カットを分ければ二つの世界になる訳ですが、こっち側は見せたくて、向こうは余り見せたく無いけれども、そういう二つの空間の力関係をワンカットで撮ろうとすると、必然的に間に半透明な物を置くという事になります。例えば、『地獄の警備員』では給湯室で使ったのですが、カーテンのこちら側でコーヒーを淹れていると、向こう側を黒い人影が横切ります。つまり、カーテンのこちら側の日常とカーテンの向こう側の非日常が、ワンカットで撮れるのです。
 ある人がある人を殴る、という暴力表現の場合でも、固い消火器を振り上げてカットし、次にゴーンとぶつかるところをカットで割ってしまえば、何でも出来ます。しかし、カットを割らずに、楽しくお喋りしていた一方がいきなり立ち上がってもう一人を突然暴力的に殴るところを撮ろうとすると、消火器では危険で、不可能なんです。で、軽く安全な段ボール箱が登場します。
 ゴトンと物が倒れる場合も、一通りある一連のアクションが終わって殆んど動きが無い廊下などで、もう何も起こらないのかなと思っている時、何かがコトッと倒れる、という。出来事がまだ続いているという事をワンカットで示そうとする場合、そのカットの最後に小さな音を出したり、消火器などを倒す事によって終わっていない事を伝える。どれも、そういった出来事の持続をワンカット内で、しかもお金も時間も無い中でどう表現するか、と試行錯誤する内に編み出された演出法なんです。カットを割ってしまえば、苦もなく撮れて、誤魔化しが利く事なんですが、やっぱり監督は、これだけの出来事がワンカットで起こってしまうんだ、とこだわるところにその存在意義があると思っているのです。
 ハリウッド映画でも、ちょっと才能のある監督は、必ず一秒でも「おおっ」と思うカットをちゃんと入れてきます。例えば大爆発のシーンだと、爆発があって、次に主人公が驚くカットがあって、その二つがモンタージュされているだけの映画はあまり面白くない。やっぱり、主人公の奥でちゃんと爆発が起こっているという絵が撮られているかどうかが大きな分かれ目になります。別に、モンタージュしても構わないんですが、その上で、ちゃんと決定的なカットがあればいいんです。
 70年代の低予算のアクション映画でも、良く出来ている物は、ちゃんと主人公と爆発が一緒に映り込んでいます。人を殴ったりする時も、ワンカットでいきなりボカンと相手を殴ったりしています。ピストルを撃ったりする時も、会話ではしきりにモンタージュしてカットを割っていても、急に立ち上がってバンと撃つところはワンカットだったりするんです。リチャード・フライシャーなど、あ、ここワンカットだ、とビックリする事も多いです。
 考えれば考える程、決定的なワンカットを撮るのは大変なんです。でも、制約の中で何とか工夫して最小限の時間内で、とにかくワンカットで撮りたい。才能の有る無しに関わらず、映画を撮る人間はいつも同じような事を考えていると思いますよ。細部の工夫の多くは、ワンカットで撮りたいという欲望から来ています。ある監督に才能があるかどうか、下手すると作品の冒頭一分で判断出来てしまうぐらいで、この、あるカットのワンカット性というものは、物語や俳優の演技などとは違ったところで、映画の質を決定付けています。
 勿論、すべてワンカットで撮らなくてはいけないものでも無いですし、それに、このワンカット性については、確固たる美学的な基準を見出す事は出来ず、専ら感覚的なものに過ぎません。ですから、確かな事は何も無いのです。逆に言えば、分かる人には直ぐ分かるけれども、関心の無い人にはどうでもいい事で、ワンカット性をきちんと押さえたから映画がヒットする訳でもない。映画の商業的な成功は、まったく別の要因に左右される事が殆んどです。当然、映画批評の中でもポピュラーに語られる事は無く、余り社会的に顧みられない領域でしょう。でも、僕にとっては悩ましい問題で、なぜ自分がワンカット性の問題を決定的だと考えてしまうのか、内心は困惑しています。
 ワンカット性の根拠を、最も単純なレベルで挙げてみれば、映画が本当にその場で起こった事を捉えるメディアだからという事があります。同じ事をアニメーションでやって、ここがワンカットですと言っても、技術的なレベルで何かを伝える事はあるとしても、見ていて急に、はっとする事は無いでしょう。しかし、実写に於いては、確実に一定の時間がフィルムに切り取られているという意味で、とても大きな要素です。
 エジソンのキネトスコープは、単にスチール写真が動いているだけというものでした。それに較べてリュミエール兄弟のシネマトグラフは、目の前で起こっている出来事をワンカットで捉えてスクリーンに映写します。ルイ・リュミエールがどこまで意識していたかどうかは別として、映画は原理的に、動く写真とは全然違うもので、空間と時間の両方を写し、嘗てそこに確実にあったという事を伝達するメディアなんです。
 2時間カメラを回して、延々とワンカットで撮ってみたところで、まず、つまらないものになります。物語を語ろうとすれば、当然、嘘が必要です。どこで本当に流れていた時間を切り取るか、この場所でなくてはならない、という瞬間を撮影中に見出して行く。映画監督という職業がなぜ必要なのか、正に、その一点に尽きるんです。脚本があって、俳優が何かを演じて、3台とか4台のカメラで適当に撮って置く。で、スイッチャーがカメラをスイッチして、編集でツギハギする。テレビのスタジオで撮られているドラマは、大体そういうものです。しかし、映画監督というものは、撮影現場で「ここワンカットでいきたいんですよ」と言わなくてはいけません。この時間は決してカットを割ってはいけないと直感したら、「え、これワンカットでいくんですか、大変ですよ」と、皆から声が上がっても断行する。或いは、「いや、段ボール箱でいいですから、思い切って殴って下さい、カットは割りませんから」と言うために、監督はいるとしか思えないんです。
 ドキュメンタリーが典型ですけれど、映像では原理的に、本当にあった事しか映りません。たとえフィクションとして俳優が演じてはいても、間違いなくその演技は現実に起こっている事です。大袈裟に言えば、歴史性という事で、映画は、その時間の断片を組み合わせて面白おかしくお見せするものですが、その上で、これは本当にゴミ袋で人を殴っているんですよ、という保証がある事が重要なんです。小説は、本当は起こらなかった事を起こったかのように書きますが、映画の唯一の強味は、これは嘗て本当に起こった、という事なんです。 (「黒沢清の映画術」より)


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