”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第3回】売薬から身を興し成功した近江を代表する大富豪・株式制度を創案した行商軍団の創始・中井源左衛門(滋賀県日野町)

初代中井源左衛門光武(なかい げんざえもん、1716年(享保元年) - 1805年11月(文化2年9月)は、江戸時代中期の近江商人(屋号「日野屋」・十一屋)。世界初の複式簿記を考案し、家訓「金持商人一枚起請文」でも有名。
 
 
近江の豪商中井家
典型的な近江の日野商人で、享保年間に初代中井源左衛門光武が創業。
関東を振り出しに、仙台に主力店を構え、中国から九州にまで出店を進出させ、分かっているだけで20余店、枝店数知れずという一大支店網を形成し、各種産物廻し、醸造業で財をなした近江の豪商である。
壮年期には全国長者番付に名前が載ったという。一代で売薬から米、醸造、金融業(質屋・大名貸し)など大成功し、特に、仙台藩では第一の御用商人にもなり近江を代表する名家になった。
中井家が最も充実した三代目は、画家であり随筆家司馬江漢によって「30万両の富商」として紹介され、三井家に次ぐ豪商と言われた。
 
中井家の先祖は藤原性で近江国蒲生郡大塚荘(現東近江市)で下司職(中世日本の荘園や公領において、現地で実務を取っていた下級職員)を務め大塚氏を名乗り、代々近江の守護佐々木家(六角氏)の船奉行として仕えた彦三郎光盛が、蒲生郡岡本村中井(現・滋賀県蒲生郡日野町)に住み中井と改性した。光盛の子長隆は織田信長との観音寺城の戦い後、1584年(元正11年)に蒲生郡日野に移住し、日野椀(日野塗)の製造販売を商った。
 
その後、代わりを経て、初代中井源左衛門光武の代になったころ、家運が衰え取引先が倒産した。そのため家屋敷も人手に渡り、源左衛門光武は日野椀の絵付け仕事に雇われて職人暮らしを続けた。何とかして失った家や地所を回復したいと19歳になった1734年(享保19年)で家督を継ぎ、創業の野心に燃えた19歳の青年、源左衛門は日野商人相坂半兵衛に連れられて、関東へ行商の旅に出たのだった。
 
近江日野の神応丸、奇応丸、帰命丸、六味地黄丸などの合薬(売薬)は各地で評判が良かったが、一度目は失敗に終わった。しかし、二回目は損をせずに済み、以来一日として休むことなく、雨の日も雪の日も歩き続け、15年の行商の間に販路を広げ、雇人を使えるまでになった。
1749年(寛延2年)初めて下野国大田原(群馬県)に出店し、行商から店舗販売に切り替えた結果、初代源左衛門が家督を継いで35年目の1769年(明和6年)には資産は凡そ7500両に達し、創業以来35年、ようやく長者番付の片隅に名前が載るようになる。
 
その後も、1769年(明和6年)仙台・伏見(後に廃店)・石見国後野(島根県)・1788年(天明2年)相馬店(福島県)・1788年(天明8年)京都店を出店している。1791年(寛政3年)江戸にて米問屋開店。1794年(寛政6年)隠居、1800年(寛政12年)仙台藩より苗字帯刀を許される。1805年(文化2年)90歳で没。
 
近江日野の本店は源左衛門自らが総轄していた。近江商人は各地の出店に店員を派遣するが、全て当主の手元の日野(江州店(ごうしゅうだな)のもとで読み書き算盤をみっちり仕込まれた近江の同郷者に限られていた。番頭になると妻帯が許されるが、これもまた同郷人に限られていて、新婚の妻を近江に残して夫は単身赴任で商いに励んだ。その代わり35歳ぐらいになると、別家して独立することができた。
 
人一倍几帳面な性格の初代中井源左衛門は、各出店から届いた報告に基づいて、”店卸記”と”永代店卸勘定書”をきちんと記録し、一日も休むことなく業務に精励したという。商機とみると機敏に行動したが、決して人を騙したり、あくどい商いをしたことはなく、薄利で”牛の涎(よだれ)”のごとく、細く長く続く商いに徹した。
 
中井家の扱い品は当初の塗り物(日野塗)から、産物回しにより生糸・紅花・漆器・薬種に広がり、金融業(質屋・大名貸し)・製紙・酒造業を営むに至った。その後も扱い商品を広げ初代源左衛門死去3年後の1808年(文化5年)には資産額は5万6千余両となったという。
初代源左衛門は、木綿の採れない奥州には関西の綿布、古手(古着)も運び、そして奥州の生糸や紅花を買い付けて関西へ運んだ。これを産物廻しというが、現在の商社活動の原点はこの産物廻しにあった。
更に、奥州の生糸を大量に丹後の機業地へ売り捌くため、組合商内を実行した。これは今でいう株式組織で、まず出資者を募った。中井源左衛門出資 7500両、杉井九右衛門出金 1000両、寺田善兵衛出金 1000両、矢田新右衛門出金 500両 合計1万両、これだけの資金を動かしての商内は滅多にない。
初代源左衛門の急激な商売拡大は、近江や出店先の商人と組み、支店を出したことにより、他人資本を商売に組み込み、容易に店舗拡大並びに商売資金の投下(株式制度)を行うことができたことによると言われている。
 
初代中井源左衛門は1800年(寛政12年)仙台藩より名字帯刀を許され、1805年(文化2年)死去する。三代目源左衛門光凞が死去する1833年(天保4年)には資産額は11万余両までに増えた。源左衛門の没後、二代目、三代目とよく初代の精神を守って業務に励み、中井家は近江商人を代表する名家となった。
 
中井源左衛門は1805年(文化2年)に、長い商いの体験から得た人生訓、通称『金持商人一枚起請文』を書き残し、中井家の家訓として中井家代々に受け継がれた。
その内容は、「金持に成らむと思はば、酒宴遊興奢(おごり)を禁じ、長寿を心掛け、始末第一に商売を励むより外に仔細は候はず」(「金持商人一枚起請文」)と子孫に書き残している。
著名な近江商人の「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の精神は、他国への行商で財を成した近江商人の知恵だ。行商先や出店を開いた地域に配慮した経営でなければ、外来商人としての存続も、出店の定着もあり得なかったからだ。
 
始末、才覚、算用、この三つは江戸期の商人の原理と言ってよい。才覚は今でいうアイデア、始末は無駄金を使わないこと、算用は経理で、すべて現代にも通用する商法の原理だ。
近江商人は、無駄金は使わないが、道路や橋の建設にはよく金を出している。これはそうして交通が便利になれば、いずれ自分たちにも利益となると見越していたからだ。活きた金の出費は惜しまなかった。
中井家は、大津の瀬田川の唐橋の改修費に3000両を献金したのをはじめ、神社や公共事業に多額の寄付をしている。
 
中井家本家4代目光基は1861年(文久元年)に隠退し、旗艦店の仙台店等を閉鎖した。光基は1871年(明治4年)失意のうちに68歳で没した。
京都の分家(吉野家)は初代の3男武成だったが長く繁栄し、初代の遺業を大成させた。しかしその京都中井家も明治維新も持ちこたえたが1938年(昭和13年)に閉店した。

そんな豪商の中井家も、明治維新後、大名貸しの貸し倒れや太平洋戦争による生糸不況から1942年(昭和17年)には完全に廃業した。創業200年の希代の大富豪中井家も明治維新、太平洋戦争の大変革期を乗り越えることが出来なかった。
 
<参考資料>邦光史郎「豪商物語」、日本の商人「近江・伊勢の商人魂(TBSブリタニカ)
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