映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

フランソワ・トリュフォー 語録

2012年05月17日 | 映画の覚書
●D・W・グリフィス崇拝 (1966年)
― アメリカに於いては、映画演出という芸術の最大の発展は、1908年から1930年までの間に、主としてD・W・グリフィスによって推進され、達成された。サイレント映画の巨匠たちは、殆んど皆、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムも、セルゲイ・エイゼンシュテインも、F・W・ムルナウも、エルンスト・ルビッチも、グリフィスの影響を受けたが、既にこの世には無く、まだ存命中の他の監督たちも最早映画を作ってはいない。1930年以降にデビューしたアメリカの映画作家たちは、遺憾ながら、グリフィスによって切り開かれた領域の十分の一も発展させていないので、トーキーの発明以降、ハリウッドは、オーソン・ウェルズという例外を除けば、真に偉大な視覚的才能を持った強烈な個性を全く生み出さなかったと書いたとしても、あながち誇張ではないように私には思われるのだ。率直に言わせて貰えば、もし、今、突如として、映画が1895年から1930年までの間そうであったようにサウンド・トラックを一切奪われてしまって完全に《サイレント芸術としてのシネマトグラフ》に逆戻りしてしまったとしたら、現在の映画監督は殆んど皆転職せざるを得ないに違いない。1966年現在、ハリウッドを眺め回してみて、グリフィスの偉大な秘密の真の後継者として私たちの目に映る映画作家は、僅かにハワード・ホークスとジョン・フォードとアルフレッド・ヒッチコックだけである。彼らがその映画的キャリアを終えた後になってから、あの《偉大な映画的創造の秘密》は何処へ行ってしまったのかなどと言って嘆いてはいられないではないか。(『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』フランソワ・トリュフォー=著/山田宏一・蓮實重彦=訳/晶文社より)

●ロベルト・ロッセリーニ
― ロッセリーニは、アメリカ映画を毛嫌いしていました。メイン・タイトルが出る前に、唐突にシーンが始まる、所謂、アヴァン・タイトルなど「ハリウッドの人種しか考えない下品な発想だ」と罵っていたものです。ヒッチコックの映画も大嫌いでした。私がロッセリーニの助監督として働いた二年間というもの、アメリカ映画についての悪口を聞かされっ放しでした。 ロッセリーニのアメリカ映画嫌いには、もう一つ理由があって、それはイングリッド・バーグマンがハリウッドを捨ててロッセリーニのもとへ走って以来、アメリカ人が一斉にロッセリーニ攻撃のキャンペーンを行ったからです。それに対して、ロッセリーニも徹底的なアンチ・アメリカニズムで押し通したのです。全て「アメリカ的な物は、悪である」というところまで行ってしまった。だから、「アメリカ映画に良い物がある訳が無い」という訳です。(中略)しかし、私は反面、アメリカ映画が大好きだったし、アメリカ映画で育って来たので、アメリカ映画への思いを捨て切れなかった。ロッセリーニのアメリカ映画嫌いに押え付けられて、私は欲求不満でした。(中略)後に、ヒッチコックにインタビューをして一冊の本(『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』)を作ったのも、思えば、多分、少なからずロッセリーニに反撥して、アメリカ映画を礼讃しようとしたというところがあったのです。これは友人のシナリオライターのジャン・グリュオーから聞いたのですが、ある時、ロッセリーニが電話をして来て、沈んだ声で悲しげにこう言っていたそうです。「トリュフォーの奴、ヒッチコックの本なんか作ったらしい」と。ヒッチコックもロッセリーニが大嫌いでした。ハリウッドとネオレアリズモ、フィクションとドキュメンタリズムという対立以上に、実はイングリッド・バーグマンを巡るライバル意識があったのです。(1985~88年『季刊リュミエール』第2~13号「フランソワ・トリュフォー/最後のインタビュー」山田宏一・蓮實重彦=訳/筑摩書房より)


●映画の発見
― 1942年のある日、待ちに待ったマルセル・カルネ監督の『悪魔が夜来る』が、やっと近くの映画館ピガール座にかかったので、私は学校をサボって見に行った。映画は素晴らしく、私は大いに満足した。ところが、その日の夕方に限って、国立音楽演劇学校(コンセルヴァトワール)でバイオリンの勉強をしていた叔母が遊びに来て、私を映画に連れて行ってくれると言い出した。しかも叔母が選んだ映画は『悪魔が夜来る』だった。「それはもう見た」と言ったら、学校をサボった事がバレてしまうので、私は、仕方なく、如何にも嬉しそうな顔をした。こうして、私は同じ日に同じ映画を二度見なくてはならない破目になった。だが、まさしく、その日から、私の映画狂いが始まったのだ。自分の心を捉えた映画を、また見返す事によって、次第に奥深く親密にその内部に入り込み、まるで私自身がその映画の創造を改めて体験するような幻影を抱く歓びを、その日、私は発見したのだった。(『映画の夢・夢の批評』フランソワ・トリュフォー=著/山田宏一・蓮實重彦=訳/たざわ書房より)


●映画人生
― 私は映画以外のものは全て敵と見做していたのです。芝居が嫌いだったのも、その為です。スポーツも嫌いでした。スキーも水泳も嫌いだし、冬山にも夏の海にも行った事が無い。私は何のスポーツも出来ないし、何もやる気が無かった。競馬、競輪を見る気も無いし、ボクシングやラグビーの試合にも興味が無い。映画以外の物に興味を持つだけで、それは映画を裏切る事になると思ったのです。狩りにも釣りにも行く気はありません。何であろうと、映画以外の事は遣りたくない。他人にもそうして欲しいと思いました。しかし、勿論、他人にまで自分と同じモラルを強要は出来ない。映画好きの中にも狩りや釣りを楽しむ人がいる事を許容しなければならない。とは言え、私自身は決してそんな仲間に入りたくは無かった。映画だけが私の人生での絶対の存在だったのです。(1971年)(『トリュフォー ある映画的人生』山田宏一=著/平凡社より)


●批評家の仕事
― 映画批評の理想は、出来れば自分が本当に好きな映画についてのみ書く事だ。真にその名に価する創造的な芸術家を前にした時、私達はあたかも、灯りに吸い寄せられた蛾のように、ただその作品の周囲を回り続けるしかない。批評家は原則として、作家と観客の橋渡し的存在にならなければならない。観客には作家の意図を伝え、作家には観客の反応を伝える事によって、全てを明晰に見極め、両者を助け、刺激する事に役立つべき存在なのだ。(『アール』紙1957年5月29日~6月4日第621号より)


●映画の分析
― 批評を書く為には、否応なしに、映画の内容を分析し、映画のストーリーを要約して語る術を覚えなければならなかったのです。それ以前の私は、映画その物の動きやリズムに酔っていて、ストーリーやプロットを分析する余裕など無かった。そこで、ストーリーを要約する為に、私は、少なくともまず梗概(シノプシス)を読み、出来れば脚本も読んで、映画を分析する努力をしました。そうやって私は映画の原理を学んで行った訳ですが、同時に、そうしている内に、ある種のシナリオの基本やストーリーの組立ての欠点が見えて来てしまったのです。創意を欠いた凡庸な作品は、一目瞭然でした。脚本家の修行時代の仕事に近いものがあり、私自身の好みや選択や偏見を、はっきりと見極める機会にもなりました。(『カイエ・デュ・シネマ』誌1962年12月第138号より)


●純粋な情熱
― 私は、映画を見た後の感動を、直ぐに文章に移し変えるという作業を通して、単に好き嫌いで物が言える素人の次元から、客観的な説得力が必要とされるプロの世界への橋を渡り、批評が位置する、あの、曖昧な場所に身を投じる事になった。この時期に最も危険な事は、言うまでも無く、アマチュアとしての、映画ファンとしての、純粋な情熱を失ってしまう事だ。(『映画の夢・夢の批評』フランソワ・トリュフォー=著/山田宏一・蓮實重彦=訳/たざわ書房より)


●フランス映画のある種の傾向 (1954年)
― これらの監督の作品を思い出してみよう。ジャン・ドラノワは『血の仮面』と『しのび泣き』を撮った。クロード・オータン=ララは『シフォンの結婚』と『恋文』を撮った。イヴ・アレグレは『夢の箱』と『暁の悪魔たち』を撮った。いずれも、凡庸な商業映画だ。興行的に成功した作品もあれば、そうでない作品もある。要するに、これらの映画監督の作品の出来、不出来は、偏に監督達が選んだ脚本の出来、不出来によるものである事が判る。成功作、即ちジャン・ドラノワの『田園交響曲』(脚本オーランシュ=ポスト)、『想い出の瞳』(脚本アンリ・ジャンソン)、『愛情の瞬間』(脚本ロラン・ローデンバック)、クロード・オータン=ララの『肉体の悪魔』(脚本オーランシュ=ポスト)、ルネ・クレマンの『禁じられた遊び』(脚本オーランシュ=ポスト)、イヴ・アレグレの『乗馬練習場』(脚本ジャック・シギュール)、マルセル・パリエロの『街を歩く男』(脚本ロベール・シピオン)といった映画は実質的に脚本家の作品なのである。
 フランス映画は紛れも無く進歩したが、それは本質的には脚本家及び脚本その物の革新、即ち文学の名作を映画化する為の大胆な脚色、そして普通難解と見做される主題には極めて敏感に反応し、寛大な観客がそれを受け入れてくれる事への絶対の信頼、に基づくものではあるまいか。それ故に、ここで問題になるのは脚本であり脚本家なのである。「良質の伝統」に育まれた「心理的リアリズム」の源泉となった脚本家達、オーランシュ=ポスト即ちジャン・オーランシュとピエール・ポストのコンビ、ジャック・シギュール、アンリ・ジャンソン(但し、新しい方法の)、ロベール・シピオン、ロラン・ローデンバック、等々といったライター達が問題なのである。
 名作文学にかこつけて、そして勿論「良質」の名の下に、大衆に提供され、受け入れられている我がフランス映画の主流の実体は、相も変らぬ暗いペシミズムのムードと社会の掟に立ち向かって挫折する、純粋な人間達の疎外と孤独を描き、大胆に見えて安易なマンネリズムが適量に調合された伝統的な映画なのである。(『カイエ・デュ・シネマ』誌1月第31号より)

●伝統的フランス映画への批判 (1982年)
― 当時の熱狂から覚めて、その後、意見を改めたり態度を変えたりした点も幾つもあります。ただ一つだけ、以前も今も変えていない事があります。それは映画の作り方に対する私の姿勢です。つまり、『フランス映画のある種の傾向』という私の初期の論文も含めて『カイエ・デュ・シネマ』誌に書いた批評の中でジャン・オーランシュとピエール・ポストのコンビの脚本家に代表される伝統的なフランス映画の構造、映画の作り方その物に対して、私が表明した批評の姿勢です。
 例えば、メロドラマでは、善玉と悪玉がはっきり区別される。ヒロインを巡る三角関係では、最も多くの場合、夫の方が悪役です。冷酷な夫との愛のない生活がヒロインを不倫に走らせ、彼女を理解して呉れる優しい愛人が二枚目の役になる訳です。と言っても、私は必ずしもメロドラマを軽蔑する訳ではなく、嫌いという訳でもない。美しいメロドラマには感動します。但し、それは飽く迄も単純にメロドラマであるが故に美しく感動的なのです。ところが、単なるメロドラマである事を恥じるかのように《心理的リアリズム》などという知的で意味有り気な衣を纏って大衆を騙したのが、嘗ての伝統的なフランス映画だったのです。戦前のフランス映画の名作と見做された『外人部隊』『ミモザ館』『女だけの都』『地の果てを行く』『我等の仲間』『旅路の果て』等の脚本家だったシャルル・スパークがその元凶で、私の最も嫌いなシナリオライターです。オーランシュ=ポストは戦後、その伝統を継いだコンビで、彼等の脚本による映画は全て、《心理的リアリズム》とは名ばかりで、本質は単なるメロドラマと同じでした。メロドラマならばメロドラマでも良いではないか、それをなぜ心理とか何とか言って誤魔化そうとするのか、というのが私の不満でした。第一、《心理的リアリズム》とは全くの嘘で、主人公の男、或いは女はひたすら感じが良くて正直で、妻或いは夫を裏切ったりはしないし、誰の事も傷つけない。悪意も無く、凡そ人間的な欠陥の無い善良な人物なのです。周囲の人物は、逆に、卑劣な悪党ばかり。純粋な心を持った主役の台詞は美しく感動的で、傍役の言う事は悪意に満ち、愚劣で滑稽という、何とも鼻持ちならない図式です。純粋な魂が社会の無理解と悪意に傷つき、不幸な運命に打ちひしがれる。そうしなければ感動的にならないというような映画の作り方その物が、如何にも卑しくて、遣り切れないと思いました。こういうシチュエーションでは、周囲の人間が気高く、善意に溢れている方が、物語はずっと感動的になる筈です。(『わがフランス映画誌』山田宏一=著/平凡社より)


●政治性
― 最も危険な事は、映画がその本来の大衆芸術志向から逸脱して来た事です。私の理想は、万人の為に映画を作る事です。誰もが自分の為に、映画を見付ける事が出来るというのが、一番良い事です。ところが、映画はどんどん特殊化されつつあります。一部の人間にしか、興味を抱けない映画が余りにも多過ぎます。私は、政治的に粉飾された映画が大嫌いです。芸術的な反省の色も無く、時流に乗って政治的に昂揚するのは、要するにプロパガンダ映画を作るのと同じ事です。そもそも、私には、映画が政治的な代弁者として、それほど説得力のある物とは思えないのです。(『ル・フィガロ』紙1974年11月5日付より)

●大衆性
― 私がこの一点だけは頑なに守ろうと思っている事は、たとえ昔ながらの古臭い映画を作っても良い、前衛の名に於いて大衆を無視するよりは、大衆の為に、万人の為に、誰からも受け入れられる解かり易い映画を作ろう、という事です。誰もが監督の名前で見に行く訳ではない。映画館のウィンドーの写真とかポスターを見て、これは面白そうだとか、詰まらなそうだとか判断する、そういう人達を無視してはならないと思うのです。(『レクスプレス』誌1980年10月4日号より)

 ※【註記1】山田宏一(1838~ /映画評論家)によるフランソワ・トリュフォー評。
― 『市民ケーン』は撮影所で助監督の経験も無い25歳の若者によって撮られた。その事を知った時の驚きを、トリュフォーは率直に告白し、また、「私達は、ハリウッドが出来る前にカリフォルニアの太陽の下で映画を撮ったD・W・グリフィスを見習おうとした」だけなのだ、と言った(『カイエ・デュ・シネマ』誌1967年第190号)。ヒッチコックもチャップリンもキング・ヴィターもラオール・ウォルシュもジョン・フォードもフランク・キャプラも25歳前に映画を撮り始めた。「映画作りは子供の仕事だったのです」。 (『[増補]友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』平凡社より)

 ※【註記2】山田宏一によるフランソワ・トリュフォー評。
― 1963年の3月、東京で行われたユニフランス・フィルム主催のフランス映画祭に、アラン・ドロンやマリー・ラフォレやアルベール・ラモリス監督やセルジュ・ブールギニョン監督と一緒に、フランソワ・トリュフォー監督が来日した。当時、私はまだ学生だったが、トリュフォーの通訳を遣る事になり、まる一週間顔を付き合わせる事になった。本格的にフランス人とフランス語を喋るのは初めての事だったから、何を喋っても、しどろもどろだ。ある時、一人のジャーナリストがトリュフォーにインタビューに来た。フランス語に堪能なジャーナリストで、私の下手糞な、ぐずぐずした通訳に我慢がならず、ついに自らフランス語でトリュフォーに質問し始めた。ところが、トリュフォーはそのジャーナリストの喋るフランス語が一言も解らない振りをしてみせたのである。そして、傍らで情けない顔をしていた私に、「あいつ、何を言ってるんだ? ちゃんと日本語で言って貰って、君がちゃんと通訳してくれ」とわざと聞こえよがしに言った。それでも、そのジャーナリストがフランス語で得意になって喋り掛けると、トリュフォーは、いちいち、私に向かって、「何を言おうとしているのか解らないから、君が日本語で聞いてやってくれ」と言うのだった。トリュフォーが、そのジャーナリストに対して斯くも意地悪な態度に出たのは、そのジャーナリストに心ならずも軽蔑されて、呆然自失していた哀れな通訳の立場を救おうとしての思い遣りに他ならぬ事は明らかだったし、その思い遣りの屈折ぶりに私は感動した。その時から、私はフランソワ・トリュフォーという人間と作品に、トコトン付き合おうと決心したのである。(同)


●台詞
― ラブシーンを撮る時には、気取った愚劣な文学的な台詞を出演者に喋らせるよりも、昨夜ベッドで女と交わした生々しい会話を思い出して台詞に使う方が、ずっと真実で感動的になる筈だ。俳優達自身に、いつも日常生活で使い慣れた言葉を喋らせるというのも良い。(『アール』紙1958年1月8~14日第652号より)


●若者へのアドバイス
― 世界で最も偉大な映画作家達が、全て50歳以上の監督であるという事は、やはりはっきりと認めなければならないだろう。しかし、ある年齢でなくては撮れない映画というものがあり、もしあなたが25歳でカール・ドライヤーが好きならば、ドライヤーの晩年の傑作である『奇跡』よりも、彼の若き日の傑作である『吸血鬼』と肩を並べるつもりで映画を撮る事が大事なのである。若い時は、常に急いでいて、待ち切れない。若い時は、はち切れんばかりのアイデアでいっぱいだ。若い映画監督は、だから、狂ったように早く激しいリズムの映画を撮らなければならない。登場人物が焦り、急ぎ、ショットというショットがお互いに競い合って、先にエンド・マークにゴールインしようとして衝突し合うような、そんな無数の小さなアイデアでいっぱいに膨れ上がった映画を! (中略)しかし、やがて、年齢と共に、幾つもの小さなアイデアが、ただ一つの大きな主題を生かす為に消え失せていくのである。すると、批評家達は、したり顔に、「将来を期待された」映画作家の老化を嘆く事だろう。だが、そんなくだらない言葉など気に掛けぬ事だ! (『カイエ・デュ・シネマ』誌1958年5月第83号より)


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